人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ラマナ・マハルシ

2015-05-29 20:48:57 | 人生の教師
非二元の道を語る上で忘れる事の出来ない覚者に御存知ラマナ・マハルシが居ます。
我が国で初めて彼の本が出されたのは30数年前で、その当時瞑想に関心を持った求道者はほとんどが”修行系”だったと思われたのですが、あまりそちらにはアンテナを張ってなかった私にも”伝説の聖者ついにベールを脱ぐ!”といった感じで注目をしていたのです。
私が初めてその名を知ったのは、その二年くらい前、神智学系の三浦関造さんの「真理の太陽」という本で、そのすぐ後当時瞑想を中心とした精神世界に新風を吹き込んでいたバグワンの著書で(著書名は忘れました)「ラマナ・マハルシにつながったものが、そこを離れて別のマスターに付くとは奇妙な事だ!」と述べられているのを見て、ラマナとはそんなにも影響力を持った人なのか!といやが上にも関心を寄せたものでした。
そして実際に読んでみて”この内容は知的に理解しただけではどうにもならないだろう”と感じ、さりとて何か特別な修行法を提示している訳でもなし…そこに数多ある修行系にはない魅力を感じつつ、”理解はそのうち向こうからやってくるだろう…”などと思っていたものでした。
私に忘れることの出来ないことは、ラマナの邦訳の二冊目「南インドの瞑想」を読んだ直後、あの目覚めに預かったということです。
あの体験というのは全く思いがけないものであったのは確かなのですが、それでもいくつか直接性は無いものの、なにか因果関係が考えられることも存している様なのです。
それはもとより確かめようのないことなのですが、少なくともその本の中に有った「本当の導師は内に居る」「真我、導師、神は同義語である」といった言葉の”響き”が思考回路がマヒして、猛烈な精神的嵐のようなものに見舞われていた中にも、圧倒的な現臨感に包まれていた中にも、轟いていた感じがありました…。
当時は勿論ノンデュアリティなんて言葉も知らなかったし、ラマナが後年そうした系譜の中で捉えられることも、当時は知る由もありませんでした。
とにかくそれから数十年もの間、私にとっては独一無二の存在…(これをある意味不二一元の覚者と言うべきか?)なのでした。
それが今日、雨後の筍のように続々と自称、他称の非二元のマスターを輩出するに至るとは…
私はしかし重要な点でラマナには”今日流行のノンデュアリティ、アドヴァイダ”とは違う側面を見出します。
彼の言説にも今日おなじみの”個我、世界は幻想である”といったフレーズが見られますが、それらはほとんどの場合、真我の実現との関連で語られていた、ということに留意しなければなりません。
「もし心が別々の部分から構成されたものの集合として世界を見た時、それは非実在であり、真我の中の一つの現れとして世界が直接体験された時、それは実在である。」
「世界の物理的存在とその知覚は、真我から反映された心の光に依存しているのである。」(あるがままに)
今日盛んに語られる非二元的な教えには、ただ”個人は居ない…世界は実在しない”とあたかも空の内に自分が消え去ってしまうようなニュアンスを感じてしまうものが多いですが、ラマナのそれと異なった印象を受けるのは…”シンがない!”というものです。
気づきの主体というものが無いと、糸の切れた凧のようになってしまうのではないか…
”何野誰平”といった寿命が尽きたら死んでしまう個人は無いにしても、”私は在る”という実感はどうしたって消え去らないのではないでしょうか?
もっともこのような話は理屈や議論でなく、直接経験から導かれるものであります。
”真我と言う実体”については言えませんが(それは形も境界も無く、対象にならないからです)私にはどうしてもそれを否定することが出来ませんでした。そして私が”大巨人”とも”大神人”とも形容している、言葉で言い表せない、自己の本体と思しきもの…これがずっと私の内に根付いているのです…。(勿論、それぞれの視点というものは有っていいです)
ラマナは又我々を真我に導く道として、誰もそれを行う事が出来ない”明け渡し”ということを説いていますが、私は色々なところで語っているのでここでは触れませんが、ここに彼が単純に”非二元”というレッテルでは括れない所が有ると思います。
とにかく私にとり、ラマナの存在は非二元云々というものを超えて、真我への、真我よりの誘いと共にあり続けるのです…。
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今日流行のノンデュアリティにあらず

2015-05-27 21:20:18 | スピリチュアル?
我が国のキリスト教の教派として分類されているものには、カソリック、プロテスタントなどとならび、無教会派と認知されているグループが有ります。
明治時代、初めてこの無教会という事を説き出したのは内村鑑三先生でしたが、今日ある無教会集会の在り方を作ったのは、その弟子塚本虎二先生だったとも言われています。
この無教会なるもの…聖書、福音には惹かれるものの教会という制度などになじめない、理由あって教会に行けない人たちのために、内村先生が説き出したのですが、何時しか既存教会の対抗勢力のように”無教会主義”というものが台頭し始めたのです。
この動向に対して内村先生は「私の無教会主義は主義のための主義ではなかった」と弁解し、さらには「私は今日流行の無教会主義にあらず」と述べるに至ります。
確かに形なき、内的なものを重視したはずの無教会に主義とか派閥があっちゃおかしいことです。
これに共鳴した者たちは、カトだのプロだの相対的なことに煩わされたくない求道者たちだったはずです。
そして今日スピ系でにわかに流行の兆しを見せているのがノンデュアリティと言われる生き方です。
私自身もこの道に関心を寄せていた時期がありました。今でもそのある観方には共感できるところもあります。
ただ、率直にこの現象に対して感ずるのは「こんなはずじゃなかったんだがなあ!」というものです。
何かまるであたかもノンデュアリティ教という新手の宗教が台頭し出したかのようです。
勿論人が何を説き、何に従い、信じようと自由な訳ですが、ついつい私が呟きたくなるのは、前述したように傾倒した部分が有ったからだと思います。
私がこのブログを立ち上げた時には、どっかでこの非二元的な事を書いてみようという気持ちもありました。
ところがそうした記事、書物などに接しているうち、私が共感を抱いていた部分とズレてきているな…と感じ始めたのです。
それには色々と述べなければならないことも有りますが、まず違和感を覚えたことは、この非二元的観方というものが、あたかも独立した一つの主義、教派のようなものとして表れ始めた、ということなのでした。
非二元云々というものの本来の意義は、あらゆる相対的二元を超えた視点を示す、というところに有ると思うのですが、これでは新たに非二元的相対観が生まれたという感がします。
又本来彼らが書物、ネットなどで発信しているような一連の気づきの言葉(言うまでもなくそこには私が頷ける点、頷けない点というものはどうしたって有ります)というものは、ごく内的な直接経験から語られるべき種類のものだと思われるのですが、これが何とも容易くネットなどに拡散され、一体どれだけの人がそれを理解したかは知る由も無いですが、これまた容易く受け入れられてしまうようです。
ここにも別の意味で”何かの教えを信じる”という二元的有り様を感じてしまうのです。
勿論、それで本当に心が満たされ、目覚めの契機に至るのでしたら余計な茶々を入れているというだけかも知れませんけど…
それにしても何時も訝しく感じてしまうのは、彼らの言い回しというものは”個人など居ないのです…みんな元々悟っているんです…起きる事が起きてるだけです…”といったように何で又似たり寄ったり何だろう…と思うのは私だけなんでしょうか?
そこにある種のドグマ性の芽生えのようなものを感じてしまうのですが…
あくまで個人的な感想ですが、これが全くつまりません!(勿論つまる、つまらないで世の中成り立ってませんが)
純粋な直接経験に基づく表現というのはみなあんな風になってしまうのでしょうか?
”個人など元々存在しない”から没個性的な表現になるのでしょうか?
ただ彼らのその気づきに至るまでのそれぞれの人生模様などを語っているところは面白いです。大変個性的で…
そして又彼らがそのエンライトメントに預かった時の表現…そこに私は”一なるもの”の顕れというものを観ます。
つまり”一なるもの”とは人間自身が語るものでなく、そのものが人間を通して語るものなのではないでしょうか?
人間が語り始めた時、どうしても二元的なものにならざるを得なくなってしまうのではないか?どうもこの辺りに私のモヤモヤ感が存していて、要らんこと書いてしまったようです。
でもそれは仕方ないことでしょうね…お互い人間なんだから…。




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禁断の覚醒ツール

2015-05-24 18:38:21 | 覚醒
精神的な事を求める人たちの一般的傾向として、今までの現在に至る自分の人生に満たされないものが有る、何かの問題を抱えている…だからこの現状を何とかしたいと思っている人が多いようです。
そして自分の辛かった過去を封印したい…そうでなくとも過去は過ぎ去ってしまったんだし、これからを見据えていく事が大事なんだ…とまあ、過去というのは顧みない傾向が多いですね。しかしこれを又飛び越してこない先の人類の未来とかに飛んで行ってしまう人も多いんですが…
ところが、私の知り合いで”すぎた”という、何かと古いものを有難がっている変わった男が居ます。(まあ、私の知り合いというのは一人としてマトモなヤツなど居ないんですが…あっちはあっちで私のことをそう観てるんでしょうけどね)
とにかく彼の趣味の話ときたら、映画、音楽、プロレス、ボクシング、漫画…もう、すべて年代がかってないものは無い、その語り口ときたら、歴史の語り部といった風です。そりゃあ、私だってそれなりの、というか、かなりのオジンですよ。 だから共感できるところは確かにありますよ。
だけど、彼ときたら…例えば好きなジャズのレコードはと訊けば ”ジェリー・ロール・モートンとレッド・ホット・ペパーズ、キング・オリバーとディキシー・シンコペーターズ(共に1920年代の楽団)”なんですと! なんだ、そりゃ!”生まれるはるか前のことなど誰が知るか”ではありませんか? こうなると彼のあだ名はもう、決まりです ”ミスター・レトロ”!
このレトロさんから、最近とても普段接してる彼の口からは、想像出来ないような話を、彼から呼び出されて中央線沿線のとてもレトロな喫茶店で聞きました。
そして私は、少し興奮気味に出た彼の言葉に耳を疑いました。
「ひょっとして僕は目覚めてしまったのかもしれない…いつか君が話していた、そのお…なんだ…雷に打たれたと思ったら、火山が爆発して、あっちがこっちになった、とか…訳わかんなくて話半分に聞いていたものだったけど…”あれ”はそういう事だったのか…ってね」
―ヘエ…君は何時の間に裏側の住人になったんだ。何で又そんなことになったんだい?
「それはだね、これなんだよ!」(と彼はおもむろに何やら怪しげな箱を見せてくれました)
―何々、なんか書いてあるぞ…”過去は封印されていない!開けてみよ!”だってえ…胡散臭いなあ…どれどれ(…と開けて見ます)紙切れが一枚入っているぞ…」
「ゆっくり読んでみたまえよ…」(するとわずか数行こんなことが書かれていたのです)

あなたの今までの現在に至る人生で、最も愛を感じたことを想起せよ!
肉親、恋人、ペット、自然…どんな関わりでもよい、丹念に、具体的に、アリアリとその情景、感じたことが浮かび上がるように…

―たったのこれだけか? これだけで覚醒だとか、何とかとつながるんだろうか? それ風な事は何も書かれてないじゃないか…
「そうだよ! だけど、これは例えば瞑想に関する手引き書なんかより、はるかに強力なツールだと思ったよ!それにだね…本当のことを言えば、僕は分かったんだ!僕は確かに目覚めたのかも分からないよ…だけど、それは愛に目覚めたんだ、という事が…この愛がアリアリと蘇って来たんだよ!そこから離れた覚醒体験なんかただ”ぶっ飛んだ”というだけのことじゃないか!ってね」
―これは驚いた!まるで骨董屋さんで売ってる、年代物の猫の置物が、”ニャー”と可愛く泣き出したような話じゃないか!
「君は確か、こういう話になるといつも決まって”今ここ、今ここ”って何かの呪文のように、僕に聞かせてくれたよね。だけどこのツールには不思議な魔法が有って、封印され、葬った筈の過去がその今に化けて出るんだ…」
―そ、そうなのか!うーん…いくら考えても君が愛の伝道師になるなんてことはあり得んだろうけど…ところで、その君のおそらくはあまり縁が無かったであろう、愛を感じたことっていうのは?
「そう、51年前、物心ついて僕の前に世界が突然開けたことだった…それまでは生きる事がどんなことで、世界がどんなものかも分からなかった…
そうだ、何処に居ていいかも分からなかった…そして突然、その時分どっかからか声なき声がこう告げたんだ”お前はここに居ていいんだよ”とね…
―そ、そういうことなのかあ…これはそんなに得難いシロモノだったのか…一体何処で仕入れたんだ?
「サニーサイド…いや違った、それはこっち側のことだった…アザーサイド・オブ・ライフとかいう会社の未分(まだわかれ)さんという人、なんでもこの人はどうしても姿を見せられないというので、その代理の部判(ぼうはん)という人からもらったんだ…
―おかしいな、あそこで扱っているものは日の目を見てはいけないはずなんだけどなあ…ここで大っぴらに話すのはまずいんじゃないか…
「もう、どっかで文章化されてるんじゃないかなあ…」
―ああ、それなら大丈夫だ。よっぽどのもの好きじゃないと読まないだろうから…そうでなかったら世界中で火山が爆発しちゃうからなあ…。





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書かにゃおれないこと

2015-05-23 00:04:21 | 祈りと瞑想

いやあ、ここんとこ仕事がヒマという事も有ってか、祈り心地というか、瞑想心地というか…私にとってこれは別々の事じゃないのですけども…そんな気分に誘われることが多いです。
これは何も瞑想しようとか、祈ろうと思ってるからそうなるんじゃありません。
誘わしてくれるものが有るからそうなるんです。 これはこうしたことに限らず、生きるという上での大前提ではありませんか?
つまりそういうものに生かされて生きている、ということです。
人生にはこういう裏側が有る…と、続けてたら書くことが無くなりますが、書かにゃおれないものが有るから性懲りも無く書いてるまでです。
祈り心地というものは、この大いなるものとの繋がりからどうしたって芽生えてくるものです。
どういう言葉、マントラを使うとかいった形のことではありません。 そして又意識はどうしたって内側へと向けられて行きます。自然と瞑想心地になります。 (私にはこの二つが分けて語られる、というのが不思議でしょうがないです)
これはまた時に覚醒とか悟りといったものに結び付けられています。
そこを目差して一生懸命修行に励んでおられる方もおられることでしょう。
勿論、それをしたからといってそうなるって保障などどこにもありません。
それ以外の場面であっても、そうした契機は無数にあります。
一つ言える事は、意識がそっちに向いていたらその契機は生まれやすいであろう、ということです。
 瞑想修行などそれ自体が、その事と結びつかずともその契機が作られるという事だと思います。
この”意識を向ける”と言うのが、秘伝中の秘伝なんです! ホントは向けるというより、向いちゃう、と言うのが正しいのです。
そして、そうしようとしなくたってそうなってしまう…そうなると別に形としての瞑想も祈りもやる必要がありません。
これはちょっと人には伝えられません。(伝えられるんだったら伝えてもいいですよ。タダとは言いませんが…)
その一番の理由は私がどうしてそうなったか分からないからです。
このことにアグラをかいて私は「なーに、覚醒なんてその気になったら何時だって出来らあ…」なんて実に罰当たりな事を思った事が有りました。
これは言うまでも無くとてもズレた考え方です。 そして、当然の如くあのジンジンが消えました。
いや、消えたことすら分かりませんでした。年のせいだと思ってました。
”目覚めというものを通して開かれるものが有る”この大前提無くして、何にも起こる道理など無いのです。
じゃ結局修行したってしょうがない? いいや修行向きの人はどうしたって修行に赴くでしょう。
祈る人はどうしたって祈らざるを得ないでしょう。そうさせて止まないものが有るからです。
”悟りたい、覚醒したい”こう望むのは自我かもわかりません。
でも、そう望まざるを得ないものがあったら、どうあってもこうあってもそっちに赴くしかありません。
”修行しなければならない” ”修行なんてする必要ない” こういう決めつけた物言いというものは”大きなお世話”以外の何物でもありません。

何だか最近同じような事ばかり書いてる気もしますが、書かにゃおれないものが有るので…
人間には道理だけじゃ生きられない道理が有る…どおりでオカシクも楽しいじゃありませんか…。


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気付きと明け渡し

2015-05-20 22:00:06 | 祈りと瞑想
先日の瞑想会で、プレゼンス(気付き)やハートに関連したことに話が及んだ時、私が「自分は昔から感受性が強いほうですが、この事とハートとつながりが有るんですかねえ?」とか話してたら、Mさんは「自分はどんなに感情が揺れ動く事が有っても、どこか常に意識はこっち側に保たれているところが有る」とプレゼンスというものがどのようなものか、何となく腑に落ちそうな話をしてくれました。
家に帰ってこの事についてしばし考えていたら”ああ、私もそうだった”と改めて感じました。
色々エモーションが立ち上って来ても、どっかでそれを味わってる覚めた自分が居るんです! 
中学3年の時、初めてロックコンサート(レッドツエッペリン初来日!)に行きましたが、他の級友は皆手をたたいて”胸いっぱいの愛”を表してノリノリだったのに対し私だけ、”移民”のようにその熱狂に溶け込めず、仲間外れにされた気分でした。
ご多聞にもれず、私もロックの洗礼を受けていた(51年来のラテン音楽ファン? んなわけないでしょう…シタテール・ラモスじゃあるまいし)のですが、ここで私はハードロックには向かない、と悟った次第です…。
聖霊を協調するキリスト教の集会では時に、集団エクスタシーのような熱狂的祈りに発展することが有るのですが、私自身がその渦に溶け込んで、”ハレルヤ”になってしまったことは一度も無かったと言っていいです。
ただ生来のへそ曲がりというか、周りが全く日常的境界が超えられることなく、シーンと静まり返った集まりの中で、あの上よりの恩寵の力が現臨して一人泣きながら悦に入ってしまう事はありました。そしてこの時ばかりは”もう、降参!”自分を明け渡ししてしまいます。
そうなのです! 考えてみれば私は本当には見えざる導きにしか心を許したことがないのです。
これが有るキリスト教の一教派の集会で起きた時、私が未信者のままだったためか、既信者から「信者になろうと決心したようですね?」などと勘違いされてしまいました。それはあくまで見えざる導師との超宗派的交わりなのです。
それが証拠に全く別の集会でも同じような事が起きた事が有ります。
これはこの世もあの世も天国も地獄も…全て”導師にお任せ”してるからそうなるまでなのです。
これとは少し異なりますが、瞑想してたら体が勝手に動き出した…体動が起きた、などと言ってケッタイに思われるでしょうけど、誤解しないで欲しいですが、それは何か自分と違う何者かによって操られることとか、トランス状態とは根本的に違う事なのです。
普段の自分を超えたところから来るというのは確かなのですが、”自分はここに在る”という感覚はキープされているものなのです。
これが無く、自分が操られたり、失ったりしまうような場合は危険な状態と言わざるを得ません。(決して一人ではやらないでください)
意識を心持下半身に向けるとか、飛んで行かないようにした方がいいです。
どちらの場合でも私自身、そんなことになってしまったという事は一度もありません。
それは、”自分が自分でない”感じにはなっていても、そこに表面的な自分の奥にある、そのものが有って自分があるという…”自己の大本”が顕れているのを示されるからだと思います。
アジス・クリストフ、(特に)フーマンはガイダンスとつながるという事の重要さを述べていますが、見えない導きは我々が何が必要なのか一番分かっているんじゃないでしょうか?
頭にも身体にも感情にも偏らず、バランスを保つにはガイダンスとの関係を密にしていく事だと思います。
そしてそれは自己の大本の自己開示につながるのでしょう…。




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