人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

我が主なるもの

2024-01-30 09:45:12 | キリスト教関連
多くのクリスチャンは、“イエスを信じないと救われない!“、と信じているのですか?
ホントに信じられないのに信じないとならないのですか?
いやもう、ホントに...ムチャクチャな話だとは思いませんか?
教会とは、多くの偽善者を作り出すところなのか?
だから私は、キリスト教にとても惹かれるところはあっても、ゼッタイにクリスチャンになんかなりたくなかったのです!
“私はウソをつけない人間なもので!“
正直、ずっと昔の、海の向こうの人のことなんか、信じ、受け入れることなど出来ません!...縁のあった福音集会で、このことをどうしても叫んでみたかった!...“御霊の促し“によってね!
「誰でも聖霊によらなければイエスを主であると言うことは出来ない」(使徒パウロ)
この英語の“lord“を“主“と訳してあるのは、実にスバラシイ!
もっとも、それは主君とか王侯のことで、信者は“僕“と呼んでいるような関係として捉えられているらしいですが...何と水臭い、他人行儀なことか!
それで、“キリストと一つにされる“、などとどうして言えるのか!
主とは、私自身の主となるもの、私に直結した大本の私、考えている表層の私を超えた私そのものでなくて何であろう!
実に思われた私を超えて、又内在したものに、真の、本来の自己が求められるのです。
これは、仏性、阿弥陀如来、禅宗の“無位の真人“、神道の“直日魂“、今日スピ界隈で普通に“真我“と呼ばれるものなどとも通じるものです。
つまり、“イエスに表れたキリスト“が真我なんだ!(思われた自分と直ちに同一視など出来ないが...)...それは言うまでもなく、本来超宗派的なものであるはずなのです。
このことを明らかにしてこなかったキ教は、全くどうかしているとしか言いようがありません。少なくともそれが同教が我が国でサッパリ振るわなかった大きな要因でしょう。
しかしながら、その我が主なるものの証は、“御霊“に感じていなければただの観念ごとに浮くだけでしょう。数多あるイエス論も仏性論もすべて空しい...
現実に我が主が臨んでいるかどうかが肝心なのです!
何度も言うようにこの神的な現臨という表現は、多くキ教から借りているのですが、これは、実際にその集会に参じた時にも、主として手島先生や小池先生、ベルジャーエフの本を読んだだけで(!)、そういうものを感じたことに依るのです。
ある意味では私にとってキリスト教とは聖霊教なのです。
何か理屈では分からない感応性がそこに感じられてなりません。
といって、キ教なら何でもそうなる訳では勿論ありませんよ!
おそらくそれらから、より夾雑物の無い、私に直結した、我が主なるものの息吹きが伝わるからなのでしょう。
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すべての私の自己実現

2024-01-28 09:32:19 | スピリチュアル
自己認識、自己実現...自己とは何か?...すべての精神的な道は、自己なるものを明らかにすることを抜きには語れないと言っても過言ではありません。
そうでないなら一体何になるというのか!
悟り、覚醒、神我一体...表現は何であれ、このことから離れてはあり得ないことでしょう。
ところが、宗教的狂信、カルト信仰、興味本位のオカルト信仰...これらもそういう道として捉えられていますが、これらに共通して言えることは、自己自身に意識が向けられないということです。
“○○先生はこう言った、それだけが正しい“、“世界は闇の勢力、陰謀結社に支配されている“、“やがて世界人口は半分になる...“、すべて自分に直接関係の無いことばかり、ここにある現実からは浮いた観念ごとばかり...ここにある現実とは則ち、“私はここにある“、ということに他なりません。
しかし、ここにない自分にとって自己とは、多く他者の目を意識した自己、他者に認められたい自己のことであり、何の色もつけられない自己そのものに向けられることはありません。これが自我というものなのです。
そして、いつも正しい自己、高きにある自己、つまりは自己の虚像を他にアッピールしなければならない...それは、ありのままの自分ではありません。
しかしながら、その自分を受け入れられれば、当面ではそれが本当の自己ということになるでしょう。
それはしかし又、思われた自分からは中々そうなれないというのも事実でしょう。
だから、私にはどうしてもそれは、“思いを超えたものに照らされた自己“、という言い方にならざるを得ないのです。
何も虚飾の無い自己そのものを意識してみる...これを普通、“自己を見つめる“とか言うのでしょうが、そうするともう、即座に、自然に自分を超えたものに意識が向いてしまうのです。
超越したものと切り離された自己というものは感じられないのです。
これを神的なものにある自己、現臨にある自己と言ってもいいでしょう。
この感覚をも少し広げてみると、超越したものが現実に切り込んでゆく(これは、主としてベルジャーエフの言い回しを借りてます)ようにも、又自己の内に隠れていたものが、現実に顕わになる(これは主として玉城康四郎先生の言い回し)ようにも感じられます。
要するに、超越と実存は切り離されないということでしょう。
そして、私の思いを超えて、そのものが私を通して何かを実現しようとしているようなのです。
それは何か?...勿論それは分かりません。又言えません。
私一個人からは!...
それは、すべての私がしていることなのだろうから!...




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正直の風

2024-01-26 09:54:28 | 雑感
私はいつも寝る時間が早いので、リアルタイムでテレビドラマを観ることがほとんど無いのですが、今続編が放映中の、一寸前評判になった「正直不動産」の動画にハマっています。
ウソばかりついて、不動産会社のトップセールスマンになった主人公が、空き地に建てられていたヘンな祠のようなものを壊した祟り?で、正直にさせる風が吹くとウソをつけない人間になってしまうという物語です。
“ううう~っ“、っと、その変貌ぶりを観ている度に、私には何かプノイマ(霊的な風)みたいなのが吹いて、“あれ“が想起されてくるのです!
そう、頭のてっぺんからつま先まで何かが吹き抜ける感じです。
私は、知ってる人なら皆知ってるウソつき人間。でもあの風が吹くとウソがつけなくなる!...まずは自分自身に!
ああ、もうたまりません!...あの風にあって、もはや自分を誤魔化すことは出来ない!、自分のすべてを投げ出したい!、ぶっ放したい!...カイカ~ン(ワカル?)
例えば“正直国会議員“何ていうのは、一寸現実離れし過ぎの感がしますが、“正直牧師“だったらすぐストーリーを思い付きそうです。
“さあ、皆さん、聖書の神のみ言葉に従って、イエスを信じましょ...って(これが私のいつもの快感なノリなんだな!)、人間が言ってて、人間が書いた言葉じゃないか!、イエス何て会ったことも無い、数千年前の、異国の人なんか信じられるかってんだ!“...ってな調子で...
私は牧師は勿論、平信者でも、いや信者自体でも無いですが、昔東京の三田にある「キリスト友会」(フレンド、通称クエーカー)に通っていたことがあり、長いブランクがあり、それから数年前、又やって来て、それも短い間でヤメてしまいました。
その理由は、会全体を覆っている、その本来の自分に直接する神(“内なる光“と言われる)に意識を向けることなく、“私はこう考える“、という人間的な思念に聞こうとする傾向に生理的に受け付けないものを感じたためです。
昔の時も何回かありましたし、数年前はもっと堪えるのが困難な感じになっていましたが、私は自分の、いやあの思いを越えた“正直の風“にあって、あくまで未遂レベルですが、何かをぶっ放したことがあるのです。(唯一未遂でない、爆発レベルとなったのは、状況は違いますが、数十年前「大調和協会」でありました)
今度又、友会に行ったら、この調子だと未遂じゃ済まなくなりそうだからヤメときます。(あれは、そのリアクションで思わぬ後始末を背負い込んだりして、リスクを覚悟しないとならなかったりするのです)
こう言ったからといって、何も激高する必要は無いですよ。ただ人間堪えていたものが噴出するにあたっては、多少のそういう激しさ、“熱、圧“を伴うのは致し方ないでしょう。
いいや、というよりか!...(ほら又、“ヒュ~っ“)これは自分の思いとか感情がどうとかの問題じゃなく、あの“正直の風“次第なんですよ!
それに任せるっきゃない!...“そういうものは、自分でコントロールしないと“、って、それがウソつきの始まりなんだ!、一体誰に止められよう!、その風は、自分の思いも力も無であるということを知らせているのではないのか!
別に人に向けることはないけど、少なくとも私は私自身に対しては風任せとならざるを得ません!
私は人にはウソつきでも、自分にはウソをつけない人間なのですから!...
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夢想と現実

2024-01-25 10:02:58 | 意識、照明
ありのままの自分を受け入れることの大切さについては何度も触れてきました。
もし、精神的な道というものが神の道、神と一つになる道というのなら、そのことを抜きにしてはあり得ない、そこからしか何も開かれないと言っても過言ではないでしょう。
しかし、私のチョイと知ってる人間でも、ありのままでない、修行か何かで、思われた自分を段々高め、進歩させて行き、又現実にはそうなっていないのに、自分は高みに達したものと夢想したがる向きもあるのです。
そして、:“取り越し苦労はいけません!“などと言ってる端から、ワクチンは有害だとか、マスコミはその事実を隠蔽しているとか、それが定住地であるように、いつもの真偽の分からない妄想世界から抜けることが出来ないでいるのです。
それがこの御仁のありのままの姿なのでしょう?
当人は、ゼッタイに認めようとしないでしょうが...何十年も修行し続けていて、そんなザマでいることなど!
“何にも見えていないのに、見えていると言い張るところに罪がある!“
...って、別に罪って訳でもないですよ。(多分、罪の意識が見えなくさせているのでしょう?)
不確かな情報を拡散し続けるのはどうかと思いますが、いつまでも同じところをグルグル回り続けているのが悪い訳じゃないですよ!...本人の生き方の問題でしょう。第一いくら自分の思い、努力に頼っていてもそれで神の道が開かれる訳でもありません。
ただここでは、それはありのままの自分の現実を受け入れることで開かれる、とそう言っているのです。
それは、かくある自分を夢想したり、誤魔化さないことです。そうして初めてありのままの自分を投げ出すことが出来る、ゆだねることが出来る(これは、出来る、出来ないという問題じゃありませんが)...何に?...そう、思いを超えたもの、神に!
私は若い頃から思い煩いの苦境にある時など、何回かこういう経験をしているのです。その頃は特に神的なものを意識していた訳では無いのですが、思いを超えたところから来るという本質は同じです。思いがけないことなのです。
そして、いつの間にか、その思いのがんじがらめが解かれて、その隙間に新しい、何とも快い風が吹き込むようにも、ラクーな、幸福な気分に変わってしまったのでした。
現実の自分は、絶望感に苛まれたミジメな自分...それが自分の本当の姿などとは認めたく無いのです。
だけど、その自分に思いを超えたところから光が差し込んでいるようではないか?!...この現実を受け入れざるを得ない!
つまりは、本当の自分とは、かくあれかしと思う自分のことではなく、何らの誤魔化しの無い、そこに光が当てられ、照らされている自分でなくて何であろう!...真我が何かは分からないが、少なくともそこに仄かに映し出されているのではないか?
ありのままの自分を受け入れることは、私の若い頃のように、精神的な苦境になければ、そうならないというものではないでしょう。
ただ、神は自分を欺き、誤魔化すことなく、ありのままの自分を受け入れようとする人間を放っとかないでしょう。
...いやもう、意識すれば、その“お照らし“は常にあるのではないか!
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神に祈ること

2024-01-23 09:33:59 | 祈りと瞑想
私はいつもこの場で、“ああ、この神的なものの臨在の喩えようの無い愛、幸福、リアリティが読者に伝わればなあ...“、との思いで書かされているのです。(如何せん、言葉の限界、表現の拙さを知らされる次第で!...)
これが私の祈りなのです。
祈りというのは、言うまでもなく思いを超えたものに意識が向けられることです。
しかしながら、何と宗教的世界では、この祈りとは根本的にズレたものが祈りとして捉えられていることでしょうか?
例えば、“私は祈りによって健康が回復しされるようになった、不安から解消されるようになった、危機的状況に合わずに済んだ!“
まあ、そういうことは勿論、誰でも自然に出て来る感情であり、人情としては分かりますよ。祈りの功徳を言っているのですね。
しかし、中には、“祈りによって、目指す何かを達成しました。得ることが出来ました“、いや、“一日何回も何時間も祈ることが出来ました!“、何て曰う向きもあります。これなど神仏の働きも祈りも関係なく、自分の信念、意志力により頼んでいるだけでしょう。所謂自力作善というものです。。
何十年も祈りの行をしていても、祈りと念力の区別が分からないようなのです。こういう人の言葉からは、神的なものにあることの素晴らしさというものは何一つ伝わって来ません。
本来の祈りとは、神にゆだねることであり、自分に神が通ることであり、自分がどうなった、こうなったということじゃないのです。
要するに、祈りとは人間的なものが主導になるものでは無いのです。
かく言う私はね、祈りによって神的な現臨に与ることが出来たのですよ!...しかし、それが十数年間、感じられなくなる、という回り道を辿らされるようなことがありました。
いや、覚醒体験のようなことにも与っているのです。そして数日で元の黙阿弥となった!...
何でそういうことになるのか、今ではハッキリ分かります。
実に神的なもの無しでは絶対にそうならないものが抜け落ちてしまっているからです。
そうなんだ!...神に意識が向けられ、ゆだねることが現臨にあることであり、目覚めていることなんです!
自分がどうなる、こうなるというのはオマケにすぎない!
それでも私は、“祈ることで愛、平安、リアリティに与る“、ということはどうしても強調したいのです。
何故ならば、それは全く、考えている、どうなる、こうなるという自分を超えて、神に直結したものなのだから!...
心の奥で、神を頂こうとしないものが祈りである訳が無いのです。
こんな当たり前の、普通に“神に“祈ることが何と蔑ろにされていることでしょうか?!...
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