人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人の神、私の神

2024-05-30 08:46:06 | 独語
悟りを開くには欲望を捨てなければならない
思慮分別から離れなければならない
それにはチャクラを開かなければならない
クンダリーニを上昇させて、頭のてっぺんから出さなければならない
いや、あの悟りのマスターは、”修行なんてしなくても私は最初から欲望もマインドも無く、悟っているんだ”、と言っているではないか?
悟りを開くには修行なんかしてはならない...

すべて誰かがそう言い、どっかの本に書いてあること...
どれだけそれに追従し、囚われてきたことか!
自分の欲望、思考は捨て去られ、離れるように動いてくれるだろうか?
チャクラはどこそこにある、と知識では知っているが、本当にそこにあることが分かっているのだろうか?
クンダリーニは?...なんか熱いが、血圧の上昇と区別がつくのだろうか?...頭頂チャクラって?...
本当のところは何も分からない!
分からないのに、一体何に駆り立てられているのだろうか?
分かった!...それが欲望、思考マインドなんだ!
だから...修行してはならない!...私は最初から悟っているんだから!...

こうなると、もう重度の病気だ!
そうなっているというフリ...
人を欺き、自分をも欺く...
いったんノボセ上がった欺瞞の思いはどこからも抜けず、下がることがない
誰もその迷いから助けることが出来ない
神に助けてもらおうと祈ることもない...
悟ったフリの境地とは、救いようのない境地!...

最初から分からないのなら、分かるものにより頼めばいいではないか?
神は分かるのだろうか?、いや神のことが分からない?
誰かが言っている神、本に書いてある神...分かるはずがない!
すべて人のこと!...人の神...
なんと、これまで人間を神にしていたことだろう!...
神は、私の神は最初からここに居たのではないか?!
神のことは分からない...しかし、分からないままにより頼まずにおれない私が居る...
そう、何故か分からないが、思いが、意識が動いているのだ!
何かが開かれるような気がする...
心なしか、気持ちが晴れやかに、幸せになってくるような!...
欲望、思考は無くならないけど、離れてゆくってこんな感じだろうか?
最初から神に祈ればいいではないか?
私の神に!
神のことは、私の神しか知らない!...




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神観念を超えて

2024-05-28 09:55:30 | 
私は神を信じない人間には、どうしても心から信頼を寄せることが出来ないものを感じてなりません。
もっとも、信じることには色々意味がありますが...
私が言っていることは、神を信仰していようといまいと関係ありません。大体神のことなど分からない、神は思いを超えているものなのだから!...そう、要するに、これは自分の思い、力を超えているものを認めているかどうかということなのです。
だから、どんなに高遠な真理を説いていようと、諸手を挙げて讃えたいという気持ちにはなりません。どこか冷たく、プライドが高そうで、(超えたものを認めないことで)無理しているような感じを与えてしまうようで...
禅の師で、久松真一という方がおられました。師は“無相の自己“ということを標榜し、その自己は相対が無いということであり、自分には既に分別智も煩悩も無いのだと言います。
ずっとそんな境地なんだろうか?...
最近「覚の宗教」(春秋社刊)という神学者の八木誠一先生との対談を面白く読ませてもらいましたが、久松師はよく考えて、八木先生の鋭い質問に答えておられるようでした。
当たり前のことながら、根源的には無相の自己なのでしょうが、最初からそうなってここに表されている人間など居る訳が無いのです。
こういうところにどうも無理を感じてならないのですが...八木先生の、”どうしてそういう自己に目覚められたのか?”、という質問に短く”そういうハタラキがある”と述べておられるのです。
そりゃ、そうでしょう!...”私には煩悩が無い”、ということよりも強調すべきはそっちではないかと私などは感じてしまうのです。
自分の思い、力を超えたハタラキ無しには絶対にそうなりっこないのです!
それに、何も分別智も迷いも無しに人間存在としてそこに表されているはずなどないはずです。
この意味で、人間は無相であると同時に、”二相”があるのではないでしょうか?
久松禅は、もう一つ”無神論”ということを標榜していて、神は自己に超越して、別在の如く対象化して信じられているものから、”絶対主体”たる無相性から外れる、というようなことを説いているのです。そして、勿論その信仰される神は、観念の産物に過ぎないのだと。
これには、全く私も同調せざるを得ません。
だけど、神は信仰対象だけではありません。先のように、自己にハタライて、自我性を突破せしめるものなのです。
そして、その自己を自己たらしめ、在らしめているものでなくてなんであろうか?
自己実存は、自己を超えたものと切り離すことが出来ないのではなかろうか?
私は、先入、固定観念、ドグマ、偶像などに依存する神信仰を打破するという面で、久松禅に共感出来るところもあります。ただ、その教説があまりに一面的、一方的で、無理を感じてならないのです。
これを思うに、大方の宗教に慣用されている、神観念というものが超えられなければならないのを感じずにおれません。
それは、あまりに集団的思念に感染され過ぎているのではないか?
このことが実に、超越者を通して、我々の真態を明らかにすることにつながるのではないでしょうか?!







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思いを超えた心の声

2024-05-26 09:34:05 | スピリチュアル
私はいつも”思考を超える”、ということを言っていますが、具体的にそれはどういうことなのか、について改めて書いてみます。
言うまでもなく、それは自分から超えるということではありません。そうなさしめるものを受けるということなのですが、それは現実に思考機能が後退してしまうことで分かることなのです。そのように思考を無化させるハタラキがある。そういうものに出くわす!...
これは、私が“神の手に捉えられる“と呼んでいる、覚醒体験などに導かれるような契機について言っているのですが、それで、頭がすっかりカラッポに、無意識になってしまうかと言うと、そうじゃない。意識というのはある...だから”ああ...自分は何も考えられなくなってしまった!”という自覚はあるのです。
ただ、それ以上、例えば”何でこんなことになってしまったのか?”とか能動的に考えられなくなるということを、こう言っている訳です。
代わりに、その自分がこれまで考えたこともない、そういうものとは全く比ぶべくもないような、何て言うか、”超智”のようなものを受ける、自ずと湧き上がるのです。
これが仏教などが目指している仏智のようなものなのでしょう、そこで分別智を超えなければ、それに与れないと言っている通りです。
もっと平たく言うと、それを何かの啓示、神の声のようなもののように感じたとしても、不思議ではないでしょう。
といってそれは、そういう言葉として聞くのではなく、よく言われる内なる、心の声のようなものなのです。
このように書くと、そのように思考が働かなくなってしまうと、それが本当に心の声なのか、邪霊の誑かしなのか判断出来なくなるではないか、と思う向きもあるかもしれません。
まず、そのことは、“頭が働く内“は、疑わしいものは疑い、よく判断した方がいいでしょう。あなたが迷っているなら!...
だけど、あのようになってしまったのなら、もはや迷いは無い!...道はただ一つ、それを受け入れるしかありません!
私はむしろ、そういう迷いを断絶するために思考が奪われるのではないか、と感じています。
そして、そこには、考えている自分からは与り知れないような愛、幸福、リアリティがある...これなんです!
そしてこれは、こうした突出した体験が無くとも、心の奥で感じることが出来る、と私は思います。いや、心の声は感じられるはずなんです。
だって、それはあなたの本当の、内心の声であるはずでしょう?
あなたが何が真実か、自分が本当は何をしたいのかと迷っている時、あなたは本当は分かっているのではありませんか?
自分は、ただ興味本位なものに、実用的なものに、プライドに囚われているのではないか?
思考というものは、かかる表層的なものと容易に結びつくものです。
何があなたの本当なのか?...決め手になるものは、そこに愛、幸福、リアリティが感じられるかどうかということでしょう。これが本当に、ホント~に人生で大きなことと言わねばなりません!
当たり前のことですが、思考が働いていようと、なかろうと本当のあなた自身は在り続けるのです。
この意味で、それは思考を超えて在るということでしょう?
何かの契機で、人はそのことを具体的に目の当たりにする...かもしれない?...

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方法が無いという以外に方法が無い

2024-05-24 10:02:07 | 祈りと瞑想
前回でも触れましたが、ある一つの言葉、やり方、要するに形あるものは、その性質上変わりゆくものであるし、人により向き、不向きというものもある訳で、それらは何一つそれに付け加えることも、省くことも、改良することも出来ない、というものには当たらないと言わねばなりません。
大体、こっちでそういうことを言えば、あっちでも同じように言ってたりで、そういう相対対立するようなこと言ってても始まらないでしょう。
しかしながら、特に修行法に関して、そういうそれ自体変えようのないやり方というものも無い訳でもありません。もっともそれは逆説的な方法ではあるのですが...
まず、その宗教的な道が自分の思いを超えたものに目覚め、つながることにあるのだとすれば、形に囚われるということは、自分の思い、力に囚われていることを知らねばなりません。だからいつまでもその思いから離れることが出来ないのです。
そうしたものに導くものは、その思いを超えたもの、そのものなのです。
こんな当たり前のことが何故分からないのか、私は不思議でなりません!
それによろうという気持ちが無ければ、どんな修行方法があったとしても何にもなりますまい!
もし、そのものの方がこちらに臨んできたのなら、自ずと形は無くなります。つまり、思いから離れるようになるということです。
と言っても、そうなるのは神意にもよるので、いきなりそうなる訳でもありません。
だから、最初から取り組むのが簡単で、囚われの種となりにくい、例えば、ただ座っているだけで完結してしまうようなやり方が望ましいと言えるでしょう。
そんなことで、神に目醒められる訳が無いという向きは、何がそうさせるのか、ということが全く分かっていないのです!
そのものが臨んだなら、それで修行は完結するではありませんか?...それには如何なる付け足しも改良も無効です。そうしようという思いは超えられてしまうから!
ここで、私はその見えない導き主により頼む、というようなことを示唆しています。
だから、ただ座っていたらいいってことじゃないですよ!...この形無き修行方法は、瞑想と祈りは一つのものなのです。
これは私の発案でも何でもありゃしません。それらは本来そういうものなのではありませんか?
何に祈ったらいいか?、それはあなたが、あなたの神が一番よく知っているはず!...
このやり方は、誰に向くも向かないもありません。他に方法が無いという以外に方法が無い!
宗教やスピの界隈に数多の修行方法はあれど、それらはすべていつかは手放さねばならなくなるものです。
表層のものに囚われず、常に心の根底に据えるべきことは、思いを超えたものに目覚め、つながる気があるかどうか、ということだけではないでしょうか?
そのものに開かれているのか、閉ざしているのか?
すべての精神的な道は、それで決まると言っても過言ではないでしょう ...。


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古くて新しい道

2024-05-22 10:11:07 | 求道、探究
例の反面教師の画伯は、五井先生の狂信者と言ってもいい御仁なのですが、”消えてゆく姿で世界平和の祈り”は、教義、修行方法として完結しているので、それに何一つ付け足すことも、省くことも出来ないと言い、そのように型通りのまま40年以上(!)も従い続けているのです。
ところが、その一方で五井先生が決して言及しないような陰謀論なんかを含んだカルト的な教えにハマったり、”不食”という雑行をやり出したり、言っているほど一向専念にし続けているようでもないようなのです。
何にせよ、それらはすべて他人のやり方に追従しているだけなのです。
狂信者というのは大体がそうなのですが、何故そのように他人の真似ごとをし続けなければならないのでしょうか?
いや、先師的な人たちの影響というものは、誰にもあることには違いないですよ。私もここでどれだけそういうことに触れてきたか分かりません。道を歩む者でそういう縁を持たない者など居ないでしょう。
だけど、そのことと、ただ主体性も無く、受動的に盲従することとは違うと言わねばなりません。
だから、教えとか修行方法というものはですね、自分に合うようにあっちから少し、こっちから少しと混ぜてですね、色々付け足したり、改良したりして、自分なりのものを造ったらいいのですよ!...って、私はそういうことをここで言っているのではありません。
何度も言うように、私の独創による教義的理論や修行方法など、アタシャ何も持ち合わせてなどいないのです。
現臨がどうこうとかあまり聞き慣れない言葉が頻出したりしますが、それがどういうことを言っているのか、過去幾多もの先師たちが説いていることと照らし合わせて、理解されてみたらいいのです。表現はともかく、そういうものに触れないものは皆無ということが分かるでしょう。
だからと言って、先師たちの教えにベッタリ、オウム返しなど出来る訳ないでしょ!...私は猿でも彼らのコピーでも無いのだから!...
私は過去のマスターたちの残された偉大な道を借りながらも、自然に、無理なく私自身の大本に目覚め、つながる道に従うまでなのです。いや、そういう導きを受けていると言った方が適切でしょう。
それは、私自身の大本、本源から来るであろうことは、自然に、無理なくそうなることで感じられるのです。
決まった言葉、型にはまった教えややり方というものは、時代にそぐわないところも、型通り従うことで、不向き、無理というのも出て来るものです。
そういうものには、主体性を欠いた追従者しか寄りつかなくなるでしょう。
ちなみに先の五井先生の教え、やり方にはそういう無理強いのようなものは、先生自身の言葉からも私には感じられません。気に入ったらやればいい、いやなら止めたらいいのです。実に自然なことではないか?
ちなみに又私は特定の方法は示すことはないが、祈ることの重要性については言っているのです。祈る、神に思いを向ける、入れる...神と共にあることで思いが超えられるとも!...
これは、五井先生の教えのバリエーションに過ぎないようなことですが、あまりこういう言葉の説明に囚われても意味はありません。各人各様の自由さを活かして欲しいのです。
五井先生の道は、本来そういう自由さ、寛容さにあったのではないでしょうか?
宗教的教相に囚われた在り方はもう時代遅れなのは分かり切ったことではないか!...先師たち共々、その表された本来性に帰ることが古くて新しい霊性の道を開くことになるでしょう。
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