人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人は何故悲劇に惹かれるのか?

2020-09-29 11:36:55 | 
文学作品でも、映画でもずっと語り続けられているものは、圧倒的に悲しい物語が多いですね。
シェークスピアは「お気に召すまま」とか喜劇も書いているけど、何と言っても「ハムレット」や「ロミオとジュリエット」の作者として名を残しています。
ドストエフスキーの主要作品も大体が悲劇です。
母が映画「禁じられた遊び」や「鉄道員」などを涙ながらに観ていたのを思い出します。
これらは私には、その物悲しいサントラに印象付けられている部分が大きいのですが、音楽も又名曲とされているものには悲しい旋律、歌詞が多いですね。
ネアカな、騒々しい人たちからは悲しいことは、ネガティブなことと決めつけられかねないものですが、現実に自分が悲しい現実を背負って、苦しんでいるのならともかく、こういうフィクションの世界に接してみて、本当にネガティブなものを感じるでしょうか?
ネガティブなものが否定的なものなら何故、多くの人はこんなに悲しいものに惹かれてしまうのでしょうか?
それは勿論"いつも明るく、ポジティブに..."というものではないけれど、そういう"かたちんばな世界"では決して、味わえないものを求めているのではないでしょうか?
それは、ズバリ..."愛"というものではないでしょうか?
ユルフワな、浮き足だった心的状態のみからは、その深みに達することは不可能と言っていいでしょう。
だが、ここに逆説があります。多くの悲劇において愛は成就されることなく、失われてゆくものなのです。
ここに失われたもの、失われてゆくものの悲しみがある...これはもはや理屈では分からないことです。
この愛の悲しみは、我々の思いを超えた世界に淵源があるのではないか...それは失われた大いなる愛との出会いにあって、号泣したことのある者には分かるものなのかもしれません。
実は私が"失われた"、"失われる"と表現しているものは、一種のレトリックなのです。
それで愛はすべて消えてしまった訳では無いのです。だって、その失われる愛の物語を通して、あなたのハートに愛が呼び覚まされるのではないですか?
失われるという感情の裏に横たわっているものは、それはこの手で掴み得、捉えることが出来ないものなのではないでしょうか?
この意味で、愛は永久に失われている、と言ってもいいでしょう。
愛とは捉えるものではなくて、捉えられるもの、恵まれるものなのです。いつだって。...この意味で、それは決して失われないものなのでしょう。
先のネガポジの問題に関して、私が強くネガティブに感じるものは、例えばフィクションとしてでなしに、まことしやかに、"人間死んだら何もかも無くなっちゃう、永遠の無に帰してしまうのですi"、とか又は、"自殺者の霊魂は、地獄で永久に苦しみ続けるのですi"、といった、どこにも救いの無いようなことを決めつけたように言う言葉に接した時などです。
もっとも死後もなお、永遠の生命はあるのか、どうか、真実のところは分からないのですが...(愛というものは結局分からないものなのでしょう)
少なくとも、こういうところに愛というものは何も感じて来ません。
これは急に秋めいてきて、センチになってるばかりからではないと思いますよi...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死について私が知っていること

2020-09-28 11:32:11 | 雑感
ついこないだは、女性記者役がよくハマっていた、クール.ビューティーの女優...
そして、今度は"今の美人女優と言えば?"、と問われれば、誰しもがすぐ思い付きそうな、笑顔がよく似合う女優...
シンの強さ、明朗さ...自殺ということが結び付かなかっただけに...
やりきれなくなりますね...。ご冥福をお祈りします。

と、このように言葉を述べたりするものですが...
勿論、私は人は死んでどうなるかは分からないのです。
霊能者と呼ばれる人なら、見てきたように、分かったようなことを言うのかもしれません。
自分はそうでなくても、そういう人の言葉を安易に迎合し、信じ込み、そのように言う人も居ます。
こういう人(特に後者)は本当に無知な人だと思います。それに厚かましいことこの上無い。厚顔無知!
死というものは、一人一人が向き合うべきもの、私自身が直接思い、感じ、私自身に直接開かれなければならない問題でしょう?
これほど自己に向き合うといった、主体性が問われるものはないにも関わらず、それをブルドーザーで押し退けるようなマネをしているのです。思考が停止した人間には分からないのでしょうが...
死後のことは分からないのですi 私も分かったようなこと言う人も目がまだ黒いのだから...
何事でもそうですが、この場合は特に、自分がどう感じるかということが極めて大事なことでしょう。
ただ、自死ということについて、私の前言と食い違うことかもしれませんが、死後の世界について多くを語る、ルドルフ.シュタイナーが「自殺者には、死の際、死後において、誰しもが与ることが出来る、霊的な導きが得られなくなる」という意味の言葉を述べていたのには(真実はどうかは分かりませんが)、説得力を感じています。
私は一度だけ、死の間際に居た人に接していて、だんだん苦悶の表情が消えて、安楽な表情に変わってゆくのをつぶさに見て、"ああ、そういう導きというものはあるのだなあ..."、と感じたことがあります。
自殺は自らの意志で、そういう導きを断ってしまうようなことなので、そういうことにつながるのかもしれません。
これは、"生かされていること"に対するものと言ってもいいでしょう。
このことをよく考えてみれば、この世の中、自殺者で溢れかえってしまうのかも分かりません。
皆、生きているうちから、地獄行きが決まっているのでしょうか? まあ、私など皆一緒なら気が楽ではありますが...
いや、そんなことよりも...その他大勢がどうなろうと、あの人たちが地獄でずっと苦しみ続けるなど、私には思い描くことが出来ません。
そう、思っているだけなのですが...そう...皆思っているだけなんですi
神、見えない導き、生かされている命...そんなもの無くたって生きているのだと...そういうものは思いが超えられてみて、初めて実感されるものなのかもしれません。
もし、自殺者に見えない導きの手がかからないとしても、それはその思いの内のことかも分からないのです。
どの道、思いを超えた世界については、何一つ決めつけたことなど言えないものでしょう。(これは、思ってもみないような劇的なこともあるかもしれない、ということです)
決めつけた途端、思いに固着されるだけです。
私が知ってることは、死後の世界のことも、自殺者の運命のことも、目の黒い人間が思ったことを好き勝手に言っているだけで、分からないということです。
ただ、私にはどこにも救いが無いようにはどうしても感じられません。
このことは自分自身に向き合って感じるべきものでしょう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パパはニュースキャスター...だった

2020-09-26 09:23:45 | 詩的文章
❬時々、どうにもやりきれなくなることがあるんだ...事件、事故...毎日何人もの人間が死んでゆく...あの人たちは人生を楽しんだのだろうか? 人生の素晴らしさを...ああ...❭

パパ...それってコメディドラマのセリフにはとても思えないよi
悲しくなるよi...
人生の楽しさ、素晴らしさって...
何のために生きているの?

❮君に会うため...❭

そうなの?
"どの君"だか分かんないけど...
きっと、パパにもお酒に訊かなきゃ分かんないんでしょ?

❮名前はもう、決めてあるんだ...愛情の愛と書いて"めぐみ"...❭

どの愛だか分かんないけど...
恋愛、人類愛、家族愛...
OO愛、大塚愛...誰?
愛はいつだって恵まれるもの
獲得された愛なんて何も残っちゃいない
掴んだと思った瞬間無くなってしまうもの...
悲しくなるよi...

パパはニュースキャスター...だった
どのくらいの人が覚えているのか分かんないけど...
古畑警部補が出てきて影が薄くなっちゃった...
パパを初めて見た時、"あんな美青年が居たのかi"と思った..."憂美"というのか...
すっごく、シャイに、"むふふ"、って笑うだけでどんだけの女性をイチコロにしただろう...
最近はとんと見かけなくなったけど...
やめちゃったのかなあ...
悲しくなるよi

"ONEWAY GENERATION"
あの頃は皆自分がどこに居るのか分からなかった
どこに向かってるのかも分からなかった
何にもしてないのに、一夜で巨万の富を得た人間が何人も居た
身寄りの無い子供を何人も面倒を見る、そう、パパみたいな人も居たけど...
寄生生活が当たり前のような人も何人も居た...アタシ?
"こんなことがいつまでも続く訳がない"、と思ってた人は何人居ただろう...
みーんな風船のようにあっけなく消えちゃった...
これからもっと夢が広がってゆくという最中に...あっけなく行っちゃった...
悲しくなるよi

月はちゃんと出てるのだろうか?
あ、良かったi
風船や紙で出来てなくって...
あの頃はもう二度と戻らない...
でも...愛、めぐみはいつだってあるi
それでも、やっぱり...
悲しくなるよi

いつまでも元気でね、パパi
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夜と読書と音楽と

2020-09-25 11:53:39 | 回想
ここ数十年、ずっと早寝、早起きが習慣になってます。
特にブログを始めるようになってからというもの、夜中の3時頃目が覚めるようになるなど、どんどん早まってゆく? 傾向にあります。
大体、それからの時間にブログの草稿が生まれることが多いのです。やっぱりこういうものは冷めない?うちに書くに限りますからね。
しかし、昭和56年初め、私が社会人になるまで...中学2年くらいからでしょうか、ずっと夜型の生活をしていたのです。
これは、ラジオで洋楽を熱心に聴いていた時期にそのまま対応していた、と言っていいでしょう。
その放送の大体が、「FEN」(米軍に向けての放送)の外人パーソナリティーの英語による、音楽配信を中心にした番組で、朝の5時くらいまで聴いていたこともザラにありました。
私は一体何時寝ていたのか? この間の記憶が、何か白昼夢を観ていたようにも感じるのはそのセイなのでしょうか?
1980年代以降、私は洋楽のヒット.ポップスはほとんど聴かなくなりました。そっからのその辺りの知識は極端に落ちるのです。カラオケのレパートリー数も...
その理由は、興味が薄れたから、ということも確かでしたが、この生活サイクルの変化の影響というのが決定的に大きいのです。
しかし、それにしても...何という不健康な生活だったことかi...ずっと体重は50kあるかないかぐらいで、大学4年の栄養失調気味の頃など、ある人は「墓場から出てきたみたいだ」と言っていたくらいでした。
大学時代は、時間に自由が利いたこともあって、ふらふらな昼の時間に反して、深夜の時間帯、特に午前2時頃はじっつに覚めていました。
これは大学三年頃から、読書に目覚めたことにも依っているのです。
ラジオは英語で何を言っているのか分からないので、気が取られないし、音楽もハードロック以外はほとんど気が散らない...何も聞こえないと、かえってヘンな音が気になる(古い家だったし、あるんだ...)もので、こういう環境が読書に適していたようです。
読む本のほとんどが宗教、スピ関連..."神に目覚めよi"..."もう、こうしてはいられないi、寝てなど居られようかi"
そう、"覚めちゃったi"...燃えるような高揚感に襲われて、宛どもなく、深夜の街をさ迷ったことも幾度かありました。
終電車は過ぎているから当然なのですが、始発の時間になっても、かなり遠方に来ていたにも拘らず、電車に乗った記憶は全くありません。
お金が無かったから...そう、だからマトモにメシにありつけなかった...いや、そうじゃないi..."朝日が昇る!"...高揚した気分も収まる気配が無い...足がその東の空目指して勝手に赴くのです。
"ここは中央線の阿佐ヶ谷辺りか? たまに行き交う人は不健康そうな人ばかりだが、私の精神はかくも活性化してていいのだろうか?...新宿の高層ビルはまだ無かった..."
この頃、まかり間違えれば、人生の裏側に足を踏み入れていても不思議ではなかったのです。
いや、そういう時間に与っていたからこそ、ああいうことになってしまったのでしょう...。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生の教師と全一なるもの

2020-09-24 10:30:22 | 人生の教師
スピ的なことに関して、いつも私がここで書いていることは、私が共感した幾人かの人生の教師たちからほとんど借りたものと言ってもいいのです。
別の面からは、そのいずれの教えにも従属しない、それらを突き抜けた、普遍的なものに向けられているようにも感じています。
これは自分で言うのもおかしいことで、傲慢とも取られかねないことなのですが...
しかし、それはこの私から出てくるものではないので、自負心などに囚われるのは滑稽なことなのです。もし、そういうものを感じるとしたら"こいつあ、何て小さい、エゴの強い人間なんだi"、と思って頂いていいでしょう。(私はそれを否定しないが...)
私は、ほとんど信用されない、教師でも何でも無い人間なのです。又特定の教えを奉じ、その集団に従属していた訳でも無かった...一時そういう時期もあったが、続けることは出来なかったのです。
今ではハッキリと言える...私は諸々の教えに共感したのではなく、その指し示すものに共感してきたのです。
言い換えれば、見える導師の中に、見えざる導師を見ていたのです。
そこに神的なものの息吹が感じられたから...
私にとっての人生の教師とは、これを伝え、示し、つなげようとする存在に他なりません。
ある教えの狂信者は、"この先生の教えに勝る教えは無い!"、と臆面もなく言う。こういう人間に限って、広く様々な教えのことはまるで知らず、知ろうともしないものです。
そして、それは本当には神的なものに触れていない、知らないということでしょう。
そうでなければ、"この教え、この先生"への固執した思い、狂信性から抜けられるはずです。
実に神的なものにあって、思いを超えられるのですi
そして多くの宗教、スピでは神そのものではなく、教え、人物、その他の従属物が神にスリ代わっているのです。
こう言って、私はもっと視野を広げて、様々な教えに触れなければならない、と言っているんじゃありません。
そういうのは、イイカゲンな私が持ったパッションなのであって、人それぞれの縁次第であるのは言うまでもありません。
ある教え、教師との強烈な出会いから、その他のものに触れようという必要を感じなくなることだってあるでしょう。
私などは幾つかの出会いの度にそう思ったものですが(笑)...
これには、その縁により、その教えの向こうで、神的なものに出会っている、という場合もあるでしょう。
そこでは一つのものの中に、全てのものが感得されてあるはずです。
諸々の中の一つではない、全てで一つのもののことですi (これは、相対観を超えているか、どうかということを端的に言い表しているのです)
神の代名詞はいくつあっても足りないもの...それは全一なるものの代名詞なのですi
こういう言葉がこの私から出てくる訳が無いi
だからうかつに信じてはならない...(誰もそうしない?)
本当に信じるべきは、あなたの神の声なき教えなのですi
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする