人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

2021-09-30 10:04:48 | 独語
今日で又緊急事態宣言が解除になるという...
これまでのパターンでは、解除した途端、第O波(いくつだっていいだろi)が来たりするのだが...
波なんだ...
上がったり、下がったり、高低の動きを繰り返す...
その"うねり"の部分だけ見ていると、下がった、収まったように見えるけど、コロナ波全体は、そういう小さい波を繰り返しながら、一体どっちに向かっているのだろうか?
それともこの波はずっと続くのだろうか、本当に収まるのだろうか?

このブログのアクセス状況も上がったり、下がったりを繰り返しているのだけれど...
最近はかなりヤバイことになってきたi
上位の方になると、ランキングの目に付きやすくなるらしい...
一昨年くらいから、約300万件ある全グーブログの順位2000番台ぐらいをウロウロしていて、その辺が定位置だと思っていたのだが、1000番台に突入するようになってしまったではないかi
確実に上がってきている...もうこの辺で頭打ちでよくないか?
あまり日が当たると私は私でなくなっちまうよi
健康によくないi..."不健康そうだ"ぐらいがちょうどいいんだi...
でも、もしこのことが、私だけの日の当たらない世界を超えて、"あの御方"が世にお出ましになることに関わることならば、この波は止めることは出来ないだろう...他の誰によってもi
あの感じ"じんじん"...耳鳴り"きんきん"...少なくとも私には、この波はいや増しに強く、深く押し寄せて、それに打ち任せるよりないi
と、いうようなことを人知れずに、隅っこの方で綴ってゆきたいのだが...
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意識と意志

2021-09-28 10:07:20 | 意識、照明
私はいつも"意識を向ける"とか"意識的になる"、とかテキトーなこと言ってますけど、言うまでもなく正確な表現ではないのです。
というか、正確に言い表すことは不可能でしょう。何しろ意識というものは、思考に先立つ、その根底にあるもの、あるいはそれを超えてあるものなのですから...
いや、そんなこと以前に、中には意識のことを意志というものと同じように思っている向きも居るかもしれません。
私が現実に感じるものに照らせば、まるっきり違う感じがするのですがねえ...。
言葉の字義を問題にしているのではないので、ここでは(初めての人もいるでしょうから)先の意味で勝手に進めてゆきます。
"意識は思考の根底にあるもの"...こう言ったはいいが、これは如何にも存在論に即した言い方になってしまいますね。
これも現実にそういう風に感じる訳でないものを、便宜的にそう言っているまでで...ということはそれは動く、ハタラキ的なものなのか?...って、考えてしまう訳ですが、要するに思弁を超えているのですi(こう書いていて私の意識は後者に傾くようです)
意識を向けるという言い方には、意志的なものも関わっているのは確かでしょう。そう意志しないことには始まってこない。
しかし、それはほんの取っ掛かりにすぎません。"パッ"と...ということはすぐさまその意識、意識的な動きにゆだねられてしまうのです。
この意識的なものには現臨が伴っているからそうなってしまうのですが、人為的なハタラキが無為的なものに切り替えられるのです(これはある面では、意識的なものの方がそう仕向けているとも言えるのです)。
この意味で、"思いを意識に向ける"と言った方が正確なのかもしれませんが..."意識を向ける"と言った場合、思考ではなく、意識的なものが主導で行われる、ということを伝えようとしているのです。
つまり、私はここで無為的な意識というものと、人為的な意志というものをハッキリ区別しているのですが、このことは、実に"思いを超える"というステージにおいて、極めて重要な意味を持っているのですi...
これは人間の精神は、思考がすべてだと思っている向きには全く理解出来ないことでしょう。しかし、そんな人間居るか?...そう思っているだけで、どっかで思考を超えた領域の感覚は、誰しもが持っているはずではないでしょうか? 熱中症とか、コロナの重篤化などで思考機能が後退してしまったりして...
いずれにしても、かくも人間精神いや、それをも超えて根本的な、重要な役割をもった意識のこと、人生の裏側のことが蔑ろにされているのだから、このことが"意識されない"のもやむを得ないことなのでしょう。
意識と意志は区別されねばならない...その又大きな理由は、思弁的な意志は、超越的な意識に取って代わろうとするからです。
思考を超えた意識の領域のことは分からないのだから、テキトーに言うしかないのです。これ、オツムの足りないことの言い訳だけじゃないですよi..."私は意識のことはハッキリ、正確に分かってるんですi"、ってのがアヤウイのですi
どこまでも考える人間には限界がある、という自覚が必要なのです。
このことは、今のこの時期にこそ言えることでしょう...。
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自己と見えない導き

2021-09-26 09:38:32 | ガイダンス
自己を導く存在、ガイダンス...
私は例えば、守護霊という存在があって、それがどういうものか、といったような実在論としては、何しろ分からないのであるから、そのまま受け入れることは出来ないですが、そういう何かに導かれているという感覚そのものは否定出来ないものを感じています。
これについて、神に対するものと同様、自分以外の超越的な存在を認めたくない、それに依存したくないという向きもおられるであろうと思います。
それに対する私の観方、感じ方は、やはり神のこととほぼ同じようにならざるを得ません。
ガイダンス、見えない導き(私の場合多くこういう表現を使う)と私の実存は、切り離すことが出来ないのです。
切り離せないということは、よりその"導かれている感じ"を強くもつということであり、これは神と同様、他人行儀な素朴実在論からは導き出されないことなのです。要するに私自身と直結した問題ということに尽きるでしょう。
この意味で、ラマナ.マハルシが言うように、神、導師、真我は同義なのです。
ただ、自分が自分を導くというのは、オカシイから超在したもののように言うまでですが、確かによく引き合いに出されるような、九死に一生を得たようなことも経験したこともありまして、"あれは守護霊のご加護かなあ"、と思ったこともありました。
しかし、これもよく聞く例で、願いごとをしてたら叶えられた、ということはあまりありません。それもそのはず、あまりそういうことをしたことがないから(アフンi)...
どうも叶えてくれそうにないというか、そういう願いごとをするべきでないと思っているのか...しかーし、別の意味では、ずーっと叶えられているとも言えるのです。
これは、祈らずとも内なる願いとしてずっとあるものなのですが...それが、先の"神、導師、自己が不離のもの"、という感じに導かれるということなのですi
これは、愛、平安、幸福に導かれることと言い換えてもいいことなのです。だから、あまり上辺のことには意識が向かわないのでしょう。
私にはずっと見えない導きというのは、こういう側面に働くものだ、という認識があったのです。多分、それ自体が見えない導きに因っているのでしょう(i?)
で、この見えない導きというのは、どういう風に表れるのか、といったら、もうこう言うしかありません。
現実にそう感じさせるものが現臨してくる...
この端緒は、意識を失いそうになる窮地から救われたことに由来しているのでした。
やはり、何かに守られている、導かれているという感じはずっとあるのです。
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現実感覚

2021-09-24 12:08:24 | 求道、探究
宗教やスピの界隈には、現実離れした夢想、空想と結び付いた思念で溢れていて、一般にはそういうイメージが付きまとっているようです。
私は夢想家であることを否定しませんが、"現実感覚"というものをとても重視しています。
私が"現実に即して考えてみよう"、という場合、ほとんど現実にそう感じられるかどうか、ということを問題にしているのです。
この場合の現実というのは、客観的現実とか物理的現実に限ったことではありません。いやむしろ、"現実に即してみれば"、そういうものに現実感覚を感じない場合だってあるのです。
それがアリアリとした、疑いようのない現実に抵触したならば...そこに精神、霊なるものとの関わりを認めざるを得ません。
それが本来の意味でのスピリチュアリティというものでしょう。つまり、そこに霊的な現実感覚がもたらされているということに他ならないのです。
ベルジャーエフが言うように、「精神、霊なるもの(スピリチュアル)こそは現実(リアリティ)」なのですi
例えば、"私という個人は居ないのです"、という教説に触れて、現実にそう感じるでしょうか?...まあ、私ならそう感じることも無くはないですが、"全体しかないのです"、何て言われても、"そんなこた、空気にでもならん限り無いねえ..."と感じるようにです。
とにかくこの意味での現実感覚を欠いたところには、宙に浮いた観念ばかりがはびこるようになるのです。
現実に感じてないのに、"かくあれかし"、と信じようとすることが先走って、そこで理想を思い描いているのでしょうが、思いの世界で堂々巡りするばかりでしょう。
又、実体論と結び付く、所謂霊界の存在、前世や未来の予言といったことも直接、現実感覚とつながらなければ、ただの空想ごとに過ぎないのは言うまでもありません。
何かの教えに接して、あなたは本当に頷けるものを感じているのでしょうか? それとも、信じなければならない、という観念の元に従っているだけなのでしょうか?
観念ごとにしないで、自然に意識が動く方を感じてみて下さい。動かないのなら一旦離れた方がいいでしょう。
迷っているのなら離れてみる...注意すべき点...これは、否定するとか排除するということではない、ということです。そういうことも強い観念の所作と言ってもいいでしょうから...
要するに、こういうことは、取りも直さず思いを超えたものに与ることにつながるということなのです。
というか、現実感覚在らしめるものがあるから、そうなるまででして...
具体的に感じられるものを意識していれば、だんだんそういうもの(現臨)が芽生えてきます。
って、そう感じてたら、もう余計な説明は要らないですね?
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幸福と自由

2021-09-23 11:01:17 | 哲学・思想
人間は皆幸福を求めているものでしょう。
悟りだとか、究極の真理を極めようとかいうことも、要するにそれに与らんがためにしているのは言うまでもありません。
でなきゃ、誰がそんな物好きな道を行ったりするでしょうか?
不幸を求めている人などいるでしょうか?...勿論、人生では求めずしてそうなってしまうものだし、幸福を求めていたはずがかえって不幸を招くこともあります。
強制力の伴う社会生活は置いとくとして、わざわざ辛い、苦しい道を求めることは、その先にある幸福を見据えているのでない限り、どこか不自然で、病的に映ります。(多くの人は無意識のうちに、病的に映らずともそういう道を選んでいるようにも思いますが...)
だから...不幸になるものは徹底的に排除し、回避し、どこまでも幸福を追い求めていけばいいのですi...って、それはきっと罠だi
これは、少しでもラクをしたい私が陥りやすい罠ですが、本当に幸福になる道には、逆説的ですが、こういう幸福だけを追い求める道が立ちはだかったりもします。
現実に即して考えてみましょう。そうやって、自分の意志的な働きかけで、幸福になれるであろうものを獲得しようと躍起になり、そういう人間関係を築くことを企図したりして、不幸、不快なものを退けて勝ち得た幸福というものに、本当にあの平安、幸福感というものを感じるでしょうか?
そこにあるのは幸福なものへの、その観念への固執した思いなのではないでしょうか?
本来、幸福とは自分の意志で勝ち得るものでなく、与えられるものではないでしょうか?
そうです。本来から与えられている...本来的な幸福は、不幸な事態に見舞われたとしても失われたりしません。
状況自体は変わらずとも、それに左右されない幸福感は持てるものです。
しかし、そのことに囚われ、思念から自由でなければ、幸福はその手からすべり落ちてしまいます。
幸福と自由の根本的な問題は、思いを超えることにあると言うに尽きるでしょう。
哲学者のベルジャーエフは、生涯に渡って人間実存の根本的在り方として、"自由"、自由であることを強調していました。
あまり幸福といったものには言及していないのが私には不思議にも思えるのですが、そこに彼のボヘミアン的な、男性性というものを垣間見ることが出来ます。
私に即して言えば...幸福感というものは、改めて思うに実に自由と結びついていると言わざるを得ません。
これは端的に、諸々の思いから自由であること、即ち思いを超えたものに与ることに他なりません。これで幸福でない訳が無いのですi
私はベルジャーエフに成り代わって、"自由とは幸福であること、幸福とは自由であることであるi"、と言いたい。
(彼はきっと小市民的幸福主義に甘んじたくなかったのでしょう? そういうことをどっかで言ってなかったか?)
私にはボヘミアン気質と小市民気質のどちらの血も流れているのです。
ともかく、何人にあっても幸福と自由は切り離すことの出来ないものでしょう。
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