人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

年の瀬の忘れもの

2022-12-30 09:06:11 | 独語
今年も暮れようとしている...
何かを忘れている気がするのだが...
“おうっ!“...
これだ!、古いチャンバラ映画観るの忘れてたぜ!
“この桜吹雪が目にへえらねえか!“
よっ、待ってました!、金さん!、それ見なけりゃ、ウェスタン.ラリアートをやらないスタン.ハンセン、アイアン.クロウをやらないフリッツ.フォン.エリックと同じだぜ!
これで見納め出来るってもんだ!...しっかし、ワンパターンだな!
片岡知恵蔵、バンツマ、アラカン...
僕の同年代のオッサンでも知らないのが多い!
こないだ、20代くらいのあんちゃんと映画の話してたけど、黒澤明も知らないのにゃ驚いた!(名前だけは聞いたことあるって!)
あのねえ、きみ、映画の話しないでくれるう?
“ぬあんだとお!、オレは世界のミフネだぞ!“
“いやはや、何とも、この...残念でならないですなあ“(このヒトこそ、黒澤映画の顔、志村喬)
“はいやあ、こんりゃあ、たんまげた!“(黒澤映画の常連脇役、左卜全)
似てるかどうか分からないけど、次々とモノマネをしたものの、ぽか~んとした顔してるだけだった!
あほらし!、映画の話はやめよう!

音楽...今年もタンゴ、ラテン、ジャズ...僕が生まれるずっと前のも多く、沢山聴いたなあ!...
いいものはいい!...これに優る真理は無い!
んなに?
乃木坂?、日向坂?、道玄坂?
初めてちゃんと聴いてみた(観た)...

”I see...どうでもいい
突然思ったんだ
I see...そんなことまるで関係ないね
意地なんか張ってちゃもったいない
自分の気持ちに素直になろう
大事なのは一つだけ
君が好きだ!”
(乃木坂46「I see...」)

“かっき~っ!“
年の瀬に忘れてしまった!

僕のトシ!...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やっぱり猫は猫!

2022-12-29 09:56:44 | 独語
寒い季節になると、生きてる湯たんぽのような猫が恋しくなってくる...
手が冷たくなったら、とにかく猫をさするに限る!
こうすれば、お互いあったまるんだ!
あ、そうそう!...
ああ...あの香箱座りしている隠れた足の下に手を差し込みたいっ!(猫によっては噛みつかれるぞ!)
ゴロゴロ、ノドを鳴らしてたらまんざらでもなさそう...
ゴロゴロ...あれを聞いてると眠ってしまう...
小さい時から最高の子守歌だった...
今でも、あれを頭の中で鳴らしてると眠ってしまう...
昔はよく、近くでニャーニャー鳴いている子猫と遭遇し、家に連れて帰ったものだったが...
最近は全くそういう出会いが無い...
近所には、野良猫は沢山居るのだが、十年くらい同じ顔ぶればかりのようだ!
どいつも、こっちにはほとんど懐かない、たくましくも、ふてぶてしいのばかり...
毎年毎年、厳しい冬を生き残ってきたんだなあ...
可愛くも、切なく鳴いていたら、寒い間だけでも仮宿を提供してもいいんだけどなあ!
増して、”助けて欲しい!”と訴え掛けられたら...絶対ほっとけなくなる!
でも、猫を飼うことは甘いもんじゃなさそうだ!
家から出したらイケナイの?
猫なのに?
部屋の中でいつも寝てるのが猫なら、たたたっと木に登ったり、ひとっ飛びで壁に上がるのも猫だ!
猫をひとり(一匹)で部屋に閉じ込めたままにしておくなんて絶対無理だ!
火事になったら、地震が来たらどうするんだ?...ムリムリ!
可哀想ということもあるけど、猫らしさが半分無くなってしまうなんて!...
猫なのに?
だったら猫は飼わなければいいんだ!
だから仮宿ということで...
なんて、そういう訳にはいかないか?
地域猫?
十年くらい同じ顔ぶれの猫たちは、絶対どっかでエサ、仮宿に与ってるはずだぞ!
あれは地域猫か?
苦情とかは聞かないから、ずっとそうして生きてきたんだろう...
昔からそれが地域人民と猫との当たり前の共生の在り方だったように思う...
しかし、一匹くらい私に懐いてもいいと思うんだけど...
な~んて、すぐ外であの可愛くも切ない鳴き声が聞こえてきたらどうしよう?
汚いぞ!、病気もってるぞ!、エサ代かかるぞ!、糞尿の世話は?、メンドクサいぞ!
そうだよ、ほっとけ!...いや、ダメだ!、ガマン出来ない!...あの香箱座りがあ!、手を差し込みたいーっ!
と...窓の外ではいつもの白黒が室外機の上で!...はあっ!、香箱座りか!
と、思う間にそこを踏み台にして壁に上がって、その向こうへと消えて行った...
ああ...やっぱり猫だなあ!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神への、神からの想起

2022-12-27 09:50:07 | 回想
“意識を向ければ、パッと何かが開かれる“、といつも言ってますが、これは何にも無い、考えている私だけからは、そういうことにはならないということなのです。
意識が向いてしまう何かがある...端的に神的なものと言ってもいいですが、それと関わる原体験のようなものを頭の記憶でなく、存在レベルで覚えており、意識的になるだけで自動的に再生されたりするようです。
私は長い間その原体験は、昭和58年夏の初めて”人生の裏側“に踏み入れた、爆発的覚醒体験のことと思っていたのですが、そうとも言えるが、よく考えればそうとも言えない感じなのです。何故ならば、その時キョーレツに実感されたことは、”この神と一なる至福状態“という失われた記憶の甦りだったからです!
これは又、実はそれに遡る昭和54年初頭、初めて現臨感が芽生えた頃にも朧気ながら感じていたことなのです。
それはその爆発体験の時には失われていた訳ですが、その時のこと共々が重なり合ったようなものなのでした。
現臨感を覚えた頃というのは、そんなに著しいものではなく、思考は後退はするものの、機能を失うまでには至らず、その爆発的体験というほどのものでは無いのです。
しかし!...私はやがてどういうことに導かれるだろうことは、それが恒常的に感じられていた、その一年半ほどの間、度々既に知らされていたようなのでした。
それがもっとも鮮烈に示されたのは、昭和55年春、ベルジャーエフの「精神と現実」という本を読んでいた時でした。
“私は思い描いたように、景色を見てるように見えない世界と関わるのでは無い!...この私の内奥と全く一つの世界と関わり、その神と出会うのだ!“、と。
実際にそういう体験を経ずとも、それは既に感じられていたのです!
それは、取りも直さずそういう導きを受けていたということに他なりません。
そして又、今こういうことが想起され、感じることは...あの時、この時別々の時期に、別々の事柄として記憶に甦るのでは無く、この今と切り離されることなく、連綿と内奥に息づいているあるもののことです。
それは、何も無いところから、それに応じるとされる修行などを通じて、より進んだ、高い段階を登り詰めた後得られるもの、という風には導かれることはありませんでした。
ということは、現実にそのようには意識が向かわなかったということです!
意識は、自ずと実存と切り離されない神的なものに向かうのです!
意識的に想起されるならば、過ぎ去った時と現在の間には、如何なる中断、分断もありません。
突出的な著しい体験と認識されることもあるでしょう。しかし、それは連綿たる神とのつながりから離れてあるものでは無いのです。得てして体験そのものに囚われると、それを失ったように感じたりもします。
とにかく、この神的根源的つながりのことを祈りをもって想起され、その息吹が呼び起こされるまでです。
このそもそもの想起は、どこに求められるのでしょう?
それは、思いを超えている!...多分、生まれる先か、“来ない先“からでしょう?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

たとえ、消えたとしても...

2022-12-25 09:40:13 | 回想
昭和54年初頭に芽生え、それから恒常的に続いていたあの現臨感覚は、翌年夏頃突然消滅してしまったのでした。
今思い返してみると、これはホントに驚くべきことです。まず、それが約一年半も当たり前のように感じられていた、ということが!...
最初は一時、何かの神がかりのようなことが起こったように感じていたものでした。ああいうのは、一種の神秘体験なんだから、風のように何かの霊が働いて、同じように去って行ってしまうのだろう...と。
ところがこの裏返しのように、何故あの“私がここに在る”、という生きる上で根本的な在り方を示すようなことが突然感じられなくなってしまったのか?、という思いも過っていたのでした。そんな簡単に消えてしまうものなのか?、と。
そうなってしまう要因は、“根本的なことはそうかもしれないが、人生はそれだけで成り立っている訳ではない!“...当時の私はまだ20代の前半...フツーに青春を謳歌しててもバチは当たるまい!...ある同年代の異性に夢中になってしまったのです。
つまりは、別の方に意識が捉えられてしまったということなのでしょう。
し、しかしですよ!、その後その感覚が復活して、私は何度かあの色香に幻惑されながらも、天罰テキメンとばかりにそれを失うってことは...無かったのですよ!...ま、さほど深い関係まで行かなかったのも確かなんですが...
う~ん、これを考えると、何でそうなってしまったのか?...ワカラン!
え~と、そうそう、その時は大学を卒業していて、就活みたいなことも一応はしていたのでした。して、知らず知らずに社会の風圧も受けていた?...そんな自覚など持ったことないが!(その又翌年実際に社会人になってからは、タンマリ自覚されました)
このように、実に私は別世界からこの世に迷い込んだような、世間知らずなボッチャンみたいだったのです。人生でフツーに学ばなければならないことも沢山あったでしょう。
とにかく、それが見えない導きから来るのか、私の業から来るのか分かりませんが、実に長きに渡って現臨感覚は封印されることになったのです。
再び、恒常的にそれが感じられるようになったのは、平成10年夏頃でした。
その間、昭和62年春、「スブド」なる団体に伝わる「ラティハン」という修練を通じて、ある種のバイブレーション感覚は復活したのですが、深く浸透するまでには至りませんでした。
いやいや、その前58年夏には、初めて神に捉えられて「人生の裏側」に踏み入れてしまったのでした!
長い“冬眠中”だったにも関わらず...これ又何故突然そうなったのか?...サッパリ分からない!
まあ、人生そりゃあ、紆余曲折もあるでしょう?
しかし...今、こうして意識的になって、現臨感に与ってみると...
ずっと消滅したり、途切れること無く、それが内奥に息続いているのを感じてならないのです!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Xのメッセージ

2022-12-24 09:28:17 | 祈りと瞑想
昨日の寒さはさすがにわが身に堪えました!

”Xマス寒波だってえ?...懐も寒いし、ちっとも目出度かねえわ!...
しかし、それも震えながら寝て、夜中に目覚めたら...
抜けた!“

私は一貫して、“祈りと瞑想は切り離すことは出来ない”、ということを言って来ました。
ということは、例えばチャクラを開くこととか、クンダリーニを上げること、覚醒だとか悟りだとかのことは、自分の思い、力を超えたものによらなければ、すべてナンセンスだということです。
そうでなければ、すべては閉ざされたまま、凍り付いたままではないか?...
人生の、私のすべてのことと言っても過言ではありません!
しかし、主は私の思いを超えて(寝てる間に)、通り、臨みたもうた!
目覚めれば、祈りとも瞑想とも付かない世界に入らされていました!

“今日は何の日だ?...おお!
キリスト教徒にも、そうでない者にも
Xマスでも、そうでない日も
主は臨みたもう!
未だ姿を拝したことのない御方...“X”...わが主!
誰にとってもの主なるもの!
主...すべての思いの帰すところ
すべての営みの始まるところ
最後にして最初なるもの...

窓の外は尚暗いが...
夜明けは近い!
たとえ、世界は如何にあろうとも
寒風が吹き荒れようとも
主を望むところに臨みあり!
主の臨むこの世界が我が国土なれば!“


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする