人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

トラワレからの解放

2017-08-30 18:14:02 | スピリチュアル
私が初めて現臨のハタラキに捉えられた時、まず実感させられたことは、それまで如何に自分は諸々のトラワレに縛られていたか、ということでした。
頭の中はまるでトラワレの固まりしかないかのようでした。
このトラワレ状態に気付かされたことで、その解放というものが如何に救いになるか、ということがやはり実感させられたのです。
それは、一時それまでの秩序(それ自体が、足かせになる訳ではないですが、ここにトラワレが内包されているのです。思い込みで成り立っている世界)を根底からひっくり返すようなカオス状態と共に始まります。
そうなると私に出来ることは何もありません。ただゆだねるだけ...
そうさせる、とてつもないハタラキが臨むからこそ、ゆだねられる訳で自分からはそうなりません。空気を掴むような話です。
その底無しの深淵、カオスの前に為すすべなく虚無のうちに私は消え去ってしまうのか...
ここに救世主出現i アメイジングi 大巨人...大神人...天空より現わる...いいや、私にはあの底無しのカオスから顕現したように感じられました。
カオスとこの神人というのは全く一如のものだったのです。
神人とは、"知られざる私"、我ならぬ我"に他ならず、これにより虚無に飲まれずに済んだのですが、この一連のハタラキがトラワレからの解放をもたらしたのです。
宗教、スピ界隈では相変わらず"悟り"という言葉が慣用されていますが、これによりこれまで随分誤解を生み出してきたことでしょう。
思われたままの自分のその上に、たゆまぬ修業や信仰などを通して、さらに上へ上へと積み重ねて行くようなものと思い込んでいる向きも多いようです。
チャクラを下から順番に開いていかないとならないとか...
初級をクリアしないと、中級に行けないとか...
一体誰が決めたのか...先生に従わないとイケナイから...うんと修業し、うんと信仰しないと悪い自分は許してくれないから...
悟りへの道には何と多くのトラワレが待ち受けていることでしょうi
頭の中には、階段を登りつめた先に、きらびやかな神の世界が写っており、地獄を思わせるような、真っ暗闇の深淵など想像だに出来ないのかもしれません。
しかし...今の自分を高めていく悟りの道とか、魂の高次元への進化といったことよりも、何よりも如何に自分はトラワレに縛られているか、ということに向き合うことです。目覚めとはそのことから離れては無いのです。
この自覚の無いところ、自我性というもの、その限界というものが示されることがありません。
トラワレからの解放を目指しての悟りの道だったハズが、次から次に新たなトラワレを背負いこむハメになってしまうのです。
だから...まず為すべきことは、トラワレから離れること、放つこと...
違うi
出来ると言うのならどうぞi...新たなトラワレ.コレクションが増えるだけでしょう。
そもそも自分で出来る、"やらなければならない"ということがトラワレの元なのでしょう。
ホントにこれがなかなか分からないようです。自分を越えたものに降参して、受け入れることが出来ない。
長年祈りについて学んでいる人でも、自分で祈らなければならない、業を自分で消さなければならないという思いにトラワレている人も居ます。
本当に自分の思いのトラワレからくる苦しみを自覚したならば、思いを越えた、その苦しみからの解放をもたらすハタラキを待ち望む心根、祈り心というものが自ずと起きてくるでしょう...。






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我がテレビ黄金時代

2017-08-29 17:00:54 | 映画・音楽など
これまでの人生で、(勿論自分から見てですが...)もっともテレビ番組が輝いていたのは何時だったか?
私は躊躇無く昭和41年と答えますi 小学4年の時です。
一年を通じて"放映が待ち遠しいi"、と思わせる番組が絶えることは無かったことが思い出されます。
とにかく毎週欠かさず観る習慣は、この年に定着したのです。
まず、春先にオンエアされていたのが「ウルトラQ」...何より半年に一回(東宝怪獣映画)でなく、毎週怪獣が観れるというのが、画期的なことでした。
若き日の石坂浩二さんによるナレーションもお馴染みになりましたが、多分に、それ以前話題になった外国TVの「ミステリー.ゾーン」や「アウター.リミッツ」を意識させるもので、毎回怪獣が出現する必然性は感じず、何とも"アンバランス.ゾーン"に入りこんだようでした。
「ケムール人」("ムフォ、フォ"の元祖。バルタン星人のプロトタイプ?)が登場する巻などは、そのテイストが満載で印象に残っています。
しかし、こう毎度怪獣に蹂躙されては、我が国もひとたまりないではないか? あまりに無力な我々はどう対処していたのか? よう覚えてません。
救世主が待望された...私がそういう超人の存在を思い描いていた時に、本当にその夢が実現したのが、「ウルトラマン」の登場だったのです。(夏から放映)
巨大化する、というアイデアはおそらく先のケムール人を踏襲していたのでしょう。
それにしても、地上では三分間しか動けないというのは...インスタントラーメンが出来上がるまでに怪獣を始末しなければならないのですよi?
これをやっていた日曜の夜というのは、実に子供泣かせでした。同じ頃裏番組で「バットマン」をやっていたからです。
これが何ともマンガチックな作りで、バットマンが悪漢どもにパンチを見舞うと"Bangi"と、大文字表示されるなど、実に秀逸なアイデアに写りました。
バットマンとロビンより私が気に入っていたのは、準レギュラーのように登場していた悪党...ジョーカー、ペンギン、リドラー(テレビ放映ではナゾラー)、キャットウーマン(同ミスキャット)たちで、コスチュームもやることも奇抜...しかし、あからさまな"殺し"とか残虐なシーンは皆無。つまりコメディタッチなのです。
「おい、ロビンi 例のヤツをi」「あ...忘れたi」
何というドジなヒーローなんだろ...この作品ほど随所にコミックの実写化というものを感じさせるものはありません。(あれを近年の映画版のようなシリアスタッチでやられたら...ゴッサムシティは町全体がアサイラムと化すだろう...)
ああ、それも毎週前半しか観れずしまい...怪獣VS超人にはどうしても勝てなかったのでした。
金曜夜のプロレスも欠かさず観るようになったのはこの年で、大物外人"鉄の爪"エリック初め、"殺人鬼"カール.コックス(米国でエリックとコンビを組んでいた。この時は得意技ブレーンバスターは見ていない)、"人間台風"ゴリラ.モンスーン(満州で発見された原人というキャラi 私には米人の観点というのは全く理解し難いです。北京原人の間違いでは?)を交えての馬場さんの試合はこの年のベスト.スリー.バウトでした。(実力世界一という、"神様"カール.ゴッチもその夏来ていた?...そういや居たなあ...すごく老けて見えたが...馬場との世界戦も彼の怪我で、幻に終わりましたが、やったとしても面白味に欠けていたでしょう。馬場さんは悪役が相手でこそ光るのです)
その他、「悪魔くん」(東映系列。これはウルトラマンに対抗してか、毎回妖怪が登場していた)。
アニメでは「おそ松くん」(P.T.Aのクレームで、途中でテーマソングが変わった)「ハリスの旋風(かぜ)」(ちばてつや原作。後の「あしたのジョー」につながる下町もの。最近じゃお目にかからなくなった)...

思い返せば、ある時は、怪獣、異星人、ある時は道化師のような悪党ども、又ある時は海を渡ってくる悪役レスラー...
彼らの出現によりいつも平和な既成の秩序はカオスで脅かされます。
そこへ正義のヒーローがやって来て、悪は駆遂される...でも私には全くと言っていいほどヒーローには思い入れがありません。
私の中にカオスが内包されているのを知ったのは、それからずっと後のことでした。
あの時は、そうとは知らずに内なるカオスに引き付けられていたのかも分かりません。



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夏の終わりの日

2017-08-27 10:27:32 | 詩的文章
子よ、お前は一体何をしているんだ?
どこへ行こうとしているのか?
何から逃げようとしているんだ
外に出れば、気分は晴れて来るのかな?
気がまぐれる何かでも見付かるのかな?
気が済むまで、好きにしたらいいよi

子よ、私は何もとがめていないぞ
何も忠告などしてないぞ
シンドかったら、逃げたらいいじゃないか!
気晴らしになることを何でもしたらいいじゃないか!
でも...ただ外をうろつくことしかお前はしないんだなあ...
それしかお前には出来ないのだろう?
それだけで人は笑うかもしれない
"さっさと勉強しろi"と、とがめるかも分からない
だが...私は知っているよ...
お前はガンバラなくてもいいことを、十分ガンバッているんだ
重労働者には決して分からないようなことを...

どんなに無意味に、無駄に思えるものでも...
人生に仮初めのものなど何も無い
お前は人生は思った通りでないことをイヤというほど知った
そうだ...自分の思いほど、思い通りに行かないものは無いi
そのことをお前は身も心も味わっているのだ
ドン底を味わった者は浮き上がることの意味が分かる
囚われの身になった者は自由の意味が分かる
お前は自分がどこへ行こうとしているのか知らない
だが、ほら西の空をみてごらんi
あれほど、狂おしいほどお前を苦しめていた真夏の太陽は...
お前に高揚を呼び覚ます、茜なす夕陽へと変容していく...
ジメジメと淀んだ空気に、肌身に優しい涼風が吹き込む...

夏の終わりの日
人生は思い通りに行かない
人生は思いを越えたことが起こる
このことがいずれお前に思い知らされるだろう...


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ランディ.ニューマンーみんな黄色の世界ー

2017-08-26 10:06:29 | 映画・音楽など
数ヶ月前、アラン.プライスのことを書いたのですが、彼が影響を受けたランディ.ニューマンのことを取り上げない訳には行きません。
彼は今や「トイ.ストーリー」など、映画音楽の世界ですっかりメジャーになりましたが、思えばこれは、彼の血筋のなせるところだったのでしょう。とりわけその巨匠として知られた伯父アルフレッド.ニューマンはじめ映画音楽で名をなした人が数人居たのです。
私が初めてニューマンのレコードを聴いた昭和49年(高三)の頃の彼は、当時ロック、ポップス界に一つの潮流をなしていたシンガー.ソング.ライター(S.S.W)の有能な存在の一人として目されていました。私と同じく、ずっと彼をS.S.Wのイメージで見ている人も多かろうと思います。
この頃の洋楽のもう一つの潮流は、映画「スティング」のサントラのラグタイム曲「エンターテイナー」を初めとしたノスタルジック.サウンドでした。
これに私の目敏い感性に火が付き、大枚はたいて買ったのが、彼のセカンド.アルバム「12ソングス」でした。(輸入盤。当時から希少レコードは見つけた時に買うのが鉄則でした)
全く何てこたあないシンプルなジャケット、タイトル...我が国で話題になったことなど聞いたこともない...
が...私は傑作の多い彼のレコードの中でも、これを偏愛しています。
ニューオーリンズ調R&B、デルタ調及びシティ調ブルース、カントリー、ヴォードヴィル...デビューアルバムで見せたティン.パン.アレイ調は影を潜めてますが、ニューマンは、ここでアメリカン.ルーツ.ミュージックのフレーバーをふんだんに取り入れています。
(私の音楽との関わりで欠かすことのできない、復古主義?傾向はここから発しているのですi)
そして歌われている内容は、悲しくも滑稽で、時にゾッとするような人生模様...
ストーカーまがいの妄想にかられる男の話(スザンヌ)、誰一人居ない夜のガソリンスタンドで、救いようのない寂しさを訴える従業員(イフ.ユー.ニード.オイル...これらで聴こえるスティール.ギターは、名手クラレンス.ホワイトでしょう)...カントリー調の曲はあるものの、あくまでも都会、中流階級に生きる人々に潜むわびしさ、狂気を、それを糾弾するでも、同調するでもなく、一語り部のように冷徹なまでに描いています。
そのシニカルな歌詞から、当時の音楽評論家の間では、「ニューマンは"病めるアメリカ"を浮き彫りにしているのだ...」などと述べられたりしていたものですが、実に隔世の感がしてきます。
今じゃもう病んでる状態はとっくに通りすぎて、すっかりオシャカになって地獄行きとなり、やっとこさ生まれ変わって再び不治の病に冒されている状態なのではないですか? 我々日本人はどうなのか? それとも人類は皆ずっと病んでいるのでしょうか?
いや...オカシイこと、ヘンなことはフツーなのでしょうか?

一日中ライスを食べ、子供たちはずっと遊んでいる
彼は家族を信頼しているのが分かるだろう
君と僕のようにね
(イエローマン)

ノスタルジックなヴォードヴィル調のバックで歌われるこの曲は、イントロからして中国人のことを歌っているんでしょうか...彼らは麺ばっかし食ってるんじゃないの? 何にしろ"健常なる"東洋人のことには違いないでしょう。そう、あなたと私のことですi
それにしても実に心地好いサウンド...いや...あの頃の私はそんなんじゃなかったのでした。...
限りなく灰色の夏休みの終わり...受験勉強など何も手がつかない...いつもの思考のがんじがらめ状態に陥っており、ある炎天下の中、あてどもなく皇居の周辺をさまよったことがあります。

空は青い? まっ黄色じゃないかi
ビルも、車も、人も何もかも黄色に見える...
ああ...日射(熱中)病になってみたい...頭の中のものがみな無くなっちゃえばいいんだ...

黄色がかって、ゆらゆらして蜃気楼のような風景...ずっとクラレンス.ホワイトのスティール.ギターが霞の中から聞こえてくるようにも耳から離れませんでした。
しかし...あれは確かに、蒸せかえるような密閉状態の中のわずかな隙間になっていたのでした...。






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スピリチュアルとメシを喰う真実

2017-08-22 13:01:41 | スピリチュアル?
このところ、下火になった感もあるノンデュアリティ界隈ですが、その主たる批判のホコ先は、その言説がこの現実世界にはちっとも即応していない、というものだったのではないでしょうか?
"個人は居ない、全体しかない、起こることが起きるだけ..."とりつくシマも、ミもフタもないことを言う人の話を、ポカーンとした顔して聞いている人たちが居ることで、現実に何が起きているのか、知れようものです。
こういうことを伝え広め、懐を潤そうと目論む人が居て、それに何かを求め、あやかろうとする人が居ないと、絶対にそういうことは起きません。
需要と供給というか、二元的世界で、当たり前のように起きてることが起きているのです。
それに群がる人というのは、個が全体に飲まれるように、それに引き込まれ、自分の意志でないようなところから、懐から生活の糧が、どんどん出ていきます。(いやあ、実に巧妙に誘導するものです..)
昔ながらの宗教カルマというものを見せ付けられるようではありませんか? (救いなのは、それらの中には理屈っぽくて、批判的な精神も持っている人たちも見受けられるところでしょうか? それはある面で救われにくい事なんですが...)
で、教師たちは何を言っているのか、というと...何かを言ってみただけでしょう。
ちっとも現実に即してもおらず、"個我を無くせばいい、思考を手放せばいい、宇宙にゆだねたらいい..."などと、出来そうにないことばかりを...
そこで言葉を越えた愛、エネルギー、神的なもの、ハタラキといったものが伝わるのなら、別の話です。
そうさせる何かが伝わって初めて生きた、現実に即した言葉となるのです。
実感させられたものほど現実的なものはないから...
しかし、言葉を超えたものについては、あのように断定的に言い表すことなど出来ようはずなどありません。
どのように感じるか、観れるかは、全く自由なはずです。
そしてそれが伝わるということは、教える者も、教わる者も無く、両者にある回路が開かれることを意味しています。
そこに一元も二元もなく愛、現存を共有する場が形成されるのです。
悟り系の教師たちの中には、元々はこうした有り様を目指していた人も居たはずで、又現在そんな人も居ることでしょう。
ただ、こういう有り様は、純?共同的在り方というべきもので、ちっとも"儲かりませんi" 儲けようと目論んだ途端、別のものに、利益社会的なものに変質してしまいます。
儲けたいと目論むということは、悟ったようなことを言っている人も、我々下々の者たちと同じ"食わなきゃならない"という、当たり前すぎるような現実問題を背負っているということを意味しています。
私はけっして"スピで儲けてはならない"などとは思っていません。
ただ、とても訝しく感じていることは、それを展開するについて、その周辺に横たわる、純粋な有り様と相容れない事柄を曖昧なままにして、洗脳するように、もっともらしい"悟り言葉"で誤魔化すところなのです。
「悟りという言葉は、悟ってない人が言うことだ...」へえ...言ってみちゃうものだ...しかし、絶対に講演会、瞑想会の宣伝は怠らない...いやが上にも悟らないとならないような気がしてきた...
何で各地で講演会を開き、なんちゃら瞑想とかを普及しているのか? その事と日頃説いている非二元的教説とどう結び付くのか、結び付かないのか?  別に"結び付かんでもいいだろi" 切実な問題はみんな持ってるし、分かってることなんですから...覚者は常に整合性を持ってないといけないのか? ボロを出す前に"メシを喰う真実"を説いたらいいのでは?
もし、その教師に何か共感するものが感じたのなら事情は理解し、"お付き合い"するのもいいでしょう。相応の支出でも納得出来ようものです。
でも、このことをウヤムヤなものにし続ける事は、多くの魂を、自分の魂を裏切り続けることになるでしょう...。

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