人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私は待ち望んでいる

2017-10-29 13:06:30 | 独語
私はここでいつも"何かが表に顕れようとしている、裏が表に顕れる"というようなことを書いてきた
何かに促されるように...
そして、日増しにその"御顕れ"のいよいよ明らかになってきているのを実感している...
こちらからは捉えることの出来ないものが、御自らこちらを捉え始めてきたのだi
このブログを通してその事が少しでも伝わってくれれば ...と願いつつ...
けれど...
私は前から何となく気付かされている
本当にそのものが目に見えるように、ありやかに顕れることを伝える存在は...
私ではないことを...
私はずっと表に顕れようとしない、どっかいつも裏があるような人間
何かを隠しているようで、信用の置けない人間...
光の当たらない裏町がよく似合う
人には意識しようと、しまいとそれぞれ相応しい位ってもんがある
隠されているものは、必ず表に現れる...
今は、それが顕れ出る時...
私はその事を告げることを躊躇しない
しかし...それが真に手に触れられる現実として、ここにまみえるには別の存在に待たなければならないのかもしれない
そういう存在はどっかに現れているのかもしれない...いや、現れているハズだi
私の身近にも現れているのかもしれない
私と違って、もっと日の当たるところで輝きを見せる存在
光が当たることを通して、証されてくる
見えざるハタラキが姿を現すi
何て眩しいんだi
私には昔から見せられている...示現の曙光
それが現つとなるのだi 花が咲く、実が成ってくる...楽しいなi
それはどんどん輝きを増し、周囲を照らしてやまない朝日の如きものか...
私はいつも沈みゆく夕陽に魅せられてきたけれど...それは全く裏表のもの
ずっと待ち望んできたのだ、違いないi
人にはそれぞれ質の違いというものはあるけれど、
それぞれの色合いで、普遍なるものを表わしてゆくもの
又、一つの節目がもたらされたのか...
最近、より表側で自分を生かしている存在のことを、
祈らされている自分が居ることを発見した...

私は待ち望んでいる...



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持ち前の聖化

2017-10-26 18:58:02 | スピリチュアル
「今後私は目に見えるもの、わが存在にそなわるものなら、どんなものでも礼賛し、歌い、笑い、何一つ否定はすまい」
(W.ホイットマンー19世紀米詩人ー「すべては真実」)

人が所謂覚醒体験などで垣間見る、普遍調和といった有り様...このことは、この相克、不調和に満ちた二元的現実世界に我々が生き、経験してきているからこそ実感出来るのです。
もっと言えば、その彼の世界の平安に預かれるのは、この相対的現実の真っ只中だからこそでしょう。
それはこの現実と切り離されては起こり得ないのです。
その何らの障りなき自由というものの実感とは、この現実生活でのあらゆるがんじがらめの手かせ、足かせを通して知ることが出来るのです。
自分の思いの通りに行かない、不自由極まりないお荷物となるものは、この物質的肉体でしょうか。
悟りの道というものが、物質的なものを捨て去り、ますます霊化を促進して行くものだとすれば、それは淘汰されねばならないものでしょうか?
しかし、この物質的肉体というものがなければ、おそらくあのアリアリとした、"身"も震えるような実感というものには預かれないだろうと思います。
その実感というのは、精神も肉体も共々のトータルな、"全ての私"において起こるものだからです。
肉体は物質的なものとされているようですが、実はまだ解明されてない部分が沢山あるのです。否、物質的なことですらそうなのです。
何しろ、自分自身のことも分かってないのですから...
宗教、スピ界の一部には物質、肉体的なものーその集積たるこの現実世界ーを忌み嫌い、軽んじ、ここを飛ばして霊的、精神的のものに馳せて行ってしまう傾向が見られますが、その意識の根底に横たわっているものは、自己を信頼し、愛することの欠如でしょう。
自分自身という現実に意識が向かうことがなければ、それはどこまでも地上から浮いた現実遊離した観念の世界に過ぎないのです。
肉体のことも、この世界のことも、自分のことも一切がフタ開けしないままで、一体どこに行こうというのでしょうか?
そこには、そもそもこの現実世界に肉体、個性を持って生まれ出てきたという大前提が蔑ろにされ、自分をそうあら然めたもの、持ち前のものへの不信があります。
"ここ"から離れて"あちら"は開かれないのです。隠れていたものは、必ず顕わとなる...
"人生の裏側と表側"とは全く合わせ鏡のようなものと言わざるを得ません。
次元上昇のようなことがあるとすれば、物質的段階から霊的段階への移行といったものでなく、霊と肉、自と他、普遍と個、善と悪...我々の全てもののフタ開け、顕現となるでしょう。
それまでこの世界のある部分しか見てなかったものが、隠れた領域に光が当たり、全的なものが日の目を見るということです。
この世界の他に別のアセンションした世界がある訳では無いのです。
この自分の他に別の真我というものがある訳でも無いのです。
この現実の他にしてリアリティというものは、どこにも開かれる事は無いのです。
ただ、"この世界も自分自身も思われたままのものでは無い"、ということがあるばかりでしょう。
そこで目覚めた眼に映し出されるものは、この世、この自分と思われたもの、持ち前のものの聖化でしょう。





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ありのままの自分、ありのままの世界

2017-10-24 18:44:47 | 現臨、ハタラキ
私のことをよく知る人が、私がここでこんなブログを書いていることを知ったら多分ビックリするだろうと思います。
"アイツ、何を悟ったようなこと言ってんだ、バカでねーのi"なんてね。
"もう、ダメですう..."、"ああ、どうしたらいいんだ...助けてくれーい..."とか、とにかく私は人前で平気で弱みを見せたり、うろたえているザマを見せたりしているのです。
ある人なんかには私がかなりのスケベであることがちょちょバレです。もう隠しおおせません。(そうです。君が知っているのがありのままの、裸の私なのです)
"一体全体君が日頃言っている、愛と平安と共にあるという、その"ゲンリン"とやらはどこへ行ってしまったんだね?"という声も聞こえてきそうですが...
でも、私はハッキリとこう言います。
"どこにも行ったりなどしてませんよi"と...
どんなに私がダメでミジメなことになっていようと、どっかで現臨の魔法の渦巻きが起きているのが感じられるか、どうか...
その渦巻きの中心へと私を導くものがある...
ヘタレの私にとり、これがホントに肝心なことなのです。
"私は常に神と一体である"、"常に目覚めた意識にあるのである"とウソぶくことよりもはるかに...ですi
悟った人間のフリをすることは、人を欺くことになるばかりか、自分をも欺くことで、その"我が主"とのつながりを失うという致命的な事態になってしまいかねません。
それは、究極の何ものかになりたいという、エゴ的な自分に主権を渡してしまうことだからです。そうして完全な自分であろうとして、不完全な自分にはフタをして、無きものにして逆にいつまでも自分は不調和なままになってしまうのです。
私は多分、昔からその自分の欠陥を直そうとか、バランスを欠いた心をコントロールしようという、克己的精神に欠けるという、おそらく社会人としては致命的な欠点があるのでしょう。
しかーし...何とかしようとしたって、どうともならないこともある。何とかしようという気さえ起こってこないこともある。"そこを何とかしなければならんのだ!"と言われても...何とかなるんなら、世の中とっくの昔に地上天国でっしゃろi
まあ、人間誰でも色々な局面で無意識でも何とかやっているものなんでしょうけど...
私は意識してても、しなくても現臨の魔法の渦巻きに赴こうとしてしまうのです。
その渦巻きには、何ものかになろうとする自分でなく、ありのままの自分でないと、そのままをゆだねないと預かることが出来ません。
ありのままというのは、ダメでなきゃならない訳では勿論ありませんよ。
別人のように、神がかったように豹変する私の姿もそこにはあったりするのですi (どっちみちマトモじゃなさそうです)
ただありのままに、目覚めた自分だろうと、迷ったままの自分だろうと、その渦巻きに向き合うというだけなのです。
迷った自分、業生の自分には見向かれることなく、蔑ろにされたまま、霊的進化、悟りの道を歩んでいる、光につながったつもりになっていても、それらは覆い隠されたまま影のように付きまとい続けるでしょう。その闇の部分にはずっと光が当てられることがありません。
業的なもの、闇は消え去らなければ、光へと変容出来ないものなのでしょうか?
否、本当の変容とは、業的なもの、不調和な事態といったものはそのままで、闇に見えたものが魔法の渦巻きを通し光に照らされることで、相克を超えた調和へと化していくことに他ならないのではないでしょうか?

最近になってやっと何でデキソコナイのこの私が、このバカバカしい世界に生まれ落ちてしまったのか?...分かりかけた気がしてきました。







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真と信

2017-10-22 12:22:24 | 詩的文章
「一年の色と香りはみな 一つの蜜蜂の体内に
鉱山の富と神秘はみな 一つの宝石の胸に
海の光と陰はみな 一つの真珠の心に
色と香り 光と陰ー富と神秘ーそれにも増して
真こそは宝石よりも輝き
信こそは真珠よりも清いー
天地にたぐいなき輝く真 清らかな信こそーわが身には
愛する少女の口づけのなかに」
(R.ブラウニング.「至上善」)

嵐が近づいている
この大自然の威力の前に
一体何がもたらされ、何が追いやられるのだろう
僕の心も揺れている
感官や思惑や倫理だとかで、僕は引き裂かれそうだ
充たされない思いと後悔の念を引きずりながら
どしゃ降りの中、ずぶ濡れになりながら夜道を走った
水しぶきとテカテカの路面でよく見えないよ
僕は何を求め、何を探しているのか
あるいは又、何を見失おうとしているのか
僕は最善のものを探し求め、それを失おうとしているのか
明くる日
裏側に記された祈りの文字を見つけたi
そこに真心が込められているのか、どうかは知らない
人の真心なんて...
それでも...僕は信じる
だって、僕はそれで自分を取り戻せたのだから
なんという、健気な魔法の言葉i
僕をずっとそこにつなぎとめてくれi
最善のものは探し求めても見つからない
ベールの裏側に記されていて、ホラ、ちゃんとそこにある
僕もずっと見失わずにいたい
君が見ている真と信 ...
どんな嵐が吹き荒れても、消え去ることは無い
そこは、暴風雨から免れた台風の目

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いま

2017-10-21 11:39:35 | 詩的文章
「あなたのすべての人生から ただ一瞬を与えよi
過ぎ去ったあなたの人生のすべて
その後につづくすべてをーさほど蔑み
いまをこそあなたを完うする、ーおし縮めるのだ
激情の恍惚のなかに、完成を恵まれるために
思考、感情、魂、感覚をー
一度だけ、僕の周りに、足もとに、頭上に
あなたが僕のものになる刹那に浸ってー
僕をーきっと未来に過去にかかわりなくー
つかの間の人生のこの一瞬、あなたは愛してくれるi
いつまであやふやな時が躊うのか。ああ愛しい君よー
永遠の一瞬ーきっかり、それだけ、それ以上でもないー!
恍惚の極まるとき、二人は核心をつかむのだ
そのとき頬は燃え、腕を拡げ、目をふさぎ、唇は合わさるi」
(ブラウニングー19世紀英詩人ー.「いま」)

もう、気安く"いまここ"などとは言うまい
使い古された言葉に"いま"も"ここ"もありゃしない
"いま"は永遠の世界からやって来る
忽念と終わりなき日常の、開くことのない扉が開かれて...
突然の暴風雨!
"いま"に捉えられるや、もう僕はそれまでと同じでは居られない
押さえがたく、噴出する熱情
頭の中のすべての計らいごとは吹っ飛んだi
もう、後先のことなど考えられない
もう、二度と会えないかもわからない
この奇跡のような一瞬を逃してなるものかi
この焦慮、熱情が永遠の"いま"を取り逃す
そして...何かを得ようとして何かを失う
永遠の"いま"は決して手に入れることは出来ないのだ
それでも、僕は君のソフィアの微笑みを永遠のものにしたい...

(Kちゃんi
ホントにブログを読んでいてくれたんだね...ありがとう
それなのに...僕は嫌な思いをさせてしまったかもしれない...反省してます
どうかあまり無理しないで、夢と可能性に満ちた人生をエンジョイして下さい)
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