人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

マンモスフラワーは赤かった...

2021-03-31 12:02:52 | 映画・音楽など
最近、動画であの「ウルトラQ」を観ることが出来ました。
何と言っても、その後何年にも渡って続くことになるウルトラ.シリーズの第一作なのですよi
ゴジラとか、せいぜい年二回ぐらいしか観れない怪獣を毎週観れるのですよi これをウルトラ快挙として狂喜した者は私を含め何人も居たことでしょう。
それにしても何で"Q"なのかがQuestionなのでしたが...ん~、そういうことなのかもしれない...
"これからの30分間、あなたの目はあなたの体を離れてこの不思議なアンバランス.ゾーンへと入って行くのです"...だから、不思議なことが沢山あったっておかしくないのです。
毎回怪獣が出てくる必然性とかにしても...私が望んだ通りになるんだからいいのです。
しかし、ウルトラマンを初め、超人たちはここには現れません。
従って、万城目さん初め、主役のトリオたちは毎回命がいくらあっても足りない思いをしなければならなかったのです。(だから助け主が必要だったi)
で、私が何本かこの動画を観ていていくつか気付いたことがあったのですが...まず、少年の頃"怪獣博士"を自認していた私は、全27作までの内容と登場する怪獣(一部登場しない回もある)の名前を順番に覚えていたはずだったのですが、すっかり忘れてしまっていたことなのです。(第二作「ウルトラマン」以降は覚えていませんでした。ということは、この作品がもっとも思い入れが強かったということなのです)
「鳥を見たi」のあの長ったらしい巨鳥の名前も覚えていたのに~...
あと肝心なことは、久しぶりに観たという理由以外に、どうも同じ作品を観てる感じがしてこないのです。
あの都会のど真ん中に咲いた、あまりにも巨大すぎるアダ花「マンモスフラワー」は、毒々しい赤色をしていたi
「ガラモン」が事切れる時に吐き出す謎の液体に、大いに夕食の食欲を無くす思いをさせられたが、それは緑色だったi
そうか、こりゃカラーなんだi...いや当初からそうだったろうか? 当時私の家のテレビは白黒用でしたが、最近総天然色(古いi)版が出来上がったということです。スゴイ、ウルトラ快挙ですねi
どうも、怪獣に色が付いてるだけで違う作品を観てるような気分になるようです。
その点、三十年くらい前、レンタルビデオで初めて観た、別枠で放映された「あけてくれi」という作品は、ほとんどそういう違いは感じません。
おそらくストーリーに印象付けられているためでしょうが、これこそアンバランス.ゾーンに入ってしまう怪異を伝えるに相応しい話と言えます。
一端はそこから脱出して、現実世界に戻ってみても、再び"オレもそこに連れていってくれえi"と懇願せずにはおれない...この現実世界には「ペギラ」のような、冷たく人を凍らせずにおかない怪獣や、金の亡者のような「カネゴン」などの怪獣でいっぱい...そして見よi 今や、 太陽があの風船怪獣「バルンガ」に飲み込まれたような日蝕コロナ状態ではないのかi
あの冴えない中年男は「人生の裏側」へ足を踏み入れてしまったのに違いありません...?

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前向きなノスタルジー

2021-03-30 11:48:49 | 雑感
こないだ、収用スペースの問題もあって、"もう、LPレコードは買うまいi"、と思っていたのが、つい中古レコード店(めっきり減ったなあ)で、コンチネンタル.タンゴの三枚組レコードを衝動的に買ってしまいました。
"なっつかしいなあi"...て、ウソですよi...すべて戦前の録音、私の生まれる前の音楽です。こういうのには目がありません。元気が出てきます。
よく考えてみれば、私のカルチャー関係のものは、このように多くレトロなもので彩られていると言ってもいいのです。
音楽に限らず、暇があれば映画、プロレスの動画などを観てますが、ほとんど古き良き時代のものばかりです。そういう方の知識というのは、もう圧倒的に古い時代のものの方が豊富なのです。
未来の方に意識が向くのを前向きとすれば、私の普段の心的傾向はどうも後ろ向きなのかもしれません。
"いや、一寸待てよ、何で古き良き時代なんだ?"...
先のコンチネンタル.タンゴが我が国で流行した時期というのは、軍国主義に傾いていた時代に対応していたのです。詳しい説明は省きますが、このタンゴは、狭義には同盟国ドイツ産のタンゴのことを指しており、それまで広く受容されていたジャズなど米国産のものは、敵性音楽として排斥されていたのです。
リアルタイムでこの音楽を聞いていた人は、数少なくなってしまったでしょうが、この状況下で親しんだことは、さぞ特別な感慨があることでしょう。
この他、ノスタルジック.サウンドの代名詞のようなオールド.ジャズが流行した米国の1920年代は禁酒法時代だった...
もっと私史的なものに限ってみても、懐かしいあの頃は良き時だったとは限らないのです。
でも、懐かしいと感じちゃうんですよねえ..."今の時代がつらいと感じているから? 現実逃避してるの?"
いや、確かにつらいこともありますが、そんなことあないi それを言うならつらくなかった時代なんてないですよi
だけど、懐かしいと感じるだけで良き時代だったと思えてきてしまうのです。
これは多分、過去の記憶がアリアリと呼び覚まされることで、未だ廃れていない、滅んでいない歴史的生命のようなものに触れるからではないかと思われます。
そして又多分、そこから明日への活力を得ているようなのです。廃墟のような渋谷、六本木周辺よりもレトロな東武東上線沿線の方に明るい未来を感じるのは私だけでしょうか?
今の現実が苦しいので、向き合おうとせず、過去のノスタルジーにばかり浸っていることは現実逃避につながる(それが悪いとは言ってません)のでしょうが、私はむしろ過去のものに振り返ることで、現実に呼び覚まされることもあるのです。
後ろ向きのようでいて、前向きにならざるを得なくなったりもするのです。
不滅のものに接するということはそういうことなのだから...
んー...なーんて、難しいことは置いといて、単純に楽しいからなんでしょうね...過去のものは分かりやすくて単純なものばかりだった...そういう人間なのかもしれません...?
コメント (12)
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自力も他力もないi

2021-03-28 10:45:28 | 求道、探究
悟り、覚醒、神と一つになること...目的、表現はともかく、そういうことを目指しているような人は、ある程度その方面の知識を有しているのが普通でしょう。
これは、現代のような情報が豊富に得られる環境にあればごく自然なことで、何らかの情報に触れたことが、そういう方に赴く切っ掛けとなったとも言えるでしょう。
そして、そこから何かの修行法などを見い出して関わるようになるのかもしれません。
その修行法は、所謂自力修行というものを謳っているらしい...自分以外の神とか超自然的な存在、力などに頼ってはならないと。
しかし、それは師家とか指導者に当たる人がそう指導していたりするのではないでしょうか?
別の例で、今日では特別な宗教信仰や修行に関わらない者、指導者の存在無しでも精神的目覚めに与ってしまうということも多々あるようです。
こういう人は、先と違う意味で自分自身からそういう道が開けた、ということになるのでしょうか?
自ずとそうなったにせよ、そこにそうさせるものがあることが示されているのです。
そこで、一先ず、一切の先入観、固定観念を脇へ置いて考えて見てください。
どうやったらそのような体験に与れるのでしょうか?
そう意識させるもの無しに、意識がそっちに向くということがあるでしょうか?
今、言ったことだけで、どれだけ自分以外の縁に依っているかが知れようというものです。
"縁とか一切の関わりを断つことが究極の悟りだ"、なんて言ったって、そういう縁無しにはそう思い描くことすら出来ないのです。
ここに、所謂自力というもの、自分以外の何ものにも頼らない在り方には多くの錯覚があることに気が付くでしょう。
だからと言って私はここで、"神を信じなさい!"、などと言うつもりなど勿論ありません。
自分以外のものに頼らない、という人の気持ちも私なりに分かっているつもりです。
宗教、スピがあまりにも安易な依存信仰を広め、容易く信じ込む在り方によって数々の"不信"を招くことになってしまったからです。
だからこそ、ここは一切の先入観、予見、固定観念を排して向き合って見て欲しいのです。
この思われたままの自分からは何一つ始まってこないのだ、ということに...
その自分は何を求めているのか、どう感じているのか、このままでいいのか、変えなきゃいけないのか...誤魔化しなしに向き合って欲しい...誰もあなたに代わって生きちゃくれませんよ。あなた以外の誰も...え?
"神も、宗教も、修行法もすべて予見だi...すべての観念ごとを排したそこには現存というものしかないi 現存するところあらゆる観念ごとは消える...思われたままの自分も消える..."
これは、自己と自己を超えたものが一如になっている在り方を私の言い回しで言っているのです。思いを超えるとは、思いを超えたものによってなされ、そのことで"私は在る"ようになることです。
要するに、自力とか他力とか、一元とか二元とか...如何に先入観、予見によって、現存に向き合わなくさせているか、見えなくしているか、ということを言っているのです。
向き合うとは、意識が向かうということであり、そう向き合わせるものがあるということです。
だから...向き合わなきゃ、と思う間に向いちゃう?...どうしてもそうなるんですがねえ...。
コメント (5)
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瞑想録

2021-03-27 04:43:36 | 祈りと瞑想
瞑想を始めよう...
いや、この瞑想はいつ始まるか分からない
瞑想を開くものが臨んで来なければ何も始まらない
そのものに依り頼まなければならない
だから瞑想と祈りは分けられないものなのだ
瞑想で何を為すというのだろうか?
"わざとらしい"ことは何もしない
ただ、本願に帰命せんと意識するだけ
といって、意識を強いて意志するのではない
意識するかしないかという内に、そのように自ずと意識される
そして、待つのみ
ただ、待つ...そのものが臨んで、始まってくるまで...
5分か10分か一時間か...
しかし、実際はほとんど何分も待つということはない
いつの間にか意識にある断裂が生じ、思考に切れ目がもたらされる...
始まった...
上よりの力に捉えられる...心身が収縮してくる
中から内なる力が溢れ出てくる...拡張してくる
あたかも吸気と呼気を繰り返す呼吸に対応するように、
心身が伸縮を繰り返す
それとも...愛し、愛されるもののように、
呼び求めるものと、呼び覚まされるものとが呼応するのだろうか?
力の流入は次第に内奥まで浸透してゆく...
思われた私は、ただその意識の動きを傍観しているのみ
そこからどのように導かれるかは分からない
力に、愛にすっかり捉えられてしまったら...選択の余地はない...
それに任せるしかない...
ここに段階的進歩などというものがあるだろうか?
どこにゴールなどというものがあるのだろうか?
真の瞑想の境地のことなど誰が知るというのだろうか?
私自らからは何も始まらないというのに...
いつ、終わるかも分からないのだ
それは多分...私の"すべての生"に関わることなのだろう...
だから...この瞑想は、所謂瞑想とは言えない、瞑想を超えた瞑想なのだ
思われた私を超えたところから来るのだから...
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そこに愛はあるのか?

2021-03-25 12:17:56 | 
そこに愛はあるのか?
ドラマやCMのセリフじゃないけど、私はこれほど人生の指針となるものは無いと思っています。
精神的道の探求において私は、誰しもそうであろうように、真理の追及といったものを思い描いていたのでした。
ただ、何が正しいかどうか、その基準というものは分からないのです。自分は正しいと思っていても、別の人は"あんなん、バカじゃなかろうか?"、と思っているかもしれないのです。
大体が、私がそうであったように、表向き如何にマットウそうな理屈を装っていても、その時に気が向いた、興味を持ったものに、あるいは役に立ちそうなものに心が奪われるものじゃないですか?
それは当面心惹かれたというだけで、本当に自分にとって惹かれてやまないものなのかどうかは分からないのです。周りの声を気にする人は、それで"何だ、そんなもん..."という声を聞いて矛先を変えるかもしれません。
正しい真理というものは、かくもグラツき、頭の中でさ迷い続けているものなのです。中には自分がそうなっていることを自覚出来ないまま、何十年も惰性で歩み続けている者も居るかもしれません。
"あの時は、心霊、オカルト的なものに被れて霊界などの実在に触れないものは真理ではないと思っていた"..."真理の追及が魂の進化に結びつくものだと思っていた"...そして、自分の内奥には何一つ充実感、安らぎというものは感じられなかったのでした。
しかし、そのことから私は、確かにそこにもっとも大切なものを置き忘れているであろうことは感じていたようです。
"それはもしかして愛なのだろうか?"...それはしかし、抽象的観念として思い描かれていたものに過ぎなかった...いや実際はそう感じていたけれど、そういう思いが見えなくしていたのでしょう。
"愛なんてものは表層的な感情の表れなんだろう? それよりも内面、魂の進化だ、真理の追及だ..."
しかし、愛と切り離された真理など在るでしょうか? 抽象的に思い描かれた真理は、愛によって具体性を帯び、血肉となるのではないでしょうか?
これは愛情といったもの、いや、あらゆる人間の精神に関わるものよりももっと根底に息づく、"愛そのもの"のことです。
愛とは具体的に感じられるもの...愛についての抽象論ほど愛にもとるものはありません。
"愛とは掴むものでなく、捉えられて分かるもの...私は求道の初期の頃、確かに愛に捉えられたことがあったのではないかi 私は一体どこへ向かおうとしていたのか?"
過去を振り返ると、寒心に耐えない思いと共に、知らずに見えないものに導かれていたことを感じずにおれません。
もし、そこに愛があるのなら...もはや選択の余地はありません。どんな高遠なる真理が、究極の悟りへの道が説かれていようと、そこに愛が無ければ却下されるまでです。
"愛を裏切ることは出来ない...愛は裏切らないものだから..."
これは言うまでもなく、精神的な道に限ったものでなく、人生のあらゆる場面に当てはまるものです。
思えば、迷いもあった、遠回りもあった...しかし、惹かれてやまない、最愛のものはどっかで覚えられていた...私でなくあの御方の方が離さなかったようなのでした...。

コメント (2)
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