人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

旧年と新年の間に

2014-12-31 18:48:33 | 哲学・思想
ブログを初めようと思いたったのは、この夏半年ぐらいかけて書いていた小説風の作品を書き終わり、「結構文章を書くのって楽しいな」と感じ出したからです。
パソコンの不慣れをも顧みず、もう手さぐりのままやり始めたのですが…。
過去記事を読み返してみると…
「こりゃあ、当初考えていたものよりも…重たいな」と思うところも見られます。
丁度御嶽山が噴火した頃、導火線に火が付いたようになりました。
今は鎮静化したようですけど…
ホントはもっとライト感覚なものになる筈だったのです。
今後はあまり揮発性?に富んだものばかりでなく、そうしたものも織り込んでいきたいと思っています。
こうして試行錯誤しながら書いているうち、内心感じていたものが段々明瞭になってきました。
それは他者への発信ばかりでなく、自分自身のために書かされている、ということです。
この二か月半の間、いくつか迷いが生じたのですが、書くことにより吹っ切れることが出来ました。
又、正直そんなに確信を持って書いてるとは限らないのですが、後になって「ああ、こういう事を書いてたんだあ…」と体認させられることも有りました。
いずれの場合もより自分自身に向き合おうとして、開かれたようです。
そこから何かが外されたように感じました。
縁ある皆様も自由な感性でおつきあい下さればと思っています。



狂おしき都会の喧騒、呪わしき関わりの縺

残酷なまでに迫りくる現実に

信じられるもの、拠り所を失った天使

翼をもがれた天使

別天地を夢見て舞い降りた世界とは

こんなものだったのか…

僕たちは為す術が無いのか…

でも僕にはまだあの暁が見える

漆黒の闇が紫色に変わる

小鳥の囀る声がする

僕には何も出来ないけれど…

感じられるんだ

白と黒の猫たちに誘われて

秘密の扉に佇めば

無垢な声と共に開かれる

魔法と驚きに満ちた

裏側の世界…

死んだ都会も蘇るだろう…


良いお年を





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神と共にあること

2014-12-30 22:09:03 | 
他人事みたいで恐縮ですが…世の中世知辛い為か、悩みを抱えている人が多いですね。
当然のことながら、精神世界系の交わりにはどうしたって悩みを訴える声に接します。
その中でも人間関係にまつわることが圧倒的に多いですね。
お話を聞いてると「そんなに悩まなきゃならないかなあ?」と思う事も最近は多々ありますが、まあ、人様の苦労のこと、私のあずかり知らないことです…。
そういう人たちにとって、多分当ブログはほとんどお役に立たないんじゃないかな? などといつも書きながら思っています。
何故って…悩み解決の方法、こうすれば、上手くいくといった、明確な道しるべのようなものはほとんど提示してないからです。
その理由の一つは、そういう悩みの解決に答えてくれるであろうお役目の方は探せば沢山おられるだろう、ということです。
私なんぞ、凡そそういうニーズにお応えできるような、順風満帆とは程遠い人生を送ってきましたもので、気まぐれに自分の好きなように、好きな事を書いてるだけなのです。
それに私も人並みに悩み事も数々有りましたが、ある人が示すその解決法に従って見事悩みをクリヤーした、という経験は全く記憶に無いのです。
この事に関して私がずっと経験してきたことと言えば…
神に意識を向けてたら、勝手に悩みが私から離れて行くという事です。
祈りとか瞑想のことを書きましたけど、つまりはこういうところに導かれんがため、と言うか…それをしようとしなくたってそうなっちゃう…
(あ、またしてもこうして、ああしてという手順がスルーした…)
何もここでは、瞑想の深い境地だとか、覚醒とかワンネス体験の事など書くつもりはありません。
神に意識を向けてたら、有難い気持ちになって、意識も昂揚して来て「一体僕は何を悩んでいたのだろう?」と言う具合になるのです。
これは神の臨在感というか、神(勿論どのように呼んでもいいです)と共にあるといった感覚です。
私の場合、そういう経験を通じてどっかにある種の回路が出来てるようで、感覚的に覚えているのでフリーパスのようにそうなるのです。
身に覚えると言ってますけど…
悩みにある時、人は今不幸なので、幸福になりたいと当然思う訳ですね。
そしてこうなりさえしたら幸福になれると…
(これはスピ系人生相談ではおなじみですが)幸福、不幸とはそもなんでしょうか…?
自分が幸福と感じる、不幸と感じるという事以外の何物でもありません!
世間の人がいくら「あなたは不幸ですね」と言おうが、「いいじゃないの、自分が幸せならば!」
もし世の人が私の人生を概観したら、おそらく幸福な事など唯の一度も無かったように映るかも知れません。
そんな人間が「こうすれば悩みは消えます」とか「幸福になります」なんて言ったって説得力ゼロでしょ!
でも神の臨在感にある時、状況はどうあれ私は幸福でいられるのです。
世の人には理解出来ない事でしょう…人生の表側しか知らないから…。
そして神、大いなる命、サムシング…名称はどうあれ、意識がこのものから切り離されたら、本当の幸福を見出すことは出来ないでしょう。
個人の問題のみならず、今世界が人類が抱えている問題の数々、それはどこに起因しているのか?…これも自明のことです。
個々の平安も世界平和も、我々の意識が神と結びつくということを離れては生まれないのです。
しかしながら多くの人は、いかに神仏を、この世的な成功、世間的幸福、世界平和の実現等々のことに知らず知らず利用して来たことでしょう。
その実現の目的に捉われるや否や、臨在感そのものから意識が離れてしまうにも関わらず…
これは何もご利益宗教の事ばかり言っているのではありません。
日ごとの修行、信仰生活、奉仕活動、さらには悟り、神秘体験といったものですら、それ自体が目的となった時、こうした誘惑から免れえないでしょう。
意識が今ここにあることから外に向けられ、客体化、対象化してしまうのです。
そりゃあ、世の中色々あって神と共にあることから離れたり、それを忘れてしまう事も有ります。
でも何を悩んでいたのか…忘れてしまう様な経験は忘れられません。
いや、人生における全てはここから離れる事はあり得ません。
何故ならば、生きることは命と共にあることなのですから…。




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祈りと瞑想

2014-12-28 14:16:02 | 祈りと瞑想
「祈りとは願い事では無い。神との交わりである。」
           (サンダー・シング)

私には精神的な道を探究し始めた当初から、祈りと瞑想は二つ別々のものでないという認識が有りました。
それがどこから来るかと言うと、初期の頃関わっていた、五井先生が提唱された世界平和の祈りは、教団の行事として行われる時は、ほとんど「統一行」というある種の観行、瞑想とセットで行われていたというところから、のようです。
私は白光会へ行ってる時以外、そんなに熱心にその祈りや統一をしていた訳ではありませんでした。
祈りと言ってもほとんど我流で「御心のままに導き給え」といった心持ちで祈っていたものです。
そんな中で、出会ったのがサンダー・シングの本でした。
それは私がキリスト教関係のもので、まとまった形で読んだ初めてのものでした。
サンダー・シングは戦前来日したことも有るという、インドのキリスト教の神秘家で、スエーデンボルグを彷彿とさせるような入神、見霊体験も伝えられていますが、私には「ターバンをまとった祈りと瞑想の人」という印象です。
彼は言う「祈りとは呼吸である。人は食べなければ生きていけないように、祈り無しでどうして生きていけよう…」
ここでは祈りというものはもう、何をどう祈るとか、祈りの文句は…などと言うこと以前の、我々が活きる上での大前提として捉えられています。
ところが彼の語る祈りとは「静かに神の訪れを待ち、交わり、語らう…」というほとんど瞑想と区別の付かないものなのです。
真に宗教、精神的な道では祈りと瞑想というものは、有り様はそれぞれながら不可欠のものです。
日本仏教では御存じのように、祈りは浄土系仏教、瞑想は禅仏教がそれぞれ対応しながら発展してきました。
これを前者は他力、後者は自力と対応する事も出来ます。
しかし、前述したようにこのように区別など出来るものなのでしょうか?
この点について、仏教学者の玉城康四郎先生は「ブッダにまで遡ってみると、念仏と禅定の二つが一つになっているのではない、もともと一つである。」
と根源に立ち返ったところでの理解を促しておられました。
ちなみに念仏と我々が理解しているものは、あくまで称名念仏のことであり、法然や親鸞が鎌倉時代に普及させた念仏の一つの形であり、本来は文字通り、阿弥陀如来などの仏の姿、浄土世界を憶念するもの(幾分イメージ瞑想に近いものと拝察される)で、瞑想と一体のものである、と指摘しておきます。
自力という事についても、道元などが強調したのは、「念仏してるからもう、救われているんだ、何をやってもいいんだ」という当時の浄土系仏教者の安易な、
堕落した生き方への反発からだった、ということも知っておく必要が有ります。
玉城先生もどっかで言っておられたように、道元の言う「万法に証せられる…」とか「心身脱落、脱落心身」などという境地は形なき命、ダンマの裏打ちを物語っていると思います。
私は常々この自力というのは、自分の力というもので無しに、「おのづからなる力」と捉えたくなります。
自分の力からは、このような自分を超えた領域には導かれ得ないと思われます。
いかがなものでしょうか?

祈りと瞑想、意識が我々を包み、導く恩寵の光に向けられる時、そこにおのづと祈り的意識状態が生まれます。
又我々の内面に意識が向けられ、内側から立ち上る息吹を感じていると瞑想的意識状態が生まれます。
ここには微妙な意識の異なった流れが有るのみで、厳密な区別などありません。
やがて、そこには全く区別のつかないサムシングが顕れます。
内も外も、自分も世界も無い…一なるものです。
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不思議なZENTAXI(その3)

2014-12-26 17:07:35 | 創作
今年の師走はやけに寒いです。
地球温暖化だとかで、年々暖かくなっていく傾向にあるのかと思いきや…35年前の冬は暖かったです。
私の中も…それが一体何処から来るのか、とんと自覚なんかしてなかったですけど…。
しかし、今頃アイツ(35年前の私)は寒空の中で途方に暮れていることでしょう…突然私が蒸発してしまったので…。
どうやら、いまに帰る際も全託が必要らしく、あのようなのっぴきならぬ事態が起きて、お手上げ状態になると自動的に戻ってしまうらしいのです。
彼の事が心配なので、何とか戻りたいものの…私はどうやったら全託出来るのか、思うようにいかなくて途方に暮れていました。
ゼンタクッ、ゼンタクッ、といくら意識を強めて、あくまでそれは「全託したつもり」なだけで、天には認められないようなのです。
つまりいくら頑張っても、頑張りようが無いのです。
こういう場合、又思わぬ事態とかが有ればいいのだけど…「苦難よ、困難よ我に来たれ!」なんてのは白々しいだけです…。そんな気持ちばかり空回りを繰り返して数日経ち、全く思いがけない形で35年前に戻ることが出来たのです。
ことわざにも言います。「果報は寝て待て」と…
私は寝てる間に何か素晴らしい夢でも見てたのか、私の心身はいつの間にか素敵なバイブレーションにつつまれ、全託した状態になっていたのです…。
そんな訳で何とか又彼のアパートへ行くことが出来ました。

―いやあ、元気か…
「…元気かも何もないよ!驚いたのなんの!突然工藤俊作(ドラマ”探偵物語”で松田優作が演じていた主人公)みたいに消えちゃうんだから…警官からはクスリの常習犯をどこへ隠した、なんて事情徴収されて…大体オジサンがどこの誰かも分からないんで、何聞かれても答えようが無いし…結局人違いだったという事で何とか済んだけど…オジサンは全体何者なの?オヤジ以上にオヤジみたいだよね。」
―そういう君こそ、セガレ以上だよ…君にもしもの事が有ったら、すぐに飛んでくるつもりだ。君の運命は私の運命と同じなんだからねえ…
「仮にオジサンが守護霊の応現だと聞いても今の僕は驚かないよ!この春ぐらいからずっと、何だか何者かに導かれてるような気がしてしょうがないからね。」
―守護霊でもパクられるのか? ハハハッ…
「オジサンが貧乏神でも祟り神でも何でもいいよ。こういうなんて言うか…昂揚した気分がずっと続くんなら…
―…そ、そうなんだよ…なんとかそれが自然消滅しないで済む方法は無いのかなあ…
「エッ、自然消滅しちゃうの?」
―いやあ、まだしばらくは大丈夫じゃないかなあ…まあ、ねえ…君も若いし、色恋だとかの煩悩もあるだろう…あまり、そのお…ノボセないことだよ。
「僕は今のところそっちの方はあまり興味無いね。こないだの文化祭でも「一緒にキャッチボールでもしませんか~」なんて誘われたんだけど…そんな気分にゃなれなかったんで…。」
―あ、あれか~、惜しいことをしたものだ…
「エッ、なんのこと?」
―い、いや、なんでも無い…運動神経がもっとあれば、バットを振るう事も出来ただろうに…
いや、そんなことよりだ!何時も何時も、その昂揚感とか有難い気分がどこから来るのか…そういう事を意識することだよ。
「僕は最近、こう特別な祈りとかするんで無しに、思っただけでそんな気分になる事が有るよ。」
―だろう¡…だからこそ自然消滅することなく行けば、今頃私は…(いや、よそう、それは帰ってから考えよう…)
ところで君は来年卒業だろ、就職するんだろ…
「卒業出来るかどうか分からないよ。就職のことも具体的にはまだ…」
―大阪の方へ就職してみる気は無いのか?
「ヘエ…僕は実は来年あたり、関西の方へ行ってみたいと思っていたんですよ!と言っても就職とかのことじゃなくて…播磨の方にD会という宗教でない、宗教のような…生活共同体のようなのがあって…オジサンが前に言っていた、僕と何かの因縁が有るというのは、この事じゃないかと、オジサンが行方不明の間ずっと考えてたんですよ。」
―D会…聞いただけでなにものかが身に覚える…青年よ大志を抱け!…ま、今のうちにせっせとお金を貯めておくんだな!…君はこの一、二年の間に
奇しき縁によっていくつかの出会いに導かれた。それは全く仮初のものでなく、
全てが因縁の綾によって結ばれていることが日が経つにつれて実感されていくだろう…。
「ぼ、僕はもう、話を聞いてると魂が揺すぶられているようで…。」
―ウーン…私も震えが止まらない…我々はクエーカー教徒(震える人たちの意。キリスト教の一派)か…そ、それにしても寒いではないか!隙間風は何とかならないのか!
「もう、暮なので業者は来てくれないんだよお…」
―工藤探偵事務所より悲惨だなあ…

こうして金も無く、侘しく年は暮れて往くのでした。あの時も今も…何もないけど概ね幸福かな…。正月はどっちに居るのか分かりませんが…

年の瀬に 大都会暮れて 異邦人
    〈昭和54年暮れのヒット曲にちなみ)



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人格、聖霊、キリスト

2014-12-23 12:13:58 | キリスト教関連
「キリストが我々に教えに来たのは、彼が何者であるかでなしに、我々が何者であるかという事です。」
                     ( マックス・ミューラー 人生の夕べに)

私がこのところ、どうしても釈然としないと感じていることについて書いてみます。
「一なるものから分離した人格なるものは幻想である。不幸や苦悩はそこから起こってくるのである。」これ所謂不二一元論者(敢えてこう表現しますが、私見ではそのように語る個人は存在せず、又この世にそのような学派が存在するとは思えないのですが…)好んで使う言葉ですね。
自分がどの国に生まれ、どこの家に生まれ、どこの学校を出て、どんな仕事をして、何の宗教を信じて…
こういうものから自我の確立、アイデンティティというものが生まれ、そして各々がその存在意義といったものに捉われ初め、一なる生命からの分離感から諸々の苦悩、不調和が起きてくるという訳ですね。
この人格なるもの…これを巡って如何に我々の理解が錯そうされてきていることでしょうか?
宗教哲学者N・ベルジャーエフは、人格のもたらす意義について、熱く語っています。
「人格は人間の内に宿る永遠なる神の姿である。人格は人格より大きい何者かの一部分ではなく…(中略)この世におけるすべてものに比べても勝るとも劣らない全体である。」(ベルジャーエフ 人間の運命)
同じ人格として語られているものでも、そこには天と地ほどの開きがあるように思われてなりません。
後者が述べているのは、まるで不二一元論者が語る真我の事かと紛うくらいです。
前者で言われているのは我々の外被、装飾、付属物であって、我々の当体のことではないのです。
我々の当体は個であっても、一にして全体、絶対なるものを宿しているのです。
全く掛け替えの出来ないものたる所以です。
それが幻であるかどうかは、覚者に聞くより、貴方自身で確認すべきものです。
そうでないと、いたずらに観念的遊戯に陥るだけです。
この種の錯そうが物語っているのは、取りも直さず我々が本当の自分が分かっていないからだと思います。
この世のありとあらゆる問題の全てもまた、そのことに起因しているでしょう。
何故ならば、宇宙も、世界も、歴史も、神も…それを見ている当体が、自分自身がなんであるか分かっていないのだから…。
ところで孤高のキリスト者ベルジャーエフは、当然異端扱いにされるでしょうが、自称正統なる教会では我々の人格のみならず、神もまた人格を有すると言います。
我々と同じように神は怒り、歎き、お喜びになるのだと…聖書に何が書かれていようと、エライ人が何を語ろうとその真偽のほどは神に直接聞かないと分からないでしょうね?
でも別の意味で私はこの人格神というものを否定する気になりません。
波動、バイブレーションといったものを通して、この現臨の現れを知らされるのですが、それがもたらす強烈なインパクト、リアリティというものは到底
気、とか波動といった力学的表現では言い尽くすことは出来ないからです。
ある人間の存在感を表しているものは、何かと言ったら私はペルソナ、人格だと思います。
同じように圧倒的な実在感というものを醸し出しているものとして、人格だか神格?みたいなものを想定してみたくなるのです。
キリスト教に無くてならないものに聖霊と呼ばれているものが有ります。
それには人格が有るのか、無いのか議論が有るらしいですが、その表現から来る響きには確かに力学的なものを超えたインパクトが感じられます。
何よりも親近感が違います。
私は最近、この現臨感というものがどこから来るのか…おそらく光が内なるものを照らし、そこから発してくるものに反応しているのかも分かりません。
聖霊は又パラクレートス、助け主とも言いますが、私はこの恩寵の光を切に望みます。
彼は我々の無益な錯そう、議論にピリオドをもたらすでしょう。
彼が生きて働くとき、我々が何者か知ることが出来るでしょう。
真に我々が目覚めれば、世界は変わる!
もうすぐクリスマス、どこかで神の御子が誕生しますように…。
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