人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

今、リアルに感じること

2020-04-29 10:11:49 | 哲学・思想
いきなり読者に突飛なこと訊くようですが、"実在、実存、現存、リアリティ"といった一寸抽象的にも感じる言葉に接してどう感じられますか?
どう思う、考えるかじゃなくて、どう感じるかです。その意味は何だ、ということを問うているんじゃありません。
私は哲学書なんかも読んでますが、意味など分かったためしがありません。それがそのいわく言い難いことをそう表していることは何となく分かりますが、意味が分かったところで、私の"実存が開かれる"こととは関係がありません。
これはどこまでも自分自身が感じなければならないことなのです。自分で、頭で考えて、何かを学習して意味が分かったら分かったつもりになるでしょうけど、そのものを目の当たりにすることは無いでしょう。
意味の追求なんかしててもけっしてたどり着けません。だって、意味が分かる以前に自分自身であることなんですからね。
これは又これから学んだり、修行したりして獲得するようなことじゃありません。本来から"在る"ことなのです。
逆説的ながらこんな当たり前のことが何で分からないのでしょうか? 自分が自分で在ることだけなのに...
私は物心付いた時分に、この自己の真の拠り所が分からなくなってしまったのです。そしてそのまま大きくなり、ますますこのある種の分離感は強まるばかりなのでした。
しかし、ある時電撃のように全心身を光のようなものが貫き...すべて分かったなどとは言えませんが、それで少なくとも"私は思われたものでない"ということが分かったのです。
この貫き、照らし、臨んでくるものを仮に"現臨"と呼んでいるのです。
実存、現存、リアリティ在らしめるもの...このすべてがリアルなものなのです。意味がどうとかじゃなくて、そう感じてしまうんだからしょうがないi
現臨とは、既に真の自己と分離してしまった自己をそこに再び結びつけるために、他者として、救済者として示現するものと一応は理解されてもいいのでしょうけど、そんな他人行儀な説明もどうでもよくなりそうです。
そしてこのリアルなものは愛、平安と一つのものでもあります。そう感じてしまうから...
私は"実存、現存..."という言葉を思い浮かべただけで感じてしまいます。"じんじん"と。
今だからこそ、リアルに感じるのかもしれません。
こういうことを他に向けて説き伏せ、理解を求めること自体、それこそ意味が無いことなのでしょう。
あなた自身が感じることなのですから...(ただ、お互いに共鳴を呼び起こすようなサンプルは示すことは出来るでしょう)
この実存感、臨在感といったものは、世の中がどうなっていようと、自分の境遇がどうなっていようと変わらないものです。
そして、この混迷の世の最中にあって、自分がますます自分自身でなくなってしまうような真偽の分からない情報や、集合的思念に飲み込まれ、そして煽り立てるように我々をそれに引きずりこまんとする狂信者の言動((これはここで書いていることと真逆の精神の有り様と言っていいでしょう)など数多の迷いごとを見分け、吹き払う道標ともなるものでしょう。
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祈りと平安

2020-04-27 11:03:38 | 祈りと瞑想
"どうしようもない苦悩を抱え、不安で心を苛んでしまった時、祈ることも出来ないほどに...こんな思いが過る...
そう、祈って一体何になるだろうか?
祈ることで病が治る保証などない
貧困から救われる保証はない
勿論、世界が平和になる保証もない..."

私自身、そんな状態に陥って、そんな気持ちを持ったこともあります。
しかし、自分で言うのもおかしいですが、騙されたと思って祈ってみる...
すると...どういう訳だか、いつの間にか苦悩から解放されてしまうことは何度も経験しています。
その問題が解消される訳でもないのに、です。
このことから、祈りにより平安が与えられることは間違いないことなのですi
そして、苦難、苦悩とは、実にその要因となる種々の問題ごとにあるのではなく、正に苦悩する思いにあるということが分かるでしょう。
これは祈り自体によりそうなるということでなしに、神的なものに意識が向けられることでそうなるということです。
ですから、ここで祈りと言っているものは、通常捉えられているものよりもっと幅広く、ある種の瞑想と言ってもよく、ごく端的に"意識がそっちに向いちゃったこと、"と言ってもいいのです。
でも、それだと訳がわからんことになるので、便宜的に祈りと言っているのです。
平安が与えられるということは、自分の心でなだめるようなことでは決してありません。自分で心持ちを変えるというようなことでなく、思いの外、思いを超えたところからくる、ということです。
これは実に神的なハタラキが臨むということに他ならないのです。
説明すればするほど難しくなりますけれど、私は自分で言うのもヘンですけど、そりゃあここで書いてきているように、随分そうした消息について経験させてもらっていますよ。
だけどねえ...思い返せばワタシャ、最初っから神に意識を向ければ、それが臨んできて平安が与えられる、ということは知らされていたのですi
ただ、長い間そのことを自覚していなかった、意識的になっていなかっただけです。
そして、どうしてそんな風に経験させてもらっていたのかは、もう自明なことです。
惹かれてやまないものがあるから...言い換えればそこに愛と平安があるからです。
これは今、嬉々としてそういう道を歩まされている人には説明を要しないことでしょう。
勿論、こういうのっぴきならない時節を迎えて、病や貧困が解消されるに越したことはないでしょう。
又、得てして、心が安らぐことにより、事態も改善されたりするものでもあります。
でも、祈り、神に思いを満たすことの本質的なことはそういうところにあるのでしょう。
この世界的規模の日蝕にあって、誰かが救われ、誰かが助かり、ふるいにかけられるとか、そんな神のみぞ知るようなこと誰が分かるもんですかi
見かけ、助かっても助からんでも、平安にある人、神と共にある人こそが根本的に助かっている人ではないか?
どういう祈り方、神的なものにつながるやり方というようなことは、それはもう各人が最善と感じているものにまかせられるでしょう。
ただ、私は何度も言うように神的なものは、人の思いを超えているものだ、と言いたいだけです。
病というものが"回復"という人の本来性に帰る契機となるように、一人一人が神と共にある本来性を取り戻されることを祈るばかりです。

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自分自身に向き合う

2020-04-26 09:38:57 | 雑感
混迷の世とか言いますが、時々刻々、本当にそのことを目の当たりにしているような日々が続いています。
"見えない、分からない"ものについて様々な情報が乱れ飛んでいて、余計にそのことに輪をかける...
でもこの現実にあって我々は、自分で考え、あるいは直感を信じ、自分の責任のもとに日々生きて行かなければなりません。当然そこにはある選択、決断が必要です。
例えば、どうしようもなく見えない恐怖に苛まれている人は、都会に生きるのは感染率が高いので、その恐怖から逃れるために、どっか地方に移住するのもいいでしょう。(お金に余裕のある人の話ですが)
"そんなの卑怯だi"、という声も出てくるかもしれませんが、本当に自分が怖がっているのなら仕方無いでしょう。自分が本当にそうしたいのなら...誰も自分に代わって生きてはくれないのですから...
でもそのどうしようもなく怖がっている自分に向き合い、受け入れることーこれが意識的になるということですがーでその人生は大きく変わったものになるでしょう。
しかし、そういう人が安全な地に居ながら"私はもう恐怖も迷いも克服しましたi"、とか他に向けて発信したりするのは、ただの"虚勢"でしょう。
又私が個人的に知っている"T"という人なんかは、都会生活というか、現代物質文明そのものを忌み嫌い、やがてそれが崩壊することを信じ切っているようなことを言い、一度は教祖さんの"自分だけ助かろうと、山中に引っ込んじゃうような生き方は、卑怯ですよi"、という言葉を聞いて思い止まったものの、自分のサガに負けて信州に移住した人ですが、日夜"世界平和の祈り"をし続けている、とか発信していてもそんなもの"偽善"にしか聞こえてきません。
これまで散々煽るように陰謀論を記事にしていたこの人間が、最近一転して、"何でも陰謀と結びつけるのはよくありません"などと書いてますが、本人は今だ強固に陰謀論にハマり続けてますよ。
だって、"地球を支配しようとしている影の勢力が存在しているのは事実だ"と、陰謀論のアクメみたいなことをそこで書いているんですから(笑)
又、"コロナは人の恐怖心をエサにしてより強力に突然変異した"とか、その恐怖心を煽るようなことを言い、"それに打ち勝つために祈り続けましょう"とか...一体何を言いたいのだろうか?
2038年に地球がどうとかなるってことはもう決まったことなのらしい?...世界平和の一体何を祈るというのだろう?
とにかくこの人は他人の教えに依存し続けていて、自分自身に向き合うことが出来ず、軸がブレてばっかりいるのです。
そして外には自分は常に正しく、進歩した人間のように見せかけているのです。
迷った人間は迷ったことを拡散します。そしてそのことに何も責任は感じないらしいです。
しかし、そんな人が自分一人だけになった時、裸の自分に向き合わなければならなくなった時も、そうやって自分を誤魔化し続けるのでしょうか?
今、起きていることは近未来でなく、現実にそうならざるを得ないことに直面しているのではないでしょうか?
他人の、特に傍観者のような人間の物言いなど、何を言っているのか分からないのです。
今ほどブッダが言った「自分自身を灯火とせよ、ダンマー法を灯火とせよ」という言葉に重みを感じる時節は無いでしょう。
どんなに自分が弱くとも、悪くとも、ダメであっても...ありのままの自分を受け入れた時、迷いから覚め、光が差し込んでくる...かもしれない。
それを決めるのはあなたしかいない...。
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本当の祈り

2020-04-24 11:53:24 | 独語
昨夜、過去の自分の記事を読んでいて、我がことながら思わず腹を抱えて笑ってしまった。
全く、涙が出そうだi
"意識を向けると、パッと...ならない!"
"自ずと、意識が収斂されて...こないi"
"自分で書いていたことが何のことだかサッパリ分からないi"
昨年11月中旬頃、私は肺炎と疑わしき病に臥しながら、こんなことを数日に渡り綴っていた。
本当に、ホントーに私は何も考えられず、何もなし得なかった...
ただ、"この絡み付くような、閉塞させるもの、カタマリ...如何んともし難い...
通ってくれi、開いてくれi "、とうめくようにも祈りにならぬ祈りをしているだけだった...
私は案外、いじらしい人間のようだ...

この太陽が隠れて光が当たらず、多くの人が先行きの分からない不安と闘っている中で、これはアセンションの前触れだとか、世界経済は完全に崩壊して新たな秩序に生まれ変わるとか、ヒマなことを言っている人たちが居る...
今現在、病に臥し、職を失い路頭に迷っている人間を他所にそんなことを宣う気にはとてもなれない。
そんなことを平然と言っているような人間は、きっとこの渦中には居ないのだろう...
そして、都会は業に汚れ、崩壊の一途を辿るので、信州などの片田舎に逃れ、自分は安全な地を確保し、ひたすら自らを浄めることに努め、消えて行く姿となるであろう都会を高みからながめながら、"世界平和の祈り"でも唱えているのだろう...

我が身、我が心に光が照らされず、差し込んでこなかった...
これは紛うことなき、本当に直視するしかない現実だった...
しかし、私は性懲りもなく、そこに照らされ、通り、開かれるものを待ち望み続けるしかなかった。
これは我が身のこと、我が身からのみ出てくるのだろうか?
ただ、意味も理由もなくそうさせられていたのではなかったか?
そうせざるを得ない...
そうあらねばどうにもならない現実なのだi
世界人類、近未来、異次元のことなど、すべては絵空事ではないかi
この現実の真っ只中に光が照らされ、通らなければ...
ああ、無力にもうめくことしか出来なかった私...
本当に祈るということは、祈ることすら出来ない中で祈らされる、ということを教えてくれた...私。
お前は本当にいじらしい...

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死後のことは分からない

2020-04-23 11:44:06 | スピリチュアル?
何年か前、昨日書いたようなことをある人に話したら、私はそのつもりで話した覚えは無いのに、その人は"臨死体験"のこととして受け取ってしまったことがあります。
これはまだ今日のように、覚醒とかワンネス体験のことが取り沙汰されてない頃だったという理由もあったでしょうが、まあ、確かに似ていますね。光の存在といった導き主が現れるとか、自分のそれまでの人生のことがフラッシュバックのように写し出されるとか...何しろ生死の問題に関わることに触れない訳には行かないのですから...
ただ、私は多くの臨死体験の報告に見られるような、ある存在なり、光景なりを見てきたように描写することは困難なのです。
仮に出来たとしても直接目の当たりにしたものじゃなくて、言葉に表せないものをイメージや象徴を借りて、頭脳知で翻訳されたものを仮に表現するしかありません。
こういうものは、当然のことながら何も確証出来ないことなのです。ですから臨死体験者が見てきたように語る理由も私なりに何となく分かりますが、その体験の真実を伝えたいという意図が感じられます。
でもそこには何らの確証もありません。ことに死後の世界の真実性などについては、もう決定的に土台から崩されていると言ってもいいでしょう。
それは"生きている人間"が言っていることだからです。死んで生き返ったとしても、その人は現に生きている事実に変わりはありません。
だから、死後の世界のことは誰一人証明出来ないのです。
従って、私が書いているものも含めてこれらは"主観的覚書"の域を出ないと見なされても仕方の無いことでしょう。
だからと言ってそれを否定している訳じゃないですよi ただ、それは、"分からない"としか言いようがありませんi...私の目はまだ黒いので...
しかし...これは死の問題に限らず、精神的な道全般にも関わることですが、確証は出来ないけど、全身全霊を貫くようにも示されるある確信めいたものはあります。もう、ことの真実性とか実証性のことなどどうでもよくなるようなことですi
それは私自身が感じたことに他ならないのですが、他の人、あなたにおいてはどうだかは分かりませんi...("分からない"ということは多くこのことを含ませているのです)
それは一人一人が向き合うべきものではありませんか?...安易に他人がそう言っている、"人は死なない"という信仰とか、"死後なんてある訳無いi、という科学信仰におもねっていては、あなた自身の真実は開かれないのでしょう。
(このこととは別に今、どうしようもなく死の恐怖に深刻に心を苛んでいる人には、永世などの信仰的なことで安心を求めることも必要かも分かりませんが、遅かれ早かれ死は受け入れなければならないことに変わりはありません)
私はこの死の問題ほど自分自身で向き合わなければならないものはないと思っています。
このことは、ひっきょう自己に向き合うということではないでしょうか?
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