人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

セミとカラス

2023-08-31 09:03:16 | 独語
この夏はセミがあまり鳴かない...
今頃は夕方ともなれば、セミの合唱が聞こえるのに!
温度、湿気が高いからか?
七月の中頃だったか、知人に「あの、じーじーゆってるのはセミか?」と聞いたら「そうだ、(老化による)耳鳴りじゃないよ!」と返ってきたのだが...
それが今夏最初に聞いた、その夏の音信だったと思う...“遅いな!“
その時は、この連日の猛暑続きのことなど思いもよらなかった!
セミたちは、その短い地上生活が叶わなかったら、どうなってしまうのだろ?
ずっと、幼生のままの地中生活?
いや、僕は一度もその生態を直接見たことないぞ!
見えない霊界生活をしてたりして?
そうそう、セミの死骸ってあちこちあったものが、いつの間にか消えちゃうのは何故だ?
カラスのエサ?
そのカラスの死骸ってのが又...??
そうだった!...セミの鳴き声を初めて聞いた日、何故か飛ばない(飛べない?)カラスを道路脇で見たのだった!
気にしないで、しばらく公園で休んでから、横断歩道を渡ろうとしてたら、そのカラスは車に轢かれて死んでいた!
連中、賢いから横断歩道を渡っていて災難にあったのだろう?
賢いからって青と赤の区別は出来ないし...
飛べるカラスならめったにそんな不覚などしないだろうに...
にっくきカラスもああなっちゃうと可哀想でならなかった...
あっ、そう...この夏はカラスも元気ないなあ...
セミの鳴き声が盛んなところには、カラスの鳴き声はあまり聞こえず(あくまで持論?)、逆も又ありのようだけど...
晩夏の風物...セミとカラスの合唱が聞こえるところ、どこに居てもそこはふるさとの夏!
郷愁を呼び覚まさずにおれない...

この夏は耳鳴りばかり鳴り響いている...
(あ、お盆に産土の神社にお参りするの忘れていた!、行かないと!)
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消えてゆく姿と十字架

2023-08-29 09:48:47 | 人生の教師
五井先生の「質問ありませんか?」(白光出版)という、質疑応答を集めた著書の中に、「消えてゆく姿の教えとキリストの十字架の贖罪のこととが、ピッタリのように感じるのですが、先生のご意見を伺いたい...」という質問がありました。
私も以前から、これはピッタシだわ!、と感ずるものがあったのです。(実は消えてゆく姿の方はあまり理解してもおらず、そういう行もしてこなかったので、多く語る資格は無いのですが...)少なくとも、“ああ、思いは消えてゆく...“、という実感は何度も与ったことがあるのです。
もっとも、この質問者がどういう理由でピッタリと感じたのか、は分かりませんで、又それに対する先生の答を読んでも、あまりそこに通底しているものは伝わってきません。
というのも、先生のキリストの贖罪についての説明は、惨たらしい血の贖い、大犠牲...苦難を受け入れる、といった通り一辺のものの域を出ないものだったからです。
それでも先生は、「ハイ、同じものですよ」と言う...多分、その奥にあるものを感じていたのでしょう?
私は通説的な十字架の贖罪のことを理解したことも、受け入れたこともありません!
犠牲になれ?...“イヤ“です!、出来ません!...では“聖霊、神的な現臨を受けよ!“...ハイ!
何度も書いているように、このことは小池辰雄先生を通して“受けている“ことなのです。そういう教えを信じたり、行じたりしたということじゃないのです。
ただ受けること...そのキリストの十字架の故事を信じるということでもなく、苦難、犠牲になるということでもありません。
そういう観念的な思い、為そうとする思いを超えたものに与ることに他ならず、それが臨んだら受け入れるしかありません!
聖霊、神的な現臨の中にその思いを無化するハタラキがある...それを受けるために信じたり、行じたりする必要も本当は無いのです。
五井先生の消えてゆく姿には、どうもその“現実に臨むもの“の線は弱い感じがしますが、要するに“神が思いを消してゆく“、ということなのです。
消えてゆく姿の教えが生まれた背景になった、“人間は本来神の子、完全円満なのだ!“という「生長の家」などの教えでも、最近の“あなたという個人は居ない!“、という教えでも、アレコレ思っている自分が手放しでそんな教えを受け入れられる訳がありません。
そう観念的に信じるしかない!...自分はそうなった、出来るんだと!...どこまでも思っている自分が...“が“が抜けない!...しっかし、あの人のように、何十年も消えてゆく姿を行じていて、色んな妄想ごと、自分“が“悟る、という思いから抜けられないというのは、どういうことなのか?
大事なことは、旧態依然としたことを何回繰り返していても、ハッキリと思いを超えたものに出くわさないと、そういう契機は生まれないということです。
だから、どこまでも思いを消してゆくもの、神に思いを向け、入れていくことがあるだけなのではないか?
私には、これが消えてゆく姿の教えの根幹、命のように感じてならないのです!
そして、聖霊と一つの十字架を受け取って、キリストの根源現実に入ること...
ここで、私には二つはピッタリとなっているのは言うまでもありません!
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形無き神の仲立ち

2023-08-27 09:57:10 | 人生の教師
五井先生は、色々なところで、急を要するような時とか、いざとなったら、“五井先生を呼びなさい!“と説いていました。
これは、もう行法なんてもんじゃなく、“直ち“に何かとつながる(?)方法無き方法と言えるでしょう。
このことについて「生長の家」の谷口先生が、“人間は、本来神の子であることを悟らせないとならないのに、人間にすがらせているのは、本心開発を邪魔をしている!“、という意味の批判をしていました。
それに対して、五井先生は、“「五井先生」(以降、この表示は形を超えた五井先生の意味)というのは、肉体じゃないのです。神の表れなんだから、私が救ってあげます、呼べば(霊体?で)飛んで行きます、と言って何が悪いのか?“と答えていたのです。
率直に言って私は、五井先生の信者でないものが、そのような話を聞いたら、谷口先生のように、あれは本心開発でなく、教祖への依存信仰を助長させている、と感じても仕方ないように思います。これは、五井先生の縁者にしか通用しないと言わねばならないでしょう。
しかし、この「五井先生」の称名(いや称名すら超えたものでしょう?)には、その言葉だけからは、言葉では伝わらない、何か重要なことが抜け落ちているのを、私は感じているのです。
それは又、先生の教えの根幹とも関わるものでしょう。
それは、(肉体人間でない)神的なものに思いを向ける、預けるということです。
業的な思いから離れることは、自分からは為し得ないことであり、これは安易な依存とは違うだろうし、本心開発につながることでもあるでしょう。
だけど、多くの人には、神といっても漠然としていて掴みようのないものですね。
私が“現臨“と呼んでいる、霊なるものの臨在が感じられるのなら別ですよ!
そのために、イメージし易いもの、縁者には仮の表れとしての「五井先生」だったのでしょう。
これは、“「五井先生」というのは、皆さんの中に居るのですよ!“、という、ちょっとぶっ飛んだ先生の言葉からも伺えることが出来ます。
これは、キリスト教で、聖霊のハタラキ、臨在をキリスト.イエスに“見立てる“ことと原理は同じでしょう。
“イエスは、今もなお、生きてハタラキたもう!“ということは、霊的現臨にあってそう言えることなのです。
肝心なことは、自分の外に思い描いた像として、神もキリストも五井先生も留めていてはならないということです。
相対を超えた、形無き命との一体化が主眼とならなくてはなりません。そうであれば、そうした在り方は宗派を超えたものとなるでしょう。
又、いくら悟り、空観に達したといっても、人間は人間に変わりはないということも、この相対世界では事実でしょう。又多くの信者たちは、安易な依存信仰に走ってしまったことも!...そして又、これらのことが要因となって、先生の寿命を早めたことも!
イエス、ブッダ、ラマナ.マハルシ、出口王仁三郎師、そして五井先生...神と人との仲立ちと目される人物は、これまで沢山表れました。
教師なら誰もがそうした存在と呼ばれる訳ではないのです。これは、そうした存在に思いを向けると、それを超えたものに通りやすいものがある、という感じがどうもあるようなのです。(先の「五井先生」の話で何か掴めるでしょうか?)
しかし、その肉体的表れとしてのみの存在が、そういうものではないはずです。そういう観方は偶像崇拝につながるものです。
本当の意味の仲立ちとは、形無き命と一つとなり、我々を神へとつなぐものなのでしょう。

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実存に目覚める

2023-08-25 09:26:57 | 覚醒
前回の記事で、肝心なことに触れるのを忘れていました。
あの反面教師の戯言のことですが、“ワクチン打たなくても、塩でも直ると信じれば直る!“、とか言う、相変わらずのバカ.ノーテンキなこと...
いや、そおじゃなくて!...いつも自分にマイナスになるようなことにはほとんど触れなくて、如何に自分を正しく、高くみせようとしていたこの御仁が珍しく、コロナに感染したというありのままのことを報告していたことです。エライ!...そうじゃなく、それが普通に当たり前のことなのです。
前にも書いたように、ありのままということは、“自分がそうならなければ!“、ということでなく、思いを超えた光に照らされるならば、そうならざるを得ないということなのです。
そしてそうなれば、精神的目覚めに与らざるを得ない!
他人が言っている言葉、宗教、カルトの教えなどに信従してゆくだけの、主体性を欠いた、他への依存するだけの在り方から自由になること...それは、自己実存に目覚めることに他なりません。
“それは、神的なものに依存、支配を受けることではないのか?“...いや、自由、主体性、実存といったことは、そうなってみて初めて“直“に感じられることなのです!
覚醒に与る運命にある人というのは、徐々に実存的な方に目覚めてゆくのが普通でしょう。
誰でも最初は、ある教師などに共感し、影響を受けながら求道、探求をするものですが、それはそれとして、そういう人はある時節において、そういう段階から離れることになるものなのです。
だから、宗教の狂信者やカルト思考などの人が目覚めるに与ることはほとんど無いと言っていいのです。彼らは“バク睡“している故に!
その実存への目覚めを促すもの...それが見えない導きというものでしょう。
少なくとも、私にはそういうもの無しには考えられないものを感じています。
私か精神的な道を求め始めて、しばらくは五井先生に心酔していて、その影響の下に道を歩んでいたのです。
しかし、ある時期突然、普通に、当たり前に人生の苦しみ、悲しみ、喜びを感じるとはどういうことなのか?...そして、五井先生の“消えてゆく姿“などの教え、ただ霊界の存在などを信じるだけの在り方に、“現実のリアリティ“というものから浮いたものを感じ始めたのです。
自分自身がそういうものを感じずして、一体誰の人生なのか?
これが実存の目覚めの契機となったのは間違いありません。昭和53年秋のことでした。
それまでもある導きみたいなものを漠然と感じていましたが、そしてそれからは、一段と深みへと入り、翌年からはそれはより確かなものになって行きました。
それは、声なき声で盛んに“お前はどう思う?、どう感じるか?“と実存に目覚めることを促しているようなのでした。
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自分自身の問題

2023-08-23 10:05:54 | 雑感
“私は絶対にコロナなんかに罹りません!“、と豪語していた、あの反面教師がついに感染した!
いや、全く...ザマアミロではないか!...もっとも、今は罹っても症状は軽いらしいし、ある程度感染も抑えられているようで、この御仁が何度も発信していた、ワクチンの害毒性、その陰謀みたいな話も最近はトーンが下がってきたようです。ホントはそんな話など最初からどーでもいいことだったのでは?...自分には直接関係ないことなのだから!...
だから、いっそ、もっと生死をさ迷うような、重篤化した状態になってみりゃよかったんですよ!
そうすれば、否応なしに、ありのままの自分に向き合わなければならなくなるでしょう。
ただ、苦しい...あれやこれやのホントかどうか分からない妄想、空想に浸ってなどいられない、そういうものが如何に中身の無い、うすっぺらなものであるか、ワクチン反対、肯定とかのことなど所詮、他人事に過ぎないことが分かるでしょう。
そして、本当に苦しむことはどういうことなのか?、又、朝、目覚める...この世に生を受けたことの喜びにも間近に向き合うことが出来るでしょう。
自分のことも、人生も自分が思い描いているものじゃないのです!
それで、又何?...私が覚醒する日は近い?...バカを言うな!、“六次元の神が...“とか言ってる時点でアウトでしょ!、そう思い描いた世界から抜けきれていない!...いや、“自分が“、自分の思いからそうなれると思っている時点でアウト!...そういう人間は、魔道に落ちるしかないでしょう!
しかし、そんなことどうでもいいと思っているのなら...それは救いになるかもしれない!
もっとも、それは別の意味で救い難いことなんでしょうが!...
六次元だろうが七次元でもどうでもいいだろう?...自分に直接関係ないことなのだから!
何十年もどうでもいいことと思っていたから、何十年もラチが開かず、それが又、還暦を迎えた頃になって、まんだらけ社長の教説にハマって...だから所詮、他人事なんだってんです!
この御仁、今は一時の感染症に罹ったように、“覚醒しないと!“って、囚われているみたいだけど、あの社長への信仰が揺らいだら、又どうでもいいことになるのではないか?
あの熱が収まらなくなるようだと、ホント、コロナどころでなくヤバイですよ!
“もうすぐ、人類の淘汰が行われるから、それまでに覚醒しないと大変だー!“
それは、本当に自分自身から発せられるものなのじゃないでしょ?、自分の本心からの!
私は以前会っているから分かる!...この人は覚醒に与る運命にある人じゃないということが...
そういう人は、容易く現実から浮いた話にハマったりしないし、自分自身に向き合っているものなのです。
高きに、進んだもの、正しきものに置こうとする自分でなしに、ありのままの自分に!
だから、覚醒云々から切り離しても、自分と直接関係ない、“お話“を追いかけることから覚めることが先決なのです!
自己実存に目覚めなければならないのです!
これは、ほとんど精神的な目覚めのことを言っているんですけどね…


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