人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

謎の要人との出会い(後)

2022-10-30 09:59:20 | 回想
飛騨高山で、そのチョイとダンディな、何かの学者のような人と親しくして、名刺をもらって「よかったら、事務所に遊びに来て下さい」と誘われたのでした。
そこに記されていたのは、確か「天然文明協会」という?な名で、私の自宅に近い中野ブロードウェイセンター内にあったので、数日後訪れてみたのでした。
生憎、本人は不在で、番頭のような人が居たので、そこはどういうことをしているところなのか、訊いてみたのですが...神サマに関する研究?、占い?...今ひとつ分かりません。
そこで、その人が書いたという本を見せてもらったところ、何やら○と線の組み合わせによる謎の文字がいっぱい出てきました。
当時はサッパリ何だか分かりませんでしたが、これがあの超古代日本から伝わるという「カタカムナ」図象だったのです。どうもこれと大正、昭和に活躍した神道霊学者、荒深道斎の教説~これをつなげるものは神戸周辺に点在している謎の太古巨石モニュメントであろう?~をミックスさせたものらしいことは分かりました。
もう一つ所々、「統一球原理」なる表現が使われていましたが、まさかあのヤバイ教団のことではあるまいと思いましたが...ともかくその本を入手出来なかったのが残念ではありました。
それから又数日後の11月初旬、私は突如思い立って、大本教東京本部から住所を聞き出し、その提携団体である、銀座の道院紅卍字会に初めて行きました。
奇しくも当日は、創立記念のイベントがあり、典礼が行われていた最中に飛び入り参加したのです。すると私のすぐ後ろから何やら声がするので、振り向くと、何とその人も来ていたではありませんか!
そこではやたらと拝礼をするので、「どうも腰が痛くなった」と笑っていました。
先の高山の神業には、これ又謎の女性霊感者、三宅女史も来ていて、その人が道院の会員で、サークルの中核のメンバーである(自称)宇宙考古学者、高坂和導さんは、その縁で後日私と同じ頃、求修(入会)したのでしたが、おそらくその学者風の人もそのツテで参加したものと思われましたが求修はされなかったようです。
それから又その月下旬頃、サークルの関係でお会いしたのが最後なのでした。
その後、私はそのサークルから遠ざかることになり、疎遠になったのですが、それから数年後の昭和59年頃だったか、彼の経歴、消息について書かれてあるのを何かの雑誌で読みました。
彼の名前は「小宮山嘉一」。...何と、今話題に事欠かない旧統一教会の日本におけるその組織確立(主にその理論方面)に重要な役割を為した人物だったのです!...”あれは、やはり!”
そして、その当時の消息は?...今に至るも不明のままなのでした!
というのは、その前年富山立山に神業に向かったまま消息を絶ってしまい、遺骸も発見されずじまいとのことだそうです。
小宮山さんは、統一教会に関わったことを後悔しており、全国各地に神業に赴いていたのは、その罪滅ぼしの念からだったとのことです。
私には、あの高山の道中で、「僕は今道を求めているのですが、いくつも道があるようで、どの道を行ったらいいのか迷っているのです」と洩らしたら、「いや、自分で決めようとしなくても、求めている向こうの方から”これだ!”、というものに出会わせてくれますよ!」という意味のことを言われたことが印象に残っています。
それから数日経って、その統一教会絡みで苦難を背負い込むことになろうとは、当時は知る由も無かったのでした...。
しかし、それを通して思いを超えた世界が開かれたことも確かなことだったのです。
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謎の要人との出会い(前)

2022-10-28 10:05:39 | 回想
昭和53年10月、私は当時関わっていた、「新しい文明を造る会」という仮名の、学術団体というか、イレギュラーなサークル主催による、飛騨高山にある神サマ関係の間ではよく知られているパワースポット、「位山」における一大行事に参加したのでした。
そのサークルは、その年の春、発足当初は、研究テーマとして精神世界とかオカルト関係全般を対象として、これといった方向性、特色の無い、要するに何をしているのか分からない団体だったのですが、その時には、前記の通り神サマ関係、大本教系に連なるような神道霊学の色を強めていたのでした。
私も半分くらい?は、そういう世界に足を突っ込んでいたのは言うまでもありません。
で、その古来より霊山の誉れ高い地にあって、如何なる行事が行われていたかと言うと...私の理解を超えること故、詳しくは申し上げられませんが、形としては神祀りに過ぎないのですが、その統一された願いは、どうやら、太古の神を世にお出しすることに向けられているらしいことは分かりました。
そして、”日月の神”のみ顕れかどうか分かりませんが、行事が終わった直後、雲を押し開くように、日と月が同時に顕わになるという奇瑞にも恵まれたのでした。私には忘れ難い光景です。
前置きが長くなりましたが、この道中のバスでほとんど私と臨席だった方が50代くらいの知的な紳士なのでした。
どういう経歴の方かは全く分かりませんが、そういう所へ客人みたいな扱いで参加しているのだからある重要なお役を担った神サマ関係の人、”ご神業者”らしいことが...しかし、どうも通り一辺では無さそうな...というようなことが想像されました。
道中、色々親しく話を聞きましたが、一介のビンボー学生に過ぎず(参加者では私が最年少だった?)、ずっと年配だったにも関わらず、敬語で接してくれていたのには恐縮しました。
そして、その話ぶりからあの関係の人特有の、ある種の”神がかった“ようなクセなどほとんど感じさせない、バランスの取れた性格が伝わって来るのでした。
とにかく、神サマごとに限らず、宗教的なこと全般に並々ならぬ知識を持っている、様々なその団体も遍歴している、貴重な体験も豊富のようなことが容易に伺われるのです。
学者タイプには違いないが、この人は一体どういう人物で、その広い宗教的、精神的な研究にあって、専門に携わっているものは何なのか?...当時、位山に雲がかかっていたように、求道の帰着点を見い出せずにモヤモヤとしていた私の精神に、元なる、まことの神が顕わになるようにも、光明に与るヨスガともならないか、と興味を掻き立てられずにおれなかったのでした...。
(続)
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平和な統一原理

2022-10-27 10:41:30 | 雑感

旧統一教会問題のことが連日報道されていますが、アタシャもう、バカバカしくて...今頃何言ってんだ!、と...
まるで、何十年もガンに冒されていた人がつい最近になってその事実が判明し、”大変だあ、何とかせねば!“、と騒いでいるような感がしてなりません。

”悪い所はさっさと切ればいい!、いや、それがどうも正しい所にも及んでいるようで、ヘタに切る訳にもいかず、それにあちこち転移するかも知れないし、もっと見えない所に引っ込むかも知れない...ま、とりあえず見えてる一部んとこだけ切って捨てときゃいい! しかし、それが”しんぞう”の当たりに端を発しているのだから、”安い“問題じゃなさそうで...“

若い人はともかく、統一教会のことをつい最近知ったという人は少ないでしょう。
私がこれは、”ヤバイ宗教だ!”と認識したのは、70年代中頃以降のことでしたが、それ以前の60年代から問題視されていたようですね。
特に80年代中頃からは、霊感商法が取り沙汰されるようになり、ハッキリ犯罪組織の疑いも表れてきました。 それから何代も首相が代わりましたが、どう対処してきたのでしょうか?...国民的な事件が起きなければ、明るみにならないので関知しない?...問題が発覚したとして、責任は現任の者が取ればいい?
信教の自由?、触らぬ神に祟り無し?、政教分離の原則?... いや、あの団体には「勝共連合」というレッキとした政治団体が下部にあり、公的団体との癒着のことなど暗黙の内に認知されていたのではないですか?
いや、それを言うなら、誰しもが“あっ、そうか!”と思う、公に明るみになっている問題だってあるぞ!
いやいや、今頃追及の矛先が違う方に統一されて、ほくそ笑んでるのは、オウム真理教の残党団体かもしれない?
疑わしき団体は、この際弾圧を加えるに限るのではないか!...プーチンだったらきっとやるだろう...
戦前の大本教弾圧事件から一世紀...昭和の初期は戦争をやっていたのですよ!
今の日本は、一人のキ印の人間、一つの狂気集団によって国民全体に危難がもたらされることの無い、良くも悪くも構造的平和国家みたいなものなのでしょう。
国民一人一人は、どうも個人主義なのか、バラバラのようで、コロナ対策が緩和したにも関わらず、どういう”統一原理”が働いているのか、どいつもこいつもマスクしてるぞ!
気持ちわり~!(私もしなきゃならないような気がするからしてますが)
これでいいのか、悪いのか?...サッパリ分からない...
が...根本的に悪化する因子については、見直した方がいいと思いますよ!...

コメント (2)
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超法則

2022-10-25 09:34:52 | 詩的文章
不幸があるから幸福がある...
悪があるから善がある...
善を思い、善を為せば善運があり、
悪を思い、悪を為せば悪運がある...
因があるから果がある...

不幸な時は不幸、幸福な時は幸福
悪い時は悪く、善い時は善い
何が因で、何が果は知らない...
何の縁で、何が起きたかは知らない...
何の法則かは知らない...

今朝は突然寒い!
気圧配置が変わったから?
風向きが変わったから?
日が差さないから?
何でかは知らないが...
とにかく寒い!
寒いものは寒い!

しかし、最近天気予報は当たらない!
当たる時も、当たらない時もあるだろう...
寒い日に当たっちまった!

当たっちまったものはしょうがない!
幸か不幸か?
善か悪か?
寒いんだから、どうでもいい!
暖かい部屋に居る予報士には分からない!

寒いものは寒い!
肌身に寒い!
日が差した!
肌身に暖かい!
肌身に感じなきゃ分からない!
この身に通れば、なお分かる!
何の法則かは知らないが、直に分かる!
善いことも悪いことも...
通る...それは...
絶対、善いことに違いない!
でなきゃ、通らんだろう?...
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宿業を生きて

2022-10-23 10:30:09 | スピリチュアル
私のようにずっと都会生活をしていると、ご存知のように、とにかく人間関係にまつわる摩擦、アツレキが絶えないのなのですね。これは、もう宿業と言えます。
だから、都会から離れて山奥に引っ込んで生活したほうがどんだけいいか!...な~んてことを本気で思ったことなど一度も無いですよ!...きっと宿業なんでしょう。
業が渦巻く都会生活より自然に囲まれた生活の方がそりゃいいかもしれない。だけど飲食店、コンビニ近くに無いぞお、チョイとそこまで...行けない!、不便だ、メンドクサ!...それだけでしょうか?
愛、平安に与る...これを何度書いて来たことか!...私はこれをその宿業にまみれた都会生活の中で書いているのですよ!
それは、私個人だけからは、けっして与ることなど出来ないのは言うまでもありません!
人間関係の中で生きていることが当たり前になっているので、普段意識されることはありませんが、私のように煩わしい人間関係を嫌い、孤独を愛する人間であってもそうなのです。
現実には、形の上では単独であっても、人はけっして孤独にはなれないのです。“私は孤独だあ“、と感ずる時には、関係性が意識されているはずなのです。
そして、私はそのように孤独な生活を満喫(?)している訳ですが、その実孤独を感じることはほとんど無いのです!...この都会では無理です。
それに...私には常に“あの見えない御方“が共なっているではないか!...絶対に一人っきりにゃなれっこありません。そもそも“愛“なんて言葉はどこからも出てくるはずないですよ!
愛、平安...それはこのものあってのものに他なりません!
そうでなければ、人間関係なんてものは!...語るだに呪わしい!
ホント、バカバカしいったら、ありゃしない!...けど、やめられない...宿業。
人は皆、意識するしないに関わらず、その過程、結果は様々でしょうが、人間関係に幸福を求めているのではないでしょうか?
そして、本来の人間の在り方というものは、どっかで感じているのではないでしょうか?
しかし、見える人間関係、人間の在り方には、十重二十重にその本来性を業想念が覆い、見えなくしているのでしょう。
しかし又、その人間関係の裏側には、見えないその本来性が隠されているのです。
それは、“命の有機的つながり“とでも言うべきものでしょう。私はこのつながりにあって私であることが出来る...それから切り離されることは無いのです。
そして、あの御方、霊なる形無き命こそは、分かち難く、そのつながりに調和たらしめているものでしょう。
宿業そのものとも言えるこの私、私を取り巻く人間関係にその命が息吹き、通る時、我々は愛、平安に与り、本来性に帰ることが出来るのです。
これは、ハッキリと意志的にしていることでは無いけれど(させられているから?)...ただ、その形無き命の顕現、そのハタラキのいや増さんことを!
これが私の形無き祈りなのです!...
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