ゆく年くる年…
過ぎて行くものは手放し、新たに生まれるもの、訪れるものは受け入れよう…
私はここ十数年、大晦日と元旦の狭間、午前零時除夜の鐘が鳴りはじめる時を境にして、数十分間祈りとも瞑想ともつかないようなことに身をゆだねて過ごしています。
自宅であろうと、出先であろうと…私はその間半分この世の人間でない?みたいです。
よく考えてみると、そういう事を自分で決めていた、という事でも無く、例年自然にそのように導かれていくようなのです。
そのように身も心も自分を超えたものに委ねるという事は、取りも直さず”手放し”、”受け入れ”というステージに身を預けるという事に他なりません。
十三年前、その大晦日は風邪気味で気力も体力も無く、ホントに一日中寝て過ごしていました。
シンドくて動けないというのでも無く、とにかく何もやる気が起きず、ダラダラ、フラフラとして居たのです。
”何、もうすぐ新年が来るって…どうでもいいがな…どうでもいい一年が過ぎて、どうでもいい一年が始まるだけ…”
と…いう感じで、確かフトンの中で寝っ転がりながら、(如何に無気力神に憑りつかれていたことでしょう)ポカーンと半ばやけっぱちのように身心を預けてみました。
すると…何か雲のようなもの(シェキナー?)が自分の全てを覆うようになったかと思うと、ムクムクと生命力が湧き上がってくるのが、それこそ絵に描いたようにはっきりと感じられました。
十分ばかしの間のことです。そして除夜の鐘が煩悩を吹き払うように”ゴ~ン”と鳴り響くや…
”こうしちゃいられない!”ガバッとフトンから起き上がり…”オオツ!もう抑えきれないッ!”…喜びであふれかえりそう…
こんなにもガラッと変わってしまったことはありません。風邪もどっかへ飛んで行きました。
そして何かインスピレーションが湧いてきました。
”鉄は熱いうちに打て!”この時アリアリと私が実感したことを文章化してみようと思い立ちました。
もう即初めて一気呵成にレポート用紙で二十枚くらい書いたと思います。
特別なメソッドの無い、無為にのっとった祈り、瞑想?それをクエーカー(当時大阪の集会に通っていました)の沈黙の祈りや気功、スブドのラティハン、野口整体などと関連づけて(全くまとまりのないものだったですが)覚書のようなものを書いてみたのです。
この各々には流派、看板のようなものもありますが、ホントのその創始者、指導者というのは目に見えないはずで、名前のついたメソッドなどに固執すると、おそらくその本質は見えなくなってしまうだろう…名状しがたい恩寵、生命力というものがあって初めて、その行法らしきものが始まる…というようなことを強調していました。
気が付いたら外が青味がかってきて、鳥が囀り始めていました…。
私はこの時本当にこの方法無き行法?の素晴らしさを実感したのです。
どうでもいいような年越しが、特別な”その日”になってしまったのです…。
退屈そうで死にそうな方も、苦難を抱えた方も、そうでない方も…誰しもが預かれる形なき”去来”の儀式…
一年に一度自分を捨ててみよう…いや捨てられません。
去るのも、来るのも如来、キリスト…恩寵の光と共にあります。
人皆に新天新地の開かれますように…
良いお年を…
過ぎて行くものは手放し、新たに生まれるもの、訪れるものは受け入れよう…
私はここ十数年、大晦日と元旦の狭間、午前零時除夜の鐘が鳴りはじめる時を境にして、数十分間祈りとも瞑想ともつかないようなことに身をゆだねて過ごしています。
自宅であろうと、出先であろうと…私はその間半分この世の人間でない?みたいです。
よく考えてみると、そういう事を自分で決めていた、という事でも無く、例年自然にそのように導かれていくようなのです。
そのように身も心も自分を超えたものに委ねるという事は、取りも直さず”手放し”、”受け入れ”というステージに身を預けるという事に他なりません。
十三年前、その大晦日は風邪気味で気力も体力も無く、ホントに一日中寝て過ごしていました。
シンドくて動けないというのでも無く、とにかく何もやる気が起きず、ダラダラ、フラフラとして居たのです。
”何、もうすぐ新年が来るって…どうでもいいがな…どうでもいい一年が過ぎて、どうでもいい一年が始まるだけ…”
と…いう感じで、確かフトンの中で寝っ転がりながら、(如何に無気力神に憑りつかれていたことでしょう)ポカーンと半ばやけっぱちのように身心を預けてみました。
すると…何か雲のようなもの(シェキナー?)が自分の全てを覆うようになったかと思うと、ムクムクと生命力が湧き上がってくるのが、それこそ絵に描いたようにはっきりと感じられました。
十分ばかしの間のことです。そして除夜の鐘が煩悩を吹き払うように”ゴ~ン”と鳴り響くや…
”こうしちゃいられない!”ガバッとフトンから起き上がり…”オオツ!もう抑えきれないッ!”…喜びであふれかえりそう…
こんなにもガラッと変わってしまったことはありません。風邪もどっかへ飛んで行きました。
そして何かインスピレーションが湧いてきました。
”鉄は熱いうちに打て!”この時アリアリと私が実感したことを文章化してみようと思い立ちました。
もう即初めて一気呵成にレポート用紙で二十枚くらい書いたと思います。
特別なメソッドの無い、無為にのっとった祈り、瞑想?それをクエーカー(当時大阪の集会に通っていました)の沈黙の祈りや気功、スブドのラティハン、野口整体などと関連づけて(全くまとまりのないものだったですが)覚書のようなものを書いてみたのです。
この各々には流派、看板のようなものもありますが、ホントのその創始者、指導者というのは目に見えないはずで、名前のついたメソッドなどに固執すると、おそらくその本質は見えなくなってしまうだろう…名状しがたい恩寵、生命力というものがあって初めて、その行法らしきものが始まる…というようなことを強調していました。
気が付いたら外が青味がかってきて、鳥が囀り始めていました…。
私はこの時本当にこの方法無き行法?の素晴らしさを実感したのです。
どうでもいいような年越しが、特別な”その日”になってしまったのです…。
退屈そうで死にそうな方も、苦難を抱えた方も、そうでない方も…誰しもが預かれる形なき”去来”の儀式…
一年に一度自分を捨ててみよう…いや捨てられません。
去るのも、来るのも如来、キリスト…恩寵の光と共にあります。
人皆に新天新地の開かれますように…
良いお年を…