我が国で初めて彼の本が出されたのは30数年前で、その当時瞑想に関心を持った求道者はほとんどが”修行系”だったと思われたのですが、あまりそちらにはアンテナを張ってなかった私にも”伝説の聖者ついにベールを脱ぐ!”といった感じで注目をしていたのです。
私が初めてその名を知ったのは、その二年くらい前、神智学系の三浦関造さんの「真理の太陽」という本で、そのすぐ後当時瞑想を中心とした精神世界に新風を吹き込んでいたバグワンの著書で(著書名は忘れました)「ラマナ・マハルシにつながったものが、そこを離れて別のマスターに付くとは奇妙な事だ!」と述べられているのを見て、ラマナとはそんなにも影響力を持った人なのか!といやが上にも関心を寄せたものでした。
そして実際に読んでみて”この内容は知的に理解しただけではどうにもならないだろう”と感じ、さりとて何か特別な修行法を提示している訳でもなし…そこに数多ある修行系にはない魅力を感じつつ、”理解はそのうち向こうからやってくるだろう…”などと思っていたものでした。
私に忘れることの出来ないことは、ラマナの邦訳の二冊目「南インドの瞑想」を読んだ直後、あの目覚めに預かったということです。
あの体験というのは全く思いがけないものであったのは確かなのですが、それでもいくつか直接性は無いものの、なにか因果関係が考えられることも存している様なのです。
それはもとより確かめようのないことなのですが、少なくともその本の中に有った「本当の導師は内に居る」「真我、導師、神は同義語である」といった言葉の”響き”が思考回路がマヒして、猛烈な精神的嵐のようなものに見舞われていた中にも、圧倒的な現臨感に包まれていた中にも、轟いていた感じがありました…。
当時は勿論ノンデュアリティなんて言葉も知らなかったし、ラマナが後年そうした系譜の中で捉えられることも、当時は知る由もありませんでした。
とにかくそれから数十年もの間、私にとっては独一無二の存在…(これをある意味不二一元の覚者と言うべきか?)なのでした。
それが今日、雨後の筍のように続々と自称、他称の非二元のマスターを輩出するに至るとは…
私はしかし重要な点でラマナには”今日流行のノンデュアリティ、アドヴァイダ”とは違う側面を見出します。
彼の言説にも今日おなじみの”個我、世界は幻想である”といったフレーズが見られますが、それらはほとんどの場合、真我の実現との関連で語られていた、ということに留意しなければなりません。
「もし心が別々の部分から構成されたものの集合として世界を見た時、それは非実在であり、真我の中の一つの現れとして世界が直接体験された時、それは実在である。」
「世界の物理的存在とその知覚は、真我から反映された心の光に依存しているのである。」(あるがままに)
今日盛んに語られる非二元的な教えには、ただ”個人は居ない…世界は実在しない”とあたかも空の内に自分が消え去ってしまうようなニュアンスを感じてしまうものが多いですが、ラマナのそれと異なった印象を受けるのは…”シンがない!”というものです。
気づきの主体というものが無いと、糸の切れた凧のようになってしまうのではないか…
”何野誰平”といった寿命が尽きたら死んでしまう個人は無いにしても、”私は在る”という実感はどうしたって消え去らないのではないでしょうか?
もっともこのような話は理屈や議論でなく、直接経験から導かれるものであります。
”真我と言う実体”については言えませんが(それは形も境界も無く、対象にならないからです)私にはどうしてもそれを否定することが出来ませんでした。そして私が”大巨人”とも”大神人”とも形容している、言葉で言い表せない、自己の本体と思しきもの…これがずっと私の内に根付いているのです…。(勿論、それぞれの視点というものは有っていいです)
ラマナは又我々を真我に導く道として、誰もそれを行う事が出来ない”明け渡し”ということを説いていますが、私は色々なところで語っているのでここでは触れませんが、ここに彼が単純に”非二元”というレッテルでは括れない所が有ると思います。
とにかく私にとり、ラマナの存在は非二元云々というものを超えて、真我への、真我よりの誘いと共にあり続けるのです…。