「ブッダの教えを学び続けることによって、ついにその枠組みを超え、キリスト、孔子、ソクラテスにも又共通の、人間にとって普遍的に固有のものを捉えることができた。それは、この人生という表舞台を裏打ちしている舞台裏からのおとずれである」(玉城康四郎)
「超理念の世界とは何か。
神か如来か、アラーか梵か、天か無か。
名称はいかにもあれ、人の魂の志向する絶対界に超理念の根源はある。
人間の心魂を呼ぶ本願者i
人間の実存を担う実在者i
その声を寂聴し、その光を霊視し、その愛を体受せよi」(小池辰雄)
私は、もう、私個人のみが悟りを得ることには意識が向けられなくなってきました。
それは、個なるものが普遍なるものと分離することにつながり、このこと自体、普遍的"超個"の有り様から外れてしまうということが明らかになってきたからです。
私という一個は、普遍と離れては真の個たり得ないのです。
このことは、私の内に霊性なるものが息吹き、育ってくるにつれて、ヒシヒシと身に覚えられてきました。
そして、現実世界に転じてみると、一個の運命は普遍世界と切り離せないものであることが、この度の世界的規模の日蝕という、大きな試みを通し、否応無しに感じて来ざるを得ません。
これをごく単純に言えば、命の事態に立ち返らざるを得なくなってきたということでしょう。
純然たる命の事態には、相異なる宗教信仰のことや、思想、イデオロギー、各種の方法論のことに囚われ、それらに閉じこもっている限り、それに与ることは出来ないのです。
それら表層の世界に隠された、命の事態に目覚めれば、我々は、その内に本来から息づいている、"霊性"によってつながっていることが知られるでしょう。
キリスト、ブッダなどこれまで人類の教師たちが伝えて来たものこそは、霊なる命の消息に他ならないでしょう。
一個人が霊性に目覚めれば、自他に調和がもたらされる道が開かれるのです。
"霊和"の道は既に開かれている...
"旧型"を一新すべく、"新型"は示されてあるi
我々はもう、その霊性に立ち返るには疲れきって、無力なのかも分からない...
しかし、私はその霊なる命の本源の方が、神的な力の方が裏側から我々に働きかけているのを覚えて、これを書かされている次第なのです。
霊和の道は、見えるものの見えないものとの和合から始まるのでしょう...。
「超理念の世界とは何か。
神か如来か、アラーか梵か、天か無か。
名称はいかにもあれ、人の魂の志向する絶対界に超理念の根源はある。
人間の心魂を呼ぶ本願者i
人間の実存を担う実在者i
その声を寂聴し、その光を霊視し、その愛を体受せよi」(小池辰雄)
私は、もう、私個人のみが悟りを得ることには意識が向けられなくなってきました。
それは、個なるものが普遍なるものと分離することにつながり、このこと自体、普遍的"超個"の有り様から外れてしまうということが明らかになってきたからです。
私という一個は、普遍と離れては真の個たり得ないのです。
このことは、私の内に霊性なるものが息吹き、育ってくるにつれて、ヒシヒシと身に覚えられてきました。
そして、現実世界に転じてみると、一個の運命は普遍世界と切り離せないものであることが、この度の世界的規模の日蝕という、大きな試みを通し、否応無しに感じて来ざるを得ません。
これをごく単純に言えば、命の事態に立ち返らざるを得なくなってきたということでしょう。
純然たる命の事態には、相異なる宗教信仰のことや、思想、イデオロギー、各種の方法論のことに囚われ、それらに閉じこもっている限り、それに与ることは出来ないのです。
それら表層の世界に隠された、命の事態に目覚めれば、我々は、その内に本来から息づいている、"霊性"によってつながっていることが知られるでしょう。
キリスト、ブッダなどこれまで人類の教師たちが伝えて来たものこそは、霊なる命の消息に他ならないでしょう。
一個人が霊性に目覚めれば、自他に調和がもたらされる道が開かれるのです。
"霊和"の道は既に開かれている...
"旧型"を一新すべく、"新型"は示されてあるi
我々はもう、その霊性に立ち返るには疲れきって、無力なのかも分からない...
しかし、私はその霊なる命の本源の方が、神的な力の方が裏側から我々に働きかけているのを覚えて、これを書かされている次第なのです。
霊和の道は、見えるものの見えないものとの和合から始まるのでしょう...。