人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

特別なものはないけれど...

2018-02-28 00:06:05 | 雑感
このブログでしばしば、"ジンジンと言葉を超えたハタラキが..."とか現臨が顕わとなり、それに包まれ、捉えられる..."とか、何でそうなるのかがスルーされ、パッとオバケがどっからか現れるようなことを言っています。
これは実際にそうなんだから仕方ないことで、これが"思いを超えたものの消息"というものを伝えていること、伝わりますでしょうか?
私は何度か、読者のためにその参入に向けての"具体的な方法を伝えなければならない..."ような気にもさせられたのですが、その度に自分自身がちっとも腑に落ちた事の無い教えなり、メソッドをデッチ上げるなど、かえって読者に失礼だし、エラそうな態度だし、自分自身に正直でない心の姿勢であると感じてしまうのです。
ただ、そういう方に"気が向いている"方については、"意識的になる"、"神的なもの、最愛のものに意識を向ける"というようなことは、しばしば言っています。
というよりも、そういう人はとっくに誰に言われなくても、そうなってるはずなのですけど...
大体ですね...宗教やスピ界隈には、イロイロ異なった特別な教えとかメソッドで溢れかえっていて、もうゲップ...でしょ?

"聖書に書いてあること、教会で教えていることだけが正しい...
人間は死んでも永遠の命のうちにあるから大丈夫...
どこにも教えていない、この秘伝によって悟ることが出来る...
私が信奉しているあの先生がそう言っていたから...

本当に腑に落ちて、自分の血肉のようにも受け入れられていますか?
ある先生は、しばしば"OOは間違いですi"と言っていましたが、間違いというのは多くの場合、何らかの不都合があることを示されることでしょうが、指摘された方は本当にそのことを腑に落ちて、自覚されなければ問題はクリアされないし、学びもないでしょう。
つまり当人がホントに"間違い"と感じなければ間違いじゃないのです。"木に魚を求めている"ような明らかな間違いとか、放っておくとアブナイという場合は別として...
自分の生き方については、自分の感性を蔑ろにし、他の言辞に迎合してしまうことが間違いでしょう。
又、ある宗教やスピを信奉していると、ともするとその信仰、思想体系、枠組みというものに囚われがちになるものです。
本当にそこで指し示されている、神的なものへの純粋な帰依感情といったものとは別個に、そこに取り巻いている"信じなければならない"思念、信念というものに隷従してしまうのです。
そして生ける神はいつしか、現臨の伴わない思凝神に取って代わってしまうのです。
生ける神的なものへの純粋な帰依は、信じる主体である、こちらに共振、共鳴するものがあることから生まれるものでしょう。
神的なものと真我的なものは切り離すことが出来ないものです。
頭で分かったつもりのものが、五臓六腑、全身全霊で"う...うわかったあi"となるのも、"ここ"にそう唸らせるものがあるからでしょう。
こういうことばかりは、自分自身で実感してもらわないことには、誰も代わりにやってくれません。
いくら、"信じてくださーい"、"こうやって修行してくださーい"と言わんばかりに、他に伝えようとしたって、一人一人共鳴板は違う訳だし、そうした信仰の押し売りは、人の共鳴領域をおかすことにつながりやしないでしょうか?
ただ、個人的な本当に自分が腑に落ちて、"ぶっ飛んだ"とか"アホになった"とか"バカを見た"とか...とやらのことを雑記帳みたいに書いていたら、読まれる人は読むだろうし、共感される人は共感するでしょう。
そんな訳で...この場は、一人一人の生き方がそうであるように、特別なものはないけれど、他にはない一つのサンプルにすぎないですが、気が向いたらお付き合いください。

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さくらの花は散るけれど...

2018-02-25 11:06:35 | 雑感
この冬は、当たり前のことながら寒いです。
最低気温が零下を下回る日が何日も続いた..."冬は寒いもんだ"ということを改めて感じた次第です。
そのせいなのか、ここのところ悲しい知らせが相次いでいます。
好きだった名脇役の大杉漣さんの急逝。
そして...ほとんどの人には馴染みが無いであろう、エンライトさんの代理人、Sさんも亡くなられたようです。
エンライトさんの遺稿をアップし続けたい、という強い意志を持っておられたようでしたが...残念でなりません。
その意志はエンライトさんの実妹の方が引き継がれたようです。

私が平成26年の秋、このブログを立ち上げた当初、その夏人気悟り系ブロガーAさんの周辺で、ちょっとしたバトル?が繰り広げられていたのが目に留まりました。
それは、Aさんが確か"苦しんで死んだ人もあっちの世界では、根本的には平安に包まれているから大丈夫ですよ..."と、どなたかの問いにノンデュアリティの観点から、決めつけたような言辞を表したことに対して、"短絡的、無責任だ"というニュアンスで、別のブロガーが反論していたことに端を発したものなのでした。
もう、そのAさんのブログのコメント欄は、この問題を巡り賛否入り乱れて(大体はAさん寄りでしたが)の言葉で溢れかえるという、全くノンデュアリティからは程遠い様相を呈していたのでした。
私の観方は?...この時はAさん寄りでした。だって、"迷いとか苦しみというのは、二元的なもので、根源的な観点では解消される...本来無い"ものなのでしょう?
...というようなことを当時は懸命に思おうとしていたのです。つまり"ノンデュアリティこそは究極の真理に導かれるものに違いない..."という思いがどっかにあったのです。
しかし、この問題に限らず、例えば"個というものは無い、自由意志も無い、すべては思いの中のストーリー"といった、お馴染みの命題でも腑に落ちていた訳ではけっして無かったのです。
そこに、精神の道には、"これしかない"ことで収まるものでなく、多面的な理解というものも必要であること、そして何よりも自分が腑に落ちない事にいくら取り組んでも無意味であることに気付かせてくれたのが、この歯にきせぬ物言いのブロガーさんだったと思います。
この人が"高速かんながら"のSさんなのでした。
その翌年ブログ"裏宇宙からの遺言"で、エンライトさんを知ったのですが、この二人に師弟関係があったことなど当時は全く知りませんでした。
そしてSさんのああした物言いというのは、エンライトさんから勧められて、"スピ検証をしていたから"、ということも自身のブログで明かしていましたが、あまり本意ではなかったようです。
ともかく、このブログというのは、こうしたいくつかの試行錯誤のうちに始まったものなのです。思い返してみると何故私がこうして書いている?、書かされている?のかは何となく分かります。
"腑に落ちどころ"を探していたのか?...それはとっくの昔に知らされていたものではなかったか?
私はそれから間もなく、非二元原理主義に幻滅を感じ、その年の初冬、およそ5年ぶりに現臨に捉えられてしまったのでした。
ああいう"検証"の道というものは、敵も作りやすいし、背負わなければならないものも出てくるでしょう。エンライトさんもSさんもその事は覚悟の上だったと思います。
何が正しくて、間違っているかは簡単に決められるものではないけれど、そうしたことを通して精神の道のある断面は切り開かれ、啓発がもたらされることは感謝しなければなりません。
Sさんの最近のブログでは、すっかり角も取れ、これから本来の彼女らしさが段々表されてくるのかな、と楽しみにしていたのに...重ね重ね残念なことです。

"人生には苦しみや悲しみ、迷いというものはあるものだけど、それとは別の生というものもあるもの...さくらの花は散っちゃうものだけど、ほら...もう、芽が出てきたよ..."

Sさんの上に平安がありますように...
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ただ、そのものがあるだけ

2018-02-22 17:59:07 | 詩的文章
"聖書にこう書かれていた
どっかの教祖、先生がそう言っていた
その他大勢ではそういうことになっている"

僕はそういうことで手打ちには出来ない
全的に頷くことが出来ない
魂を誤魔化すことは出来ないのだ
僕の信念、信仰、思想もアテにならない
性懲りもなく、着いたり離れたりを繰り返してきた
一体何が身に着いたというのだろう...
そういうものをアテにしたい向きは、トコトン得心するまで追求していたらいい
一切の迷いも障りも無くなるまで...
そうしたら、僕らは本当に向き合えるのかもしれない

口はばったく、イロイロほざいてるけど...
僕は何も分かっちゃいない
神? 真理? そういうことは...
全くどうでもよくなったことしか本当には言えない
僕はただ、無条件に捉えられるだけ
僕のすべてのことは、"そのもの"にゆだねられるだけ
そこで示されたものを受け入れるだけ
そう...受け入れることしか出来ない
他に道は一切無い...迷いも障りも無いから...
神、真理 ...全くどうでもよくないか?
僕はそれを教える資格も無ければ筋合いも無い
僕の"そのもの"がそうであるように、それはあなたの"そのもの"にゆだねられている
別の門からは開かれないだろう...

僕は他人の信念、信仰、思想にも、自分のものにも動かされることが無い
最愛のものにしか僕のすべてをゆだねることは出来ない
そのものにあって僕のミもタマも丸ごと動いた
それはどんな理屈も意味合いも思惑もなく、最愛のものが現存したからだ
そこに神が居ようと、真我が実現しようと、真理があろうと...どうでもいい
ただ、そのものに無条件に惹き付けられることがあるだけ...








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最狂のプロレス

2018-02-20 17:58:59 | 雑記
強いプロレスラーだってえ?...
それを語らせたらこの男をおいていまいi "ミスター.レトロ"久々の登場i 音楽のことになると"裏切りのロック"を巡り、話がこじれるのだが、頼みもしないのにお出ましになりました。
これはちとウルサく、マニアックになるのは必至です。彼は狂のつくプロレス.マニアで、当然のことながら話は古くなります。悪しからず...

ー"強いプロレスラー"と聞くと君は目の色が変わるんだなあ...まるでネコだ(笑)
「フフフ、優男マーク.ルーインも"ザ.マニアック"になってしまうのさi...そもそもプロレスラーの強さの基準なんだが、純粋にルールに乗っ取ったレスリングとしてのものか、それを無視した、まあ、早い話がケンカだな...この一線を越えてしまうところまでを考慮に入れるかで別れるだろうね」
ーウーン、確かにプロレスはリング上のケンカみたいだし、そういう裏の実力者は一目置かれているようだね。
「前者の基礎になっているものは、もうハッキリしている。アマレスの実力があるってことだよ。その上でプロの技術もあり、ストリート.ファイトも強いというのが、無敵ってことになるんじゃないのか?」
ーそんなレスラーって居るの?
「"狂犬"モーリス.バション。レッキとしたアマレス、ロンドン五輪のカナダ代表。酒場のケンカでも無敵だったとか...」
ー居たねえ...あと、馬場さんがずっとリスペクトしていて、レスリングもケンカも強いと評判だったという、ビル.ミラーとか...
「あれは、カール.ゴッチと共謀してのリンチ事件とかで伝説になってるようだ。私は昔テレビで観たけど、とっくに正体はわかっているのに何故か覆面を着けてるんだ(力道山時代、ミスターXなる覆面レスラーとして日本に初来日)。やたらとロープに中吊りになっていたのを覚えているよ。バションといい、ミラーといい、あまりアマレスの実力っていうのは、隠し味にしていたというか、その試合ぶりからは伝わってこなかったなあ」
ーバションって人は"ケンカ狂"で通っていた人だけど、僕が別の情報で知ったもう一つの顔は"読書狂"だった。昔、ある雑誌のインタビューでまるで大学教授のように受け答えしていたのが印象に残っているんだ。
「そう、バションとバロン.フォン.ラシクとゴリラ.モンスーンは"読書狂"三羽烏じゃないかな?」
ー揃って、影の実力者じゃあないかi ラシクはアマレスの東京五輪代表、全盛期のモンスーンは"ゴッチでも敵わない"と言われていたとか...
「相手のところ構わず噛みまくる"狂犬"、"鉄の爪"と並ぶクローが売り物のナチスの亡霊ラシク、満州から連れてこられた人間離れした怪力の原人モンスーン...ホントの裏の顔はそういうところだった...僕はそんな彼らがリングに上がると狼男みたいに豹変して、凶暴になる姿にゾクゾクするような魅力を感じたものだね。ミラーにしても素顔だとレイ.ミランド(米俳優。知らない?)ばりの二枚目なんで迫力が出ないためだろう。そもそもの彼の本職は獣医さんなんだよね」
ーその話、誰かとダブるところは無いのか? 僕もそういう"ジキルとハイド"キャラは好きだよ。...ところでこの人たちって、日本のリングではイマイチだったのも共通しているね? 僕なんかは日本での超一流のレスラーってのは、馬場さんのインターナショナル選手権の挑戦者であるのが、ステータスみたいに思っていた。それはモンスーンが一度あるだけだったからなあ。
「バションの場合は元A.W.A王者という実績は充分だったけど、馬場さん相手では明らかにサイズ不足だったね。その意味では二重人格ではないが、もっとも米国と日本では認知度にギャップがあったのは、バーン.ガニアだろう...超一流の選手で、馬場さんのインター王座と縁が無かったのは彼ぐらいだろうね」
ーああ、ゴッチがいつも嫌っていたガニアね。バションもミラーも同じ世代で共にガニアのお膝元A.W.A圏では宿敵だった。僕は"ルー.テーズもその実力を恐れて、逃げまくっていた"というのを真に受けて、長く"ガニアが最強i"と思い込んでいたほどだ。
「そう、そう、最強のレスラーって話はどうなったんだっけ? 私が実際にこの目で目の当たりにしたのは、ルー.テーズの40年代ごろの全盛時の映像で、相手は力道山も苦しめられた"赤サソリ"タム.ライス。全くスキがなくて、ライスもいいところが見せられなかった。あっと言う間にバックを取られて腕を決められてしまうんだ、"こりゃ、つええな"と思ったよ」
ーそう言えば大木金太郎も米国の試合で、彼を本気モードにさせてしまい、顔面に何発もパンチを浴びせられて病院送りにされたって話も有名だ。
「やはり、レスリングもケンカも強いのが"いっとーつおい"んじゃあないかな?...そう、強いレスラーってのは、二重人格でなければならないんだよi 一番ノーマルそうに見えるのが何かの拍子に狂うのさ。そういう意味では、メルボルン五輪銀メダリスト、ボクシングはプロ並みというオッソロしいキャリアの持ち主ダニー.ホッジも外せまい...全く"人生の裏側"てえのは、深く、コワイものがあるね...」
ー彼もスーパーヘビー級並みの馬場さんとは釣り合いが取れないねえ...ところで、テーズ、ホッジときたらカール.ゴッチは?
「あれは、リングの中でも外でも、なんかこう...普段からアブノーマルではないのか? あまり面白くない...」
ー結局、僕らは好みのレスラーの話をしていたのかな?
「君もいつも言ってるそうじゃないか、"好きなこと、惹かれることに勝るものはない"と...」
ーそれは僕の正体不明のマスターから伝えられたものだ
「ミスターXかい...」

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腑に落ちたこと

2018-02-19 17:45:24 | スピリチュアル
"精神的覚醒、エンライトメント"と言われるものが、一個人のことに帰されないということは、様々な観点から説明出来るものですが、個人的意志、努力、願望などをもってしてもどうともならない、ということを一つ取ってみても理解出来るかと思います。
たとえ、どうとかなったとしても、"私がどうなった、こうなった"という線が抜け落ちなければ、そこに示される線からは抜け落ちざるを得ないでしょう。
何故ならば、そこで示されることは、全くもって"個を超える"ということだからです。
そういうことは、もうホントーに示されていたのですi 私は思考機能もすべての力を失い無化されていたのですから...
そして、これは今だから言える事ですが、そこで開かれた喜ばしき事態が閉じてしまった経緯も上記のことを物語っています。
私はそれを手に入れ、保持しようと目が眩んで、示された線から抜け落ちたまでなのです。
もっとも"見えない導き"のイキがかかっていたのか、そういうことも薄々自覚されていたのですが...

"公的(普遍的)なものを私物化すると、それを失う...しかし、空は、空気は、太陽は、すべての自然は...得ようとしなくても我々は、その享受に預かっているではないかi 新鮮な空気は自分にあったものを吐かなければ、受け入れる事が出来ない...手に握りしめて、ある、持っていると思い込んでいたものを手放してみれば...気付きは全く晴天の霹靂のようにやって来る..."

平成10年夏頃、その15年前の"爆発"に比べたらずっと穏やかなものでしたが、そのこととつながっていたのは間違いありません。
しかし、その実感された有り様は微妙に違っていました。"内なる意識の覚醒"みたいなものはやはり認められましたが、意識の変容というよりは、首より下に見えない力がハタライたようなのです。
頭の中の慧きもの、迷ったもの共々の思いが一瞬溶けたかと思ったら、ストンと落ちて五臓六腑に染み渡ったようなのでした。
"腑に落ちる"というのは、こういうことを言うのか...これは具体的には、大調和協会でしばしば言われていた「心に覚めるのではなく、身に覚め、身に覚えるのである」ということや、玉城康四郎先生が述べていた「形なき命ーダンマは、宇宙共同体であると同時に私そのものであるー業熟体に浸透してやまない」ということが腑に落ちたようなことです。
頭の中がスコーンと軽くなったと同時に、この私という有機体は大地と地続きでつながったような感じになりました。
又、同時に身が頷くようにも感じられたのは、同じく玉城先生が述べているように、この事は「如来の一人働き」であり、そのもの無しに何も始まらず、何も起こらないということなのでした。

"私は私の世界だけで閉塞されない...体験が体験だけで終わるものを追い求める必要はない...それをもたらすもの自体とは元々地続きになっていた...何時でもその鼓動が確かめられる..."

私がいつも"意識が向いたらジンジンと..."などと真しやかなこと?言っているのを自覚されたのは、この時からなのでした。
これは"どうしたら、そうなる、そのコツは?"などという間にそうなることなんですが、私に纏わるものは、あっという間に手放されているのです。
これと関連する"身に覚える"というのは、大調和協会からちゃっかり借りて言っているのですが、それは思いを超えたものの消息を伝えているのです。
私はここに"知られざる身体性"とも言うべきものが内包されているのを感じています。
もっとも、それは通常言われる"身体"に限定されるものでないのは、言うまでもないですが、アジス.クリストフ的には、"Being"と関連するのかも分かりません。
これを言い出したら、地続きで極点まで行きかねないのでヤメますが、存在、大地に根差すような意識、感覚は超個的なこと、スポット的でない、恒常的なこと...そう、"常にあるもの"と共にあることを覚えさせられています。


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