人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

善悪は無いというが...

2025-03-06 07:25:01 | 雑感
いつもは、朝目覚めた時などは、自然と神的な現臨に包まれて、愛、平安に与り目覚めが善いことを書いていますが、当然ながら目覚めの悪い時もあるのです。
まあ、大抵今朝の時のように、悪い夢から覚めた時なのですが...
その内容は、よく覚えてませんが、私が何かをやらかし、運悪くそれを警察に見つかってしまい、“こりゃあ、大変だ、逃げよう!“と、隙を見てバイクで逃げて、小さい路地とかに入ったり、無理と分かってバイクを乗り捨て、何だか私有地だか分からない、ややこしいところを通るなどして、一旦は逃げ切ることに成功したのでした。
これを読んで、もしや私は“悟った人間なので、こういう夢は見ないだろう“、と思われる人もおられるかもしれませんが、とんでもありません!...そういう夢を見るくらいなのだから、そういう人間でないことが分かるでしょう?
“サツだ、ヤバイ、逃げろ!“と咄嗟に思ったりするあなた(?)と何も違いなど無いのですよ!
ただ、こういう夢を見た時のパターンは、いつも同じです。(いつも見てんだ?)
そうです!...私の心のどこかにこういう悪の衝動、保身の念に走る要素は持っているのですよ!(ワルイだろう?)
逃げ通すことに成功しても、気持ちが落ち着くと、“これでいいのか?、心がすっきりしない、こんな精神状態のままこれから生きて行けるだろうか?、自首した方がいいのではないか?“、と一応反省はするのですよ!
そうして自責の念が襲って来る...“ああ、この苦境から救われたい!“と喫茶店で思っていたところに...タイミングよく店の前にパトカーが停まりました。まさかとは思ったが...“あ、あの警官だ!早っ!“
「君がアマワカヒコ(二重人格の私の悪い方の自分の名前)だな?」
「ハイ、その通りです。逃げも隠れもしません!」
そうして、御用になった瞬間は、いつも同じです。(いつも見てんだ?)
もう、逃げも隠れも出来ない!...あのものに捉えられてしまった!、あのものの現前には、すべてを受け入れるしかない!“...と、“ジンジン“とその目覚めの善い時とは、幾分重さを伴った現臨感に包まれるのでした。...
そうです。結局は私はこうなる人間なのでしょう?
善い時とは、違って先のように目覚めの気分は悪いのです。
しかし、夢でよかった!...悪い自分は本来無いのだ!...善悪本来無し!...って能天気なスピ界隈では言うが、本当にそうなのでしょうか?
単純に考えれば、善悪が無いんなら、警察から逃げることも、捕まることも犯罪も無いではないか?
インドの哲学者なら、それらは現象として在るだけで、本来の状態は何も変わらない、とか言うかもしれません。
なるほど、善い時も悪い時もあの現臨感というものはあります。しかし、それは、私の場合なんであって他の人に当てはまるかどうかは知りません。
それに、その後者の現臨感には、自分の隠しようの無い、逃げようの無い場所へと追い込む、あの“重み“が伴っていることが異なることなのです。
そして、その際まった場にあって、重みはあるけれど、その根底にはやはり愛、安らぎが感じられるのです。
この意味で本来善悪は無いとも言えるのかもしれません。
でも、それはこの神的なものの現前にあって言えることなのでしょう。
これは、反省するとか単なる倫理の問題ではありません。
この本来的な律法感無しには、所謂悪行とされるものは、ただ、“やった、やらない、捕まる、逃げた、罰に服した、終えた、許された“、というだけの問題になるだけでしょう。
あの感じ無くして、一体何が解明、解決されるというのか!?
簡単に言えることでは無いですが、善と悪の問題は、我々人間だけの営みからは何らの解明はなされ得ないでしょう。
我々にあの“現前にある感じ“が失われたことが如何に大きなことなのだろう、とワルイ私ながら痛切に感じずにおれません。














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失うもの、失わないもの

2025-02-05 06:15:55 | 雑感
人間はつくづく、失うものを背負って生きているものだなあ、と思います。
地位、名誉、プライド、メンツ、信念...そうそう、信仰とか修行とか...
自分が築いたもの(いや、本当は築いたと思っているものだろう)は、いつかは失ってしまうものではないでしょうか?
そして、“それを失ったらもう終わりだ!“、なんて思ったりして?...思っているだけでしょ?
ホントか?...失ったら自分がどっかへ落ちてしまうのか?
だったら落ちてみたら、落ちてしまえばいいじゃありませんか?、それで本当にオシマイになってしまうのか?
私が高校生の頃、友人と口論になり、何かボロクソに言われ、それに負けたようになり、それまで持っていた、プライド、信念などを失ってしまい、落ちてしまったことがありました。
これは、本当に自分が落ちてしまったのですよ!
もう、ワナワナと全身が震え出し、立っていることが出来なくなり、地にへたり込みながら何かをわめいていたのです。プライドもメンツもありゃしないですよ!
友人にメッチャ傷つけられたのですが、その言葉は、子供みたいなもので大したことは無いと思いましたが...
私は要するに、人一倍プライドが強く、自意識過剰だった、ということです。
そうなってみてハッキリ分かりました。もう失うものは何も無い!...
そして、失うものが無いことは、なんてラクで自由なことなのか、ということが!
私はそれまで何と戦っていたのだろう?...もう、バンザイ!、手放しではないか!...
今から考えれば、これが精神的目覚め、神の手に捉えられる、思考の絡みが解かれ、後退し、歓喜に与る、という体験のハシリみたいなものです。
あのちょっと頭の悪そうな友人(その後けんか分かれしました)は、神の言葉を取り次いでいたのでしょう?
自分が築いて来たものを失ったら、オシマイになるなんてとんでもない!、落ちるんなら落ちてしまえばいいんです!
本当に落ちるところに落ち着く...裏側の人生が始まるのです!
それはしかし、そういうものを後生大事に守っている自分からはそうなりません。
自分を超えたものに依らなければ!...別にケタクソ悪いヤツと口論しなくたっていいですよ。
私は今でも、“あんなヤツと口論して、負けたら自分のプライドやメンツが許さん!“、とは思いますが、“落ちどころ“は知っているのです。
自分の思いを超えた、神的なものを現前にしたら、失うものは何も無い...もう降参するしかない!
神の愛の一撃を受けてしまうのならば!
それは、自分が思い込んでいた世界が終わりを告げ、本当に“自分が在る“、という世界の始まりに他ならないのです!...



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根があって草花もある

2025-01-20 04:56:42 | 雑感
ちょっと前に、“思考に囚われて、あの感じが感じられないので、中々書くことが出来ない...そんな時は無理して書かんでもよい!“、みたいなことをつぶやいたのですが、最初から書く予定の無い時、今みたいに何かすっばらしいものがこみ上げて来て、促される、押されるようなものを感じる時は、“ああ、たまらない、うれしいっ!“っていう感じで書かずにおれなくなるのです!
そんな訳で...

人生の裏側という...表側というのは、現れている、表されている世界...植物にたとえれば、花や草など色鮮やかに色々な在り様で、名もつけられている世界なら、それは隠れている、見えない、名も無き根の世界のようなものでしょう。
根があるから、草や花もある...表のものは朽ちて散る、滅んでしまいます。しかし、根は生き通しである…だから、死してもなお、生命は永遠に生き続けるのでしょうか?
さあ、それは死んでみなきゃ分かりません。
そういうことを人が言っているままに、ただ信じるのでは無く、ここに現れている、一コの自分を超えて、生きてハタライているものを感じるかどうかということが肝心なことでしょう。
この思いを超えてこみ上げて来る、あるいは降り注ぐようなハタラキは、表の世界で、我々がこちょこちょと“方法、テクニック“などと称してやっているものとは比較にならないほど、スケールが大きく、強く根本的なものなのです。
“人間は成長しなければならない!“、などと躍起にならなくとも、それが通りさえすれば自然に草も生え、花も咲くのです。
通りさえすれば!...通っているではないか!
しかし、人間の思いには通っていないらしい...裏側の、根の世界のことは忘れられている...
これが我々の表層によみがえるならば、戦争も止み、夢みたいな狂ったような我々の意識も目覚めることでしょう。
それを促すものは、この裏側からの、根のハタラキしかありません!
見える世界の在り様、形は如何なるものだろうと、根は根である!...普遍的なものというのは、こういうものでしょう。
だから、実在するものは、我々の思い、力を超えた神しか無いのです!
だから、この見える、表側の世界は幻想なのです!...なんて私が本当にそう思って、感じている訳でも無いことを信仰表明のように主張するつもりなどありません!
ただ、この我々の中に息づいて止まないものから浮いて、切り離されたものは夢のように消えてゆくものでしかない、ということは言えるのです。
だが、それはこの現実のように、ずっと息づいているではありませんか?!
表側と裏側は、ずっとつながっているではありませんか?!
見える、表側、外側のことばかりに意識を向けてはなりません。
思い描いた世界だけで、何が真実で、何がウソ、幻想かとやっていたってしょうがありません。
その世界しかないということが、そもそも幻想なのではありませんか?
そのことは、“私はここに私を超えたものとつながって在る“、という事実、現実に目覚めることで明らかになるでしょう!
それは、根っこを通じて、すべての我々につながるものでしょう!
あなたの内にも、その息づいて止まないものが顕わになる、春の到来が感じられないでしょうか?...


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この“み“を通して...

2025-01-16 01:32:39 | 雑感
巷では、今年の夏頃に何か大変なことが起こるだろう、とある予言を元に不安をもたらせるような情報が飛び交っているようです。
例の反面教師の画伯なんかは、今年は必ず次元上昇が起こる、それも天変地異とかカタストロフィが伴うものであるように信じ込んでいて、恐怖を煽るようなことを書いているのです。
この御仁、これまでに何度も、いついつにそういう次元上昇が起こる!、皆さん覚悟はいいですか、なんて書いていて、それが起きなかったら、“間違ってました、訂正させて頂きます“、とマヌケなことを何度も繰り返しているのです。
半世紀近くも、五井先生の“消えてゆく姿で世界平和の祈り“という教えに従っているらしいですが、あまりそれに熱心でなかった私でも、それは全く五井先生の道からはズレたものだ、というくらいのことは分かるのです。
そういう事象は起こるかもしれないし、起こらないかもしれません。然るに分からない巷の流言に囚われて、やたらと不安な思いにかられてしまうことは無駄なことなのです。
勿論、いつ何時、隣国からミサイルが飛んで来るか分からないし、巨大地震が起こるかも分からないです。しかし、こういう時こそ、地に足を着けることを意識することが大事なことではありませんか?
日本の古代文化などの研究をされている、井戸理恵子女史も動画で、今年の巳年にちなんで蛇は大地性とつながるということを言われていました。
又、巳とは身につながりましょう。身といっても、それはこの肉体だけのことではありません。井戸女史も言われるように、先祖などともつながるものでしょう。
目に見えないもの共々がこの身なのではあるまいか?
それを感取することは、観念、空想、妄想に浮くことではありません。
地に足を着け、具体的に自己(それは考えている自分のことのみではない)に即して感じるということです。
それで私自身に感じられることは、そういう不安感をつのらせるものばかりでは無い!
いよいよ持って、私を超えて、私に内在するものとのつながりがこの身を通して、ジワ~ッと蛇のように迫って来るようではないか?!
この年末年始私は蛇のようにシツコイ、インフルにかかり、あまり無駄に外出することなく、寝床で蛇のようにくねくねしてるばかりなのでした。
そこで、とにかく性懲りもなく祈りとも瞑想ともつかないことをやる、やらされていたのです。
すると、蛇のようにクンダリーニが上昇?...するのかどうか分からないが、何か蛇のような生命力みたいなものがこの身を通して顕わになることが数度あったのです。
このように具体的に感取されたものを通してかく言わされるまでです。
巷に飛び交っている流言などの観念ごとで、浮ついた興味本位な思い、不安な思いは消えてゆく姿として(明るい、プラスな思いに切り替えよう!...なんてことは私は言いませんが)、(消えてゆかない)自分自身に即したことを意識すれば、思いを超えた恵み、喜びを時には蛇のようにジワ~ッと迫るように、あるいは、あなたの運命のその時には、“シャア~ッ“と思いもかけない瞬発力(これも蛇なんだ!)を見せて、あなたを捉えてしまうでありましょう。そうなったらあなたはもう逃れることは出来ません!
それは、あなたの主と一つになる運命の時なのだから!
たとえ、世の中がどうなろうとも!...
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今年一番印象に残っている出来事は?

2024-12-29 14:43:55 | 雑感
今年一番印象に残っている出来事は?...
無いですね!
おしまい!...

な~んて、そりゃね、年明けいきなりの能登の震災のこととか、世の中の重大ニュースとかありますよ。
でも、こういうことは、もっと直接感じた、ごく個人的な出来事ということになってしまうんです。
例えば、“街で偶然出会ったあれが予想外にナニだったので、思わず興奮した!“、とかそういうことなんです。
ところが一番となると、これがねえ、思いつかんのですよ。
あ、そうそう、昭和47年の日本レコード大賞(毎度古くさてすまん!)は「ちあきなおみ」の歌った「喝采」て曲なんだけど、これがリリースされてからの最短記録だったって話、つい最近まで知らなかったんですよ!
ど~りで、あの時は、“何で聞いたことの無い曲が受賞したのか?“って首をかしげてましたっけ!...しかし、そういう話これまで聞いたこと無かったの私だけか?
これって、今年一番印象に残ったニュースになるん?...
それよりも、今、今のことなんですよ!...午前中どうしても体調がイマイチで、あれが感じられなかったものが、何かパ~ッと開かれたようになってきましてね。いつものことなんですが...
え?...いつもこういうことが起きてんのか!...
んじゃ、いつも起きてない時はどういうことになってんのよ!
きっと、今年一番印象に残った出来事の候補になるようなこともあるんでしょう?
だけどね、こういうことがあるとね、印象に残らなくなるんですよ。
ああいうことも、こういうこともとにかく思いを超えたものに包まれたようになり...
印象はこのことによって、何かスポイルされるようになってしまうんです。
そういうことがいつも起きちゃう訳!
そのうち、どれが一番印象に残るかってことは、余程爆発的だったり、キョーレツだったりしない限り、どれがって言えないですよ。
これはつまらないことなんだろうか?
いや、つまるとかつまらないとか、いいとか悪いとか...あのねえ、悪い方に印象に残ることも残らなくなるんだから、こりゃきっといいんでしょう!
ずっと毎年こんな感じなんだ...いや毎年とか毎月って問題じゃないけど...

という訳で、皆さんも今日が、いや毎日がいい日でありますように!...



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