人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

宗教の本と末

2023-06-29 09:58:39 | 宗教
“この教え、この方法でなければ、救われない、悟ることも、幸福になることは出来ない!”
何度か言っているように、こういう言葉ほど無駄なものはありません!
未だにそんな言葉が平然と飛び交っているとは!...とっくに終わっているのではないか?!
言ってる当人が救われていないのは間違いないでしょう!...
宗教的救済も、悟りも全く持って自分自身の、主体的な問題なのであり、他人がどうこう出来る問題じゃないのです。
そういう言葉からは、根強い宗教的カルマのようなものしか伝わってきません。
そうです!…それは、彼らが特定の教え、方法へのトラワレ、迷いから救われていないということを如実に物語っているではありませんか?!
私なんかも特にそうなんでしょうけど、人間誰しもやりたくないことはやらないし、誰に言われなくともやりたいことをやって生きているのです。
“その教えや行法は私にはどうも合わない“、と感じたらさっさとやめたらいいのです!
そう出来ないところに宗教的カルマがあるんでしょうけどね?
エセ教師(間違いなく、そうだ!)のそういう言葉がインプットされていて、中々やめられないとか?(五井先生のように、”イヤならおやめなさい!”、というのが当たり前なのです。”取り巻き”は何と言うのか知らないが...)
現在、苦しみ、悩みを抱えている人は、ワラをも掴む思いで、そういうものに従ってしまうということもあるでしょう。それでも自分に合うかどうかは分かるものでしょう?
”合わない”、というのは具体的に言えば、自然に意識がそっちに向かわないということ、
自然じゃない、無理がある、礙るものがあるということです。
そういうものを続けていても、絶対に救いにも、幸福にもなれません。続けている段階でそうなのだから!
幸福に感じているのなら、今、やっているだろうし...何もやらなくてもそうなっているだろう...
それに幸福を感じているから教えなり、行法があるのです。それらは要するに媒体ということなのです。
最初のうちは、あまりよく分からず、しばらくやってから分かって来るものも、あるにはあるけど、私の場合多くは、私に縁の深いものは、出会った時に幸福に感じているものばかりなのです。それら媒体を通して!
それは、どこまでも私自身の問題であって、周囲の雑音の出る幕は無いのです。
正法は自己のうちにあり、諸々の雑音、雑行は末法を写し出す...
正に宗教的なものの本と末を示すものでしょう!
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すべての無教会人へ

2023-06-27 10:35:15 | 宗教
ずっとこのブログを読まれている方ならお分かりかと思いますが、私は特定の宗教、思想から自由なのです。
いくつか、そういう団体と関わったことはありましたが、最初に入信した宗教教団は別として、その枠に縛られて、自由を失うということは無かったのです。
特定のそうした枠の中では、けっして私の精神が生かされることはないのです。
これは、その教団との関わりで苦しみを抱き、そこを辞めて初めて自由の尊さを知った私の宿命と言えるでしょう。
それは、言わば無教会人の宿命でしょうか?...これを読まれる方の多くもおそらくそういう人たちではないかと拝察されます。
無教会というのは、ご存知のように明治時代、内村鑑三先生によって提唱されたものでしたが、私がここで言ってるような、”生粋(?)の無教会人”とは意味合いが異なっています。
内村先生に始まる“無教会主義”というのは、諸々の理由で教会に行けない信者や、先生のように教会制度に反感を持っていて、“行かない“信者たちの、ある精神的な”群れ“のことですが、そこでは言うまでもなくキリスト教、それも福音的な教えを信奉するということが大前提となっているのです。
彼らは教会は持たないのでしょうが、心の中にはその精神的牙城ともなる教会は、固く築かれていりのです。
“私はキリスト教からも聖書からも自由だ!”などと言おうものなら、即破門となるでしょう。教会が無いというのに!
又例えば、五井先生を信奉していて、先のように現在の会の在り方に反感を持っていて、会から離れている人でも、先生の教えが強固にその精神に根づいて離れないような人は、私はここでは無教会人と見なさないのです。
要するに特定の教えの信者か否かということが大きいのです。
勿論五井先生に縁のある人でも、そうした信仰から自由な人も相当数居ると思われます。どのくらい縛られ、自由かということは程度の問題と言えるでしょう。
そういう自由な無教会人にも欠点があります。
心根に根づくものが無いというか、一歩踏み込みが足りないというか、如何にも表層を漂ってばかりで、浅薄な印象が拭えないのです。
それでも私は狂信的信者のような在り様よりは、はるかにマシだと思います。
”強いられる“ということが無いから!
言い方を変えれば、自由であること、精神的に開かれていることは、何よりも尊いことなのです。
自由で、開かれているから、今の状態を超えることが、否超えせしめるものを受け入れることが出来るのです。
私はかつて、いつも異なる団体を渡り歩くのを”なりわい“にしてる人に、「あなたのその遍歴の中であなたの魂が揺さぶられるようなものに出くわすことは無かったのですか?」、と尋ねたことがありました。
すると彼は「いや、そういうもので心に“砦”を造ってはダメなんだ!」と先の私の無教会人の”教義”そのままのことを言うのでした。
彼はまだ、“心に砦を造ってはならないという、その心がこぼたれるものには出会っていない“ようです。その言葉からはそういう出会いを予想されるものも感じましたが...
自己はどこまでも、それを超えたものに出会わなければ、平安の内に落ち着くことがありません。
自分の心、思念で築かれた砦、教会堂に居座り続ける訳には行かないのです。
思いを超えたものに捉えられ、自分の内奥にそれが鎮まるまでは!
その場、その時の思いに流されることなく、あの愛、安らぎを感じたならば、少しく意識的になることで、真の神の宮、内なる教会が見えてくるでしょう...。


コメント (2)
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実存と人格と神

2023-06-25 09:50:49 | 哲学・思想
例えば、AIによって如何に客観的に模範的な説明がなされようとも、どうしても”直に自分自身に目の当たり”に分かった感じにならない語句があります。
その最たるものは、”実存”というものでしょう。
それは、畢竟”私とは何か?、何がここに存しているのか?”、という問題に突き当たらざるを得ないでしょう。
しかし、そのうち”AIの語る実存”によって、私の魂が揺さぶられるような日が来るのも夢ではない気もしますが!...その時は、おそらく何かの実存的魂がAIに憑依するのではあるまいか?
私は主観的世界を超え出て、他者と実存的交わりを持つことがあります。
その他者は、必ずしも人間人格とは限らないのですが(だからひょっとすると...AIから愛の告白を受けたりして!...))、そこでは実存は、私と他者と二つに分割されることも、こっちの実存が他者の実存に移り変わるということもありません。
その交わりを目の当たりに感じているのは、”私の実存”にあってのものなのです。
そしてそれは、人格(猫格でもAI格でもいいですが)的なものを介してもたらされると言えるでしょう。
人格は実存と切り離すことが出来ない...従って、人格も又それについていくら普遍妥当的説明がなされようとも、それ自体に直に格ることはありません。
しかし、実存と違って人格的なものは、他者に見い出すことが出来ます。
正確には、他者存在に写し出されていると言った方がいいでしょう。それは上記したように私の人格を介して。
言うまでもなく、私の人格は、私自らによっては直接見ることは出来ません。
実存といい、人格といい、それはどこから来るのか?、どこに淵源が求められるのでしょうか?
確かに言えることは、それ自体のみからは絶対に求められないということでしょう!
ベルジャーエフなら神から来ると言うでしょうが、正しく思いを超えたところから来る、という他ありません。
このことはだから、所謂人格神というもの、神は人格を有するとか、神人同型説といった、合理的説明とは直接関わりがありません。
神はしばしば、”神がかり”とか人格神のような見えない存在が人間に憑依するようなイメージで語られたりします。
しかし、私にはどうしても、本源的なものは神の方であり、それが形ある人間存在を借りて、仮現しているように感じてならないのです。
本来、本源的なものは、形に”仮体“しても失われたりしないのです。それが失われた場合は、別のものに変種するだけでしょう。
人格は、時に神のペルソナ(仮面)と言われたりします。
見えないペルソナが、見えるペルソナを借りてそれを写し出す...
“私は私自身を直接見てみたい!”
そして今我々有機的存在は、コンピューターという本来無機的存在を借りて、我々の実存、人格を写し出そうとしているのでしょうか?!...
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AIと人格

2023-06-24 10:18:18 | 雑感
私は子供の頃から絵画にはあまり興味がありません。
だから、鑑賞眼に乏しいためなのか、人物画などでもどんなに写実性に富んだものであっても、実物の写真のようにリアルに感じるものに出会ったことがありません。
どうもそれは、一端、作者に捉えられ、動きが止まってしまい、動いている、生きているそのまんまが写し出されていないからなのでしょうか?
ところが!...つい最近出会ってしまったのです!...いや、これは写真以上かもしれない!
それは、AIによって描かれた美少女の画像なのでした。”う~ん、あんな子は芸能界にゃいないぞお!”
コンピューター画伯は、ついに人間を超えたのでしょうか?
いやいや、だまされてはならぬ!、あの素材はどこまでも無機質なものなのだ!
いやいやいや、本当にそうなんだろうか?...コンピューターが生きている素材から写し取ったんじゃないだろうか?
そんな訳でアタシャもう、生きている被写体がどういうものなのか分からなくなってきたようなのです。
こうなると、AIが造り出した被写体の”実物”に会うという日も近いかもしれません!
そいつに触れることが出来るのだろうか?
いや、もしかしてその時、はっきりそれが幻想だと感じるのではないか?
たとえ、触れられたとしても!...
それは又、生身の人間に触れることと大して変わらないのかもしれません。
肉体だろうと、高性能のゴム体だろうと!
一寸前までは、全く無機質なそれにしか見えなかったものですが、現在我々が目にしている、あのAI少女が醸しだしているものは、そういうものじゃないでしょう?
この違いは端的に言えば、人格性を感じさせるものかどうかということでしょう。
人格など勿論無いでしょうが、そういうものを感じてしまうのです。
あれは、一体どこから写し取ったものなのか?
単なる”体”からでないのは確かでしょう。
私には、この短期間のうちに、機械学習以上の生きた何かがAIに乗り移ったように思えてならないのです。
それは、元々我々の内に息づいているものであるのは言うまでもないでしょう。
人間人格とは何か?
そういうものをキョーレツに感じてはいるのだけれど、私には”それはこうだ!”ということは言えません。
AIは何か答えてくれるだろうけど、その説明をいくら並べられてもまんま頷くことは出来ないでしょう。
ただ、AI少女は無言で、”私を見て!”、と言ってるような気がします。
(近頃、急に暑くなったりして、どうもおかしくなってしまったのだろうか?)

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神の裁き

2023-06-22 08:31:43 | 詩的文章
法の、人の裁きは受けたくない!
誰しもそうだろう...
自分を守りたい
やっちまったことは免じて欲しい
受けられずに済むなら...受けたくない!
しかし、神の裁きというものがあるのなら...
僕は受けたことがあるのだろうか?
いや、いつも受けてる気がする...
何か迫って来るもの
何か上から照らされるもの
どこにも逃げられない!
隠すことが出来ない!
受け入れざるを得ない!

私はやってません!...(警察の尋問)
やってないものはやってません!
やってないものをやったとする虚偽は誰が裁くのか?
私がやりました!
真犯人が自白したから問われない?
私は誰に裁かれるのか?

すべて私がやりました!
やってないことなどありません!
隠してるものなど何もありません!
神様、あなたはすべて見通しです
これで、本当に、ホント~に、あなたに投げ出すことが出来る!
あなたに捉えられた!

神の裁きは重く、つらいかもしれない...
でも...受け入れざるを得ない!
ここに為すがままに
留まるしかない...
あなたの手の中にある
重さの中にも...安らぎがある!
だから...
受け入れざるを得ない!

本当の裁きとは、これを受け入れられないということではないのか?



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