人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

共感と啓示

2017-07-30 13:43:53 | スピリチュアル
「これまでの迷いが一つ一つ解き放たれて自分が自由になっていくのが自分でも自覚された。それとともに心を超越したある力を体感した。」
(マクドナルド.ベイン「解脱の真理」)

マクドナルド.ベインの教説は、それが本当にトランスヒマラヤの導師からもたらされたものなのかはともかく、クリシュナムルティとの類似が指摘されています。
ただ後者の著書には、見えざる導師が臨在するとか、ツンモの秘法の伝授といったような話は絶対に出てきません。
自分以外の導師といった存在は全く出る幕がないようです。
なにしろクリシュナムルティは、世界教師、マイトレーヤが降臨する寸前、自分自身がその聖壇から"降りた"のですからね。
一方、ベイン師の著書では、あれほどまでに"直接経験の道"(私がこの種の教説に接したのは初めてでした)を表していながら、何故一見そぐわないような、そうしたエピソードが挿えられているのか疑問にも思ったものです。
しかし、よくよく考えてみれば、昭和54年のその当時、私は自動書記による神示と呼ばれているもの(日月神示、要之神示)、フーチによる壇訓(道院)などにも親しんでいたのでした。
どういう経緯でそういうものが現れるのか、どうかなどほとんど考えたこともありませんでした。
イイカゲンな私が言うのもなんですが、こうしたものについて言うべきは、"疑うべき時には、疑ったほうがいい...疑わなければならない時もある..."ということです。
しかし ...そこにある共感、感応というものがもたらされたら...自分の中の科学的、常識的理性との相談ということになりそうですが...理屈抜きに惹かれてやまないものに捉えられてしまったなら...オチるところまでオチなきゃしょうがない、というものでしょう。
"そこに共感するものがある"...それが何よりも肝心なことなのです。
OOの神が語ろうと、宇宙存在、10才にも満たない脳障害児のメッセージだろうと...
何にどう共感するかということは、人各々の気線、因縁にも因ることですが、捉えられてしまうことはあっても、これはその傾向は多分にあるものですが、有識にトラワレ無いことが重要なことです。
予言だとかアカシックな史実? 確証のないことを確たるものとして語ろうとするなど、容易くトラワレるということは、共感というものがなおざりになり、本質的でない"理"に走ってしまうということなのでしょう。
それは、感性が自由でないとも言えますが、私の場合、どういうものでも自由というものを感じさせないものには共感した試しがありません。
あの当時のことを言えば、ただ見えない導きのままに従って、共感出来るものに巡り会うということが相次いでいたのです。
そしてその高揚感をともなった導きを受けている時、意識の変容の予感をヒシヒシと感じていました。もっともその事自体ある種の意識の変容でしょうけれども...
ベイン著というのは、何回読み返してもその時のことがアリアリと呼び起こされます。
しかし、これは各々の機根にもよりますが、私はクリシュナムルティには、そういうものはあまり感じないのです。
相通じることが語られていることは分かるのですが何故なのでしょう? 私が好きそうな(?)エピソードが盛られていないから?
いや、おそらくそれは、ベイン著でその精神の変容に至るプロセスが、その何人かの導師との交流を通じてもたらされていることを伝えているからだと思われます。
肉体を持っていようと、いまいとそれは導師との関わりにおいて起きているのです。
一方孤高の賢者クリシュナムルティが我々に示しているのは、徹頭徹尾何ものも介する事なく自己観察、洞察することです。
ベインにおいても同様のことが主軸となっていますが、その啓発を促しているのは導師たちであり、そこにある"力"のようなものが伝達されているのが何となく伝わってきます。
では、クリシュナムルティにはそうした関わりが無いのか、といったら...あるでしょう。なきゃオカシイです。
考える自己がどんなに自己観察、洞察して、思いを越えたものを見いだすべくトライしようにも取りつくシマもないというものでしょう。
既に何かにトラワレた自己が、トラワレた自己を観察、洞察など出来ません。
それは他者からもたらされる"観察力、洞察力"によって可能なのではありませんか?
そしてこの他者は、本来の自己と切り離されたものではない...だからこそ共感というものが起きるのでしょう。
自己の大本は絶対他者として現れることもある ...神示とか啓示と言われるものもそうしたことを象徴しているのかもしれません。












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マクドナルド.ベインとその導師

2017-07-28 18:17:30 | 人生の裏側の図書室
「息子よ、そんなのが本当かどうかは大した問題じゃないんだよ」
(マクドナルド.ベイン著「解脱の真理」.霞ヶ関書房刊)

このブログでコンスタントに人気を集めているらしい記事は、スコットランド出身のヒーラー、霊媒マクドナルド.ベインの「心身の神癒」という書物の書評モドキのものです。
一般には、そんなに知られておらず、ごく一部の本しか紹介されていないにも拘わらず、この謎の著者には今もなお隠れた、熱烈な支持が集まっているようです。
「解脱の真理」は、著者がその人生の一大転機になったであろう、秘境ヒマラヤにおける"見える"あるいは"見えざる"導師、大師との交流、そこから数々の啓発に預かった模様を記したもので、こちらを前編とすれば、94年に出された「キリストのヨーガ」(出帆新社刊)はその後編に当たるもので、合わせて読まれることをオススメします。
私が"前編"にめぐりあったのは、昭和54年の夏頃。何度か触れているように、その年初めから私の心身にあのジンジンとした感覚が芽生え出したのですが、同時に宗教などで語られる神、霊的存在、霊界、幽界、前世...といった、何らの確証も無く、それを知ったからといって、何らの魂を揺さぶる高揚も、愛の実感ももたらさない言辞、やたらと相対観ばかりを強めるばかりの"ここにしかない教え"といったものに対し、にわかに疑問が生じてきたのでした。
そして"固定観念をいくら信じ込んでも、頭で分かったつもりになっても、ホントには何一つ理解などしていないし、むしろそれが開かれる通路を閉ざすことになるだけではないか..."という気付きが強くもたらされたのです。
そんな折、この本を手にとり、目次を見て「何々...秘法の伝授?、神秘の交霊会?"なんかなあ"...」というものは過ったものの、「実在は心の中で作りあげられるものではない。実在はそれ自らで実在するのだ。...君の心が何ものにも捉われず自由になった時初めてそれは出現する。...」といった、師の言葉の片鱗に触れ「全くそのとおりだi...そのとおりでありすぎるではないかi」と感じざるを得なくなったのでした。
それは、触れる度にもたげてくる、その言い知れぬ高揚感、そして理屈抜きにそこに惹き付けてやまないもの...こういうものがアリアリと実感されたからです。
ベイン師は、この秘境探検に赴く以前から、知らずにそれに預かっていたようですが、見えざる導きとはこのようなものなのでしょうか?
ただ、あまり本質的でないことですが、このストーリーには、"作り話ではないか?"という疑いがないわけではありません。(何らかのこの本で書かれているような神秘的邂逅というものがあったのは間違いないでしょうが...)
"見える"導師については、おそらく当地のラマ教の師家と思われ、この書でもその界隈には数々の迷信、妄信が取り巻いている様相が描かれていますが、果たしてそこにあんなにも普遍性に根差した教えを語るマスターが、ラマ僧の覆面をして"上手く"潜んでいたりなどするものでしょうか?
私の推測ですが、これはベイン師自らはその師性を隠匿し、その内なる普遍世界からの音信の数々の出所を数人の"見える、見えない導師"に帰しているように思われるのです。
これは「心身の神癒」で、別の形で霊現したキリストに帰していることと通じるものが伺えるでしょう。
序文で「私自らは何らの主張をも為すものではない...」と述べていることを著者自らここで証そうとしているようには思えないでしょうか?
そして、これは実に「そのとおりでありすぎる」ような気付き、精神の変容のプロセスを物語るものではないでしょうか?
全くもって、それは個人の力、知識、意志に因るものでなく"思いという山脈"を越えたところからもたらされるのです。(この書の原題は"ヒマラヤ山脈を越えて")
それにしてもベインさんは、その師からの啓発に富んだ言葉に接する度に何度も「私は今初めて気が付いた。実在の強大さに気が付いたのである...」といった感慨を繰り返しています。
「後編」においてもまだ繰り返していますが、余程物分かりが悪い人なのでしょうか...(笑)
いや...それは実在に触れるということは、正に「今の今である ...」ということを伝えようとしているのに違いないでしょう...。



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神を求め、神を手放す

2017-07-27 03:55:04 | 
神というものは、一神である、多神である、いや理神である...
神に至るには数種のレベルがある...
神に、悟りに至るには、これこれの信仰、方法によらねばならない...。

いつも書いていることですが、何を信じようと、何を行じようと勝手ですが、神御自らがそういうことを告げたのでしょうか?
大方は、真の確信、安心を見出だしている訳でも、又そのように洞察がなされている訳でもなく、所与の教えなりに迎合しているばかりなのではないですか。
よくよく思慮も無しに、他所からの言葉に躍らされるのは、実にキケンなことと言わざるを得ません。
中には、ハタ.ヨーガぐらいならともかく、覚醒ということ自体を目的に瞑想に赴こうとする者も見受けられます。
取り返しのつかない火傷を負うような事態にならなければいいですが...
こういう向きにはクンダリーニが上昇しない方がむしろ幸運というべきでしょう。
ここには、神について語られることはあっても、実際には神的なものは臨んでいないのです。
神が臨む以前に、思念によって神の観念が取り込まれ、思念によって固められ、心に定見による砦のようなものが築かれてしまうのです。
そして、ますます神的現臨が流入する道は閉ざされ、確証のない、思い思いの空想、妄想に馳せていくばかりになります。
現臨が臨むということは、思念から離れるということにも関わらず...
チッポケな頭だけの思念、自力的な、自己のみに帰された力、自己の限界...そこにこそ、自己を越えたつながりへの気付き、目覚めというものがあるのです。
神的なものを抜きにした、そこから切り離されたどんな信仰も修行も覚醒も、その内実は失われ、信仰のための信仰...独り歩きしたものになってしまうのです。
そもそも自己の限界というものに突き当たらなければ、本当には自己を越えた神的なものへの発心というものは起きてこないのではありませんか?
そこに祈りというものが生まれて来ます。
神がお手軽に捉えられ、自己の限界が示されることも無いのなら、祈り、神信心というものは本当には出てこないでしょう。
先に"洞察"ということを言いましたが、これは何も"他所からの言葉を受け売りばかりしていないで、自分自身で考える"ということばかりを言っている訳ではありません。
"考える"というのは、限界内の思考を巡らすことですからね。
洞察ーインサイトーというのは、通常理解されているような、意念的に思考を巡らすことというよりも、内を照らし出すハタラキのことでしょう。
表層的な思いに隠れた本性的な知恵です。
一方で恩寵という、天来の超越的な響きを持ったハタラキがあり、上からも、下(中)からも神知が与えられるのです。
いずれにしても、それは神そのものを求めるという、心持ちから生まれるものでしょう。
神そのものを求めるということは、安易に思念で捉えられた神、砦信仰から離れるということです。
諸々の定見があったままで、本当に生きたものが流れてくることがありません。
今は、既存のものはますます衰退してゆき、隠れていた本来的なものがますます顕わになってくる時節ではないでしょうか...。



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花が咲く

2017-07-25 17:09:18 | 詩的文章
僕はどうやら花とか呼ばれているものらしい
僕はもうもうと生え繁った草木にポツンと突き出てるんだ
どっからどこまでが枝や幹で、
どっから突き出ているのかはわからない
下のことは、地面の中のこともよくわからない
そっちではどんな苦労があるのかもよくわからない
たぶん...僕の想像を越えているんだろう...
地面はぐじゃぐじゃだし、石は固そうだし ...
おんなじ苦労をしてたら、僕はひとたまりもないだろう...

なんだか下の方からものすごいものが込み上げてきた
だんだん上の方が押し上げられていく
だんだん先っぽが広がっていく
花が咲こうとしているんだ...
僕も頑張ってみよう...としても...
込み上げてくるものは、このガンバリをはるかに越えている
一体、僕は何を頑張っているんだろう...
僕はどうやらとてつもないものにくっついているらしい
僕の思惑は下からの思惑に押し上げられる

下の方の苦労は、押し上げる力と同じで、
僕には預かり知れない
ただ、その苦労はこの開花に向けられているのだろう...
花は咲く時に咲き、実は実る時に実る
今は花が咲く時...
僕には下の方でどうなっているのか知らない
でも...この押し上げる力は下から来ているんだ
咲かそう、実らそうとするものにゆだねるしかない
先っぽのものは、支えているものに乗って
花が咲くということがあるだけ...

さあ...来たぞi
パーッ...









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人生の教師と見えざる導師③

2017-07-23 13:47:34 | 人生の教師
私はこの世の如何なる精神的団体とも、全身全霊をもって共振したことも、その関わりは根付くことはなかった...
これには何度か触れているように、大学生だった頃入信していた新宗教で受けた、苦い経験がずっと心根に横たわっていたことに起因しているのです。
ただ、私における人生の教師たち、導師たちに対するものは又別のものがあったのです。
もうその出合いから数十年も経っているというのに、今もなおアリアリとあのジンジンとした高揚感を覚えるのはどうしてなのでしょうか?
これは現臨感とでもいうようなものなのですが...そうなのですi
私はこれらの存在方を通じて現臨と出合わされていたのですi
そして私は、どんな宗教、思想、肉身を持った導師にも全身全霊を挙げて帰依、明け渡すことはなかったのですが、この現臨ー見えざる導師ーの前には木っ端微塵になってしまったのでした。この予感というものは、先の出合いの中で示されていたのです。
精神的団体との関わりの中で、その自己の明け渡しの契機にも似た経験が全然なかった訳でもありません。
ここに、周囲の人からは「この団体、ここにあなたが求めているものがあったのですねえ...」と、思わせるものがあるらしいのですが...
"こことは一体どこなのかi このものに無い、ここというものがあるのかi"
私はどこまでも現臨に捉えられていたのです。
こう言うと、何か訝しく感じて「あなたには何ものかが降りてくるのか、臨むのか知らないが、私にはケッタイなことになってるあなたしか見えないが...」という人も居るかもしれません。
私がいくら「このものに有る、ここがあった...アンタ、ケッタイな目をして何を見てんだi」と言おうが、一人のケッタイなこと言う御仁の一主観と見なされてしまうのです。
しかし、平成4年春、大調和協会神戸支部で、私が"爆発"した時のことは少し様相が違っていました。
あるハタラキがその場に立ち込めているのが感取されたのです。
あの爆発というのは、私の隣で集会の感想を述べていたKさんの言葉が引き金となり、いささか鬱積したものを抱えていた私に、その思いを越えたものが引火したことで起きたことです。
それは私の一主観というものを越えて、客観に現存するものが応現した、ということを物語っているのです。
これは協会のその名告りの根幹ともいうべきものなのですが、少なくとも私がそういうものを目の当たりにしたのは、その時なのでした(最初にして最後だったか?)。
その後、クエーカーの特別集会でも似たようなことがありました(爆発した人は誰も居ません)が、実感されるのは現臨のより顕わなる展開というものです。
それはしかし、私が初めて現臨に捉えられていた時にハッキリ予感させられていたことです。

"人々は知らない、見ていない...自分があるという、その自分たらしめているものを...世界を、歴史を、宇宙をたらしめているものを...
このもの無くして自分も世界も何もかもが無いというのに..."
そして、頭が真っ白になりそうな中で、見えざる導師の声なき声は確かにこう告げたのでした。
"私はお前の全ての縁の中に私自らを顕わす。目にものを見せてやるから、とくと見ておけi" と...

私は最近、この予感の意味するところは、"私の内面を切り開くことになった私の道標となったものが、現つのものになる" ということなのか...ということをヒシヒシと感じているのです。

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