人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

進撃しない巨人

2024-09-29 10:19:41 | 雑記
今季プロ野球セリーグ、ペナントレースは巨人が制した!
野球をネタにして書くのは初めてです。
だって、最近のプロ野球面白くないですもん。...
いい選手は、メジャーへ行ったり、他球団に移ってしまう...どうしても全体のレベルは下がらざるを得ない...ポスティング、FA制度が野球をダメにしたと言っても過言ではないでしょう。
今の日本の野球界で、本当のエースと呼ぶに相応しい投手は、10年くらいの長いスパンで見て、巨人の菅野くらいしか見当たらないではありませんか?
ああ、江川、遠藤、小松、北別府らがしのぎ合っていた時代が懐かしい...15勝以下の最多勝投手なんて居なかったんだぞ!...テレビにかじり付いて観ていたもんです。それが今は...やってないとキタ、もう!
そんなだから、アタシャねえ、特別贔屓にしている球団てのは無いんですよ、ええ...
とはいえ、今季セリーグは稀にみる混セで、夏頃から広島、巨人、阪神の3強三つ巴の様相を呈して来て、いよいよ勝負の9月に入って、まず首位巨人と一ゲーム差で追う広島カープの優勝の行方を大きく占う三連戦が10日からマツダスタジアムにて行われました。
この時点で、私はゲーム数が多く、負け数が少ない、カープが7ー3で有利と見ていました。
しかも同球場は、巨人にとって鬼門!...いつも何かが起こって勝利が逃げてしまう場面を何度観て来たことか!
ここで、阿部新監督は、賭けに出る。エース菅野をローテーションを崩して、第一戦にぶつけてきました。そうなると、何が何でも勝ち越さなければならない。もし負け越したなら、後に引きづるだろう...
ということはですね、三連勝、連敗というのは無いと思っているのですよ。普通は!
して、フタを開けてみたら...第一戦は相手投手は最近調子よくない森下だし、これは順当に勝つとして...ちょっとスンナリ点が入り、いつものカープの粘りが感じられなかったのが気になりましたが...
しかし、第二戦は、打てそうで打てないアドゥワがカープの先発で、やっぱり打ちあぐんでしまい、いつも打線の援護の無いグリフィンが少ない失点で耐える、という見慣れたパターン。
これがいつものしぶとく、粘っこいカープの強さなんだ!...8回までは!...
そして、9回には安定感バツグンのストッパー、栗原が登板...万事休すか、これも予想通り?...しかし私は”何かが起こる予感が!...”と言う、ウグイス嬢「うさほー」の言葉を信じて動画配信を観ていたのでした。
すると...本当に起こってしまったではありませんか!...あの栗原がボールを連発!...それもハッキリ分かるボールで満塁から押し出し...挙げ句に死球!、明らかに動揺している、打たれる...負の連鎖は止まらない!、投手が交代しても...して、この回だけで 9失点!
こんな逆転劇など見たことありません。逆転満塁ホームランというのは有りますよ。2000年の巨人が優勝を決めた球史に残る逆転劇とか...あれも四球絡みだったけど、ホームランというのはあり得ることで、それもその時は5点止まりだったのです。
今度の場合、最初の方の得点はまったくバットを振って打った訳では無いのです。
これは、ほとんどカープの自滅と言ってもいいでしょう。
そして、三戦目は、やっぱりそのショックを引きづっているのか、まったく攻守に渡ってカープらしさは見られず、完敗を喫してしまったのでした。
僅か数日間で、まったく別のチームになってしまったようです。それがこれだけで終わらなかった...ズルズルと連敗を重ねて行って、今はBクラス!...何とか負けじと食らいついていった、あの強く、しぶといカープはどこへ行ってしまったのか?
いや、本当に何が起きてしまったのだろう...新井監督は、実に選手思いで好感が持てるだけに残念です。
カープは、本当のエース格も、四番格も居ない中よく頑張った!...優勝争いをよく盛り上げてくれた!...Aクラスになれるかどうか、今の時点では分からないですが、今季セリーグを盛り上げたのは、この3強だったのは間違いないでしょう!
後の1強?...阪神でっか?、しらんわ!...「阪神のことは関係無いです。ご苦労様でした」(阿部監督談)
ウソです。一敗も許されない中で臨んだ、一昨日の同じマツダスタジアムでのカープ戦...やっぱりここは何かが起こる!...エラー絡みのサヨナラ負け!
試合後のセレモニーの間もずっと泣いていた責任投手の村上...可哀想でなりません(ストッパーでもないのに何で君が投げてんだ?)。あれが外国人投手か下柳だったらブチキレ必至だっただろう。いや、甲子園球場だったら暴動が起きていたかもしれない。
阪神もあの試合が象徴するように、打てない、守れないと言われながら、よく頑張った!
結局、勝つのは、エース、四番、ストッパーが確立しているチームってことなんでしょう。
(”あ...”、どこを贔屓にしているのか...とっくにバレてましたね...)
それにしても、このようにペナントレースを通して、打てなかったということもあってか、巨人が進撃した、勝ち抜いた、という感じがまったくしてこないのは私だけでしょうか?
やっぱり大きな分岐点になったのは、あの第二戦なのかなあ?
阪神?、だからしらん!
それはともかく、やらんでもええクライマックスシリーズ(今更だけど、やる意味ある?)是非ともこの3強でやって欲しいです!
そんで巨人はセカンドステージを制して、日本一を目指してと...果たして進撃はあるのか?...
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自我、自己、真我

2024-09-28 09:37:49 | スピリチュアル
前回の続きのようですが、原始仏教では、自己なるものは、他者との関係性によってなるものとし、従って真我、アートマンというものも実体の無いものであり、”無我”ということを強調したのでした。
しかし、それがどういうものであれ、実体が有ろうと無かろうと、私、自己という感覚があるのは否定しようのないものではありませんか?
先の縁起論のようなものに接して、どれだけ肯けるのかどうかは分からないですが、それを聞いて受け入れるか拒絶したりしているのは誰か?、ってことにならないでしょうか?
少なくとも私は、気絶でもして全く意識が無くなってしまわない限り、”私そのもの”を意識していることを否定することは出来ません。その私が真我なのかどうかは別として...
通常、他者(ほとんどは他人、他己)を通して認識している自己は、そういう顔、性格を有している私という個人です。
その私は、もしかして悪い、バカな、ダメな自分かもしれず、あるいは正しく、人より優れた、いやもしかしたら悟って真我に到達した(?)自分なのかもしれません。
しかし、こういうものは言うまでもなく、他人と比較して作り上げた自分像に過ぎないのです。
一方、先の”私そのもの”の自己意識は、他人という鏡を通したものでない、何ら色づけられるものでない、元から在る自分と言うことが出来るでしょう。
これについて、神学者の八木誠一先生は、確か前者は”自我”、後者は”自己”と使い分けておられました。
それで、この真我というものの言い回しなのですが、ます、その自我によって作られた、自分がなりたがっている(本当の自分になりたがっている?な自分!)自分とは、虚構の自分、つまり偽我ということになるでしょう。
これに対し、私そのものの自己は、ダメだろうと、正しかろうと、(こう言っちゃおう!)偽りだろうと本当だろうと、自分の判断を超えた、ありのままの自分という他ありません。(ありのまんまなのだから、受け入れるしかなく、それを疑うことは出来ないのです)
こういう意味合いにおいて、それは本当の自分、真我と言ってもいいでしょう。
それは、今の本当でない自分が到達したりする自分では無いのです。
といって、考えている自分、自我である自分からは、そうなれない、というかそのように在らしめられることは出来ないでしょう。
その自分を超えたものからの光に照らされなければ...というか”超えたものがある”、と認識されることがそう在らしめられることなのです。
だから、真我というものは、神的なもの、その光無しには顕わにならないものなのです。
この意味で、(自我でない)自己も鏡を通して認識されるのでしょうが、その鏡は見えないものであるのは言うまでもなく、神的な見えない他者は、見える他者のような二元的な有り様を超えているのです。(ラマナ.マハルシが説いていた真我も神と切り離されない、このようなニュアンスのものに違いないでしょう)
上よりの光に照らされるまんまが本当の自分!
神無しには、真我の実現は無い!

いやあ、この夏の光の照射は実に強烈だった!...
今は、その光がいよいよ我が内を照らし、浸透されてゆく秋!...


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私以上の私

2024-09-26 09:47:22 | 現臨、ハタラキ
私とは何か?、私はどうしてここに居るのか?...いつも言っているように、そうして意味を追求し、自分で、あるいは誰かが説いているものを通して、ある真理らしきものに到達した、分かった、と思ったとしても、それは理屈を知ったというだけで、本当?の私が分かったとは言えないのです。
いや、”分かる”ということ自体、大体そういうものでしかないのでしょう。つまり分かった自分と分かった対象とはずっと”分けられた”ままだということです。
これは、鏡を通さないと直接自分の顔を見ることが出来ないことと同じことでしょう。
これに従えば、自己以外の他者存在、その関係を通して自己を認識しているということは一応言えるかもしれません。
恐山の禅僧、南俊哉さんは、ずっとこうした実存的な問題に取り組んでおられるのですが、その著「自分をみつめる禅問答」(角川ソフィア文庫刊)を読んでいたら、その自己たらしめる他者と思しきものとして、”非己”という聞き慣れない言葉が唐突に出てきました。
”う~ん”...自己以外の何かだから非己?...これは言葉に表し難いことを表現しているのであろうから、語義に囚われる必要もないと思いますが、だからこそと言うべきか、”語感”というものも結構大事だと思いますよ。
何にせよ、この非己は、多く”他の人”のことを指しているのだろうと思われるのですが、”見えないもの”のことは、あまり伝わってきません。概して著者は、神的なもの、霊的なものといった、形而上的実体と結びつく、そうした超越的存在については触れようとしないようです。
これについて何度も言うように、見えないものにそうした、思念で思い描いたような神の実体や何かの霊体を持ち出す必要は無いのです。
見えないものとは、端的に思いを超えたもののことなのです。
そして、いつも現実には、非己というか他者存在は居なくとも、私というもの、実存というものを意識されるならば、同時に、直ちにこの見えない何かがここに臨む、あるいは私に内在していたものが顕わになるのを感じずにおれなくなります。
「超越的なものと内在的なものは切り離せない」(西田幾多郎)
どう呼ぼうと自由ですが、少なくとも私は、この神的な現臨のことを非己と呼ぶという風には感じて来ませんねえ...
何故ならば、それは私を在らしめるものに他ならないから!
このもの無しに、自己実存は示されないものだから!
私とは何か、私は何故ここに居るのか?、と私が考える先からこのものがある!
”自己は、この見えない他者との関係によってある”、とは、仏教の縁起論のように、一応説明出来ることでしょう。
だけど、この圧倒的な現存、臨在感の前には、それは所詮”私が居て、聞いた”という、説明されたものにしか感じられて来ないのです。
このものは、つまり私以上の私なんだ!...
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今日も書かされている

2024-09-25 09:51:13 | 雑感
少しく自分自身について考えたことのある人なら、自分とは何か?、何故ここに居るのか?、何のために生きているのか?、などのことを問題にするでしょう?
本当にそのことに向き合っているのなら、”ある先生は本当の自分についてこう言っている、ある本では、生きる意味についてこう書かれている”、なんていう所与の定見などで、分かったつもりになり、満足など出来ないはずです。実存的な問題とはそういうことでは無いのです。
といって、考えたからといって分かる、結論が出ることではありませんが!...
私の場合、小さい頃あまりそういうことを考えたという記憶は無いのですが、突然、それまで当たり前のように感じていた、その自分というもの、自分がどこに居るのか、ということが分からなくなってしまったことがありました。
それで、考えようとしたようなのですが、考えられないのです!
周りに居た肉親らにそのことを告げると、”いいか、俺がここに居て、お前がそこに居るんだ、考えりゃ分かるだろ!”と、笑い半分であまり親身になって答えてくれません。
”そう言っていて、そこに居るのは誰だ?”...自己も他己も分からなくなってしまったようなのです。
相手が居るから自分が居る、なんていうのは考えられた理屈に過ぎません。
考えられないんだってば!...”考えてみよう”、なんて悠長なことじゃなくて、生きる上での大問題が起こってしまったんですよ!
”そりゃあ、分離の無い非二元の悟りの境地だっせ!”、だと!、バカなこと言っちゃいけない!
もう、本当に何もかもが立ち行けなくことなんだ!...ただ、自分も他人もない、全体しかない(いや、これは何が全体かすら分からないということなんだ!)みたいな境地を求めるなんてのは余程どうかしてますよ!
おそらく、こういう状態のことは、心療医はナントカ症候群とか言って、ある種の意識障害と看做すのでしょう?...
”おっ!”...と、こう書いてみて、私は由々しき問題が”今”、発生していることに気が付きました。
それは、この今、そういう状態みたいなことになっているということに他ならないのです!
ど、どうすりゃいいんだ!...誰も助けちゃくれないぞ!
聞こえる音といったら、部屋の外で秋の虫の声がするだけ!...
そして、”私はここに居る”...
これでいい!...すべてが立ち行く...
”ただ今、戻りました!”...ご心配なく!
何だか、アッという間のハプニング的な出来事ですが、今日のことは、虫の声が”自分を取り戻す”キッカケになったのでしょう?
でも、それが無くても、そうなりますよ。
私にはね、神様や守護霊様がついているのですから!...って、ここではそういう形而上的な実体を持ち出す必要は無いのです。(私は一応救われたのだから、私が勝手にそのように思うのは自由なんですけどね)
これがつまり、私は一個なる自分だけで生きているのではなく、自分を超えたもの、在らしめるものと共にある、ということなのです。”私が居る”、ということは”私を超えたものが現存している”、ということなんだ!
ああいうハプニングはたまにあるけど、このことは、書こうとするだけでいつもそうなるのです。意識が向かったままのことになるという...
あ、そうか!...実地に分からそうとして、何かがそう書かそうとしたということなのか?(読み手には何だかよく分からないかもしれませんが)
何にしても、こうして書いていること自体、オソロシイような、有難いことなんであります!...



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決めつけないこと

2024-09-23 09:40:30 | 求道、探究
私は時にここで語調を強め、決めつけたことを言ったりすることもあるかもしれません。
言い訳がましいですが、他に向けて何かを発信するということは、どうしてもそういうこともあるものでしょう。結論みたいなこと言わないと閉めらんないし...
でも、私は自由な精神で書かせてもらっているんだし、読み手の方もあまり言い回しに囚われないで、書かれたものはあくまで参考くらいにして、自由な精神でお付き合いしてくれたら、と思います。
その点宗教の世界などは、そういう自由な精神はあまり生かされないようで、信者はただ教師の言葉に追従、鵜呑みにしているだけで、ちっとも主体的に真理の探求などに関わることが出来ないようです。
だからか、私は宗教信者が光明を得たとか精神的に目覚めた、という話はほとんど聞いたことがありません。
それもそのはず、例えば”人間には肉体を超えた霊体というものがある、死後の世界がある、いくつもの霊界の段階がある、前世というものもある...”、という風に頭脳知による知識だけで、先入観、固定観念が精神を支配してしまい、旧い水でいっぱいの器には、新しい水が注がれないように、自分の思いを超えたものからの直接的な”超智”を受けることが出来ないからです。
あなた自身が、本当に直観智で、肉体を超えた霊なるものとの関わりや、自分が元々神的なものと一つのもの、ということを感じたのなら、それは多分受け入れるしかないでしょう。
ただ、私の感じでは、そういうものは、何かの景色を見ているように、思い描いたような言語表現は出来ないのが普通だと思います。
これが言い換えると、決めつけたように言うことは出来ないということであり、そして人の思いを超えているということなのです。
光明を得た、という高僧だとか、ヒンドゥー教の導師の弟子、キリスト教修道士とかは居ます。彼らは例外なく、宗教的なドグマなどから自由であり、主体的に探求に関わっていたはずです。
又、デキアイの宗教信者だった人間でも、光明を得る契機にそれらから自由になったという例もあるでしょう。それもどこかにそういうものを待ち望む心持ちがあったのでしょう。
私はもう正直、何かの比喩的、象徴的な表現ならいざ知らず、見えない世界のことを見てきたように、他に信じ込ませんとばかりに、決めつけたように語られる言葉は、生理的に受け付けないものを感じてなりません。
要するに、思い、為す人間は、すぐ短絡的に結論を求めようとするもので、精神世界という実証することの難しい分野にもそれを求めようとしますが、分からないものは分からないままでいいのです。分からないものを分かったように思い込み、信じ込むから妄信がはびこるのです。
分からなくても、直接感じていたらいい、そういうものを求めたらいいのです。
それは...そう、愛、平安...そういうものでしょう?
今は、教師と信者のデキアイの関係が支配する、宗教世界の時代は終わりを告げ、各人がそれぞれ主体的に真理なり、神的なものを求め、直にその求めているものから光明に与る時代、その秋を迎えているのではないでしょうか?!...

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