人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

愛すべき小市民映画

2018-09-30 12:48:57 | 映画・音楽など
このところ、暇があれば古い日本映画をネットで観ています。
その中で、50年代、円熟期の成瀬三喜男監督の作品「銀座化粧」(51年新東宝)を観ました。
こういう映画は学生の頃は、「小市民映画」とか言ってバカにしていたのですが、全くもって昨今どっちが小市民で、どっちがバカバカしいのか、分からなくなってきました...。
実は20数年前にも一度観ているのですが、ストーリーとかはあまり覚えていなくて、あまりにも淡々とした展開なので、途中で寝てしまったり(笑)で、ちゃんと見直そうと思った次第なのです。
もっとも、この時期の成瀬作品の特徴なのですが、ストーリーなんて有って無いようなもので...
「いやあ、靴を新調しようと思っているんだけど、いつも思っているだけなんだよねえ...」と、他愛の無い会話が延々と続いたり...そして街を行き交う行商人、チンドン屋さん、路地裏で遊ぶ子供たち、ガラガラガラ「こんちはー」...(木造家屋の玄関扉が開けっ放しになってるではないかi)と、ありし日の東京の街の描写が絶妙な間で写し出され、私はこれだけで感激してしまうのです。
この街の風情には微かに覚えがある...そしてこれは確かに私の中に息づいている、現代では見い出すべくもない、かつてどこにも有って、どこにも無いような、ある都市空間を写し出しているのですi 煙突の煙、ポンポン船、なんか美しいような?夕日(モノクロ画面です)...
ということで、これは銀座というには、現代の感覚とは違って、あまりにも場末的な裏町のバー(私が知ってるバーというよりも、広くてホールに近いかも)で、凛として、たくましく生きる主人公の女給(田中絹代)を取り巻く人間模様を描いたお話です。
主人公に比べ、クズみたいな男どもを演じる脇役が素晴らしい。主人公に金を無心にくる落ちぶれた元情夫(三島雅夫)、へたくそなくせに自分でイッパシと思い込んで、長唄を披露する世間知らずなボンボン(田中春男...声といい、現代の名脇役、吹越3つるさんにソックリ)、「君い、分かってるだろう、いーじゃないか(マア、ヨイデハナイカ)...」と、典型的なエロじじい(東野英治郎)...
こういう淀んだしがらみに満ちた人間関係の中で、涼風を吹き込むような空気をもたらしているのが、主人公が妹のように可愛がっている、ウブな後輩女給(香川京子)と、後半で田舎から出てきた文学と宇宙について語る純朴青年(堀雄二)との絡みです。
主人公は昔の女給仲間(戦前、時代劇のお姫様役でよく出てきた花井蘭子)の代わりに青年を東京案内などして、詩をそらんじてる青年に接しているうち、かつて自分も親しみ、心のどっかに眠っている文学気分が呼び覚まされるなどして、「こんな人となら」と、一寸した恋心が芽生える...
しかしある日、元情夫との間に出来た息子が行方不明になってしまったため、急遽妹分に代わりを任せることに...これが思いもよらぬことになってしまう...
一夜を共にして、なんと婚約まで...「あんたを見損なっていたよi」ずっと一緒だったけど、"関係"までは行ってないと言い張る妹...
「そんなこと信じられるもんですかi」「あの人はそんな人じゃないわi」...妹の実直な受け答えにすぐにゲスイ疑いは遠退いてゆく...
「そう...よかったじゃないの...」と、自分に仄かに抱いた夢を諦め、運命を受け入れるのでした...

一寸前まで放映されていたTVドラマ「この世界の片隅に」に、品のいい老夫人が出てきておりましたが、放映が終わってから気が付きました。あの人が香川さんだったとはi
そう、私がこの映画をもう一度観たくなった動機は、香川京子さんに又会いたいということでもあったのです。
この作品でも、同じ頃の小津安二郎監督の名作「東京物語」でも、役名は同じ「京子」さん。
(私は、人生でめったにあることじゃないのですが、特に笑うとその京子さんにソックリなコと会ったことがあります。あれから一年か...以上余談)

私はここに出てくるような人たちとは全然縁が無いとも、全くおんなじにも思えます。
全然人並みに生きてなかったようにも、全く人並みのようにも思える...
ウンザリするような人間関係もイヤというほど知っているつもりです。人間なんて...そう、大キライですね。カフェ?の片隅でずっと詩だとか哲学書なんかを読んでいたい...
でも、私はずっとそんな人間の哀歓が渦巻く都会から離れたいと思ったことは一度もありません。
ウソのようにしがらみから解放された人間関係も僅かに知っています。
そんなこんなも思い返せばすべてが懐かしい...愛とおしい...


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本来的な幸福

2018-09-28 16:57:51 | スピリチュアル
今朝、ふとあるはずのお金が無くなっていることに気が付きました。
"んもう、何だって月末に限ってこんなことが起きるんだよおi ああ、もうこれで今日の不幸な一日確定i..."
と、五分間くらい、いつものドタバタ劇場をやっていたんですが、"あ、そうだ、あっこのメシ屋で釣り銭取り忘れていたんだ! ややこしい券売機めi"と気が付き、無事に何百円という"大金"を取り戻すことが出来たのです。そしてささやかな今日の幸福な一日?も...

このブログにいつも熱心にコメントを下さる苦集滅道さんが、ご自身のアメーバブログで「幸せとは容易である」というテーマで、書かれておりますが、まっことにその通りだと思います。
自分が自分であることで、生きて、生かされていることで幸福でない訳がありません。
このことに関して、人生には幸福もあれば、不幸もあるものだとフツーに思われていますね。
しかし、その"どっちかしかない"ってことは多分無いでしょう。
じゃ、どっちでもない時、どうなっているかというと...幸福なのではないでしょうか?
苦集滅道さんが「苦が無い時は、幸せとも思考に上らない幸せの中にいます」と言われる通りです。
これが何にも無いのに幸福であること...立ってても、寝てても幸福、自分がどうこうでなくとも、小鳥がさえずり、子猫が鳴いているだけでも、夕日が美しいだけでも幸福なことなのです。
これは"得られなければならない"、"そうならなければならない"、世の人が"そうである"と言っている幸福に囚われていたら、気付けない本来的な幸福のことです。
その幸福を感じている自分が居なければ、"自分にとって"の幸福が無ければ、そも幸福なんてものはどこにもありません。
不幸というものも勿論そうなのですが、このことからそれは、ひっきょう"不幸な思い"ということに気が付きます。
"あん時は苦しかった、悩ましかった"と不幸な日々を思い返してみると...正に不幸な日々、不幸な一日があったかのように思えてきます。
しかし、朝目覚めてから、夜眠りにつくまでずっとそんな状態になっていたでしょうか?
確かに私も思いががんじがらめになって、うつ病みたいになったこともあります。
それでもその間、心の隙間に涼風が吹きこんだことも、そこから憂愁(これは私には、固有に強く根付いている幸福感とつながっています)を呼ぶ夕日を見ていたこともあったのです。
そのことは、この本来的幸福を身に覚えて(これは表層的思いに比して、より身体的と言ってもいいかもしれません)いることにより、際立ってきます。
そして表向きの幸、不幸の事態に関わらず、ずっと私の深部にこの原初的幸福が貫いていることが知られるのです。
それはしかし、中々人生の表側には上って来ることがなく、気付かないものであるのも事実です。
知らず知らずに不幸、苦難に襲われ、覆われてしまうのも人の世の常というもの...
それでも幸福であることは容易いことですi "現臨に意識を向ければよろしいi"(出たi マジックワードi)...いや、神に祈る、最善、最愛のものに思いを向ける、一番幸福だったことを思い出す...(意識とか思いの違いとか難しいこた言いません)
"そんなんでどーにかなるのか?"...ウソのようにどうにかなってしまったことは、私にはしょっちゅうあります。
意識の表層とか深層とかを超えて、原初的なものが、立ち上ってくるのです。これはもっと包括的なハタラキと言ってもいいでしょう。
そして本来的な幸福をさらに際立たせるものです。
まあ、それも不幸や苦悩というものがあるから、感じるものではありますが...それもこれも本来的に幸福ってことなんでしょう。

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もはや、疑うことが出来ない

2018-09-26 17:02:33 | スピリチュアル
十数年前、知り合いの紹介でスピリチュアル.ヒーラーのSさんという人と会ったことがあります。
聞いたら飛び上がるほどの高額で、数々の難病を治癒してきたそうです。(別にそのことは疑っていません)
この人が私が余程ちゃらんぽらんな人間に見えたのか、私を"教化してしんぜよう"みたいなことを言い出して、その常に上から目線の態度に不快感を覚えながらもしばし付き合ってみました。
そしてここでその精神的遍歴について書いていることをありのままに話したら、その先生「何というデタラメな歩みであろう...」ときました。
"あのな...人が勝手に迷ったり、学んだり、バカこいてることなんだから放っとけi"と頭に来て、「あなたは霊能だとか、人が分からないことをいいことに、余計な先入観で人を縛って、コントロールしたり、支配しようとしているんじゃ無いのか? 僕はその手には乗らんぞi」と噛みついたのでした。
前世だとかカルマとか背後霊なんかのことはいくらでも疑うことが出来ます。(いや、疑わなきゃダメじゃないの?)そして"オラ、オラ、どや、こや"とやってて、「じゃ、あなた、疑えないものっていうのがあるのですか?」と訊いてきたので、「あるともi」と、私がそのものを目の当たりにした"覚醒体験"に話が及んだのでした。
ここで語っているような"現臨"とかいう表現は一般に認知されてないので、"光の存在"とか"守護の神霊"というもので、その導きをもたらしたものを説明したと思います。
といっても、何度も言うように、私はそこでヴィジュアルなもの、導きとはいえ、そういう声のようなものなどの感覚につながる一切のものには触れていないのです。そして見るもの、聞こえるものにも増してリアルなものがあることを示されたのです。
その先生はそれを聞いて「それは邪霊の作用とか幻想ということは考えなかったのか?」と訊いてきました。
まず、言わなければならないのは、その渦中にある時、疑い、迷い、又信じようとする一切のことは不可能だったのです。
"疑えない"という形容の話では全く無いのですi
これは思考機能を失ったことと直接つながっていることで、否定も肯定も出来ないのです。
どうしようもないことであり、もうただ選択の余地もなく、そのままを受け入れるしかありません。
で、その意識の変容という事態から現実世界に戻って、そのことを思考を巡らして疑念にかけてみると...今もなお"あれは幻想かもしれない"というものは残ります。でもその一方で常に内奥に息づいているのは、ある種の揺るがぬ"絶対信"というものです。
"よしんばそれがサタンの企み、幻想だろうと、疑えないものをどうしようぞi、向かう先は地獄だろうと、私は無条件にそこに赴かざるを得ないではないかi" 選択の余地がないとは、思いを超えて惹き付けて止まないものがあるということです。
そんなことを話しているうち、その先生と無事に気持ちが通じることが出来ました。
私自身が"唯一絶対の真理"と感じているのは、こういうものです。
これはいかにも論争を呼ぶような言い方であり、さも私がそういう境地に達したように思われる人も居るかもしれません。
いや、私のエゴはそう思いたいのです。しかし、その境地を掴んだ瞬間、それは凍結し、生きたものとはならなくなるでしょう。
そして、おそらくその現臨とのつながりは絶たれ、私の存在理由も無くなるに至るでしょう。
これはそもそもどうともならない私のエゴがそこで砕けた(無くなったという意味ではありません)ということを物語っているのですから...
この意味で唯一絶対の真理というのは、無いとも言えるし、それっきゃないとも言えます。どっちみちその他大勢の世の中とは関係無いでしょう。多分...
そういうものにおもねりたくない、私とあなたにしか分からないのかもしれません。
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唯一絶対の真理?

2018-09-24 11:04:59 | スピリチュアル?
先日、人気スピブロガーAさんの記事を読んでいたら、こんなことが書かれていました。
"私という個はない、全体しかない...みなそこから一歩も動いていない..."
これは、もう耳タコくらいお馴染みなので、いつものマントラみたいに思ってればいいのですが、次のときたら...
"これが唯一の真理なのですが、このようなメッセージが人に届くのは稀です..."
あったりめーだろi 誰がんなもん、真に受けるかってんだi
唯一の真理というものが、何故その他大勢に届かないのか? すごーくオカシクない?
それはAさんが(その追従者もそうかもしれない)、それが唯一の真理だと思い込んでいるだけだからですi
彼はその他大勢に受け入れてもらいたくて、そういうこと言うのかもしれません。
で、時に量子力学なんかを持ち出しては、その客観的、普遍妥当性に訴えようとしているようです。
もう、こういう目論みは宗教の狂信者と同じで、その界隈はムチャクチャになるだけでしょう。
私も時に御大層にも、真理らしきことをここで語ってしまうこともあるかもしれません。
でも、何回も言います。それは所謂普遍妥当性、客観的真理とは直接関係ありません。
あくまで私個人が"感じたこと"を言い表しているまでです。
ちなみに言うと、私は、"私という個はない"という、感じになったことはありますが、"全体しかない"という感じになったことは一度もありません。全体という一つの枠のように感じるものは、私という枠のように感じるものよりも、はるかにリアリティを感じさせません。
"全体主義"というものから感じるものならありますが...私が前記のことから受けたものも絡めて、そういうものを何だか感じてきます。
いずれにしても、こういうことはあくまで感じたことなのです。私個人の主観と片付けられても仕方ないことなのです。
これに、唯一絶対の真理みたいなことを持ち出すからオカシクなるのです。
とはいえ...私自身"これが、唯一絶対の真理だi"と感じているものは確かにありますi("それは、こうです"と言い表せないのですが...)
それはそう感じているまでであって、あなたに当てはまるかどうかは分からないのです。
ましてやより多くの、その他大勢のことなど...放っときゃいいだろi
それを自分以外の他に及ぼそうなどというのは...救い難い愚行と言わずして何であろうi
私はただ、口はばったいですが、皆さんには、これを読んでいるあなたには、中途半端な他人のほざいてる"ご高説"(私のも含めて)なんかに迎合などしないで、あなた自身が"これが、唯一絶対の真理だi"と、感じるものにぶつかって行っていただきたいですi
ということは、あなたがそう感じたもの以外に"唯一絶対の真理"というものは存在しないということですi
感じるものというのは、全くもって人それぞれです。
もしかしたら、感じ方は違っても各々の"唯一絶対の真理"のステージでは、同質の、同一のステージに立っているかもしれないのです。
少なくとも、そこに何らかの共感、共鳴というものはあるものと私は確信しています。
それが普遍妥当性ならぬ"普遍性"と関わるものなのでしょう。
結局人はそれぞれ好き好きに、一にして普遍的なことに赴かざるを得ないのかもしれません。
そういうことを感じるまでです。
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窓を開けよi そうすればどうにかなる

2018-09-23 11:03:18 | 求道、探究
昨日、さあ出掛けようとした刹那のことでした。
"あっ、メガネが無い、メガネがなああーいっi...くっそー、こんな時に何で無いi どこへ行きやがったんだああi..."
と、こういうことは一度ならずあることです。さらに物をほおり投げた際、ケースのガラスを割ってしまいました。
"誰だi こんなとこにケースなど置きやがってi(私しか居ない)"
もう、"ザ.クラッシャー"と化して大変な騒ぎなのでした。
そうですi 私はすぐ感情を顕わにして、取り乱してしまいます。"悟った"とは程遠い人間なんですi
むしろ、子供がそのまま大きくなってしまっただけの進歩も、成長もない人間と言ってもいいでしょう。
少しは反省とか、克己的に努めようという気は無いのか?...
まあ、ちっとは...しかし..."どうして私はこんなんだろう...ダメじゃないか、エゴに翻弄されてばかりで..."
なんてことをウジウジやっている間もなく、昨日の東京の天候よろしく、雨模様から急速に雲間から日が差し込んだように、カラッと何事もなかったように、後に退かなくなる...そういうゲンキンなところがあるのも私なのです。
もう、"ちっとは大人らしく"とか言われても、それを通り越して、トシがトシなだけにこの性格は直らないでしょう。

それでも、昔の私はこんなじゃなかったのです。"クラッシャー、ハカイダー"であって、又、"これでいいのか、ダメよ、ダメ、ダメ(あの女性芸人コンビはどこへ行ったのか? 名前も忘れてもた...)"といつまでも頭から離れなくなり、それが高じてきて何日も思考のガンジガラメ地獄にハマったりしていたのです。
この先のことは分かりませんが、30年ぐらいそれとは御無沙汰しています。
見えざる、声なき声の促しをしばしば受けますが、"ダメじゃないかi そこを改めなければ...ああしなければ、こうしなければ...どうなっても知らんぞ..."というような感じのものはほとんど受けたことがありません。
むしろ、"どーでもえーがなi"という感じで、どんなに日常で私がおバカなことに、ハチャメチャなことになってようと、関知してないようなのです。
ただし...こういうものは常にあります。"私が共にあることを忘れてはならない...僅かでもいいから、私が通る通路を開けておいて欲しい、隙間でもいい、風を通せi 窓を開けよi そうすればどうにかなるi"
このどうにかしようとしても、どうにもならないポンコツのことよりも、どうにかなる、いやそれが無ければ、どうにもなりようがない土台があることが肝心なのですi
微かな穴を通じても光は差し込み、命の風(プネウマ)が吹き込んできます。それは微々たるものであっても、元々の光、風の質は同じなのです。
その漏れ日、隙間風のようなものが時に、万倍にもなり充満(プレローマ)してくるのです。
そして、その命の土台あっての私だということを知らされます。
そのことを目の当たりにし、日常に戻りつつあった時に、哀切にも似たような感じで声なき声は、"私のことを忘れないで欲しいi"と告げたのです。
それから後、深刻なガンジガラメ地獄にハマってしまいました。覚醒という体験自体に囚われてしまい、私の命の本体を蔑ろにしていたからでしょう。
秋風が心地よく感じる今日この頃、そのことを強く見に覚えます。

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