人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ギャン・ヨガって何だ?

2022-03-30 10:56:13 | 祈りと瞑想
瞑想指導者、金井系一郎先生の動画(金井メソッド)を観ていて、いくつか種類のあるヨガの中で主要なものを紹介、解説していたのですが、バクティ.ヨガ、カルマ.ヨガときて...ギャン.ヨガというのが出てきまして...
“何だ、そりゃ?”、ってなってしまいました。そんな名称は聞いたことが無かったものですから...
といっても大体は察しが付きました。ヨガに関心のある方なら常識なのかもしれませんが、元はどう書いて、どう発音するのが正しいのか分かりません。とにかく、それは先生の説明にもあったように、知識のヨガ~”ジャニアーナ.ヨガ“で間違い無いでしょう。
ただ、それは私のこれまで知っていたものとは少しく違っていました。
ラマナ.マハルシなどが推奨している、“私は誰か?”、とひたすら尋ねて、真我の実現を目指す瞑想もジャニアーナと呼ばれていますが、それは賢者の道とも呼ばれ、その説明にあったような知性を用いて、哲学的に探求してゆく道とはちょっとイメージが結びつきません。
大体、そんな考えていたら瞑想にならんではないか?、って感じてしまいます。
いや、よ~く考えるのが瞑想だ、という人も居るし、もうややこしい!...
どうも、これはラマナなどの非二元の探求者の間では、その一般的な理解を超えて、特出されて来ているような気がします。
しかし...そのように、哲学的探求から入って、真我実現、精神的覚醒に導かれない、のかといったら...多分、そんなことは無いでしょう。
私は、ロシア(今で言うと、ウクライナ!)の哲学者、ベルジャーエフの本を読んでいて、その一歩手前みたいな意識状態になったことは、ここで何度も書いています。
玉城康四郎先生は、ある仏典、デカルトの本を読んでいて、木っ端微塵の精神的爆発に与ったことにこれ又何度も触れています。
読書家の私なんかは、そういういくつかの読書体験から、ヘタな瞑想なんかよりよっぽど、その揮発的スイッチに触れやすいものを感じているくらいです。
それはしかし、その題材が精神の内奥に通じており、読み方~取りも直さず意識の在り方次第によっては、“触発”の可能性が秘められているものであることは言うまでもありません。
あーでもない、こーでもない、と考え続けている人は多分、ただのヒマ人ですよ!
本場のギャン.ヨガでは“バカヴァットギータ”が題材としてよく用いられているそうで、これは納得。
何だか読書ヨガみたいな話になってしまいましたが、私は”私は誰か?“と尋ねて、真我実現は勿論、魂が揺さぶられるようなことに導かれたことは一度も無いのです。
よ~く考えてそうなったことはあるかもしれませんが、それが深まると何も考えられなくなったりしますが、読書からす~っと何かのツボに入って、そうなることもよくあるのです。
これは、普通“考えられている”思考とは別に、それを超えた、あるいは、その根本にある純粋意識とつながった言わば、”思考の源“に通じた回路みたいなものが隠されているためでしょう。
知識のヨガのネライは、そこにアクセスすることにあるのでしょう。
それはしかし、ヒマ人と隣り合わせのものであることは言えます...。

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直に合いまみえる

2022-03-28 10:06:31 | 現臨、ハタラキ
“生きるとはどういうことなんだろう?
生、生命...私は本当にそのものに合っているのだろうか?
関わっているのだろうか?、触れているのだろうか?
窓越しに眺めているだけなのではないのか?
直に触れているという感じがしない...
いや、触れているとしても...
ガラス細工で出来ているみたいで、確かな手応えというものが伝わってこない...
本当にそれで、私が生きているということでいいのだろうか?...”

生きるとは?...と、頭で意味を追及して行っても中々全的に頷ける答えは得られないでしょう。
そうやって、考えている自分のままでは、どこまでも何か周りのすべてが透明な壁で隔てられて、ベールで覆われているような感じがつきまとってしまうのではないでしょうか?
そのように、思考によって壁が作られ、ベールがかけられていると言ってもいいでしょう。
生きること、生そのもの...それは全く、これ以上ないほど自己に直接関わる、直結したことであるはずです。
ここでは、神に出会うこととか、精神的目覚めのことなど、言い方はどうあれ、そういうことには触れませんが、それらはその、壁が取り払われ、ベールが剝がされた意識状態...周りのものそのまんまが直に自己と関わり、交わるような状態になっていることに他なりません。
言い方を変えれば、それはそのまんまの自己に会うということであり、それが又神に出会うということになるでしょう。
神的なものがこちらに臨んでこなければ、そういう世界が開かれるということは無いのだから...
この現実に臨むもの...現臨。
このもの無くしては...”考えるのをやめたらいいのです!“とか、“直に対象と向き合えばいいのです!”、といった出来もしない実践の教えや、何処にも行き着かないような哲学的抽象論など、空しい言葉が取り交わされるばかりでしょう。

“生きるとはどういうことなんだろう?”...
そういう実存的疑問が起こったならば、ヒマ人の抽象論などにしないで、本当にそのことを尋ねたい人に訊いてみたらいいでしょう。
あなたは、”そのものに直に触れたい!、合いまみえたい!、と言っているのでしょう?
偽りのない、真っ直ぐなあなたに向き合って下さい!
あなたの本当の尋ね人は、すぐ近くであなたをを待っているのが感じられないでしょうか?
真っ直ぐな心で尋ねてみたらいいでしょう。
”あなたは何処におられるのですか?“...と。
問うているものと、答えるものとは全く薄い壁で隔てられているだけではないのか?
突破は時間の問題でしょう?
その壁は本来無いもの...かもしれない...
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気迫の勝利

2022-03-26 10:16:56 | 雑記
今月19日、ボクシング、ライトフライ級世界戦で前王者、寺地拳四郎が見事KO勝ちで、因縁の再戦を制して王座に返り咲きました。
“あー、こんな好カードなのにすっかり観るの忘れてもうたあ“...という訳で二日前にやっと観ることが出来た次第...
この試合は、最近予想が外れっぱなしの、私の久しぶりの完勝試合なのでした!
“今度やれば拳四郎が必ず勝つ!、KOで!”
だが(多くの予想もそうだったであろうように)、それはいつものクレバーな試合運びで、適格に優位に試合を支配し、中盤以降、勝負どころで決めにかかるものと頭に描いていたのです。
状態さえ良ければ負けないだろう...半年前の一戦は、それには程遠いように見えました。自身のコロナ感染のために試合が延期されたのは当然だとして、その期間僅か二週間とは!
そして、あの物議をかもしたバッティング問題...有効打を当てて、明確にポイントを取らなければ勝てない、いやKOを狙わないと...
拳四郎がKOで勝たなければならない理由がはっきりあったのです。
しかし、これは驚いた!...状態も前回とは段違いのようだが、気迫がまるで違う!
”絶対勝つ、絶対倒す!”...全身にそうした気概があふれているようでした。
相手の矢吹は、完全にこの気迫に飲まれているようでした。
これは、全く前試合と立場が逆転しているではありませんか?!
”オール.オア.ナッシング”...矢吹は、その試合にすべてを掛けるように臨みました。
”何がなんでも勝つ!”...その気概が(私にはそんなに悪意は感じなかったですが)あのバッティングにも表れたのでしょう。拳四郎はこの気迫に負けていました。
そして、思いました。矢吹は次やったらきっと負ける!...すべてを掛けてしまったその後は?...
ボクシングは気迫だけでは勝てないのは言うまでもありません。過去に気迫、根性が空回りするだけで、外国選手の高い技術にあしらわれるという場面は何回も観てきました。
だけど、この二試合を観て気迫が大きく試合を左右することがある、ということをまざまざと感じさせられました。(絶対王者、井上の強さの秘密も伺い知れました)
それにしても、短期間で変貌した拳四郎のアグレッシブなスタイル、ワンパンチ.フィニッシュぶり!
彼の強みは、その技術の習得の早さ、柔軟性にあると思います。
前回の敗戦のショックで一度は引退も考えたのだと言う。それを思い留めさせたのは、長谷川穂積さんの言葉だったらしいですが、二人とも王者になってから実力がアップした(特にバンチング.パワー)好例と言えるでしょう。
今回見せてくれた、技術に裏打ちされた、長谷川さんらが持っていた、”倒すぞ”オーラ...
モデルチェンジした今後の拳四郎に期待しています。
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何も無いことがすべて

2022-03-25 04:06:11 | 独語
ユダヤ、キリスト教、イスラムは一神教、エホバの神、アラーの神、キリストは神か否か、人格神がどうだとか...
仏教は神を認めない、大乗は釈迦の教えにあらずとか...
非二元論が究極の真実、否この世にあっては二元論が真実とか...
どの神につながらなければならないとか...
○○先生の教えが正しいとか、どこに何が書かれているとか、そう...自分が言っているのが一番正しいとか...
すべて、“好きにしろ!”ではないか!
何ものかに寄りつかなければ、立ちゆくことが出来ないのだろうか?
すべては考える自分がそう言っているだけ...
その他大勢が、誰かエラい人がそう言っているから、そういうことにしているだけ...
神を認めようが、認めまいが自分以外の何かに寄りついているのは一緒!
信仰に、主義に、修行に、メソッドに寄りつく...
何ものにも寄りつかない、という孤高の生き方に寄りつく...
考えている自分が居るだけ...
考えている自分には、すべてを受け入れることも、すべてを捨てることも出来ない!
甲を取っては、乙を捨てるだけ...
どうしても、こうしてもそういうことになるだけ...
考えている自分が居る限り...
もし、その宿業から放せしめるものかあったとしたら...
それは神だろうか?
自分本来から来る何かだろうか?
”好きにしろ!“?...
そうなる?
多分...なるようにしかならない...
何かに従うも、寄りつくも...己に律するも無く...
そのものに為さしめられるだけ...
それ以外なんにも無いだろう...
何も無いことがすべて...

問答無用!






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きっと会える!

2022-03-23 10:00:54 | 詩的文章
会いたい!
どうしても、どうしても...会いたい!
会わずにおれない!
最愛の人...
まだ見ぬ人...
きっとどこかに居る...
きっと私を待っているんだ!
私が待ち焦がれているように...
もう、他の誰かのことなど眼中にない!
会えばサイコーに幸せになれる...
そうに決まっている!

何で分かるのかって?
さあ?...

会えば私の人生はきっと変わる!
そうに決まってる!
会ったらきっと分かる...運命の人!
何世も前から定められているような...
ああ...この胸の高鳴り...
やむことがない!
この思いはどこから来るのだろうか?
まるで、まだ見ぬあの人が呼んでいるよう...

私はここに居ます!
だから、早く私を捉えて下さい!、掴まえて下さい!
まだ見ぬ最愛の人...
私はこの出会いのために生まれてきたんだ!
だから...
きっと会える!
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