人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

秘密は必ず示される?

2018-07-31 17:07:02 | 独語
可愛い猫の絵だねえ...
もっとよく見せて欲しいな
えっi...恥ずかしい?
ヘタクソだから見せたくないだって...
僕に見せたくて見せてくれたんじゃないの?
可愛いなあ...

表したいものは、どうしたって表される
表れたものは、どうしたって見られてしまう
いいものだろうと、わるいものだろうと...
こうして人間として表れちゃったんだからしょうがない...

僕には、絶対に人には分からないこと
僕だけの秘密というものがある
ゾクゾク...ワクワク...たまんないなーっi
教えて欲しいって?
やだよi
言ったって伝わらないよi
どうやって伝えていいかも分からないし...
それに...
教えたら"へる"かもしれないし、ひょっとしたら無くなるかもしれない...
もったいないだろ...
それに...
間違って、歪められて伝わるかも分からない
あれは...寄せもの細工みたいになったら、それこそモトもコもなくなるだろう...
う~ん...それにしても ...あの味、どうやったら描写出来るんだろう...
そのままは無理でも、何とか視覚化出来ないものかなあ...
あi...
おいおい、何でこんな表すことを前提にしたようなこと言わなきゃならないんだよi
うっかり出ちまうとこだった...

表さにゃならない宿命にゃ逆らえないのかなあ...
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真夏の夜のクンビア

2018-07-29 12:55:25 | 映画・音楽など
このブログのコンセプトの一つは、"隠れていた、知られざるものが顕わになる"というところにあります。
従いまして"そんなん、聞いたことない"というものも随所に出てくる訳です。
今日は、音楽に関して、誰にもこれまで語ったことの無い、私の密かな真夏の夜の悦楽について触れてみたいと思うのです。
ま、早い話がマニアック過ぎて伝える機会が無かったというだけの話なんですが...
(こういうのを書いてて嬉々として来るのは私だけでしょうが、独りよがりの一時ご勘弁のほどを...)

それは、"クンビア"という音楽のことなのですが、よほどのラテン音楽通じゃないとご存知無いと思われます。
これこそ私の真夏の夜(といっても一年中でもあります)の定番音楽なのです。
先日のW杯での、番狂わせの勝利も記憶に新しい、その相手国南米コロンビア産のリズムなのですが、実はその他に"ポロ"とか"ガイタ"とか"ファンダンゴ"とか同系のリズムが数えきれないほどあるのですが(それらがどう違うのか、私には皆同じに聞こえて全く分かりません)、それらを総称してクンビアと称しても多分間違いでは無いでしょう。
ラテン音楽についての入門書などには、しばしば"フォルクローレ"に分類されることが多いのですが、そう思って聴いたら、きっと"何じゃ、こりゃi"って、なるでしょう。そのように語られるには、あまりにもダンサブル...かつて日本にも浸透したマンボやチャチャチャ等のような狭義のラテン音楽、南国風味の、踊り出したくなるような音楽の一種と捉えた方がいいでしょう。
コロンビア北部の海岸地方は黒人が多く分布していますが、19世紀の頃、現地インディオと黒人の音楽が混交し、さらにキューバなどのラテン.リズムが合わさったのが、その大まかな成り立ちです。
実は我が国でもマンボなどが下火になりつつあった、60年代中頃、このクンビアが"ニュー.リズム到来i"といったキャッチで、ブームになりかけた事があります。
私が始めてこの音楽に触れたのも、昭和63年、中古レコード屋さんで買った、その頃出されたメキシコのカルメン.リベロ楽団のレコードなのでした。
このように、クンビアのリズムは、コロンビアから周辺諸国に広がっていたのです。
その頃もっとも盛んだったのは、おそらく本国コロンビア、その隣国ベネズエラ、メキシコ、アルゼンチンなどでしょうが、もうカリブ海周辺国を中心にして、ラテンアメリカ中に知れ渡っていたようです。(私には、第二のクンビア大国?とも言えそうなベネズエラのものが我が国では全く知られる事がなかったのは残念です)
クンビアで特徴的なのは、"ジャッ、ジャッ"と聞こえてくる、ギロが刻む二拍手のリズムです。(これがクンビア音楽類の代名詞とも言える)これは海の波の音を表しているとも言われていますが、マンボなどに比べると、メリハリがハッキリしてなくて、どこか不規則、不揃いな感じがします。
音楽全体が何とももったりしてて、シャキッとしてきません。官能的な中にも、ソコハカと漂う哀愁...そして、イナタさ...
こういう味は、日本のジトッとした暑い夏にはピッタリだと私は思います。(まあ、テンションは下がりっぱなしですが...)こういうのは、70年代にラテン音楽として普及した、テンション高めの"サルサ"などには求められません。
50~60年代には、キューバなどの楽団の影響を受けて、フルバンド編成の楽団が沢山生まれましたが、私のお気に入りは何といってもこの頃のものです。それを特徴付けているのは、クラリネット、サックスのソロ、アンサンブルにあります。
これが又、"くねくね"と、マトワリつくように、いっそう"ジトジト感"を増幅させるようで、もう部屋の中がアヘン窟になったように、中毒症状になりかねません。
このスタイルも70年代には下火になり、"バジェナート"と呼ばれる、小編成の、アコーディオンの高速調の演奏を中心にしたスタイルに取って代わってしまいました。フルバンドは維持するのが大変なためでしょう。
それにしても、今年のレコード破りの猛暑には、ビニール盤もくねくね躍り出しそうです。

※Carmen Rivero Y Su Conjunto/"La Pollera Colora(赤いスカートのクンビア)"
前記のメキシコの楽団。米国でも大ヒットし、その余波が日本にも伝わったのでしょう。メキシコのものは、砂漠地帯もあるせいか、どこかカラッとしたところが感じられます。
※Lucho Bermudez Y Su Orquesta/" Fuiesta De Negritos"
クンビアのフルバンドでもっとも知られているのは、このクラリネット奏者の楽団と後記のパチョ.ガラン楽団でしょう。"くねくね"したクラを後堪能あれi
※Pacho Galan Y Su Orquesta/"Ay Cosita Linda"、"El Ramillete"、
 クンビアとメレンゲを合わせたのが、"メレクンベ"で、"メレクンベの王様"って言われても...「アイ.コシータ.リンダ」は、ナット.キング.コールもカヴァーしてる、ちょっとした有名曲。
※Supercombo Los Tropicales/"La Negra Celina"
 ベネズエラの代表的ラテンバンド。当地のクンビアは、コロンビアのものに比べて総じて洗練されている感じです。ダンサブルな曲の合間に歌謡調のボレロを入れたりするのも、コロンビアにはあまり見られない点です。
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任せるということ

2018-07-28 11:18:02 | 求道、探究
精神的な道において、任せるということ、全託という契機があることは、何度も触れています。
しかし、この事はこの世的な有り様とは、大部異なる事なので中々理解出来ない人も居るようです。
何しろ、この世では大方は"諦めないこと"を奨励しているみたいですしね。
とにかく、修行でも瞑想でも祈りというものでさえも、行動しなければ、実行しなければならないという思いが抜けない人も居て、任せることも実行することだと思っているんです。何も分かっていませんi
そういう人は全託という言葉を軽々しく使っていて、ちっともその中身には触れていないのです。
難しく考えなくても、"任せる"、"任せるっきゃない"ということをよーく考えてみれば分かることでしょう。
それは、何かを目指しての一切の行動、色々と考えを巡らすこと、意念に基づくあらゆることが絶たれる、ということなのです。
そうでなければ、ずっと半世紀経っても、世界の終わりが来るまでずっと、堂々巡りの"任せること"を実行し続けなければならないでしょう。
"行動を絶たれる"何て言うと、これ又"行動を絶たなければならないんだ"とズレたことをやりかねない...
それは"思いを超えなければならない"、"無くさなければならない"というのと等しく、要するにチッポケな自分がやることから抜けきれないということです。
そもそもが..."任せよう"、"全託しよう"と志すこと自体からして、全く取り付く島のないようなことでしょう。
何に、どう任すというのか? 宇宙に? きっと任すことは中有に浮くことでしょう。
これは何度か言っているように、そうさせるものがあって始めて開かれることなのです。
あなたの握っている手を開かせるのも、何かをやろうとすることを断念させるのも、アレコレの思いを超えさせるのも、このものがそうさせてくれるのですi
つまり、やろうとするあなたに先だって、このものが現実に臨むことを待ち望まなければならないのです。
それが祈りというものとつながってきます。
それは多分あなたには出来るハズです。と言うか、出来ることはそれしかないi そうでない人はどうでもいいことにトライし続けて脱線して行くだけでしょう。
それが果たして臨んでくれるか、どうかはこのものの御心次第なのですが、その事に関して、肝心なことを自分自身に問いかけてみる必要があります。
それは、あなたは本当にそのものが臨むことを望んでいるか、どうかということです。
これ以上当たり前すぎて、蔑ろになり勝ちなものはありません。
これはそうしよう、なろうという表層的な意志よりも、もっと根源的に息づいている、そのものに惹き付けられてやまない意志からくるものです。
この望みのない人が、全託するだの、神と一つになろうだの、覚醒しようだの目指そうとすることが、そも間違っているのですi
何十年も堂々巡りを繰り返すのも、けだし自然なことで、うかつに禁断の領域に入り込んで、取り返しのつかないことにならないほうが、むしろマシというべきでしょう。
これを望んでいる人には、もうそれだけで分かるかもしれません。何か新しいことが、ずっと待ち望んでいたことが、自分に臨んでくることが...
喜ばしい訪れと共に...
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一元でも、二元でもなく

2018-07-27 17:10:30 | 哲学・思想
ノンデュアリティの流行も、下火になったようです。
ごくごく当たり前の世の中の、自然な有り様に戻っただけでしょうね。
あれが本当に人心に浸透して流行すれば、ドロップアウトする人、自殺する人、自暴自棄のようになって暴走する人、ただずっとポカンとしてる人などが相次ぎ、たちどころにこの国は亡国と化してしまうことでしょう。
でも、これからはそんな浮わついた流行から離れて、真実に我々の精神を切り開き、深めて行く道の一つとして見直されて行くのでしょう。
そうです。それが本来の健全な在り方なのです。本来のノンデュアリティは世の流行になり得ず、決して廃れることもあり得ません。
ノンデュアリティは、インドの専売特許にあらず、世の初めからあらゆる精神的な道に通底して息づいているものなのです。
それは基底にあるものであって、表側の相では、そのまま適応出来ないものがあるのは言うまでもありません。
二元的観方が支配的だった西欧では、その消息を"神秘主義"という意味不明なレッテルでボカしてきたのです。
それはしばしば根源論と言われます。根源ということは、表層的なものがあるからそう言うことが出来るのでしょう。
隠れているものは、表れているものがあって認識されるのです。
もうこの有り様自体からして二元性というものが示されています。
一なるものは、二なるもの、他なるものを予想しているのです。逆も又然り。
この両相は、一方に片寄れば生きたものにはならないでしょう。
(一元か、二元かどっちかでなければならない、なんてとるからオカシクなるのです)
生きたものとは、現にここに生きているものについて言っているのであり、生ける屍のようなものには用がありません。
無だとか空とかいうことにしても然り...それは表れているもの、目に見えるもの、形あるものに囚われた、不自由な状態からの解放に向けられているハズなのです。
しかし、ずっとその一元的なものにとどまっていたら...それはここに生きている個的自己の否定にもつながるのですが、その解放をもたらすもの、否、生そのものをもたらすもの、神的なハタラキとの邂逅ーこれこそはリアルな生、至上なる愛を目の当たりにする瞬間ーというものは無くなるでしょう。
この出会いというものは、自己とハタラキそのものとが全く二元的に、別々のもののままならば起こり得ず、ずっと一体のままで何らの動きも無ければもたらされないでしょう。
超越的、他者的なものと、内在的なものとは実に一如のものと言うことが出来るでしょう。
この自己と絶対他者的なものは、互いに惹き合うということでその邂逅が生まれます。これが根源的な愛というものでしょうか...
この消息のことを私は"現臨に捉えられる"と言い表しているのです。
これは、抽象的な言い方になりますが、一元的とも二元的とも決めかねるものです。否、思念の及ばぬ、理屈を超えた事態なので、如何なる決めつけも不可能でしょう。
ただ、これだけは言える...それが一元だろうと、二元だろうと、両相あってのものであり、又思いを超えた現臨のハタラキ無くしては、何一つこういう事は起こり得ないということです。
私が有るとか無いとかということも、この見える世界、見えない世界を一つに息づいている"主なるもの"の手の中にあるのです。
少なくとも、私にはこの生、世界の意味というものは、この主無くしては何も見い出すことは出来ません。
だから...主に取って代わって決めつけたことを言うことなど出来ません。
真実のことは、あなたの"主"に聞くべしi

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愛、リアリティ、真我

2018-07-25 05:01:20 | スピリチュアル
"人生の裏側に踏み入れると、そこには愛、リアリティそのものとしか言いようのないものを目の当たりにする..."

何てことを私も言い表したりするのですが...ところで愛とかリアリティってそも何でしょうか?
これが実は...分かりませんi
だから、"そうとしか言いようがない"、とか"そのものだ"とか言って誤魔化すしかないのですi?
ただこうは言える...何が愛で、何がリアリティだかは分からないけど、それを目の当たりにすると、それまで愛と思っていたもの、リアルなものと思っていたものが、まさに思っていたものに過ぎないということが知らされるのです。
これは、本当の自分、真我というものについても言えることです。
愛とは何ぞや?、リアリティとは?、真我とは? そのもっともらしい説明ほどウソっぽいものはありません。
これはどういうものなのか? どういう意味か?...と知ろう、分かろうと追求しても絶対に捉えることは出来ないのです。
仮に何らかの形でその有り様、意味が分かったとして、これは例えば空気とは、"こうこうこれこれで"という風に、納得出来るように分かる、ということですが、それこそ大ギマンという他無いでしょう。
愛というものがそのギマンに取り入られるや、愛は忽ち消滅してしまうでしょう。
愛やリアリティというものは、実体があるからとか、証明出来たとかでは、決して全的に頷くことが出来ないのです。
ものが分かったとか、知ったとかいうのは、大体がこういう在り様で受容されているのではないでしょうか?
つまり理屈は分かっても、そのものには直に触れることは出来ないのですi
愛やリアリティという実体があって、それを分かろうとする自己があるのではなく、その自己と切り離されてはあり得ないのです。
自己と一枚になっているものです。
そのものと真我は一つのものなのです。

上記したように、分別智でそのものを追い求めることの虚しさについては、皆きっと分かっているのでしょう?
影を追い求め続けるようなことで、草臥れることですからね。
それでも、そのコトワリが分かっていても、我々は本性から、そうとは意識されずとも、そのものを追い求めずに居られないものでしょう?
何故ならば、惹かれてやまないものだから...理屈、意味付けを超えて求めずにおれないものだから...
そして、誰でもがその"匂い"というものは知らされているハズのものでしょう。
意味付けとか、意義付けなどから離れてみたならば...私など寝ている間に与っていることも、ちょいちょいあります。
惹かれてやまないものは、こちらから捉えようとするのでなく、捉えられて始めて分かることなのです。
そのうちでも、追い求めているのは、愛とリアリティについてのものでしょう。
その何となく意識にかすめているものは、神的なものなのかも分かりません。
真我については、分別に絡まれた自分からは、本当の自分のことに意識が向けられることは中々無いものだから...
そして、愛とリアリティは、自己から分離したもののように意識されるようです。
ここに、この二元で生きていることの本質が見えてきそうです。
それは、この生での我々は、"邂逅"、"和合"というものを求めずにおれない、ということなのでしょうか?
惹き付け合うものの真実...愛とリアリティと真我の真実...









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