人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

夏季だけにしたくないハワイ音楽

2019-06-30 12:15:11 | 映画・音楽など
夏の定番音楽と言えば、ハワイアン、ハワイ音楽...
というのは、昭和の時代のことだったのでしょうか?
それ自体近年は廃れがちですが、商店街に行くとBGMとしてよく流れていたものです。
60年代には、夏季だけでなく、フツーに我が国の歌謡界に浸透していました。
これは和製ハワイアン.バンド、和田弘とマヒナスターズに負うところが大きいでしょう。
その伴奏による、松尾和子さんの歌でヒットした「誰よりも君を愛す」は、私の幼児のことながらシッカリ覚えています。
これはハワイアンというより南国調の「ムード歌謡」なのですが、松尾さんのような、しっぽりと湿っぽい、くらーい歌い方というのは、我が国ならではのもので、本場のハワイ音楽ではほとんどお目にかからないものです。
本場のハワイ音楽というのはですね...実はよお分かりません(笑)
ジャズ、タンゴ、ラテン...多くのポピュラー音楽と同じくハワイアンも、1920年代後半にその基本的なスタイルが創出されました。
そして、タンゴやラテンがそうであるように、それはジャズのイディオムを取り入れることで、豊かな音楽表現を生み出すに至ったのです。
というより、初期のハワイアンは、米本土のジャズ、ヴォードヴィル、ノヴェルティ音楽との関わり抜きでは語れないと言ってもいいでしょう。
ハワイアンの花形楽器、スティール.ギターの初期の名手たち、ソル.フーピーもロイ.スメックも「セントルイス.ブルース」や「12番街のラグ」など、多くの当時のジャズ、ヴォードヴィルの人気レパートリーを取り上げていましたが、これらとハワイ原産の曲とが、渾然となっていたのが、この頃のハワイ音楽の有り様だったようです。どうもこの両者には、元々似た要素があったようで、並べて聴いても全く違和感を感じません。
そして30年代初頭のニューヨークの大恐慌は、ハワイの音楽家たちにも打撃を与え、多くの者は引退を余儀なくされたと言う。
自身秀れたギター奏者で、黒人ブルースやその周辺音楽の研究家でもあり、その数々の音源を復刻した、ボブ.ブロスマンは、"伝統的ハワイ音楽はこの頃に廃れてしまい、それは、30年代中頃には、アメリカナイズされ、コマーシャル化したものに変質してしまった..."と述べていますが...
しかし...ハワイって、そもそもアメリカの準州だったのでは?...前記したように、ハワイ音楽は、その創成からしてアメリカナイズされてないか?
それに...コマーシャル化してないポピュラー音楽なんて無いです。
それを"オーセンティック"なハワイ音楽と呼んでいいかどうかは分からないが...我々平均的? 日本人がイメージしているハワイ音楽は、この30年代中頃、米の景気回復と共に"リニューアル"されたものの波を受けていると言ってもいいでしょう。
この頃、米ポピュラー歌手ビング.クロスビーが"ハワイアン.パラダイス"、"スイート.レイラニ"などの定番曲を次々に吹き込み、ハワイ発のラジオ放送も始まり、正確にこう言っていいか分からないながら、ここにハワイ音楽の黄金時代を迎えるようになったのです。
これと、その前期と大きく別つものは、何と言ってもスティール.ギターの電気化でしょう。
"びよよ~ん"...これは、いいi...たとえ、それが擬似的な南国ムードだろうと...あのねえ、悔しいけど、こちとらお金なくてハワイに行けないんですi 東京に居ながら、一人侘しくノスタルジックな南国気分...悪いかi
夏季だけでなく、一年中聴いていたいものです。

この時代のものは勿論(かつて「不滅のハワイアン」名盤.シリーズという貴重なLPが出されていた)、20年代のもいいけど、一番のお気に入りは、何とフェリックス.メンデルスゾーンという、あの人...ではないユダヤ系英国人の、ウソっぽい楽団の定番曲です。

※Felix Mendelssohn & Hawaian Serenaders「Pagan Love Song」(1940)

ここに聴かれる「ローランド.ピーチェイ」という、スティール.ギター奏者は、カナダの白人ですが、これがいいんだから仕方がないi
30年代以降活躍したディック&ラニ.マッキンタイヤー兄弟は、ビング.クロスビーとの共演が沢山聴けるが、これといったものが見つけられませんでした。
大物ソル.フーピーSol Hoopiiは「Lehua」「12th Street Rag」(共に1927年)他で、そのジャズと渾然とした様子が伺えます。

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フツーのようで、フツーでない

2019-06-29 10:28:44 | 雑感
私は、どこにでも居るような、一寸風采の上がらないようだけど、フツーの人間と思われているようです。
ところが...一寸趣味の音楽とかについて突っ込んだ話になってくると、"表側のロック、ポップスは別として、かなりマニアックなことになってきて、フツーでない人間になってしまうようなのです。
"何でそんな誰も知らないような、"ヘン"な音楽ばかり聴いているのか?"って...決まってるでしょi 好きだからですi
巷でどんな音楽が流行っていて、評判になっているかなど知らないi 絶対、世間におもねったりしないi
自分が好きで、幸せに感じてることに、何で他人の声などに左右されにゃならんのだi
ところが、そんな私のお気に入りのヘンな音楽をたまに聴かせたりすると...時には、"おんや、これはどっかで聴いたことあるような、懐かしい感じがする...一寸古くさいけど、ありきたりな音楽でねーの?"...何て感想が出てきたりするのです。
そうです。ヘンテコってもんじゃない、ヘンに思えるのは、一般に認知されてないという理由からでしょう。
しかし、ありきたりなようで、そんじゃそこらに転がってやしませんi
そして、実際に聴いてみれば、そこはかと感じる郷愁、哀愁...
私はただ、それらをお話だけで満足することが出来ず、一歩踏み越えてしまうところがあったまでです...。

精神的な世界について、私は、"この教え、メソッド"とかに限定して、一部の信奉者とか、特殊な人たちにしか通じないようなことを伝えようとは思いません。
伝えようとしていることは、"神を愛する"とか、そこら中に溢れている、ありきたりそうなことだったりします。
このことに、"神を信じる"という、どっかの信者でも言っているようなことを思い浮かべる人も居るかもしれません。
でも、他の皆がそうしている、そう信じていることに従うことで、(回りはそう言うかもしれませんが)幸福になれると決まっている訳ではありません。
皆が信じているからと言って、その神はあなたに直接つながっている訳じゃないのです。
あなたが愛する神とは、あなた自らが一歩踏み越え、その愛に赴かざるを得ない神のことです。
だから...私がこういうことを人様に説き伏せるように言うのは、余計なことなのです。
だけど、私は伝えたい...神を愛することは幸せなことなのだから...それは神の愛の内にあることと言ってもいいです。
世の中の多くの人は、このことを知らないのです。そうでなくとも、知識だけで知ったつもりだったり...
多分、精神世界、スピには、お話だけだったらそこら中に溢れかえっていることでしょう。
一歩踏み込むとは、実際にそれに触れてみようとすることです。触れなければ分からない。
あなたの幸福は、私の幸福がそうであるように、他におもねってばかりでは見つけられないのです。
あなた自身が、私自身が、幸福と感じない幸福など、そもどこにあるでしょうか?
神的なものと意識がつながることで、幸福でない訳がありません。
意識は自ずと、神的なものに赴く...押し付けがましい宗教の教えとはまるっきり違います。
人が最愛のもの、神と感じるものは、勿論一人一人異なるでしょう。
これはある意味で、ごく個人的なことかもしれません。しかし、その個は、各々の神的なものを通して"個多"、普遍なるものとつながっているかもしれないのです。
このことは、表側のことしか知らない、世の中の人には誰も分からないでしょう。
こんな当たり前のことなのに...
世間一般でない、個多にこのことを伝えることは、それ自体私の幸福につながる...
だから...伝えざるを得ないのです。



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すべてを主に

2019-06-26 12:12:41 | 独語
神とは神聖なもの...
神に近づくには、体を清め、心を正し...いや、体も心も虚しくしなければならないだろうか?
神に悖る思いは無くさなければ、神は善しとされないだろうか?
一体自分自身の中に、この世界のどこに神聖なものを見い出されるのだろう...
この罪なものすべてから目を背け、身を遠ざけなければならないだろうか?
主よi み下に近づかん...

主よi あなたはいずこに...
清さを保つべく、信仰、修行をいくら重ね続けても...
少しもあなたのみ光が"とおってくる"感じがしてこない...
あなたが臨んでくる感じがしてこない...
信仰や修行だけが一人歩きしているよう...
一体何があなたのみ光を遮り、遠ざけているのだろう...

とおらない...遮っている...
壁がある!
善と悪、聖と俗、こちらとあちら...
分けられないものが分かたれる...分からないものが分かったことになる...
微動だに動かない壁が...
主よ、壁がありましたi
この壁は...主よ、あなたは...
私には分からないi...
私は本当には...あなたのことは何も分かってはいなかったi
あなたには何も遮るものとてなかったi
あなたから離れた、離さなければならない何かがあると思っていた...
罪な私、至らない私、罪な、堕落した、滅びるべき世界...
この壁だけは...私のものだった...

見えない壁が見えてきた...
風通しがよくなった...それをこぼたんとしなくとも...
我が身を、思いをどうとかしなくとも...
風は自ずと吹き、日はまた上る...
このポンコツにしか見えない体、ロクなことしか頭にない思い、バカバカしい世の中...
とおらないもの、受け入れられないものは何も無い...
見よi すべては、そう信じられた、思われたものでは無いi
すべては主のものなのだから...
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霊学の二つの相

2019-06-24 11:14:43 | スピリチュアル?
神智学、人智学と言われるスピの一群は、その名が示す通り、実に学的に、体系的に霊界など見えない世界について説いています。
ルドルフ.シュタイナーの主著「神智学」などは、まさにその好例で、見えない世界を構成しているのは、霊界、魂界で...それとどう関わるのかよく分からないが、第一から第七とかいくつかの階層的領域がある...、といったように見えない世界を見える世界のように描写して見せています。
この種の学問では字義に囚われるのは、あまり意味は無いでしょうが、ここでは魂界、魂というものが、現界と霊界、肉体と霊体(霊的体様というものが果たして有るのか?)の中間に位置付けられているらしいです。魂...自我、霊我(シュタイナーはこういう表現も多用している)、あるいはアートマン...
個人的なことですが、私は魂というものがどうゆうものか、全く知らずに、いやむしろ、知る必要も感じないで使っております。
それが肉体だろうと、霊体だろうと、真我だろうと、魂は魂なんです。あれこれ思考を巡らすんじゃなくて、"魂から"感じられるものが、そういうもんだと感じているのです。
ここから言うと、正直シュタイナーのその、あまりにも客観的な、第三者的見地というものを強く感じさせる筆致からは、魂からの感銘をほとんど受けません。
もっとも、このどこまでも冷徹なこの霊学では、そういう情動的なものに訴えることは、必要の無いことなのでしょう。
しかーし...一ヶ所、"おお、こ、これはi"と、私の内部が思わず唸った文章を見い出しました。
「霊界では一切が絶え間のない、活動状態を保ち、止むことのない創造行為を続けている。物質界に存在するような休息とか停滞とかいうことはここには存在しない...」
これは私も目の当たりにしているi 全く同感...それが霊界なのか、どうかは知らないが、人生の裏側にあるのは絶ゆまぬ生成なのです。
動いているのですi 静止していない、静視することが出来ない、実体、実態があるように、そこに固定されて在るものは何も無いという感じなのです。
(おおっと待ったi この言葉は鵜呑みにしちゃなりませんi...これは"決まったものなど何も無い"というニュアンスでもあるので、静止しているように感じるものもあるのですi)
このシュタイナーの言葉は、自らその面妖なまでの、見えない領域についての体系的な表現を揺るがすことになりはしないでしょうか?
少なくとも私は傍観者のように、それを対象を見ているように見ることは、困難だったのです。
いや、ホントはもっとややこしくて、植物人間みたいに傍観するしか出来ない私が居るのですが、彼はその永遠の創造とも言うべきものに、主体的に関わっていません。
その生の真の主体はその彼とは別なる私に変わっていたのです。
何がややこしいって、全く現世のように思われたままの有り様でない、ということです。
こういうことはすべてのスピについても言えることでしょう。
霊界は、ワンネスの世界は、かくかくしかじか...そうなってるんですi...って、何で言えるのか?
見えない世界の本当の真相とは...それは象徴的表現、比喩をもってしか言い表すことが出来ないということではないでしょうか?
然るに、何とその界隈には決めつけた言辞で溢れかえっていることかi
参考程度にとどめときゃいいものを...(先の私の個人的感想も同様ですよ)
こういうことを踏まえれば、シュタイナーのこうした霊学も、決して図式化出来ないようなことを、逆説的に描いて見せ、一つの表現形態として読めて、面白いところもあります。
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生命の詩人ブラウニング

2019-06-23 12:31:57 | 人生の裏側の図書室
「老いゆけよ、我と共にi
最善なるものは、まだ来ていない
人生の最後、最初に作られたのはそのためだ
我らの時は、主の御手にある
主は言われる"若い時は、その半分しか示されない、神に託せよ
そのすべてを見て、恐れるな!"と」
(ロバート.ブラウニング「ラビ.ベン.エズラ」)

私が初めて、まとまった詩集らしきものを手に取ったのは、19世紀の英詩人ブラウニングのもの(「ブラウニング詩集」、「男と女」.国文社刊)でした。
昭和55年夏のことで、その夏の東京は、ほとんど真夏のギラギラした日照に与ることが無く、例年に無い涼しい日が続いたのを覚えています。
その為か、青春時代(大学"5"年生)特有のそうした悩みなども手伝い、メランコリックな気分になっていたことが、この詩集に意識を向けさせたのでしょう。
とにかく、それまで霊だの、高次元だのと、精神が抽象的で、現実世界から浮いた感じになりがちで、無性に私の血肉に訴えてくるものを恋しくてたまらなくなっていたのです。
ブラウニングの名は、手島郁郎先生がその英詩講義を残しているので知っていました。(「老いゆけよ、我とともに」.手島郁郎文庫刊)
不思議なもので、哲学書では、ベルジャーエフが最初だったことと同様に、さして多く詩を読んでいる訳ではありませんが、私が読んだ中で、ブラウニングほど感銘を受けたものはありません。
これは私の進取性に富んだ、変節しやすい性格に反して、初めて感銘を受けたことをずっと忘れない、という心的傾向からのみによるとは思えないものがあります。
哲学と文学の違いはありますが、いくつか両者には共通点があげられます。一口に言えば、その根底にある思(詩)想が"動的"だということです。
動的...劇的、生命的...静的な、遠くから眺めているような、傍観するような展開はそこに見られません。
こういうものに接してしまうと、共感するか、反感するか、どっちかしかなくなりそうで、微温的、無関心で居られなくなります。
いささか、紋切りな言い方ですが、ベルジャーエフが、静的、主知的なギリシア的思椎よりも、動的なヘブライ思想に共感を示したように、ブラウニングも実在した中世のユダヤ系の哲学者、聖書学者ベン.エズラに共感し、上掲の詩を表したのでした。
ベン.エズラ=ブラウニングは、図式的な霊肉の二元論を立てません。
「すべての善きものは我らのもの、霊は肉を助ける、そうだ、肉が霊を助けるように」(同)
肉的な情動、悲哀の感情なども、より大きな御旨の中に抱かれてある...俗なるものの聖化...
こういう詩風は、私の特愛の「最高善」、「いま」などの短い詩にも顕著に表れています。
本当はギリシアでもヘブライでも、西洋でも東洋でも無いはず...抽象的に思い描いたものでない、アリアリと切れば、血が流れるようにも、具体的に生ける、生命に一歩踏み込み、与ることにあります。人生は思われたままではないのだから...
私が彼の詩に惹かれた理由もよく分かります。

それにしても、ブラウニング始め、19世紀の英詩人たちは、何と我が国の出版界から冷遇されていることでしょう。米詩人を含めてもこの頃が英詩の全盛時代だったと思われるのですが、散文、日記なども含めた、著作をまとめて読める「全集」、「選集」の類いが、ほとんど組まれたことが無いのです。(私の知る限り「ジョン.キーツ」くらいしかありません)
上記したものが、まとまった詩集でしたが、多分絶版でしょう。
ブラウニング夫人エリザベス.パレットは、私には幻の詩人で、未来の夫から熱烈な求愛を受けていた頃は、彼よりずっと高名な女流詩人でしたが、"エリザベス.パレット詩集"というのを、浅学にして一度も読んだことも、見たことも無いという始末です。
この夫妻は相互に影響し合っていた仲だとも言います。羨ましい...
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