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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私自身のため、そして...

2025-04-15 06:08:44 | 雑感
えっ!...寝耳に水だよ!...gooブログが無くなってしまうなんて!...
何故にこのタイミングで!...四月一日のエイプリルフールじゃないよね?

最初、このニュースを知った時はすごく気が抜けたようになったのでしたが、しばらくして様々なことが過って来たのでした。
まず、11年間もよく続いたものだ、ということ。最初は片手間という感じで一週間に一度くらい更新していたらいいや、と思っていたものでしたが、続けているうちにライフワークのようになって来て...いやもう、今ではそんなどころじゃないですよ!...
これ自体が祈りみたいなもの、命です!...ほとんどは、今のように起きてすぐの夜中か早朝のことですが、“あの感じ“に開かれるから書かされるのか、書いているからそうなるのか?...
勿論、この現臨感というものは、ブログを始める前からあったのでしたが、こんなに恒常的に“命の流入“に与るようになったのは、絶対にこのことと無関係ではありません。
ほとんどの記事は、このものに促され、押し出されるように書いたと言っても過言では無いのです。
先のように、最初はそんな感じじゃ無かったのですが...
私はここで何度も現臨感というものは、意志想念で意識を集中しようとするので無く、自ずとある中心~その臨在するものの中心~に意識が集まる、収斂されてゆく、ということを書いて来ました。
あたかも、このブログ自体がそのように導かれた、と言ってもいいのです。
はっきり分かることは、始めた頃の私は、当時流行していた非二元系のスピにややカブレていて、神とか二元性を感じさせるようなことで無く、それ風のことを書いてみようか、でも私は、これまで書いて来たように、神の道にずっと親しんで来た訳でそれも無視出来ない、と方向が定まっていない状態だったのです。
そして忘れもしない、始めて数カ月後の平成14年の暮れ、“どうも非二元の教えというのは私には腑に落ちない、私は究極の境地なんていう、そのエゴマインドをくすぐるような文句に幻惑されているだけなのではないか?“、という疑いがもたげて来た時、思いがけなく、近くのファミレスで、神の現臨に捉えられ、突き上げて来るような歓喜のうちに、人目も憚らず涙があふれ出し...“これだったんだ!...これを抜きにして私はどこへ行こうとしていたのか?“、と気付かされ、そのすべての私の中心に帰ったのでした。そこから先の如く導かれるようになったのは言うまでもありません。
こんな訳で、このブログはまず私自身のために書いて...書かされていると言ってもいいのです。
私は、読者に対して、私の思想、信仰、私が考えたメソッド(お分かりのようにそういうものは無いのであるが...)を提示するつもりはありません。
ただ、この中心には“神的なもの、真我的なもの“が垣間見れるのは確かなことのようです。
それは言うまでもなく、そういう言葉に限定されるものでもなく、思想や信仰という皮相的、限定的な在り方、アプローチで捉えられるものではありません。
それは、あなたや私に直接的に、直感的に開かれるものです。私は、何よりも私自身のその参入の道として多く祈り、神に意識を向けるということを書いているのですが、もし、あなたに多少ともそのことに共感するものを感じるならば、このブログがその“ヨスガ“にもなれば...との思いで書いている次第なのです。
昨日の今日のことなので、この先のことは、どういう形になるのかまだ分かりませんが、続けられる限りは続けてゆく所存です。
秋まで何ごとも無ければ(?)...よろしくお付き合い下さい。
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肉体を意識すること

2025-04-07 05:47:43 | 雑感
先日、乗ろうとしていたバスの時間を気にしながら、ファミレスで昼食を食べていたのですが、間に合いそうにないので、何と五分でかき込むように食べてしまったのでした。(残せばいいのに、残さない、モッタイない!)
その後、“なんてバカなことをしたんだろう、胃腸に負担をかけるようなことをして!...胃腸さん、身体さんごめんなさい!“、と、いつもは気にしない、自分の身体をいたわる気持ちにさせられたのでした。
トシのセイもありますが、身体は言うことを聞いてくれない!...というより、そのように無理、不自然なことに走らせるものは、その思念なんだということを改めて知らされました。

宗教やスピ界隈には、肉体を否定するような、偏った思念に囚われている傾向が時折見受けられます。中には肉体を無くさないと高次元に進化出来ない、悟ることが出来ないと妙ちきりんな観念に取りつかれたような者もおります。
これは、その逆の唯物論者の人間存在は肉体だけしかない、という思念よりも偏り、歪んだものに感じられます。というのは、人間は見えるものしか認識しようとしないのは、いくらか自然な有り様ですが、そこにはあらゆる現実に無いような空想ごとに思いが馳せ飛び、幻想が生み出されるからです。
彼らは肉体自体が諸々の不調和の問題の種のように思い込むようなのですが、問題の種となるのは、そういう不調和、不自然に暴走する思念であることを知らねばなりません。
肉体は、そのように極端に肯定されたり、否定されたりするものでなく、それとは関係無く、ただ中立に在るものなのです。
そして現実には、それ無しには、そのように思い、為す人間は存在出来ないということです。
だから、もっとありのままの肉体に意識を向けなければならないのです。肉体だけしか無いとか肉体は無い、無くさなければならない、とかの先入観、固定観念を置いといて!
すると...ありのままの肉体というのは、それだけで存在しているように感じられるでしょうか?
これは、この自己は、自己だけで存在しないように感じられることと同じことでしょう。肉体を超えたあるもの共々がその肉体感覚のように感じているものだ、ということなのです。
といって、それは直ちに肉体を超えた霊体とか幽体のようなものを想定するということでは無いですよ。肉体がある、それとは別に霊体、幽体がある、というのは、そのように分けられて、多く空想的に思念されていることに他なりません。
肉体感覚と感じられているものは、肉体だけからは来ない!...それは心的、意識的なものと一つの、心身合一的なものとして感じられるのではないか?
前回、道院の坐法により、内的感覚が芽生えたことを書きましたが、この感覚というのは正にそこから来ると言ってもいいものなのです。
調和というものは、このように別々のように、それだけで切り取られたように思われたものが、合わさるものとして理解されるものでなくて何であろう!
人間は、人間だけで存在しているのでは無い!...それを超えたものと一つのものとして在らしめられているのではないか?
それは、我々にもっとも身近な肉体をもっと意識することにより、その目覚めの端緒が生まれるのではないでしょうか?


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善悪は無いというが...

2025-03-06 07:25:01 | 雑感
いつもは、朝目覚めた時などは、自然と神的な現臨に包まれて、愛、平安に与り目覚めが善いことを書いていますが、当然ながら目覚めの悪い時もあるのです。
まあ、大抵今朝の時のように、悪い夢から覚めた時なのですが...
その内容は、よく覚えてませんが、私が何かをやらかし、運悪くそれを警察に見つかってしまい、“こりゃあ、大変だ、逃げよう!“と、隙を見てバイクで逃げて、小さい路地とかに入ったり、無理と分かってバイクを乗り捨て、何だか私有地だか分からない、ややこしいところを通るなどして、一旦は逃げ切ることに成功したのでした。
これを読んで、もしや私は“悟った人間なので、こういう夢は見ないだろう“、と思われる人もおられるかもしれませんが、とんでもありません!...そういう夢を見るくらいなのだから、そういう人間でないことが分かるでしょう?
“サツだ、ヤバイ、逃げろ!“と咄嗟に思ったりするあなた(?)と何も違いなど無いのですよ!
ただ、こういう夢を見た時のパターンは、いつも同じです。(いつも見てんだ?)
そうです!...私の心のどこかにこういう悪の衝動、保身の念に走る要素は持っているのですよ!(ワルイだろう?)
逃げ通すことに成功しても、気持ちが落ち着くと、“これでいいのか?、心がすっきりしない、こんな精神状態のままこれから生きて行けるだろうか?、自首した方がいいのではないか?“、と一応反省はするのですよ!
そうして自責の念が襲って来る...“ああ、この苦境から救われたい!“と喫茶店で思っていたところに...タイミングよく店の前にパトカーが停まりました。まさかとは思ったが...“あ、あの警官だ!早っ!“
「君がアマワカヒコ(二重人格の私の悪い方の自分の名前)だな?」
「ハイ、その通りです。逃げも隠れもしません!」
そうして、御用になった瞬間は、いつも同じです。(いつも見てんだ?)
もう、逃げも隠れも出来ない!...あのものに捉えられてしまった!、あのものの現前には、すべてを受け入れるしかない!“...と、“ジンジン“とその目覚めの善い時とは、幾分重さを伴った現臨感に包まれるのでした。...
そうです。結局は私はこうなる人間なのでしょう?
善い時とは、違って先のように目覚めの気分は悪いのです。
しかし、夢でよかった!...悪い自分は本来無いのだ!...善悪本来無し!...って能天気なスピ界隈では言うが、本当にそうなのでしょうか?
単純に考えれば、善悪が無いんなら、警察から逃げることも、捕まることも犯罪も無いではないか?
インドの哲学者なら、それらは現象として在るだけで、本来の状態は何も変わらない、とか言うかもしれません。
なるほど、善い時も悪い時もあの現臨感というものはあります。しかし、それは、私の場合なんであって他の人に当てはまるかどうかは知りません。
それに、その後者の現臨感には、自分の隠しようの無い、逃げようの無い場所へと追い込む、あの“重み“が伴っていることが異なることなのです。
そして、その際まった場にあって、重みはあるけれど、その根底にはやはり愛、安らぎが感じられるのです。
この意味で本来善悪は無いとも言えるのかもしれません。
でも、それはこの神的なものの現前にあって言えることなのでしょう。
これは、反省するとか単なる倫理の問題ではありません。
この本来的な律法感無しには、所謂悪行とされるものは、ただ、“やった、やらない、捕まる、逃げた、罰に服した、終えた、許された“、というだけの問題になるだけでしょう。
あの感じ無くして、一体何が解明、解決されるというのか!?
簡単に言えることでは無いですが、善と悪の問題は、我々人間だけの営みからは何らの解明はなされ得ないでしょう。
我々にあの“現前にある感じ“が失われたことが如何に大きなことなのだろう、とワルイ私ながら痛切に感じずにおれません。














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失うもの、失わないもの

2025-02-05 06:15:55 | 雑感
人間はつくづく、失うものを背負って生きているものだなあ、と思います。
地位、名誉、プライド、メンツ、信念...そうそう、信仰とか修行とか...
自分が築いたもの(いや、本当は築いたと思っているものだろう)は、いつかは失ってしまうものではないでしょうか?
そして、“それを失ったらもう終わりだ!“、なんて思ったりして?...思っているだけでしょ?
ホントか?...失ったら自分がどっかへ落ちてしまうのか?
だったら落ちてみたら、落ちてしまえばいいじゃありませんか?、それで本当にオシマイになってしまうのか?
私が高校生の頃、友人と口論になり、何かボロクソに言われ、それに負けたようになり、それまで持っていた、プライド、信念などを失ってしまい、落ちてしまったことがありました。
これは、本当に自分が落ちてしまったのですよ!
もう、ワナワナと全身が震え出し、立っていることが出来なくなり、地にへたり込みながら何かをわめいていたのです。プライドもメンツもありゃしないですよ!
友人にメッチャ傷つけられたのですが、その言葉は、子供みたいなもので大したことは無いと思いましたが...
私は要するに、人一倍プライドが強く、自意識過剰だった、ということです。
そうなってみてハッキリ分かりました。もう失うものは何も無い!...
そして、失うものが無いことは、なんてラクで自由なことなのか、ということが!
私はそれまで何と戦っていたのだろう?...もう、バンザイ!、手放しではないか!...
今から考えれば、これが精神的目覚め、神の手に捉えられる、思考の絡みが解かれ、後退し、歓喜に与る、という体験のハシリみたいなものです。
あのちょっと頭の悪そうな友人(その後けんか分かれしました)は、神の言葉を取り次いでいたのでしょう?
自分が築いて来たものを失ったら、オシマイになるなんてとんでもない!、落ちるんなら落ちてしまえばいいんです!
本当に落ちるところに落ち着く...裏側の人生が始まるのです!
それはしかし、そういうものを後生大事に守っている自分からはそうなりません。
自分を超えたものに依らなければ!...別にケタクソ悪いヤツと口論しなくたっていいですよ。
私は今でも、“あんなヤツと口論して、負けたら自分のプライドやメンツが許さん!“、とは思いますが、“落ちどころ“は知っているのです。
自分の思いを超えた、神的なものを現前にしたら、失うものは何も無い...もう降参するしかない!
神の愛の一撃を受けてしまうのならば!
それは、自分が思い込んでいた世界が終わりを告げ、本当に“自分が在る“、という世界の始まりに他ならないのです!...



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根があって草花もある

2025-01-20 04:56:42 | 雑感
ちょっと前に、“思考に囚われて、あの感じが感じられないので、中々書くことが出来ない...そんな時は無理して書かんでもよい!“、みたいなことをつぶやいたのですが、最初から書く予定の無い時、今みたいに何かすっばらしいものがこみ上げて来て、促される、押されるようなものを感じる時は、“ああ、たまらない、うれしいっ!“っていう感じで書かずにおれなくなるのです!
そんな訳で...

人生の裏側という...表側というのは、現れている、表されている世界...植物にたとえれば、花や草など色鮮やかに色々な在り様で、名もつけられている世界なら、それは隠れている、見えない、名も無き根の世界のようなものでしょう。
根があるから、草や花もある...表のものは朽ちて散る、滅んでしまいます。しかし、根は生き通しである…だから、死してもなお、生命は永遠に生き続けるのでしょうか?
さあ、それは死んでみなきゃ分かりません。
そういうことを人が言っているままに、ただ信じるのでは無く、ここに現れている、一コの自分を超えて、生きてハタライているものを感じるかどうかということが肝心なことでしょう。
この思いを超えてこみ上げて来る、あるいは降り注ぐようなハタラキは、表の世界で、我々がこちょこちょと“方法、テクニック“などと称してやっているものとは比較にならないほど、スケールが大きく、強く根本的なものなのです。
“人間は成長しなければならない!“、などと躍起にならなくとも、それが通りさえすれば自然に草も生え、花も咲くのです。
通りさえすれば!...通っているではないか!
しかし、人間の思いには通っていないらしい...裏側の、根の世界のことは忘れられている...
これが我々の表層によみがえるならば、戦争も止み、夢みたいな狂ったような我々の意識も目覚めることでしょう。
それを促すものは、この裏側からの、根のハタラキしかありません!
見える世界の在り様、形は如何なるものだろうと、根は根である!...普遍的なものというのは、こういうものでしょう。
だから、実在するものは、我々の思い、力を超えた神しか無いのです!
だから、この見える、表側の世界は幻想なのです!...なんて私が本当にそう思って、感じている訳でも無いことを信仰表明のように主張するつもりなどありません!
ただ、この我々の中に息づいて止まないものから浮いて、切り離されたものは夢のように消えてゆくものでしかない、ということは言えるのです。
だが、それはこの現実のように、ずっと息づいているではありませんか?!
表側と裏側は、ずっとつながっているではありませんか?!
見える、表側、外側のことばかりに意識を向けてはなりません。
思い描いた世界だけで、何が真実で、何がウソ、幻想かとやっていたってしょうがありません。
その世界しかないということが、そもそも幻想なのではありませんか?
そのことは、“私はここに私を超えたものとつながって在る“、という事実、現実に目覚めることで明らかになるでしょう!
それは、根っこを通じて、すべての我々につながるものでしょう!
あなたの内にも、その息づいて止まないものが顕わになる、春の到来が感じられないでしょうか?...


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