人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神と共にあれば、幸福しかない

2018-03-31 11:29:47 | 
私は、神というものが一体どういうものなのか、明言することなど出来ません。
言うまでもなく、神は信じる人間によっても理解、解釈などが異なるものであり、私でも同じ神という言葉で、意味合いの違うものについて言うこともあります。
どっちにしても、確たるものなど言い表せることの出来ないものなので、私は"神的"といった言い回しをしているのです。
で、"神的なものと共にある"というニュアンスで語られる場合は、もうハッキリとした実感を伴ったものとして言っているのです。
これが"思いを超えたものに意識が向かい、現臨に包まれる..."というようなことなのですが、そこでは、例えば"神というのは、宇宙の法則のようなもので、そこから外れるとマイナスになるようなことを引き起こす..."、"神というのは善なる意志を持っているので、それに違う悪い意志を持っていると、神罰というか、懲らしめに会わされる..."なあんていうような思いというのは、どっからも出てきませんi
もっとも神とは何ぞやみたいな"ああだ、こうだ"といった思いすらも..."そりゃ、そうだi"...それは思いを超えた事態にあるということなのでした。
こういう状態にある時、世間で言う恵まれた、幸福な状況にあるとは限らないものです。
問題、悩みとされているものを抱えていることもあるのです。しかし...ハッキリと言えますi
置かれた境遇的なものがどうあれ、この神的なものと共にある時、幸福でないことなどあり得ませんi 良いことしかないのです。
逆に言えば、もし、私がそこでその境遇に応じたように、苦悩を背負い込んでいる真っ最中にある時、意識は神的なものと離れている、と言うことも出来るでしょう。
そこに苦悩、不幸というもの、又幸福というものの本質的なものが横たわっているのを感じないでしょうか?
神的なものに意識が向けられる、ということは祈りとも通じてくるものですが、どんなに祈り、願えどその置かれた状況は何も解消されないかも分かりません。
そうでなければ、その状況に押し潰されない、平安な心の状態へと導かれるように祈ることもあるでしょう。これが肝心なことです。
祈って、何が叶えられるということよりも、神的なものに意識がある時、平安があるということなのです。
周囲の状況は問題が、悩ましいことが、トラブル(そういう事象)が一杯かもしれません。
大体今の世の中、いや今でなくとも世の中で生きていくことで、何から何まで幸福なこと、良いことばかりのこと(そういう事象)などあり得ないことです。きらきらで一杯なのはスピ中毒の頭の中にしか無いでしょう。
それがこの相対現実、シャバで生きていくということでしょう。
そのように不幸、苦しみというのは、こっちが望まなくとも勝手にやって来るものです。どうしたってそれに向き合わなければならないこともある訳です。
だからと言って、私は進んで不幸、苦悩を背負い込みたい、なあんてことを望むことは、余程の苦行僧かM性みたいでどうかしてる、と思いますが...そういう人は、本当の自分の弱さというものが分からない人なのかも分かりません。人間はどうしたって何かにすがらざるを得ないこともあるものです。
不幸なことは避けたがり、幸福であることを望むことがごく自然な人間感情というものでしょう。ラマナ.マハルシが言うように、「幸福であるのが自然な状態」なのでしょう。
そして、神的なものに意識があるということは、状況の幸、不幸、一時の感情の浮き沈みに関わらない、平安な内的な状態にあるということです。
本当の幸福というものは、無くなれば失うような、そういう事象にあるものでなく、幸福感そのものがもたらしているのです。
私は"いつもそういう不動心、平安にあるんですよ~"なんて強がりは到底言うことなど出来ません。
でも、自然に意識が神的なものに向かわされているのはいつも感じています。
ラマナの言葉に噛みしめられるばかりです。

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プレローマ

2018-03-27 18:21:06 | 現臨、ハタラキ
最近、どうも文章を書き出して、一体何を書いているのか、書かされているのか...
筆、いや指が揺らいでしまうようで、向かうところが定まらない...
抽象的な考えなど浮かんでこない
もっともらしい言葉を散らばめ、人に何かを説き伏せたりするなど...
読む人は読むだろうし、共感してくれる人は共感するだろう...
私は今、無性に共感している
共感する対象の無い共感...
ただ、この言葉にならない、共感させられているまましか、表すことが出来ない
この思われた自分を超えたところから立ち上ってくるもの...
この私は、それに包まれて無になってしまうのか
無になる...
いや、私自らは無にはなりようがないではないかi
あれやこれやの雑念などは、"自ずから"断たれてしまう
無...何にも無いのではないi
エネルゲイア、聖霊、プラーナ、波動...ハタラキ...
呼び名は何であれ、そのものが充ちてくる、充たされる
プレローマ...
私は今、このものにあって書かされているのだi
ただ、プレローマがある...
プレローマの独りバタラキ...

それ無くして、何を表すことなど出来よう...
それ無くして、何を伝えられよう...
それ無くして、どこに悟りや、目覚めや、救いというものがあり得よう...
それ無くして、どこに平和や、地上天国などがあり得よう...
それ無くして、どこにも導かれることがない
それ無くして、私自身ですら存在出来ない

すべてのものを、あるようにあらしめてやまない
枯渇した土壌を充たし、泉のごとく地表に顕れ出て、周囲に溢れてやまない
何を表し、何を伝えるかなどにかかずらわずとも、プレローマが顕わになるだけ...
今日もどこかで、それぞれの色合いに染めながら、プレローマの泉が涌く...






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神が表に現れるとは?

2018-03-25 15:38:40 | 
このブログでは、「神が表に現れる」というような言葉でイメージされるようなものが基調になっていますが、それは文字通り神が目に見える形を伴って出現する、というようなことを伝えている訳では無いのです。
「神の国の実現」ということでも、例えば、自然回帰指向の強い人たちが夢想し勝ちな、このコンクリートで覆い尽くされた都会の雑踏が、お花畑のような世界に様変わりするようなこととは、全く関係の無いことであるのは言うまでもありません。
お花畑は、夢想する人間の頭の中にしか無いのです。(ひょっとして彼らの脳には、人類社会が一旦崩壊し、無に帰し、一から自然と一体化した原始的社会が思い描かれているのでしょうか?)
本質的なことは、我々の表層意識に、その内奥に隠れていた神的な意識が顕になる、ということです。
ただ、私がそこでこの見える地上に、その神的なものが表れる、ということを強調する場合、精神的覚醒といい、意識の変容といい、単なる一個人の主観として片付けられてしまうことから、一歩この現実世界に踏み出してしまうようなことについて言っているのです。
それは主観的な領域から、客観的なものへの転換という言い方も出来るのですが、これが先のような誤解を生むことにもなってしまうようです。
如何せん、これまで我々は、こうした消息についてほとんど理解されず、それを言い表すスベも持っていなかったのです。
悟りや覚醒というものは、内的な主観...そこからこの見える世界に転じられれば、外的客観...そこには完全なる二分化あるのみ...主観的我の世界と客観的世界とは、全く切り離されたままなのです。
多くの場合、その自分以外の誰にも理解されない、意識の変容に伴う至福の経験が、客観的社会に受け入れられる、ということは、その生のアリアリとした歓喜に満ちた事態は、冷えきり、一般大衆にアダプトされた、規格化されたものへと変質すること、つまり霊的生命の死を意味するものとなるのです。
このことは、ベルジャーエフが何度となく指摘していた通りです。
神的なハタラキが主観的世界を超えて、客観的世界に転換してくるとは、自分以外の他者とその霊的生命を共有することに他なりません。
言い換えるとその共有する場...霊的磁場が生まれるということです。
共有するということは、分離したように見える自己と他者には、元々根っこの方でつながったものがあることを示唆しているのでしょう。
かく宣うことで、私は所謂非二元論と同調せざるを得ません。(私が宣っているものほどアテにならないものはありませんi ただ、私はこの世に生を享けたことの意味をいつも感じているだけです)
この自己を超えてつながる他者には、その向こうにすべての他者とのつながりをも予感させるものです。
それが普遍調和世界の実現の予感をもたらすのです。
徐々にではありますが、このようなこれまでの主観的か客観的かという、二元的図式で取り込まれてしまう、思われたままの有り様から自他を一貫にハタラク主客の対立を超えた(これは思いを超えているということです)有り様が示されてきているようです。
これはどうしても、言葉や概念による理解が不可能なことがもどかしいことで、以心伝心に伝わるようなことなのです。
このことは、神の国の雛形たる原始キリスト教会ーエクレシアの玄義であり、ベルジャーエフは、それを終末に表れる全地普遍教会ーソボールノスチーと関連付けて説き、我が国でも大本など、メシアニックな神道でも弥勒の世を開くべく、雛形の仕組みが伝えられていたのです。
全く知られていないところでは、大調和協会なる団体にもハッキリと、その神的なものの顕現への情念が感じられました。
私は直接間接問わず、これらに関心が向かずにおれませんでした。
それはすべてが前述したように、全地に、普遍に開かれたものだったのです。
もし、そこに一つの団体、思想、信仰というものに閉じ籠ってしまう...そのような変節が生まれるとしたら、その機能は失うに至るでしょう。
私は、そうした過程も間近に接していて、私の内なるものと相容れないものを感じたことも度々ありました。
普遍性を指向するものに、時に排他的とも言える自己閉鎖的なものがもたげてくることほど、不思議なこと、又欺瞞はありません。
そこには私自身にも、普遍的なものに開かれていない心性を認めなければならないでしょう。
とにかく、思いというものが自他を、あの道、この道とを分断させてしまうものです。
それぞれの道に示されたものは、諸々の思いを越えることで、全一なるものへと開かれてくるでしょう。
見た目は変わらなくとも、見ている土台が夢想でない、普遍的な世界へと変容されるでしょう。
どこまでも我々は、思い超えたものに開かれていなければなりません。
否、我々をそのようにあらしめるものの、あらたかなるハタラキを覚えてこれを書いています。







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魂の願望と神の国の実現

2018-03-23 17:03:14 | スピリチュアル
「主は未だ来ておられない。何故なら世界は依然として同じままだから」
(ハシディズムの導師ラビ.メンデル)

魂の願望とか言います。
魂というものがどういうものかは分かりませんが、この思われた自分より深い部分の、"本当の自分"といったもので想起されるものからの願望と言ったら...もう、この事をおいて他にはあり得ませんi この事..."ううーん...な、何だろう?"
私にはハッキリとあります。だって魂らしきものというのは、この内に根付き、うずいているものを感じていることでアリアリと分かるんですから...
こんなにも書いている端からジンジン、ビンビンと感じていると言うのに、言葉に言い表せないもどかしさよ...こんなにも私自身の願い、望みというのは他には無いというのに...
思い付くままに言葉にしてみたら、何かが伝わるかしら?

真我の実現、神の国の実現、神の顕現、メシアの来臨、私のすべての成就...

実現とか顕現ということで表現されているものは、"ここ"...地上の現実に何かが現れ出でることを表しています。
そして私個人が如何に例えば、"神を見た"、とか"真我が実現された"、とか"悟った"とか"救われた"とか言おうと、それは未だに実現されていないのですi むろん、他の如何なる覚者、聖者から同じことが発せられても同じことです。
"悟った個人など居ない"とはいつも言っていることですが、未だかつてそんな人は居なかったし、誰も救われてなど居ないのではありませんか? 何故ならば..."世界は依然として同じままだから..."
私はかく宣うことで、所謂非二元論とは訣別せざるを得ません。
私は物心付いた頃からずっと神の国を、メシアを待望していたのですi
私の中のことも、外のことも等しく"我が主"に満たされなければ、決して我が魂は充たされず、我が主の時も来ないのですi
私にも、極めて当たり前のことながら、人並みに個人的な願望というものはあります。
諸々の願望というのは、実現することもあれば、叶わないこともあります。しかし、この魂からの根っからの願望無しには、実現しようと、しまいと意味などありません。この私自身が実現しないのですから...
私は私自身の実存について、その片鱗は垣間見ている...しかし、それはどこまでも方ちんばなものに過ぎないのです。
世界のあるべき姿、自然調和の世界というものも垣間見ている...しかし、それはどこまでも原像のようなものであって、"焼き直し"されたものではないのです。
"世界とはフィルムみたいなもので、実在しない、幻想に過ぎない"と言いたいムキは、ずっと無人島か洞窟に籠っていたら、永遠に虚無のうちに溶け去ってしまったらいいでしょう。
私は、そう...この幻想に満ちた、救いようの無い現つの世界のまっただ中に、我が主がこの私にアリアリと現臨したように、主のみ国として開かれることを目の当たりにしたい...その望みをもってこの世に生まれ出でたのではなかったか?
ここに現れ出ているということ自体が、そういうことなのではあるまいか?
そして、私は確かに我が主の望み、願望を聞いたのですi
"私は、お前の世界のまっただ中に私自らを現わそう..."
主の望みは我が望み...ただ、そのご自体なるものの顕現に合わされていくのみ...
これはただの希望、願望と思ってはいけません。
今現にこうして現臨してくるのを身に覚えながら、これを書かされているのです。
未来のことは、現在と全く一枚のことなのです。












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三つの波動

2018-03-21 12:14:23 | 求道、探究
元波動瞑想という実にシンプルな瞑想を指導しておられるK先生によれば、人には大まかに言って"感"、"知"、"現"という三つの波動があり、大体誰でもそのいずれかの波動が優勢にハタライているのだそうです。
前の二つは、イメージしやすいように、それぞれその人の感性、知性として波動が表されるということですが、現の波動というのは、身体性と共に、現象化と関わりがあるそうです。この波動が強い人というのは、物事が実現しやすいようです。
(以前は確か"肉の波動"と呼ばれていたのですが、"肉欲が強い"とか変に誤解されるなどクレームがあって変えられたのです)
通常、この瞑想の会の人たちは、K先生との個人面談の際に、その人の優勢な波動について指摘があり、弱い波動はより伸ばして、三つのバランスを生かすようにするといった、指針が与えられるのです。
"して、あなたの場合は..."
私の場合、先生から言われなくてもずっと自覚していました。先生からも即答です。"カン"で分かろうというものです。
"では一番弱いのは..."、これは一寸以外でした。"知の波動が弱いですi"
"やはり、バカだったのか、オレはi"
私自身はフィジカルな面もあまり恵まれてないし、物事を実現化させようとする力も乏しいものがある(一方では勝手に実現化するものもあります)、とずっと感じていたのですが...
この場合、知性というものが、例えば論理的思考といったことと結びつけられるものとしたら、もう、テンデあきませんi バカなのですi
頭で構築されるようなものは、感情でぶっ壊すに限りますi (理屈なんかで物事が決まってたまるかってんだi)
ただ、このように元々知性的部分が弱いので、知性があるように懸命に見せかけようとするフシは確かにあります。
何にせよ、弱い部分というのは、それだけ意識が向けられていない、向けようとしても何かスーと通って行かないものがある、というのは感じています。
このいつも私が言っている、"意識を向ける"とか"意識的になる"ということですが、前記したこととは違う意味で、負け惜しみ?でなく、私なりには"知的なこと"と感じているのですが...
知的にカンガエルということは、アレコレ思考を巡らし、理論を組み立てていくようなことで無しに、意識をむしろそれを超えた、知性以前の根源的知性、理性、悟性(古代ギリシア哲学で"ヌース"と呼ばれるものか?)照明に預かることなのではないでしょうか?
これが、所謂知性がぶっ飛んだ、"感性哲学"につながるんでしょうか?
私には物心ついた時からこのように、知性と感性というのは、分けられないもののように"感じてきた"のです。
知性といっても、それは世の人がそう言っている知性よりもずっと感性が優勢なのです。
いつも論理が破綻して、バカみたいになっているのは、自分でそれで善しとしているからでしょう。(7=3で感性が勝ってこそ、ちょうどいいんじゃないだろうか?)
では"現"の方はって言うと...もう、体はアチコチ、ガタが来ていて、こればかりはトシなんでしょうがないものがあります。
現象化という面では、意識が向けられているものは、放っておいても実現したりします。又、自ずとそういう方に赴かされたりするのです。
ただ、ずっと強く望んでいることはあるけれども、どっかにブロックがあるようで、意識が通って行かないものがあったり、そこんところに意識を向けていくのが課題かな、と...感じているところです。
結局、波動というのは、意識と深く関わっているようです。よく考えてみれば、ジンジンといつも意識されていることなのでした。



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