人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

真の自由人ブッダ

2024-10-23 09:40:56 | 仏教関連
悟りというと仏教に付きもので、そこからこの概念が広まったようなのですが、ではその宗祖ブッダの悟りがどういうものだったかについては定かではないのです。
そればかりか、前世とか輪廻転生というものも私など長いこと仏教の通念のように思い込んでいたのですが、原始経典に拠っても、ブッダ本人がそういうことを説いたことは無いようです。
悟りは常人を超えた高い境地というイメージがあるようですが、私はブッダが説いたことは、もっと現実的な、普通に生きている個己に即したものであったという気がしてなりません。
このことはブッダ在世当時の、バラモン教が教権を持って支配していた社会を想起すれば分かってくるのではないでしょうか?
実は前世や輪廻の教えというのは、バラモン教から来たもので、それが後年ブッダの教えと混同されてしまったということが定説になっているようなのです。
そして前世のカルマ、輪廻から解脱するにはたゆまぬ苦行をし続けなければならない、という教えも同様なのですが、ご存知のようにブッダは、苦行からは安心を得られないことを“悟られた“のでした。
常人には中々馴染めない苦行、前世とか現実には無い世界を夢想することなど、すべての信じ、従い、行わなければならないという、苦しみを作り出す強迫、威圧的固定観念から自由になること、そこに解脱という響き、含みがあったのではないでしょうか?...これは又カースト制という社会システムの縛りから自由になることにも向けられていたはずです。
これは、極めて現実に即したことですね。悟りというのは、もっと現実世界を超えた高次元の世界に関わることと思われますか?...そういう世界を思い描いて、あなたは本当に現実に心が安まるでしょうか?...有るのか無いのか分からない世界を夢想し、悟りを得られる保証の無い、苦行をし続けていて安心に与ることが出来るでしょうか?
現実とは現に実現していることなのですよ。我々を縛るすべての固定観念から自由になることは直ちに心が安らぎ、生まれ変わったようになることなのですよ。
これは、“今、ここ“に無いものを夢想している人間には絶対に分からないことでしょう!
この現実的な悟りの教えはしかし、誰にも実行が可能な教えなのかというと、それはちょっとズレているでしょう。
元より何もしなくていいほど簡単なことには違いありません。だけど先の例で、あなたは固定観念を捨てねばならない、ということになりそうですが、現実にそんなこと出来るでしょうか?、何かをやらなければならないのならバラモン外道と一緒ではありませんか?
これは、だから自分の思い、力を超えたものに拠って為されるということなのです。
これが抜け落ちると、思い、為す自分を中心に考えなければならなくなるのです。それ無くして何にも始まって来ないにも関わらず...
この超越的ハタラキをブッダは法~ダンマと呼んだのです。神とは呼ばなかった。
これもバラモン教と関わるようですが、一説には神という言葉は、バラモン教以外で使うのは禁じられていたらしいのですが、とにかくバラモンというのは、何でもかんでも神と結びつけ、祭祀の対象とし、そういう形而上的実体として捉え、人々はそれに纏わる観念に縛られていたらしいことが関係しているようです。
ところで、仏教というのは、日本人には代表的な宗教としてみられているようですが、ブッダはそれに付きものの祭祀や儀式などについてはほとんど言及していないのです。
だから、本当はブッダは仏教の宗祖なんかじゃなかったのですよ。仏教でなかったら、宗教でなかったら何だ?...何だっていいだろう!...私は元より何教でも無いですよ。あなたもそうでしょ?...特別な人間でない、一自由人にすぎません。
そう、自由なんだ!、自由こそは悟りだ、救いだ!
その真の自由人を私はブッダに見い出さずにはおれません!...
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日本人は仏教が好き

2024-04-09 09:12:18 | 仏教関連
私は、今でこそ頻繁に仏教書を読むことがあるのですが、この“仏教書“という言葉が普通に使われているほど、わが国では仏教が浸透している割には、私の精神的な道では、ちと馴染むのが遅かったと言わねばなりません。
仏教に開眼したのには、何と言っても霊性に通じた行学一致の仏教学者、玉城康四郎先生との出会いが大きかったのです。
それまで、どうも私には“葬式仏教“などと揶揄されるように形式化し、学問の在り方も観念的になってしまっているという先入観があって(他にも居られたでしょうが)、玉城先生のような仏教者(学者、僧侶などを総称してこう呼びます)は知らなかったという訳です。
ところで、その仏教書ですが、その何冊も出されている著名な著者というと、改めて思うに、もうほとんどが日本人であることに驚きを感じてしまいます。
私は、仏教発祥国のインド人のそういう人物は、浅学ながら一人も知りません。ラーダクリシュナン博士のように、インド教の学者が部分的に仏教に触れている例しか知らないのです。
僅かに名を聞くのは、思い付く限りでは、スリランカ人(インドに含めていいのかも知れないが)のテーラワーダ仏教関係のアルボムッレ.スマラサーラ、チベット仏教関係のダライラマ14世、ナムカイ.ノルブ(欧米では、わが国と異なり、禅仏教に次いで仏教として親しまれているのは、おそらくチベット仏教でしょう?)ぐらいしか知らないのです。
後のほとんどは、各宗派にまたがりキラ星の如く、学問、説話などに著名な日本人仏教者の名が拝されているのです。これは、仏教国と呼ばれる国でも例をみない現象と言えるでしょう。
いや、ホントに古来から日本人は仏教が好きなのだなあ、と感じざるを得ません。
それじゃ、日本は仏教国なのかと言えば...そうじゃないでしょう?
神道?...そうかもしれませんが、先の通り、“神道書?“も“神道者?“も仏教に比べれば問題になりません。
しかし、この仏教の興隆の根底には、形に表れない神道というより、そのかんながら、自然のまにまににゆだねるという精神が働いているように思います。
これは特に、日本仏教でも二大勢力?と思しき、禅宗、浄土真宗にそれが色濃く浸透していると思います。
とにかく、思いを超えたものの前では、かんながら言挙げせずに座り、手を合わせればいい...自然にそうならざるを得ない、という風に...
又、仏教各派の一つに偏ることなく、共存している有り様にも、その我々の精神に古来より息づいている“道“というものが感じられます。
これをもっと広げれば、世界宗教の各派を超える...ということになるのは言うまでもないでしょう。
それにしても、わが国の精神世界は仏教無しにはあり得ないですよ!...な~んてことは、玉城先生を知るまでは考えたこともありませんでしたが...
私はしかし、その先生のパースペクティブな(これが何とも日本的なものを感じてしまう)仏教通史、日本仏教のそれなどを読んで始めてそう感じたのでした。
そういうことを通して、私も当たり前に日本人の精神の中で生きているのだなあ、ということを身に覚えたのでした...
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ブッダの裏読み②

2023-08-09 09:26:28 | 仏教関連
ブッダのニルヴァーナ(涅槃、悟り)についての教えでよく知られているものは、それは“欲望や渇望、執着といった思いが無い“、ということでしょう。
そして、何と多くの求道者たちは、欲望、執着を無くさなければならない!、という思いに駆り立てられたことでしょうか?!...まるで、執着を無くすことに執着しているようだ...
ブッダは本当にそういうことを言ったかもしれません。
しかし、このことに限らず、誰が何を言ったか、経典に何が書かれているか、ということから離れて、自分の身になってみなければ、何にもならないでしょう?
私には、こういう自分からそのように無くさなければ、捨てなければならないという在り方には、何にもリアリティを感じません。(囚われるな、というのは又別ですが...)
もっと具体的に言えば、そういうことに意識が動かない、ということなのです。“無くさないと!“という思いとは別に...
現実にそうならないということは、どうしようもないことなんですよ!
いや、もしかしたらブッダは、現実にそうすることなんかじゃなくて、ただニルヴァーナというのは、欲望、執着の無い状態のことを言っただけだったかもしれないのです。(言い回しにご注意を!)!)
そう、これがニルヴァーナの現実なのではないか!
私の意識は、自ずからそっちに向けられます。ということはそっちにリアリティを感じてきます!
そして、無くさなければならない、すべてのこうしなければならない、というたぎるような思いから解放されるのを覚えます。
ついでに肝心なことにも触れましょう。ニルヴァーナが渇望、執着の無い状態だとすると、又多くの求道者たちがそれに駆られたであろう、ニルヴァーナを追い求める思いからも解放されるようなのです。
むせ返るような暑気に涼風が吹き込むような爽快さを覚えます。
“自ずと思いから離れるような状態というものがある!“
それは、元よりこの思おう、為そうとする自分には求めることは出来ません!
そういう状態へと向かわせるものがある!...それは全く自分の思いを超えたものでしょう!
自然と意識が動くことには、それにゆだねるしかありません。
それは自分であって、自分でないあるもの...
ブッダは自分自身を拠り所としなさい、と言いました。しかし又同時に形なき命(ダンマ)を拠り所としなさい。とも言ったのです。
命は私だけのものじゃないけど、命あっての私...ブッダは私!
すべての経典も私が語っているのではないか?

どう感じるかはあなた次第です!...
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ブッダの裏読み

2023-08-07 10:02:19 | 仏教関連
宗教、スピで説かれる言葉には、文字通りに捉えると、誤解を生みかねないものが多々あります。
そこで、どういうことを主眼に言おうとしているのか、言葉の裏に隠されているもの、含まれているものを洞察し、その言い回しに留意する必要があるでしょう。
取り分け、ブッダが語ったとされる言葉などは典型的なものと言えます。
その中でよく認知されているものは、「自らを拠り所としなさい。他者に頼るなかれ!」と、他人の言説も、神とか○○霊といった、所謂形而上の存在を認めることも、勿論頼ることもしなかった、とされている教えです。
だから、仏教はキリスト教などの一神教と違い、神が人間、世界を創造したという教えを否定していたのだ、と。
これは、神、霊的存在といった、通常知ることも、感ずることも出来ないものを思い描き、思念に囚われることから離れること、言い換えると自己実存から切り離された想像(想いによって造られた像)を思念世界に持ち込まないことを言ったものと思われます。
何故ならば、それは偶像、定見となるものだから!
創造神を想像することも定見。考えても分からないものには何一つ定かなものは無い!、空想するだけ無駄!、そうすることで段々自己から離れてしまうであろう!...
このように、定見を退け、自己を明らかなものにすることを勧めたのです。だから神も霊的存在も否定した!
いや、待てよ!...そのように否定することは定見につながらないのか?
考えても分からないからといって、自分の思いの外では、創造神も何かの霊も存在しているかもしれないではないか?
それに...師はそう言われた、だから想像したものに頼ってはいけないのだよ!...って、それ他人の言葉に頼っているんじゃないのか?
いいや、そうは言ってもこれは原初のブッダの、根本仏教の教えなんですぞ!..って、又権威付けか!...それこそは、鼻持ちならない定見ではないか!
仏教もキリスト教も無い!...どこまでも自己を明らかに、自己実存に向き合わなければならないのです!
ブッダは又アートマン、真我的な存在を否定したとされます。これも先と同じように理解されるものでしょう?
本当の自分が示されるかどうかは、自分自身が自分自身にぶつかってみなけりゃ分からないんですよ!
その方法は、禅やテーラワーダ仏教などに瞑想法が示されているそうですよ!
だけど...よく考えてみよ!、方法論ってヤツは自己実存とは直接つながらないものですよ!...私が居て、そういうものに着手するのだから!
何故、ブッダはそのように定見となるものを退けられたのか?
分かりきったこと!...それが平安、安らぎに覆いを掛けるからでしょう。
だから、他の何ものにも拠らない自己自身に尋ねよ!...やってみるのです!
え?...尋ねようにも、ぶつかってみようにも、どう掴んでいいか分からない?
だから、人は容易く諸々のものを掴んでしまうのだ!...分かりますね!
掴もうとしても、掴めない...壁にぶち当たるのが普通でしょう?
つまりは...デ.キ.ナ.イ!
しかし...私には何もデキナイけど、そこに私の思いを超えて(想像する余地がない)、私が掴むのでなく、捉えられてしまうあるものに当たってしまうのを覚えざるを得ないのです。
それは自分自身であって、自分自身でないあるものとしか言いようがありません。

これを読んでどう感じるか(無闇に信じちゃ、ダメ!)はあなた次第です!
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煩悩即菩提

2023-06-06 03:44:29 | 仏教関連
大乗仏教では、よく「煩悩即菩提」などと説かれたりして、諸種の解釈があるようですが、私自身が感じたことを書いてみたいと思います。
その中に、”煩悩の本体は真如と一つなのだから、そのまま菩提につながるのだ...”、というようなのもあるようですが、一寸抽象的な感じを受けて、私の心根には響いて来ません。
煩悩というものは、外から眺めているようなものでは無いはずです。一般論のように語られるようなものに、煩悩がそのまま菩提に開かれる、ということが実存に即したものとして伝わって来ないのです。
煩悩の苦しみを味わっているのは、言うまでもなく私自身なのです。
当然、その苦しみから離れたいと願うものですよね。
しかし、この思い煩うばかりの自分からは、どうにもその宿業のように心根に絡み付くような苦しみから離れることは出来ないのです。
その現実が心底感じられた時、こちらの願いはあちらの願いにつながる...
それは、浄土系仏教、特に親鸞さん的には、”弥陀の本願”により頼む以外に救いの道は開かれないことに覚めさせられるということ...自分の思い、力を超えたものに意識が向かわせられる、ということなのです。
煩悩こそは、菩提に開かれる契機に他なりません。それは全く即してあるもの、直ちに開かれるものなのです。
言い換えると、煩悩というカルマ的な自分の力の及ばない作用が、そのままダルマ(ダンマ)という、自分の力を超えたハタラキにつながる、ということではないでしょうか?
その契機は、全く全託の契機でなくて何であろうか?
然るに、私の知人の如く何故、”目覚めるためには、過去世からのカルマをすべて浄めなければならない!”だの、”すべてのチャクラを開かねばならない!”だの、”霊的階層の何レベルまで昇らなければならない!”だの、何一つ自分自身に直接示された訳でもない、空想ごとに基づく、目覚めに致る条件をわざわざ設え、囚われなければならないのでしょうか?
かかる人間は、全託、覚醒に至る、自分が為し得る何かがあると、勝手に思念しているのです。それも自分自身が直接知り得たものでも何でもない、ある教師の言葉に追従しているだけなのです。
そして、こういうものが煩悩だ、ということに気付くことすらないようなのです。
彼は、おそらく煩悩の苦しみというものを味わったことが無いのでしょう?
お気の毒という他ありません。
煩悩こそは、菩提の開かれる種なのです。業苦に捉えられることこそは、本願に抱かれることにつながるのです。
どちらも人の思い、力を超えたもの...ただ弥陀の本願にゆだねるのみ!...
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