人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

見えざる乗り物

2019-08-31 11:33:04 | ガイダンス
"意識を向ける、否向いちゃう..."、ということは、これはとても肝心なことなのですが、向けようとするよりも、そうさせる、せざるを得ないものがある、ということを言っているのです。
すると、自ずと導かれるままに、何か扉が開いたようになり、あたかも乗り物にでも乗せられるようなことを実感させられます。
仏教では、小乗とか大乗とか言ってる、"乗"というもの...それは、こちらの作為、力に頼らずとも、自動的に運んでくれるようなあるもののことを言い表しているのでしょう。
普通は、その仏法というか教えのこととされているようですが、元来はこういう見えざる、形なき命をそう表していたものと思われます。
この乗り物の主は、私が神的なものと一つになろうとか、悟ろうと思うより先に、その主ーそれは私の本なるものでもあるのですがーと一つにつなげよう、つなげようとされるのです。
この乗り物に乗っかるということがあるだけなのです。
全くそれは思いを超えた事態なのです。
世の中に多々宗教的、精神的道はあれど、この主に決定する以外に道はありませんi それは私自身になるということなのですから...
このことは、何の宗教、道に帰依しようとも、諸々の相対的有り様を超えていることであり、一人一人の決定的運命、宿命のうちにあることなのです。
何でそう言い切れるかと言ったら、そうなってみれば自ずと分かります。
そうでなければ、ずっと"あの教えに、このメソッド"と、思念の世界でさ迷い続けるしかありません。(それも当人の学び、試練としてその主がしていることもあるかもしれませんが...)
"ワンランク上の道、何?、 完全覚醒の道?...実に我欲をそそる言葉...そのサガでフラフラと自称覚者が設えたカルト的教義体系に勝手にハマり、妄想し、頭の中で何かが進んだつもりになってるだけ...宇宙の支配者らしきものは、完全覚醒者が増えると都合悪いらしいとか、何とか、宇宙が終わるまで考え続けるらしい...思凝神(神ならぬヴァーチャルな思念の集合体)にとっちゃ、そういう妄想をし続けることは、エネルギーが供給されて、好都合には違いあるまい..."
何が自分にとって真実の道なのか?
徹底的に自分自身に、もし可能であれば"我が主"(ここに二つは無い?)に尋ねてみればいいでしょう。如何なる虚飾も、誤魔化しも、世間的、我欲的プライドをも排して...
声なき声は絶対に、"この道を歩めば完全覚醒に至れるぞよi"なんて、自称覚者みたいなことは言いません。
私が私になることに、完全だの、最終だの、より高いなんちゃらだの、アセンションだの、天国だの、地獄だのある訳無いでしょう。
自分が如何に自分でないものに迷っているか、気付くことこそが、真の目覚めの偉大なる第一歩でしょう。
声なき声とは人間が教えて、それを聞いて、"ああ、そうでっか、ほんまかいな?"とやってるようなことじゃないのです。
そこには惹き付けてやまないものがある...
どうしようも、こうしようもなく意識が赴かざるを得なくなる...かもしれない(いつもこう、はぐらかすように促されます。今日は前言ではちとリップ.サービスが過ぎたようです...スミマセン)
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目の当たりにすること

2019-08-29 11:50:40 | スピリチュアル?
メシを食べる時に、食物は胃腸に送り込まれ、消化液が分泌されて云々...とかいちいち考えてなどいないでしょう。
そういう理が分かったからといって、ちっとも腹の足しになりゃしません。
映画を観ている時に、隣でこの監督の作風はどうだの、カメラワークがどうだの、ウンチク垂れ出したらうっとおしくてしょうがないでしょう。
映画ってものは頭で観る訳じゃないのです。
"幸福に感じたり、精神的目覚めが起こるのは、脳内物質が分泌されるから"...こういうことは、何か実証でもされたのでしょうか?...実証した人は多分悟った人以上に悟った人なんでしょう?
しかし、それが実証されようと、されまいと現実にそういうことを目の当たりにする人間には何の関係もありません。
客観的科学の世界と違って、精神世界に関することはより一層そう言えることでしょう。
目の当たりにする、ということは全く理を超えていること、直接ブチ当たるようなことです。
"私は神を信じているが、それが正しい神なのか、低い神なのか...こっちの意に沿わなかったら、別の神に変えよう..."なんてトンマも中には居るかも知れませんが、ある人にとっての真実の神とは直にまみえる、実存的な神以外に有り得ようはずがありません。
神が宇宙の法則だろうと、支配者だろうと、この直にまみえることとは関係無いのです。信仰、修行ですらも直接関係無いでしょう。

私はしかし、幼い頃から、この直に触れる、まみえるという感じが掴めなくて、いつもジリジリ悶えする思いで居たのです。
"本当にあるものに触れるとは一体どういうことなのか?"
"自分が直接関わるとは、一体どういう在り方なのか?"
今から思えば、どっかでそういう感じを知っていて、現実世界では、その感じを失い、それに触れることが出来ない、という不十全感に苛まれていたようです。
"私の世界は、かくも無機質なもので溢れていたのだろうか?"
こちらからいくら求めど、探せどそれを掴むことは出来なかったのです。
どんなに掴もうとしても、ザルのようにこの手から落ちて行く...よしんば"掴んだぞi("むぎゅi" な、何を?)ということがあっても、何か違う..."がつーんi"とこちらのまっ中心に響いてこない...
"ブチ当たれi、投げ出せi"と言われても、どこにそうしていいのかが分かりませんi
そんなこんなで、初めて求めていたそのものを目の当たりにしたのは、36年前の今頃の時節でした。
掴もうとするのでなく、捉えられることで、与ることが出来たのです。
手を離させ、全身心を投げ出させる、そうさせるそのものにまみえたのでした。こういうことが研究だの、理論だの、"誰かがそう言った"だので、分かってたまるかってんですi
我が主から始まることなんですi
直接的でない、挟雑なものに囚われ、自身の主に開こうとする気がなければ、どうしようもないことでしょう。
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秘儀公開

2019-08-27 12:05:17 | 宗教
私はこの場で随分と私が秘匿していたことについて、そのベールを剥いで自分の言葉で書き表してきました。
秘匿、なんて言ってますが、隠したくてそうしていたという訳でもなく、言っても伝わらなかったり、変に誤解されたりで...好きで秘密主義者をしていた訳じゃないのですが...。
取り分け、秘密のベールで覆われていたことは、神との関わり、信仰的な部分でした。
"一体、何の神様を、何の宗教を信じているんだ?"と、何人もの人からそういう色眼鏡で見られて来たことかi
誰一人理解され無かったと言っていいのです。(何となく理解を示してくれたようだったのは、大調和協会の命位様くらいだったでしょうか?)
なるほど、私は幾つか宗教的団体とも関わり、それ相応の信仰生活も身に付けたりもしましたが、それは表向きと言ってもいいもので、裏面にあるものは、もっと内面的なもので別のものだったのです。
ある宗教的団体に帰依すると、そういう個人的、内的な信仰の在り方も表向きのそれと同化され勝ちになるようですが、私は一度もそうなったことはありません。
つまり何があろうと、どうなろうと私の"神の宮"は、他の誰にも侵されることの無い、知られることの無い、我が拠り所、避け所であったのです。
たとへ、他のことが明るみに出されても、これだけはずっと"至聖所"であったのです。
それがですi...私はこれまでずっとこの場で、惜しみ無くその秘儀、秘伝、秘仏を公開しているのですi(ロハでだi) こりゃあ、全く私の人生の一大事と言う他ありません。
して、その密儀というのは...何度も書いてることですが、ええい、面倒だ、大盤振る舞いしますよi

Oその行的部分..."秘仏"に意識を向ける これは、自然(じねん)的に、無為的に起こってくるものにゆだねるのがコツで、人為的、意念的なものに頼ろうとするのは逆効果!
他にやること...特に無しi
Oその効用...意識が自然(じねん)に中心に集まってくる。
どこが中心というのでなしに、意識されるところがそういう感じになる。
自然に、自分を超えたあるものに観られ、照らされるという感じになる...照明。
こうなると自ずと思念から離れられるようになり、"ゆだねる"ということも無理無く、自然にそうなって行く。それで愛、平安に導かれる。これも自分の念的意志でそういう状態になろうと図ることは逆効果i
O秘仏...本尊的なもの...現臨。自体が無相、無形なものなので、各宗教で呼び慣らされた本尊を適応させることも出来るが、思念で固定的に対象化させてしまっては生きたものにならない。

便宜的に三つに分けて書いてみましたが、すべて重なり合うことなので、別段意味などありません。とっても分かりやすいでしょう?...分からん?
そう、だから...ずっと秘儀秘伝のままだし、私もミステリアスなままなのです。
これはね、他の何ものでもない、あなたの神様に聞くに如かずなんですってi
そうしたら、あなたと私の秘儀が開示される...かもしれない。
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八月の濡れた砂

2019-08-25 11:52:42 | 映画・音楽など
盆も過ぎると、夜間は熱帯夜も収まり、秋の虫がさえずる頃ともなりました。
私は一年で、晩夏から初秋にかけての今頃の季節が一番好きです。
厳しい残暑の中にも、心地好い涼風が、何かやるせなさ、哀愁、郷愁を運んでくれる...
私の生涯で、印象に残っている音楽というのも、数多くこの時分に巡り合っています。
(ボレロ、ワルツ、パシージョ...知らないですね? スミマセン...)
中学3年の夏休みの終わり頃だったか、友人に誘われて映画を観に行きました。
全然内容など知らず、ただ付き合っただけで、その意味ありげな題名に、ある期待感を持ちましたが、はたして...その場面に異常にコーフンしただけで、ストーリーのことなど全く頭に入りませんでした。
その題名は「八月の濡れた砂」(中学生は入場可だったかどうか定かではありません)。
ただ、石川セリが歌う、その主題歌が何ともやるせなさ、哀愁を呼び起こされ印象に残ったのでした。(従って、ここでは映画のことでなく音楽について書くのです)
少し後、ラジオ深夜放送「パック.イン.ミュージック」で、カルト人気のあった、パーソナリティー林美雄さんがよく取り上げていて、ハマってしまいました。これは隠れ名曲と言うに相応しい傑作だと思います。
それから何十年か経ち、中南米音楽に興味を持ち初めて、この曲は南米ベネズエラの"パサーへ"と呼ばれる音楽の形式を借りていることが分かりました。(検索してみても、このことに触れている記事は全く見つかりません)
大雑把に言うと、同国では元々"ホローポ"という牧歌的で、陽気なリズム形式が知られていますが、より短調に、メロディアスにしたのがパサーへです。
どちらも南米産ハープ(アルパ)、クアトロと呼ばれる四弦ギターをメインに、リズム用にギターを配し、マラカスで細かくリズムを刻むのが、標準スタイルですが、後者の場合旋律は実にメロディアス、叙情的ながら、リズムは"チャチャチャ"っと、トロピカル風味なところが何とも不思議な味を醸し出していて、これが実にこの時節にピッタリなのですi
ナット.キング.コールもスペイン語でカヴァーしていた、「アンシエダー(ansiedad)」という曲は、多分ラテンアメリカ中で知られている(仕事仲間の日系ペルー人Mさんも勿論知ってる)パサーへの有名曲でしょう。
先の主題歌でも、そのハープ伴奏が一聴してこの感じを出しているのが分かりますが、細かいリズムは抑えられ、間奏のフルートとかには和風のアレンジが伺われます。石川セリさんの歌唱は、ラテン的な情熱と日本のシットリ感が程よくマッチしているようです。
日本の夏の終わりはカリブ海と違って、濡れてシメっぽいのでしょう。

本場のパサーへの名曲「アンシエダー」は、ベネズエラのクラシック、テノール歌手出身の「アルフレード.サデル"Alfred Sadel"」の堂々たる歌唱なども有りますが、これはインストで聞きたいものです。
「Los Saucelitos」という情報不足で全く正体の分からない、アルパ、クアトロ、マラカスどれをとっても、スゴテクの楽団のCDを愛聴しているのですが、残念ながら動画では見つかりませんでした。
同国を代表するアルパの名手、「ファン.ヴィセンテ.トレアルバ」のメドレーが聞けます。

*Juan Vicente Torrealba/Cuand No Se De TiーAnsiedad
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すべて愛

2019-08-22 11:54:37 | 
「君にとって愛っていうのが唯一の、この世界そのものなんだ。この宇宙そのものだし、ほんとにある唯一のもの。そして愛の中には愛の愛があるわけね。それから愛の安心、それから愛の歓喜、愛の智恵、それから愛の力、愛の自由」
(君がどうかい?ー雨宮第慈講話録2ー.SCL刊)

愛というのは、人間存在がそうであるように、人知の理解の及ばないもののようです。
人間には知的機能というのがあります。モノを動かし、操る力がある。普通はこういうものは、感情といったものとは異なるので、愛と結び付けては考えられないものですね。
しかし、例えば哲学というものがありますが、その原意は"知を愛する"ということだと言います。
時に、そのように理屈っぽいことを言っていても、そういう表現をすることに酔いしれてしまうことがあるのは、如何に知性に乏しい私でも分かります(そうなると、論理の破綻などお構い無しになりますが)。
知性というのは、表層の奥では感性的なものと切り離されないものだということが分かります。
日常の労働の場で、技術を取得し、その力を使ったりすることにも、普段愛のことなど意識されないかもしれません。
しかし、全くそういうものの無い、社会生活など私には地獄のようにしか感じられません。
そりゃ報酬のためってのは大きいのでしょうけど、やっぱりそれを通じて、その向こうにあるものに触れるということがある訳で、仄かにも愛というものは、ハタライているのでしょう。
上のダンテスダイジの言葉は、我々が関わるもので"愛でないものなど何も無い"、と言っているに等しいのではないでしょうか?
哲学的知性にも、超能力的なものにも恵まれ、各種の修行法にも通じた彼がそう言っているのです。
自分にとって愛とは何かが分からない、というのは全くどうかしていますi
「僕はこれが好きだ」(同書)
愛と切り離された時に理屈に、功利、打算に、支配、因習などに堕してしまうのです。
人からは称賛されたりして、その堕落に気付きにくいものは、悟りとか人類救済とか"御大義なこと"です。
これはとどのつまりは、"自分自身を愛していない"ということに尽きるのではないか...別のもの、他におもねってしまう。他が何を言おうと、どこまでも自分にとってどうかということなのです。
私がよく"現臨に捉えられる"、"惹き付けられてやまない"とか言っていることというのは、言うまでもないですが、自分の自由意志に反して、神的な意志に従うというようなことでは全くありません。従わすものと従うものの二つは無いのです。
むしろそうでないもの、本当の自分の意志のフリした、第一義でないものに囚われた意識状態から解放されるようなことなのです。
確かに何ものかに突き動かされる、させられるという感じはありますが、無理強いとか支配されるとか自己犠牲というものはいささかもありません。
そのようなものがあったとしても、真の自由意志からそうなるまでです。

スピ界隈には、愛についての言葉に溢れかえっていて、一寸言うのを憚るものがあります。
いや、だからこそ、言わずにおれない...
あなたにとってホントに、ホントに惹かれてやまないものは、そんなに安っぽくはないはずだ、と...。
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