人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ダンテス愛を語る

2024-07-10 10:10:26 | 人生の裏側の図書室
「じゃあ、おとぎ話をするよ。ええとね、今から三万年前の話」
...という語り出しから始まる、ダンテス.ダイジの講話録「十三番目の冥想」(SCL刊)を読み直してみましたが、その冒頭部分は、現代を生きる我々にとって、いや、すべての人間にとってと言ってもいいほど、実に大切なことを示唆していると深く感じ入りました。
これは、リチャード.バックの小説「イリュージョン」中の詩的な挿話「救世主入門」を解説したもので、彼の名前に由来する、「ダンテス」が三万年前の伝説の大陸アトランティスの時代に活躍した人物だったことからそのように話が展開されたのです。
勿論、アトランティス大陸が実在したかどうかは確証出来ないし、その話の内容も神話じみています。
その伝説の大陸がどうして沈没してしまったのかという経緯もエドガー.ケーシーの本だったかで、真偽はともかく私も大体のことは知っています。
それは、念力とか精神的な力が偏って強大になり、不調和を引き起こしたためとされます。
しかし、ダイジが言うには、元々はそうした力は、愛に基づいて成り立っていたと言うのです。
愛は容易に忘れられ、失ってしまうのか?...「その愛なんだ。これが一番確かな実在であり、同時に全てなんだけど、最も忘れやすいものなんだ」(同書より)
さらに、ダイジは、愛の性質についてトクトクと語り続ける...愛は咲いた花のように周りに振りまくが、愛してくれ、などと強要したりしない。
愛するかどうかは人まかせで、人が愛から離れても文句は言わない。
それは、愛から離れた何かの力によって、愛を蹂躙したとしてもそうなのでしょう?
アトランティスの晩期、高度な精神的な力は発達したが、それと共にあった愛は切り離され、失うに至ったのです。
愛を失った、分からなくなった!...それは、心の安らぎ、それから切り離された知性からでない、本当のリアリティというものも分からなくなった、ということでしょう?
三万年前のアトランティスの時代と現代、一体何が違うというのでしょうか?
愛、安らぎ、リアリティから離れて、我々はどこへ向かい、どこに落ち着くというのでしょうか?
一つ違いがあるとすれば、(伝説によると)一念の元に世界を破滅させるようなとてつもないオカルティック.パワーは、まだ我々は持ち合わせていないということでしょう。
このどこまでも、自分が破滅するまでも、高く、進もうと駆り立てる力の衝動に歯止めをもたらすもの...それは愛に他ならないでしょう。
ダンテス.ダイジは語る「あのね、例えば、観念は力なりといって、念ずることは実現するとか...どんなこと言ったって、この宇宙をひっくり返すことなんて出来ないの。...だけど愛にはそれが出来る」
最愛のものに捉えられたら分かる!...それは人生で最高の瞬間では無いのか?!
愛は本当は無くなった訳では無いでしょう。何故なら、いつだって人間は、そうと分からずしてそれを求め続けているではありませんか?
ただ、それは他者から獲得するものでも、愛してくれ!、といって与れるものでは無いのです。
それが感じられない、分からないという、その苦しみを自覚した時、ごく身近なものを通して気づかされるものなのでしょう?
愛は強要されるものでも、それを無きものにしても愛自らには責められない...
それは、、アトランティスの超古代(?)でも今でも、愛は本来我々から離れたものではないからなのでしょう!...



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他力

2024-03-18 09:33:55 | 人生の裏側の図書室
「ヨットの上で、どんなにがんばってみても無駄です。他力の風が吹かなければ私たちの日常も本当は思うとおりいかないものです」(五木寛之「他力」/講談社文庫他)

このコーナーでは、珍しくポピュラーな本を取り上げてみます。
著者はご存知の作家、五木寛之先生です。
私は、その代表作「青春の門」とかはまだ読んだことがなくて、そんなに熱心な読者ではないのですが、昨年、小説「親鸞」を全巻読み終えたし、宗教、人生論関係の本を何冊か読んでいて、この確か15年くらい前、単行本で読んだきりの本を実に久しぶりに読み返してみたのですが...
これは、もう驚いてしまいました!...ところどころ何か私の分身のようなものが見え隠れしているではないか!...こんな本を長いこと読んでなかったことも驚きです。理由は一つ。あまりここには相応しくない、いつでも手に入り、読めるポピュラーな本だからでしょう?...
五木先生がこの本を著した背景には、95年の阪神大震災、地下鉄サリン事件など、わが国に重大な、想定外のことが相次いで起こり、いよいよ世界が先の見えない、混迷の世に突入したとの感を受けたことにあるようです。
そうです。我々はずっとこういう時代相の中で生きているのです。出口は見つからないどころかますます生きにくさを増しているではありませんか?
そこに生きてくるものが、この他力の世界という訳です。「神や仏の存在を信じる者も、信じない者も、目に見えない世界を認める者も、認めない者も、世界中の民族や国籍を超えて”非常時”に生きる私たちを、強く揺さぶるエネルギーがそこにある...この他力の世界こそ、いま私たちが無意識に求めている”何か”ではないか...」
この他力という言葉について、勿論そこには、法然や親鸞(蓮如についての記述が特に多い)などの他力門、浄土の教えがベースになってはおりますが、それは一般に所謂”自力”との対比として捉えられているようです。
しかし、自分の外に神仏を認めないように見られている禅仏教などでも、目に見えない”法”にゆだねるということがある、それ無しに座の道など開かれようがないものであるように、それは本来、他力、自力と分けられるものでなく、あらゆる宗教に通底しているもののはずなのです。
又、そもそも自分から離れた神仏などに、我々がそれに関わる道も深まる道も開かれようがないではありませんか?...あっ!(だからこういうことは誰かがいつも言っていることなんですってば!)
これは又、さらに宗教をも超えた、現実世界、現代人向きの問題にも広く関わるものであるのは言うまでもありません。著者は自由に、極めて平易にその見えない、捉えられない世界の消息を伝えようとしているのです。
ああ、もう私は数ページ読んだだけで、何かが呼び起こされてしまうではないか!
呼び覚まさずにおれないものがある!
これは、もはやペーパーバックのようなものであるはずなど無いではないか!

”ああ、私のすべてなる主よ!...私の信仰も、私の修行も捨てました。私がこれまで積み上げて来たものなど、全否定されても構いません!...絶対に無くてはならない、他の何ものにも換えられないあなたの前には!...”

五木先生!、私をわが主につなぎとめてくれて有難う!
この本は、ずっと私の枕元に置かれるようになるだろう!...
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創造的空への道

2023-05-19 10:05:32 | 人生の裏側の図書室
「それは、すべてのものがそこにおいてあるがゆえに、眼には見えないが、いたるところにある(遍在する)。そして、場そのものとは何かといえば、それはすべてを容れるがゆえに、それ自身は“空“であり、しかも虚無ではない”創造的空“である」
(八木誠一「創造的空への道ー統合.信.瞑想ー」/ぷねうま舎刊)

著者はプロテスタント系神学者、宗教哲学者で、仏教にも深い造詣があり(禅修行も豊富で印可も受けられている!)、ことにキリスト教、仏教の比較研究ではよく知られている方です。
私は昔、その方面の著書を読んだことがありましたが、正直あまり印象に残っていません。
私が玉城康四郎先生に深く傾倒する以前のことで、比較研究というもの自体に何か観念世界を超えられないものを感じて、さして関心がなく、“ダンマが顕わになる“という表現が出て来たところから、“この先生は玉城先生の弟子かな?“、などと大雑把に捉えていたのでした。
そういう訳で、この度初めて八木先生の本に本格的に触れてみたのですが、ところどころ日頃私が書いていることと重なることもあり、多いに共感を覚えました。
まず、前回の記事で、“空の意識状態と、そこに開かれる神的な現臨にある状態を一つに言い表す言葉がほとんど通用されていない“、というようなことを書きましたが、これを八木先生は、“創造的空“と呼んでいるのです。
それは、神的なはたらきの場であると言う。そこで“単なる自我“から“統合された自己~統合体“(このように、二つの自己の在り方が区別されている)へと転じられる...それが宗教的回心と言われる事態でしょう。
キリスト教で、神の子キリストと言われているのが、この統合体たる自己のことで、ただドグマとしてそれを対象にして信じるだけなら、単なる自我の想念世界に留まり続けるだけてあり、転じられる“信“とは、その神的なはたらきにゆだねることとされています。
これは、真にキリストの福音の、仏教との接点のみならず、普遍性への転出を意味するものでしょう。
では、その統合体、神人の実現は、如何に成されるのか?
それは、多くの人が示されるように瞑想です。しかし、それは“信“と切り離されるものではない。この信とは、勿論単なる信仰のことではなく、神的なはたらきにゆだねることであるのは言うまでもありません。
あまり詳しい説明は無いようですが、要するに祈りと瞑想は一つのものなのでしょう。
と...これ以上は、詳しく触れるのはとても無理です。何分、難しい哲学的用語も頻出し、一般向きとは言えませんが、少なくとも私には行きづまりの感のある、宗教、哲学、神学などの界隈にあって、一つの突破への道標となるものを感じずにおれません。
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わが現臨のうた

2023-03-07 09:46:35 | 人生の裏側の図書室
「仏は常にいませども 現ならぬぞあわれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたもう」(梁塵秘抄/岩波文庫他)

この歌の一節には、どこかで見た、聞いた記憶もありますが...私はつい先日まで知らなかったのでした。
日本人として恥ずかしい?...いやいや、そんなこと以上に今、”日本人として生まれて良かったなあ”、と喜びを噛みしめているところです!
これはわが命そのものなる、神的な現臨を謳った調べでなくてなんであろう!
私がここで言い表して来たものが、実にこの歌に凝縮されているではありませんか?!
この歌は、「今様」という、平安時代の流行歌謡だそうです。道歌のようなものでは無く俗歌なのです。
作者は、法華経辺りから題材を借りたようですが、どういう心境のもとに綴られたものかは知る由もありませんが...ヒシヒシと何かが伝わってきます。
あるいは、隠れていた仏様、如来が現に顕わになったのを感じて、至福に与りながら謳ったのでしょうか?...”仏は常にいませども”...仏、如来は常に居られる...
平安の時代、すでに仏、如来の現臨感を失ってしまったことがリアルに伝わってきます。しかし、少なくとも作者には、仏、如来は隠れて見えないが、我々の根底に息づいているもの、という直覚はあったようです。
それが現に顕わにならなければあわれ、空しいことではないか?...逆にそれが顕わになることが如何に至福をもたらすものであるかが直感されていたのでしょう。
それは、観念で無しに現実のものとして覚えられていたのです!
人の思いから離れた夢に現れるという...夢は現つの事態では無いのか?、夢から覚めたら幻となって消えてしまうのだろうか?...いいや、作者は暁を見ていたのです!
これまで見て、感じた世界とは一新された、暗闇に光が差しこんだ世界!
夢でも覚めても、それは現つの事態であったのではないか?!
寝て、起きたらそうなっていた!...全く人の思いを超えた、音の無い世界でことは起きていた!

私は何度となくこういう事態のことをここで書いて来ました。平安時代は今は昔...
名も知らぬ作者よ、よくぞこの”うた”を伝えてくださった!...これが俗歌であるとは、文学史上の奇跡と言うべきではありませんか?!
どっかでこれを読んでいるのか?...今、私がその”あかし”を書かされてることにも奇跡を感じてなりません!
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西田哲学の純粋経験

2023-02-02 10:10:40 | 人生の裏側の図書室
「自己自身を超えたものにおいて自己の生命をもつところに人間というものがある」
(西田幾多郎)

所謂名著、名著者などの、”これだけはおさえておかなくては!“という意図での読書を仮に“スタンダードな読書“とすれば、私にはほとんど縁がありません。
その時々の読みたい本を読んできたのです。
哲学というジャンルにはそういう表現は相応しくないと思われますが、我が国でもっとも高名な哲学者といえば、おそらく西田幾多郎先生でしょう。
私が初めて西田先生の本を読んだのは、ようやく5年くらい前でしたが、そう“名著“「善の研究」(岩波文庫他)なのでした。
私としたことが(?)、“どれどれどんな名著なんだ、あ~ん...“というノリで読んでみたのですが、哲学風のエッセイという印象で、予想してたより読むのに難渋した記憶も無かったし、あまり私の内部が揺さぶられることも無かったのです。
しかし...先日どうにか読み終えた先生のより本格的な「西田幾多郎哲学論集1」(岩波文庫)は、一定の精神的コンディションを保っていなければ、到底読み進むことは不可能なシロモノであり、ホントに理解出来たのかどうかは別として、何度か”揺さぶられた”のは確かなことでした。
哲学というのは、多く思弁的、知的概念を借りて表現されるものなので、それが如何にそれらを超えた深淵な領域を指向し、関わるものであっても、その思弁の限界内の理解に留まることもあれば、”知的直観”によって、その奥域に踏み入れることになることもあります。
しかし、例えば「超越的なるものが内在的となるというのは、場所が無となることである、有が無となることである」(同書)といった表現に対し、思弁によって分かったつもりになるようなことは、全くどうかしてると言う他ないでしょう。
西田哲学には、思いを超えたもの、超越したものが大前提になっているのですから...
かといって私は、”知的直観によらなければダメだ!”、なんてミもフタもないことを言うつもりもありません。
ただ、分かる、分からないは別として、そこに自分の思いを超えた何かに与るには、知性だけでなく、ある種の感性が必要だと思います。
いや、と言うか...この西田哲学というのは、実に後続の学者も多く、影響力があり、広く親しまれているものでありますが、ホントに理解されているのかどうかは全く知る由もありません。
いや、”私は、理解してますよ!”なんてしたり顔で言っている人間ほど何も分かっていないのではないか?
私が分かろうと、分かるまいと...”何かが私の内部に触れて、通っていった!”、という”純粋経験”に与るかどうか...無けりゃ、無いでどおってこたない!...それが哲学という物好きの学問てもんでしょう?
しかし、それにしても...どなたかが指摘されるとおり、知的直観により導入されるべきことを、どうしてかくも難渋な哲学用語を用いて、論理的展開によって表現されなければならないのでしょうか?...”相対的矛盾的自己分裂”に陥りはしないか?
まあ、そこを超えたところに、”絶対矛盾的自己同一”があるのでしょう?
何のこっちゃ?、...知らん!

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