えっ!...寝耳に水だよ!...gooブログが無くなってしまうなんて!...
何故にこのタイミングで!...四月一日のエイプリルフールじゃないよね?
最初、このニュースを知った時はすごく気が抜けたようになったのでしたが、しばらくして様々なことが過って来たのでした。
まず、11年間もよく続いたものだ、ということ。最初は片手間という感じで一週間に一度くらい更新していたらいいや、と思っていたものでしたが、続けているうちにライフワークのようになって来て...いやもう、今ではそんなどころじゃないですよ!...
これ自体が祈りみたいなもの、命です!...ほとんどは、今のように起きてすぐの夜中か早朝のことですが、“あの感じ“に開かれるから書かされるのか、書いているからそうなるのか?...
勿論、この現臨感というものは、ブログを始める前からあったのでしたが、こんなに恒常的に“命の流入“に与るようになったのは、絶対にこのことと無関係ではありません。
ほとんどの記事は、このものに促され、押し出されるように書いたと言っても過言では無いのです。
先のように、最初はそんな感じじゃ無かったのですが...
私はここで何度も現臨感というものは、意志想念で意識を集中しようとするので無く、自ずとある中心~その臨在するものの中心~に意識が集まる、収斂されてゆく、ということを書いて来ました。
あたかも、このブログ自体がそのように導かれた、と言ってもいいのです。
はっきり分かることは、始めた頃の私は、当時流行していた非二元系のスピにややカブレていて、神とか二元性を感じさせるようなことで無く、それ風のことを書いてみようか、でも私は、これまで書いて来たように、神の道にずっと親しんで来た訳でそれも無視出来ない、と方向が定まっていない状態だったのです。
そして忘れもしない、始めて数カ月後の平成14年の暮れ、“どうも非二元の教えというのは私には腑に落ちない、私は究極の境地なんていう、そのエゴマインドをくすぐるような文句に幻惑されているだけなのではないか?“、という疑いがもたげて来た時、思いがけなく、近くのファミレスで、神の現臨に捉えられ、突き上げて来るような歓喜のうちに、人目も憚らず涙があふれ出し...“これだったんだ!...これを抜きにして私はどこへ行こうとしていたのか?“、と気付かされ、そのすべての私の中心に帰ったのでした。そこから先の如く導かれるようになったのは言うまでもありません。
こんな訳で、このブログはまず私自身のために書いて...書かされていると言ってもいいのです。
私は、読者に対して、私の思想、信仰、私が考えたメソッド(お分かりのようにそういうものは無いのであるが...)を提示するつもりはありません。
ただ、この中心には“神的なもの、真我的なもの“が垣間見れるのは確かなことのようです。
それは言うまでもなく、そういう言葉に限定されるものでもなく、思想や信仰という皮相的、限定的な在り方、アプローチで捉えられるものではありません。
それは、あなたや私に直接的に、直感的に開かれるものです。私は、何よりも私自身のその参入の道として多く祈り、神に意識を向けるということを書いているのですが、もし、あなたに多少ともそのことに共感するものを感じるならば、このブログがその“ヨスガ“にもなれば...との思いで書いている次第なのです。
昨日の今日のことなので、この先のことは、どういう形になるのかまだ分かりませんが、続けられる限りは続けてゆく所存です。
秋まで何ごとも無ければ(?)...よろしくお付き合い下さい。
何故にこのタイミングで!...四月一日のエイプリルフールじゃないよね?
最初、このニュースを知った時はすごく気が抜けたようになったのでしたが、しばらくして様々なことが過って来たのでした。
まず、11年間もよく続いたものだ、ということ。最初は片手間という感じで一週間に一度くらい更新していたらいいや、と思っていたものでしたが、続けているうちにライフワークのようになって来て...いやもう、今ではそんなどころじゃないですよ!...
これ自体が祈りみたいなもの、命です!...ほとんどは、今のように起きてすぐの夜中か早朝のことですが、“あの感じ“に開かれるから書かされるのか、書いているからそうなるのか?...
勿論、この現臨感というものは、ブログを始める前からあったのでしたが、こんなに恒常的に“命の流入“に与るようになったのは、絶対にこのことと無関係ではありません。
ほとんどの記事は、このものに促され、押し出されるように書いたと言っても過言では無いのです。
先のように、最初はそんな感じじゃ無かったのですが...
私はここで何度も現臨感というものは、意志想念で意識を集中しようとするので無く、自ずとある中心~その臨在するものの中心~に意識が集まる、収斂されてゆく、ということを書いて来ました。
あたかも、このブログ自体がそのように導かれた、と言ってもいいのです。
はっきり分かることは、始めた頃の私は、当時流行していた非二元系のスピにややカブレていて、神とか二元性を感じさせるようなことで無く、それ風のことを書いてみようか、でも私は、これまで書いて来たように、神の道にずっと親しんで来た訳でそれも無視出来ない、と方向が定まっていない状態だったのです。
そして忘れもしない、始めて数カ月後の平成14年の暮れ、“どうも非二元の教えというのは私には腑に落ちない、私は究極の境地なんていう、そのエゴマインドをくすぐるような文句に幻惑されているだけなのではないか?“、という疑いがもたげて来た時、思いがけなく、近くのファミレスで、神の現臨に捉えられ、突き上げて来るような歓喜のうちに、人目も憚らず涙があふれ出し...“これだったんだ!...これを抜きにして私はどこへ行こうとしていたのか?“、と気付かされ、そのすべての私の中心に帰ったのでした。そこから先の如く導かれるようになったのは言うまでもありません。
こんな訳で、このブログはまず私自身のために書いて...書かされていると言ってもいいのです。
私は、読者に対して、私の思想、信仰、私が考えたメソッド(お分かりのようにそういうものは無いのであるが...)を提示するつもりはありません。
ただ、この中心には“神的なもの、真我的なもの“が垣間見れるのは確かなことのようです。
それは言うまでもなく、そういう言葉に限定されるものでもなく、思想や信仰という皮相的、限定的な在り方、アプローチで捉えられるものではありません。
それは、あなたや私に直接的に、直感的に開かれるものです。私は、何よりも私自身のその参入の道として多く祈り、神に意識を向けるということを書いているのですが、もし、あなたに多少ともそのことに共感するものを感じるならば、このブログがその“ヨスガ“にもなれば...との思いで書いている次第なのです。
昨日の今日のことなので、この先のことは、どういう形になるのかまだ分かりませんが、続けられる限りは続けてゆく所存です。
秋まで何ごとも無ければ(?)...よろしくお付き合い下さい。