このブログでしばしば、"ジンジンと言葉を超えたハタラキが..."とか現臨が顕わとなり、それに包まれ、捉えられる..."とか、何でそうなるのかがスルーされ、パッとオバケがどっからか現れるようなことを言っています。
これは実際にそうなんだから仕方ないことで、これが"思いを超えたものの消息"というものを伝えていること、伝わりますでしょうか?
私は何度か、読者のためにその参入に向けての"具体的な方法を伝えなければならない..."ような気にもさせられたのですが、その度に自分自身がちっとも腑に落ちた事の無い教えなり、メソッドをデッチ上げるなど、かえって読者に失礼だし、エラそうな態度だし、自分自身に正直でない心の姿勢であると感じてしまうのです。
ただ、そういう方に"気が向いている"方については、"意識的になる"、"神的なもの、最愛のものに意識を向ける"というようなことは、しばしば言っています。
というよりも、そういう人はとっくに誰に言われなくても、そうなってるはずなのですけど...
大体ですね...宗教やスピ界隈には、イロイロ異なった特別な教えとかメソッドで溢れかえっていて、もうゲップ...でしょ?
"聖書に書いてあること、教会で教えていることだけが正しい...
人間は死んでも永遠の命のうちにあるから大丈夫...
どこにも教えていない、この秘伝によって悟ることが出来る...
私が信奉しているあの先生がそう言っていたから...
本当に腑に落ちて、自分の血肉のようにも受け入れられていますか?
ある先生は、しばしば"OOは間違いですi"と言っていましたが、間違いというのは多くの場合、何らかの不都合があることを示されることでしょうが、指摘された方は本当にそのことを腑に落ちて、自覚されなければ問題はクリアされないし、学びもないでしょう。
つまり当人がホントに"間違い"と感じなければ間違いじゃないのです。"木に魚を求めている"ような明らかな間違いとか、放っておくとアブナイという場合は別として...
自分の生き方については、自分の感性を蔑ろにし、他の言辞に迎合してしまうことが間違いでしょう。
又、ある宗教やスピを信奉していると、ともするとその信仰、思想体系、枠組みというものに囚われがちになるものです。
本当にそこで指し示されている、神的なものへの純粋な帰依感情といったものとは別個に、そこに取り巻いている"信じなければならない"思念、信念というものに隷従してしまうのです。
そして生ける神はいつしか、現臨の伴わない思凝神に取って代わってしまうのです。
生ける神的なものへの純粋な帰依は、信じる主体である、こちらに共振、共鳴するものがあることから生まれるものでしょう。
神的なものと真我的なものは切り離すことが出来ないものです。
頭で分かったつもりのものが、五臓六腑、全身全霊で"う...うわかったあi"となるのも、"ここ"にそう唸らせるものがあるからでしょう。
こういうことばかりは、自分自身で実感してもらわないことには、誰も代わりにやってくれません。
いくら、"信じてくださーい"、"こうやって修行してくださーい"と言わんばかりに、他に伝えようとしたって、一人一人共鳴板は違う訳だし、そうした信仰の押し売りは、人の共鳴領域をおかすことにつながりやしないでしょうか?
ただ、個人的な本当に自分が腑に落ちて、"ぶっ飛んだ"とか"アホになった"とか"バカを見た"とか...とやらのことを雑記帳みたいに書いていたら、読まれる人は読むだろうし、共感される人は共感するでしょう。
そんな訳で...この場は、一人一人の生き方がそうであるように、特別なものはないけれど、他にはない一つのサンプルにすぎないですが、気が向いたらお付き合いください。
これは実際にそうなんだから仕方ないことで、これが"思いを超えたものの消息"というものを伝えていること、伝わりますでしょうか?
私は何度か、読者のためにその参入に向けての"具体的な方法を伝えなければならない..."ような気にもさせられたのですが、その度に自分自身がちっとも腑に落ちた事の無い教えなり、メソッドをデッチ上げるなど、かえって読者に失礼だし、エラそうな態度だし、自分自身に正直でない心の姿勢であると感じてしまうのです。
ただ、そういう方に"気が向いている"方については、"意識的になる"、"神的なもの、最愛のものに意識を向ける"というようなことは、しばしば言っています。
というよりも、そういう人はとっくに誰に言われなくても、そうなってるはずなのですけど...
大体ですね...宗教やスピ界隈には、イロイロ異なった特別な教えとかメソッドで溢れかえっていて、もうゲップ...でしょ?
"聖書に書いてあること、教会で教えていることだけが正しい...
人間は死んでも永遠の命のうちにあるから大丈夫...
どこにも教えていない、この秘伝によって悟ることが出来る...
私が信奉しているあの先生がそう言っていたから...
本当に腑に落ちて、自分の血肉のようにも受け入れられていますか?
ある先生は、しばしば"OOは間違いですi"と言っていましたが、間違いというのは多くの場合、何らかの不都合があることを示されることでしょうが、指摘された方は本当にそのことを腑に落ちて、自覚されなければ問題はクリアされないし、学びもないでしょう。
つまり当人がホントに"間違い"と感じなければ間違いじゃないのです。"木に魚を求めている"ような明らかな間違いとか、放っておくとアブナイという場合は別として...
自分の生き方については、自分の感性を蔑ろにし、他の言辞に迎合してしまうことが間違いでしょう。
又、ある宗教やスピを信奉していると、ともするとその信仰、思想体系、枠組みというものに囚われがちになるものです。
本当にそこで指し示されている、神的なものへの純粋な帰依感情といったものとは別個に、そこに取り巻いている"信じなければならない"思念、信念というものに隷従してしまうのです。
そして生ける神はいつしか、現臨の伴わない思凝神に取って代わってしまうのです。
生ける神的なものへの純粋な帰依は、信じる主体である、こちらに共振、共鳴するものがあることから生まれるものでしょう。
神的なものと真我的なものは切り離すことが出来ないものです。
頭で分かったつもりのものが、五臓六腑、全身全霊で"う...うわかったあi"となるのも、"ここ"にそう唸らせるものがあるからでしょう。
こういうことばかりは、自分自身で実感してもらわないことには、誰も代わりにやってくれません。
いくら、"信じてくださーい"、"こうやって修行してくださーい"と言わんばかりに、他に伝えようとしたって、一人一人共鳴板は違う訳だし、そうした信仰の押し売りは、人の共鳴領域をおかすことにつながりやしないでしょうか?
ただ、個人的な本当に自分が腑に落ちて、"ぶっ飛んだ"とか"アホになった"とか"バカを見た"とか...とやらのことを雑記帳みたいに書いていたら、読まれる人は読むだろうし、共感される人は共感するでしょう。
そんな訳で...この場は、一人一人の生き方がそうであるように、特別なものはないけれど、他にはない一つのサンプルにすぎないですが、気が向いたらお付き合いください。