人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

我々の自然な状態

2024-08-09 09:07:17 | 雑感
巷では、南海トラフ地震緊急情報による、巨大地震への警戒について公に伝達され、言い知れない不安な空気が漂い始めているようです。
これまで、地震の報道が流されても、“南海トラフ地震とは直接関係ありません!“、というメッセージを当たり前のように聞かされていたものが、初めてそうでないらしいことが伝わったのですからねえ...
しかしこれまでも、それはいつ起きてもおかしくない、とされていた訳だし、他方ではずっと核ミサイルがいつ飛んでくるのか分からない情勢な訳で、そういう危機性と隣り合わせの世界で我々が生きているのは変わらないのですね。
そういうことを思うたびに、“何でこの世界はそうなっているのか?“...なんて感じるのは私だけか?
だって、この季節、日中はセミが鳴き、夜には、ちらほら秋の虫が...何とも言えない情緒を運んでくれているのですよ!...自然と安らぐ、安らぐのが自然なのです。
こうして書いていると、ホラ、じ~じ~とセミが...いや、これは耳鳴りがじんじん鳴っているんだった...世の中の空気がどうあれ、それはそう在り続けているのです!
ああいう情報により、然るべき警戒をするのは当然だとしても、然るべからずデマ情報も流れるなど、我々の自ずからなる然るべき、内なる安らぎの状態から思いが切り離され、浮き立ち、外なるものに翻弄されやすくなります。
こういう時こそ、内なるものを呼び起こすことに意識を向けたいものです。
やっぱり私もこういう時には、“大難を小難に代えて下さりますように...“、という祈りもします。それは、自然な感情から来るのではありませんか?
“不動の心を!“、何て出来も、そうなりもしないように、心を変えよう何てこたあ、しません。
とにかく、思いを超えた、神的なものに意識を向ける、“こういう時だけ、祈る、向けるて~のは、ムシがよかないか?“、でも何でもいい!、何を思おうが、虫は鳴く...
そういう祈りでも、あの愛、平安にいつの間にか導かれてしまうのです。
あの安らぎの内にあることは、我々の自然な状態なので、そうなるように努力しなくても、それに戻ることが出来るのです。
もっと言えば、我々が神的なものとつながっていることが自然な状態なのです。これからつながるように修行を重ねなければ、ってことじゃない!
だって、いつ危機的状況に見舞われるか分からないのでしょう?
だから、いつだって自然な状態に戻れるように、我々は(多分?)そう仕組まれているのではないですか?...







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それでも神は臨む!

2024-07-28 08:59:38 | 雑感
神的なものが臨む
それと共に意志想念が後退してゆく...

というようなことをいつも書いていて、読み手の中にはそれに異論を説なえる人も居るかもしれません。
勿論、一向に構いません!
どう読もうと、どう感じようと自由なのだから!
又その中には、科学的な哲学的なことから論証したりして、否定的見解を示す人も居るかもしれません。
それも一向に構いません!
私は、いつものその言説を論証して表したことは一度もありません。第一、それはしようのないことじゃありませんか?
だから、ホントはそれが正しいことかどうかということも分からないのです。
従って、その正当性を主張したり、自説に固執する必要もありません。否定されたって痛くも痒くもありません。何も困ることは無い!
だからだから、それを信じるのも勝手でしょうが、ウカツに信じるものでもありません。
ということは、それは私が考えた思想や信じている信仰などのことを語っている訳ではないということです。
これがヨーロッパ中世だったら、命がいくつあっても足りないかもしれません!
それでも、地球は回る、神は臨む!
ふ~ん、色々な意見というものはあるものだ!...しかし、そういうこととは関係なく、ああいうことは起きるのだ!...どうしようもあるまい!
しかしながら、私はそれを感じないという人には、ミもフタも無いことを言い過ぎているのかもしれません。
自己満足と言われても仕方ないのかもしれません。
それでも、私は言い続けたい!
神的なものが臨む!
論証も出来ないことなので、本当のところはどういうものかは分からないが...
私なりに感じたことを言う(表現のし方は人の数ほどあろう!)しかありません!
これは、本当に、ホント~に幸福に与ることなのだから!
理屈なんてものは、ホントにどうでもいい!
自分がそう感じていることを、他の人にも感じてもらいたいと思うのは自然なことではないでしょうか?
ということは、たとえ自己満足だろうと、私は一人で生きてはいないということなのです。
私だけからは出て来ない!
そうです!...私を超えたものからの促しがある!
だから、今日も言い続ける...
それでも神は臨む!...





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今日も文章は流れる?

2024-07-23 10:17:38 | 雑感
言葉というものは不思議なもので、それ自体は動かないものなのだけれど、読み方次第で動くもの、生きたもののように感じられてきます。
という訳で、私は流れるような、躍動するような文章に惹かれます。
滞らない、切れない...散文詩とかエッセイ風なものとか...コ難しい哲学論文でも、そのようなものを感じさせるものはあります。その場合、難しい言葉はあっても、全体的に流れている感じがあれば、さして障りに感じません。
いつも、自然とそういう文章を書かされ、又そう心がけるようにしているのですが、例えば“...“、“!“、といった記号を多様するのもその表れと言えるのです。
しかしながら、拙い文章力とて、満足行くように書けているのか?...どう読まれているのかは知る由もありません。
読む方に戻ると...やたらと、箇条書きとか図表だとかが出て来る文章は苦手です。
自分が書く場合でも僅かに箇条書きにして書いたことはありましたが、図示して書いたことはほとんどありません。
書き手は、分かりやすくするためにそのように書くのだろうけど、私には返って分かりにくい場合が多いのです。
又、それは多く、先のように文章の流れを止めてしまうことにもつながります。 
流れるような文章を、別のものに置換させて、考えなければならない。メンドクサ!
これはどうも、私に固有の精神宇宙の状態に起因しているようなのです。
そこには、常に意識の流れみたいなものがあって、例えば何かの思想ならそれが、その流れに乗ったものだったり、溶け込んだりすれば、それが共感、共鳴といったものを生み出すのでしょう?
私の精神宇宙には、一つ何々とか、箇条書きにされたものも、グラフ、表のようなものは見えない、見えてこないのです。それは、全く現世的な形式に適応されるものであり、上手く変換出来ないのです。
そう、数式というものが正にそうしたものですね。私は根本的にそういうものは、理解出来ない頭の構造になっているのでしょう。
もっとも、形が全く無ければ、認識すること自体出来ないものではありますが...そういうものは、川から桃が流れて来たように、動き、流れと伴ったもの、その中にあるものじゃないのですか?
それと切り離された数式とか図表だけがあるなんて...そういう雲も星も私は一度も見たことないですよ!、そういうものは黒板の上とかにしか存在しないのですよ!
私だけか?...
(分からなかったら、テキトーに流してもらっていいですよ!)



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感じたことを言うこと

2024-06-29 09:52:31 | 雑感
精神的な道では、意識の表層から深層へと深くなるにつれて、決めつけたような言語表現が適応出来なくなるのが普通です。
これは、思考の領域から段々離れてゆくことと連動していると言えるでしょう。
例えば、死後の世界とか霊界、第何次元、アストラル界...これらのことは、考えられて表されたものだと思うのです。
そういう決めつけた言葉自体、既存の知識に依っているのは誰にも分かることだし、そうでなくとも思い描かないと、そういう表現は出来ないものでしょう?
あるいは、霊能力者なんかは、私の知らない有り様で、実際にそういう世界を見て、感じて言っているのかもしれませんが、そうでない普通の人間には確かめようもないことなので、そのことを考えたり、(気が向けば)信じたりするしかありません。
こういうことを蔑ろにした一方通行の対話というのは、他者のことを無視したウカツな言葉に終始するだけで、私は全く付き合う気など起こってきません。
観念に浮いた、どこにも立脚しておらず、どこにもたどり着けない言葉のキャッチボールなんかしてたってしょうがないでしょ!
第一、それは、先入、固定観念から自由でないということであり、意識の内奥が開かれない状態になるだけではありませんか?
有り体に私が感じていることを言います。内奥では、何次元だとか段階だとか、そのように見たり思い描いたりすることは何も感じられません!
よく言われる、時間、空間を超越しているとかそういうものは、確かに感じられます。
あるいは又、私のこういう表現自体に、先の決めつけた表現というものを感じてしまう向きもあるかもしれません。
しかし、私は何も人に信じてもらいたいなんて思ってなどいないのです。大体、分からないでしょ?、私にも何だか分からないことなんだから!
ただ、感じたことを言う!...
もし、分からないけど、言葉では伝わらないものが伝わったというのなら!...おお、それでいい!...ベリグ~!
この場合、要するに分からないことは、分からないと言えばいいのです。そう感じたのなら...分からないことを前提にして、“私が思うに、感ずるに...“とか言えば(相手に伝われば)話はつながります。
然るに、何で分かったようなこと言うかなあ?
思考を超えた世界のことは、感じたことしか言えないはずなのです。
とはいえ、言うまでもなく、言葉というものは、思考に依らなければ、それを借りなければ表せないものですが、感じたことから切り離されたら生きたものにはならないでしょう。
そこでは、通常、思考と区別されること無い、内省とか洞察といった感性を伴った“別なる思考“が生きてくるのです。
そういう思考表現での他者との交流では、ウカツな言葉など言えない状況に自然になったりします。
だからね、“霊界というのは、神は、悟りは...“な~んて分かったような物言いは、彼方の世界で、生きているのかどうか分からない異界の人間とやっていたらいいのです。...
なんて、エラそうに言ってるけど、私は何度か場違いなことを言った経験があるからこういうことが言える訳でして!
それは、あの安らぎ、リアリティに与ることを妨げるものだから場違いなことなのです!
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正直者は勝つ!

2024-06-27 09:28:51 | 雑感
乃木坂のかっきーはウソをつかない(つけない)人間だった!
乃木坂工事中の動画で、ジャンケンゲームをやっていて、他のメンバーから「何を出す?」と訊かれたので「チョキを出す」と言って、それから色々掛け引きがあったけど、やっぱり出して負けてしまいました。他のメンバーからもそういう人間と思われていたのでした。
“それでいいんだ!、かっきー!、キミはゲームには負けたけど、勝ったのだ!...きっと何かを得ているはずなんだ!“
私だったら?...狡猾な私は、チョキを出すと言っておいて、勝ちを確信したように、ジャンケンの直前、握り拳をつくってガッツポーズみたいなことをする...これがグーを出すサイン?...そおしてからのチョキ!
ひっかかったヤツはパー...やったぞ!、チョキはそのままVサインだ!
“ふはははっ!、言ったじゃないか!、オレはウソはつかない男なんだ!“(“お前、何を出す“と訊いてくるヤツは最初から負けてるんだ!)
そうです!、私は狡猾な男、平気で人を欺きます。だから私の言っていることなんかウカツに信じたらダメですよ!
本当に自分が一番信じられるものを信じたらいいんです!...あなたにとってそれは?...
あなたは自分が信じられますか、信じていますか?
私は人は欺いても、自分は!...自分が信じられなければ何も信じられなくなりますよ!
どうしたって、自分にウソをつき、誤魔化すことは出来ない!
しかし、もし、自分が信じられなかったら...
その自分を認め、受け入れたらいい!...これが逆説的ですが、自分にウソをつかないことなんです!...一体誰の目を誤魔化そうってんですか?!
私は何もここで、他人にも自分にもウソをつくことは悪いことだから、やめろと言っているのではありません!
何が悪い?...まあ、信用されなくなるだろうけど...
自分を超えたものからのあの至福をもたらすパワーに与ることが出来ない!...もう、これに尽きる!
ウソが無い、誤魔化しが無いとは、そのまんま、ありのまんまということです。
ありのままの自分を受け入れることは、自分を超えたものを受け入れるということ...そこからの恩恵に与ることなんです!
人生の諸々の勝負ごと(に思えること)などに負けたっていいじゃないですか?
あなたが心の底から望んでいるものは、“これ“じゃないんですか?
いつも自分を偽り、自分を正しく、強く見せようとしている人には絶対に分からないでしょう。
こういうことはもう、自分は自分を超えたものと共にある、ということを前提にしないと言い表すことが出来ません。
そう、書いているだけで、何かパワーが!...
暑いからか?...今後もっと暑くなるとますます増して来るのか、減退してしまうのか?
正直、何だか分からない!
分からないものは分からない!...ウソじゃないだろう!...
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