人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

クンダリーニとおまかせ

2014-09-30 18:51:41 | 覚醒
数年前、ある方にあの体験のことを話したら即座に「ああ、それはクンダリーニが頭頂チャクラを抜けたんですね」との答えが返ってきました。
私はそのクンダリーニなるものが如何なるものか、知識としてある程度知っておりましたが、それを聞いて正直「そんなに決めつけられるものなんだろうか?」と思いました。
第一、ヨガ瞑想とかとは無縁でしたし、何かの修行をやっていたという訳でも無く、それは予期せずに起こった事なのです。
「何やら尾てい骨辺りから、エネルギーが竜が上るが如く背筋を伝わって、やがて頭のてっぺんからシュボーッと…」
なんてことは全く身に覚えが無かったですがねえ…
そういう体の一部に感じるものでなく、全身全霊に及ぶという感じでした。
確かに熱いものは感じてましたが…というか本当にその日は朝から体中熱かった訳ですが…
(ひょっとしてそれが動かぬ証拠なんですかね?)
火山噴火の如き、確かに熱いエネルギーの急上昇とイメージされるものは有りましたが、それは物理的、肉体的なものでは有りませんでした。
私が全く腑に落ちなかったのは、その方自身が経験したという「焼きゴテを押し付けられたような、物理的にも、精神的にも及ぶそのエネルギーの上昇に伴う途端の苦しみ」のことでした。
又言う「それが頭頂チャクラに抜けると発狂の恐れがあるんです」と!
「そんなにオソロシイ事になっていたのか!ひょっとして狂っちまったのかオレは!」と自分を訝りましたが、
どうにも解せません。
私はその渦中に有った時、ずっと守られ、導かれている感じが有りましたし、アブナイとか苦しいなんて感じは全く有りませんでしたから…
これはあくまで私の推測ですが、その方に限らず、こうした事例が何故生じるのか? その多くは自己の意志、ハタラキかけを介入させた結果では
ないかと思っています。
自分の意志でクンダリーニを上昇させるべく操作しようという…
私の場合、その渦中に有った時思考機能、意志的ハタラキはロックされていたので「そうしよう」としても出来ません。
仮にそのエネルギーによって覚醒が起こるのだとしても、それは人智を超えた計らいによって起こるのであって、
自分からそれにハタラキかけるというのは、それはプロメテウスの火の様に危険なものとなるのではないでしょうか?
人智を超えた計らいに対しては、もうこれはそれに委ねる、まかせるより手立ては無いでしょう。
何時、どのタイミングでその人が恩恵に預かるかという事も、上では何もかも御存じなのではないでしょうか?
それもおまかせです。
理由も無く何だか楽しく、幸せな気持ちになった時、それは上よりの「あなたの時が来ました」という知らせなのかも知れませんね。
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見えざる導師

2014-09-29 21:53:45 | ガイダンス
人はよく目に見えるもの、形あるものに確証を見出そうとします。
例えば、神がそのようなものとして現れたならば信じられるとか…
果たして本当にそうでしょうか…
私はあの真夏の黄昏のブレーン・ストームの時、その姿は何も拝することはありませんでした。
その声は言葉、音声としては何も聞くことはありませんでした。
でも…絶対に疑う事が出来ない確信を見出していました。
それは文字通り疑う事が出来なかったのです!ものの喩えではありません!
それどころか、信じるという事すらできません。
信じるという事は、何かのキッカケで一転して信じられない、という事に代わるもので実にアヤフヤなものです。
それは我々の日常の思考回路からは生まれない、純粋意識の領域でのことだったのです。
「何もかもがリアルだ」前に「現実感覚が重要」と書いたのはこの事とつながっています。
本当に確信をもたらすものは、このリアルなものを実感した…、否リアルなものがこちらを射抜いた時です。
想像とか思い描いた世界の入る余地は全く無いのです。
私がその時実感したものは本当の意味で「動かざる現実」でした。
キリスト教徒は「イエスのみ名を通して救われるなどと言いますが、私はただ「イエス!」としか応答出来ません。
「ノー!」とは決して言えないのです。
ただこの場合のイエスは否定に対する肯定といった意味では有りません。
ただ受け入れる事しか出来ない、というニュアンスです。
しかしながら、単に「究極のリアリティ」とか「意識の拡大」といった表現ではなお足りないものがあります。
その現前に、確かに強烈に生きたもの、息づいているもの、そう愛の波動が絶え間なく私を包んでいるのを感じていたからです。
この至福に預かっていた間、このものはずっと私をその愛の波動、沈黙の声で導いてくれたのです。
こんなことになる直前、私はインドの覚者ラマナ・マハルシの本を読んでいました。
そこには「本当の導師は貴方の内に居る」「神、導師、真我は同意語である」と書かれていました。
これは頷けました。
何時の頃からか、私はこのものを「見えざる導師」と呼ぶようになりました。
「内なる導師?」それも有りですけど、何が内なるもので、何が外なるものか分からないので…
彼が臨在すると、「思い」という内と外を分かつ壁が取り払われるのです。
フランスの神秘家モーリス・ズンデルは「主の臨在する時、私は私自身で居られる」と言っています。
私はこれまで一人や二人でない、様々な宗教家、教師に傾倒してきました。
しかし、生来の強固な自我はその誰にも帰依、明け渡しされることは有りませんでした。
そんな私の自我は彼の現前では、木っ端みじんになってしまいました。
その彼は今生では一度もお目にかかったことは有りません。
彼が一体誰なのか、詮索したことも有りません。
それは多分無駄な試みなのでしょう。
彼は永遠に生き通しているのですから…おそらく永久にその姿を拝することは出来ないかも知れない。
でも永久に私とともに有るでしょう…
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喜ばしきおとずれは突然に

2014-09-28 16:29:45 | 覚醒
「寅さん、人間は何のために生きているのかなあ?」
「そ、そりゃあおめえ…こう、ああ生きていてよかったなあ…って事が有るだろ! そんなのに会うために生きてんじゃねえのかなあ…」
映画「男はつらいよ寅次郎物語」のエンディングで満男と寅さんが確かこんなやり取りをしていました。
「さすがは寅さん! 人生の巨匠だ!」
と言いたいところですが、実はこれ例によって旅先で知り合った、訳ありの女が泣きながら寅さんに話していたのをパクッたのでした(笑)
いやあ、しかし私にとっては忘れられないセリフです。
全くその通りじゃないですか?
しかし、その人生の喜ばしきおとずれは何時か遠い先にやってくるのでしょうか? 
私にも何度かそんなおとずれが有ります。
ある時は「今日はタダで済みそうにない」「今日は特別な日になりそうだ」と予感がある場合もありますが、
その日はまるで晴天の霹靂のようでした。
私が初めて、人生の裏側へと足を踏み入れてしまった日です。
ある夏の夕暮れ時の事でした。
朝から熱っぽく、体調が悪いので会社を早退しようと立ち上がった瞬間、
何やら目の前が真っ暗になったかと思ったら、
閃光のようなものが私の全身を貫き、
肉体、思考の機能を奪ったのでした。…
私はその時辛うじて保たれていた意識までもが失われてしまうのか、と思いきや…
今まで全く感覚されていなかった意識が突如目覚めたのでした。
「これは夢なのか?」
いいや、そうではありません!
それまでの20数年間の私の人生の全てと思われていたものこそが、夢だと気づかされたのです!
その時何を感じ、気付かされたかは到底ここで語ることは出来ません。
ただ、そう豊かでないこの人生で起きたあらゆる「楽しいこと、悲しいこと、苦しいこと、あんなことも、こんなことも…」
全てが輝いていました。
だって、全てはその瞬間に繋がっていたから…

やがてその「精神的暴風雨」が過ぎ去り、再び重く、無機質な日常に戻ると、
「あれは一体何だったのだろう?」
「夢か、現か?」などの思いがもたげだししばらく自分の身に起こった事が理解出来ずにいました。
うんと沢山修行でもしたり、信仰深くしてればそういう事も有るかも知らないが…これは何かの間違いでは?
でもハッキリと感じていたことは「今まで死のうと思ったことも有ったけど、生きていてホントによかったなあ」
という事です。
こういう人生の裏側に入り込むことは何時、誰に起こるか分かりません。
今がそういう時代なのです。
ひょっとして熱中症からそのまま行っちゃう、なんてことも…(前回参照)
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意識とはなにか

2014-09-24 14:39:47 | 意識、照明
普段、当たり前の様に使っている言葉が、「どうやら違う意味に使われているようだ」と感じたことありませんか?
最近、「人間が意識を持つようになったのは、考えられているよりもずっと新しい時代」らしいという事をどっかで聞いたのですが、これが私にはどうも腑に落ちないのです。
この意識ってヤツのことです。
この場合、使われているのはもしかして「ああしよう、こうしよう」という意志的なハタラキの事を言ってるのでしょうか?
又「人間の意識なんてものは、行動より反応が遅いらしい」なんてこと聞いて
益々腑に落ちなくなって、「こりゃあ、アンタどう考えたってそれは意志作用のことでしょうよ!」と突っ込みたくなりました。
まあ、それだけ意識というのは分かっていない部分が大きいという事なんでしょうね。
私は長い間、意識は意志などの思考機能よりずっと深い部分で機能しているものだと当たり前の様に思ってたんですけど…
何年か前、熱中症になった事が有るのですけど、その時思考機能がマヒしてしまったのですが、自分が陥ってる状態は辛うじて自覚なされていました。
これが意識の領域でのことなんでしょ?
瞑想とかしてる人なら分かりますよね。
思考から離れる事を一生懸命されている訳ですから…それが離れたところに有るものが。
自分の立ち位置を確認しておかないと…。
意識と意志について述べましたが、これはやはりハッキリ違うものだと思います。
さっきの熱中症や深い瞑想状態の時など、思考がマヒして意識ばかりになってる状態の時、能動的な意志的なハタラキかけは出来なくなります。
(この瞑想でも、例えばどこかのチャクラの一点に集中しようとか、何回マントラを唱えようとかいう瞑想法などは意志的にハタラキかけているので
一寸違う方に行くかもしれません。念力、意念ばかりが強まるとか)
私はよく「意識をOOに向ける」などという言い方をするのですが、実際のところ何かに向けようとハタラキかけなくても、もう向いちゃっていたり
します。
それが意識的な有り様です。
これは一寸説明が難しいのですが、人はどうしても「向けよう、向けよう」とハタラキかけ努力しちゃうようです。
意識を強めようと…それで強くなるのはおそらく意念でしょう。
ではハタラキかけが出来ないとはどういうことなのか?
もしそうなったら、例えば倒れちゃうんじゃないか、と感じたら倒れるしかありません。
もし、そこに自分が考えていた以上のとてつもない世界が開かれていたら…
貴方には道は一つしかありません。
ただ「そうなってる世界」を受け入れ、委ねるだけです。

私は熱中症になった時、アリアリと有る感覚を思い出しました。
それは人生の裏側を垣間見た時のことなのでした…。

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気付きは借り物では無い!

2014-09-20 19:36:05 | 求道、探究
古い話を持ち出して恐縮ですが、ウンOクサイさんのブログを拝見していたら、いまここのAさんとカナダのスピリチュアル・テイーチャー、エックハルト
・トール氏との類似について、要するにAさんはトール氏からパクッっているんじゃないか?と指摘している投稿が目にとまりました。
これについては既にウンさんのコメントにより落着した訳ですが、今後当ブログでパクリ疑惑?が次々浮上するかも分かりませんので、改めて前もって弁解しておこうと思いのであります。
「いまここからあちら側にアクセスする」なんて言うのは、もう誰がパクッたかなんて言うよりもう使い古された、という感がしますね。
トール氏は確か「パワー・オブ・ナウ」とか言ってましたっけ?
「いまここ」なんてフレーズ、実に簡潔で的確な感じで他に言葉が見つからないくらいです。
ひところ「永遠の現在」なんて言葉もよく使われていましたけど、「ウーン、なんだろう?」と考えているうち、だんだん「いまここ」から遠のいていき
そうだ(笑)
今から9年くらい前、ある修行系の方から「貴方はどういう修行をしてきたのですか?」と聞かれ「いや、特別修行などしてきませんでした。ただ上からある種の力が迫ってきたら、もうお手上げになるだけです。」などと答えたりしていました。
それからすぐエックハルト・トールの本と出会い、「オオッ、おんなじことが書かれているやんけ!」と驚いたことが有りました。
そして思いました。
「僕に文才が有れば、もっと先に書いていたのに…」私はつくづく小さい人間なんですね。…
トール氏はどっかで「ここに書かれていることに目新しいことなど何も無い。古来からあらゆる賢者たちにより語られていることである」と述べていました。
こうした気づきのメッセンジャーたちで「これは私の創見だ」などと、ケチな事を考えている人はおそらく一人も居ないと思います。
それはその人たちの気づきが「人類の共有財産」とでも言うべきところに源泉があるのを知っているからでしょう。
だから時に類似したトーンで語られることも有るのでしょう。
でもAさんも言うように十人いれば十人なりの人生模様がある訳だし、気付きの有り様もそれぞれです。だから多少のパクリ疑惑は許せる?でしょ!

それから、「その言葉、もう聞き飽きたワイ、分かってるワイ」と思っている人たち、その人たちはただ「分かってるつもり、知ってるつもり」なだけです!
気付きというものは借り物では有りません!そこが借り物の人の教えを信じていたらいい、という宗教とハッキリ違うところです。
(宗教というものは仮り物ですかね)
もう、その上よりの気づきを望むか、どうか…と言うことだけですね。
望めば然るべき導きが得られ、「人生の裏側の扉」も自動的に開かれるでしょう。…
では何時それを望むのか!
「いまでショ!」
これはさすがに…一寸使えなかったか…(笑)
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