人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

知られざる神秘家ジョエル.ゴールドスミス

2021-07-30 10:28:23 | 人生の裏側の図書室
「健康や富、安全や保証、あるいは地上の平和を祈ってはいけません。神がそれ自身を真理として啓示することだけを祈って下さい」
(ジョエル.ゴールドスミス「スピリチュアル.ヒーリングの本質」/ナチュラルスピリット刊)

私は本を求めるに際して、若い頃の知識がごく浅い時分ならともかく、全く素描の分からない著者のものを求めることはめったにありません。
しかし、数年前古本屋で、その表紙が破れかかって、みすぼらしくなっている本を手に取って...「唯一つ祈るべきことがある。 ...霊的自覚を、聖霊の賜物を求めよ...内部から展開する瞑想が聖霊の賜物を現わす。このような瞑想は、あらかじめ定められた形に従うことは決してない。それぞれの瞑想が、霊的衝動が、流れ出て一つの形を作るのである」(「神を識る瞑想の法」/教文館刊.ー絶版ー)
という文章に接して、電気を受けたようなショックを受けて迷わず求めたのでした。
著者はジョエル.ゴールドスミス。経歴も何も紹介されておらず、一応米国人らしいということ、一読してキリスト者であること、所謂神秘家という括りをしても間違いないであろう、ということ以外何も分かりません。
とにかく、この著者は、私が精神的な道で感じていたこと、私の内に息づいていることを代弁しているように思えてならないのでした。
そして、(M.ベインの「心身の神癒」や、サンダー.シングやラマナ.マハルシのいくつかの書物などと同じく)この書物を読むこと自体が祈りであり、瞑想であるようにも(ここに祈りと瞑想の区別は見い出せない)...
又、その邦題(原題は「The Art Of Meditation」)にあるような"神を識る法"について、具体的なことは何も記されていません。
ただ聖霊、神の現臨を求めること...さすれば、自ずから開かれるであろう...もう、書いているだけで何かが始まる...
最近、上掲のように、ゴールドスミスの別の本が新刊で出され、訳者の高木悠鼓さんにより、ようやくその素描を知ることが出来ました。
スピリチュアル.ヒーラーという肩書きがあるらしいです。
しかし、その本にもヒーリングについての具体的な方法のことは書かれていません。"やり方"花盛りのその界隈にあって...
その"方法無き瞑想法"と全く同じく、神そのものを求めることに重点が置かれているのです。
"心身の不調和な状態、病とはそもどこから来るのか?...我々が意識の中で、そのすべての命の本源である神から切り離されてしまったからではないのか?
まず、意識されるべきは、そのつながりを取り戻すことにこそあるのではないか?
もし、何かの方法により病が癒えたとしても、本源から切り離されたままだったら、別の問題が起こってくるだけだろう...根本的な問題がそのままになっているのだから...
だから、異邦人のように(神が現存していないかのように)神に祈ってはいけない..."
と、いうようなことがここから汲み取れてきます。
ゴールドスミスは、キリスト者であり、聖書からの引用も多いのですが、あくまで"一つの窓"から、すべての本源につながる道を示しているように感じます。
キリスト教は、二元分離主義の最たるもののように見られているし、事実そういう言説も多く見受けられます。
しかし、ここに改めて私が感じることは、本来のキリストの道こそは、ノンデュリアリティそのものだ、ということなのでした...。
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神は知ることが出来ない

2021-07-28 11:53:31 | 
何ごとにおいても、先入観、固定観念というものを取り払わなければ、その真実を知ることは出来ません。
然るに、宗教やスピ関連のことは、目に見えず、捉えられないものに関わるものであるにも拘わらず、何故に決めつけた言辞で溢れかえってしまうのかが不思議でなりません。
その最たるものは、神についてのものではないでしょうか?
神は全知全能である。だから神にお願いしたら、何でも自分が望んだものを叶えてくれるはず...健康、富、調和ある人間関係などの自己の幸福の実現から、対外的には世界平和の実現など...そしてそれが叶わなければ、ますます望んでいることから遠くなってゆく様相を見せられたなら...しまいには、"神など存在しない"、否定されるに至るのです。
神はまるでご用利きであるかのようです(こりゃ、ホントにオッソロしいことじゃありませんかi)。
ここには、神によって実現されたり、されなかったりする目に見える、捉えやすい、我々に幸福をもたらすであろう事柄に意識が向けられているばかりで、神そのものには、向けられていないということがハッキリ分かります。
要するに神のことは何も分からないのです。
神は創造主であるとか、宇宙の支配者、その法則そのものであるとか、各宗教で信じられているように、勝手に想像されているだけなのです。正しくは、人間が"神の想像主"というべきではあるまいか?
神は知ることが出来ない...だから知る必要が無いとも言えます。つまり、分からないものは、分からないと認めなければならない、ということです。ここから固定観念から解かれる道が開かれるのです。
分かったつもりの人間は、自分が"コテカントロプス"の旧人類だということに気付かなければなりません。
しかし、神を求める人の中には、神は頭脳知によっては知ることが出来ない、ということを頭では分かっていて、"神を直接知る"ということがどういうことかが、何となく感じられている人も居るかもしれません。
"それはもしかして、人生でもっとも大切なことなのではあるまいか?"、と。
そう、これは知ることではなくて、感じられることなのですi
もし、本当に、ホント~にそう感じられるのでしたら、もっともっと"私は神のことは、何も分からないi"、ということに徹した方がいいでしょう。
"どうしたら神を直接知ることが出来るか"、ということよりも、"どうして神を直接知ることが出来ないのか"、ということを意識した方がいいかもしれません。
これは、微妙な違いのように見えて、結構大きなことだと思いますよi
分かろうとする自分が居る限り、神を知ることは出来ない...
一寸待てよi...分かる自分は、自分からはそういう自分を放棄することなど出来ないことも分かりますよね?
あなたは何も為すことは出来ないのですi...祈ること以外は...
"神よi、私はあなたのことが何も分かりません。どうかあなたご自身をお示し下さいi..."
こうして、自分を超えたものに意識が向く、向けられるという道が開かれるのです。
想像した神に何かの願い事をするのでなく、神そのものに意識が向けられるのです。
そして、神は、あなたを何も分からない、何も為し得ない状態に導くでしょう...
そして又、その時、自分が、多くの人間が神に対して向けていた、本当に救い難い無知(分からないものを分かったように思い込む無知)、それと裏表にある、神に願い、叶えてもらうものでなく、神と共にあることで与れる、本当に信じ難い幸福というものを全身全霊をもって知らされることになるでしょう。
それでも、神のことは分からないでしょう。それは隠喩的にしか言い表すことが出来ません。
しかし、もはやそれを分かろうとはしまい...頭だけでない、すべての私が頷いているのだから...




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私の前時代と新時代

2021-07-27 12:01:31 | スピリチュアル?
以前には何も感じなかったものが、今はどうにも受け入れ難いものを感じてしまうということがあると思います。
私は最近、十数年ぶりにある本を読み返してみて、そのように感じてなりませんでした。
その著者は修行系の人で、そこには、"私は悟ったのですi 以前のは小悟のようなもので、本当の悟りではなかったのですが、今度のは大悟です。迷いも我欲もありません。完全に悟ったのですi"、というようなことが書かれておりました。
以前呼んだ時は、何も引っ掛かるものは感じず、割りと共感して読んでいたように思ったのですが、どうもスンナリ入って行かないものを感じてならないのでした。
私は完全に悟ったことなどないので、このことについてとやかく言う資格など無いのですが..."私は..."というのがどうも...
迷いも我欲も無くなるんですか、その私って人は? その人が悟るの?(勿論、書かれたものをそのまま受け取ってしまうのは短絡的なことで、著者はただそのような言い回しをしているだけで、ホントはもっと別のことを含ませているのかもしれませんが...主語(私)を使わないと伝わりにくいのも確かではあります)
私はどうしてもこの私が、私自らがそのような境地に達する(?)ようには、リアルに感じられないのです。ということは現実に意識がそのようには赴かないということなのですが...
それ以前には、"私が"悟りを開くことは普通に"考えられていた"のです。これは私だけでなく、大多数の人もそう考えられていたのではないですか?
今、感じられることは...どうも"古いなi"
何か前時代的なものを感じてなりません。私もそういう時代を長く生きてきたということです。
中には、"勝手に古いとか、前時代的なものにするなi"、と感じている人もおられるでしょう。そうです、これはあくまで私の主観を言っているに過ぎないのです。
人にはそれぞれ道がある...その道は現実に意識がそこに向かうことが無ければ、開かれることは無いでしょう。考えているだけでは...又いくら修行をしてもそうなるという保証はありません。
そして、私は今、私でなく、私を超えたものに意識が向けられているのですi
現実にそうなる、ということはかつては無かったのです。
予感はずっとあったのですが...頭では以前から、"私が"悟りを開くなんてことは、もしかしてズレたことなんじゃないか?"、とは思っていました。しかし、現実に開かれて来るものがありませんでした。
"思われた私からではなく、それは私を超えたものから来る"...これが"私の新時代"を告げるものに他ならないのです。
新時代に則せば、悟りが何であるにせよ、私がどう、こうでなく、ただ与えられるままに与るということがあるだけなのです。それが小さいのか、大きいのか、本当のものなのか、半端なものなのかは"与り"しれません。
だからと言って、"私は前時代を卒業して新時代に立っているのです"、なんて言うこととも違うでしょう。
私じゃない、私が変わったのでなく、私が立っている世界の方が、私の"時場"が変わったということでしょう。
あなたにあっては?...知りません。あなたの意識が向かうところに聞いてみて下さい。
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のんで、のまれて...

2021-07-25 08:40:35 | 詩的文章
のんで、のまれて
のまれて、のんで...

正しい人も悪い人も、
賛成の人も反対の人も...
のまれる時はのまれる...

大洪水がやって来た
大怪獣がやって来た...
コイツはどエライ...想定外だi
"どやこや"言ってたって始まらない
みんな流される
みんなハカイされる...
"私はこう考えている"人はどこ行った?
何かと戦っていた人はバンザイするっきゃない...
のまれたらオシマイ...
ホントか?...

のまれるんなら...
ホントはのまれてみたいi
いいも、わるいもなく...
のまれるんなら...
ええい、のんじゃえi、のまれちゃえi
うまいか、苦いかわかるだろう...
"ああでもない、こうでもない"...ああ、まずいi
ここは洪水の真ん中か、
大怪獣の胃袋の中か?
ただ、浮かんでるしかない
何だかラク~になってきた...
すべてのガンバルことは、
生きなかきゃならないことは、
浮かんで生きることに消えたi...
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真夏の空想劇場

2021-07-24 10:35:52 | 雑感
精神的な道においては、有るのか無いのか分からないような、空想ごとにうつつを抜かしていてはダメなんですよi
それではいつまで経っても内なる霊性は開かれないんですよi
何度言ったら分かるのか、この夢の世界の住人、宇宙人どもi...ぬあーんて...
私は、空想したりすること自体がダメと言っている訳じゃありませんi
要は、空想は空想、現実は現実と弁えることが大事だ、ということを言っているのです。
考えても分からない、空想することしか出来ないようなことを真実だ、と思い込むことは、空想を通り越して妄想に陥っていることで、これが固定観念のようになって、霊性への道を塞いでしまうことが問題なのです。
それは、強固に思いに囚われるということなのだから...
そうでなきゃ、文学でもコミックでも映画でも、空想に浸るのって楽しいでしょ? 空想無くして一体何の人生であろう...
私は幼い時から、寝られない夜とか、暇な時は空想ばかりしていました。そう、夢の世界の住人みたいです(笑)
といっても、よく思い描いていたことは、あの世とか前世とかの純空想もの(?)じゃなくて、もっとリアルなものに即したものが多いのです。
これは本当の意味でもそうなのですが、リアルな空想、幻想に満ちたストーリーを考える、というのもよくしましたが、既存の文学やコミック、映画作品(これはリアルな現実)を借りるということが多かったのです。
実際に接したストーリーが気に入らないので、勝手に作り変えるとか、そこに架空のキャラクターを付け加えるということをよくしていました。
空想というよりストーリーを思い付くのですね。
そうそう、小学校時代に原案がある(?)ものでは、架空の怪獣を作って、ゴジラと対決させるということも考えました。
"地底電撃大怪獣バラドン!"(普段は地底に生息しており、電気エネルギーを摂取することでよりパワーアップする。口から強力な電気光線を放つのと、電流を帯びたガタイそのものが武器。放電してしまうため水に弱い...これは東宝系怪獣にあって、日陰の存在だった地底怪獣バラゴンー「フランケンシュタイン対地底怪獣」に登場したーがモデル。要するに、そういうキャラクターに光を当てることに無上の喜びを覚えるのです)
これがどれだけリアルなものかというと、私の頭の中では、完全に映画化されているくらいなのです(笑)
もう、ヒジョーにリアルに描写出来るのです。しかし、それは夜の場面ばっかしです(ゴジラの光る背ビレとか、白熱光線とか、それに対抗する"稲妻光線"とかは、昼間では上手く視覚化出来ませんi)
こういうことを言い表すのは初めてなのですが(そりゃ、大っぴらにゃ出来ない)、改めて思うに、私は昔から結構ストーリーを考えるのが好きだったのです。プロレスやボクシングの脚本まで考えるくらいです(笑)。
これまでどれだけ作ったか分からないですが、そのうちオリジナルと言えるものはどれだけあったか?
見えざる導師とかは?...あれは空想じゃないですよi...分かりやすいように、そういうものであるように描写しているだけですよi
今のご時勢は、特に空想と現実は違うということを弁えることが大切なんですi
それにしても、なんだかんだ言われてきたオリンピックも、ついに現実に開催されました。されちゃったんだからしょうがないi、侍ジャパンを応援しなきゃしょうがないi
私にはどうしても、夢、幻想のように思えてならないが...それも夢中になって応援してるうちに覚めるでしょう...。
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