神には人格があるのか?
人格神という、あるいは非人格的な何かがあるのか?...
こういうことについては、どうも皮相的な見解から語られることが多いように感じてなりません。
何故って、神のことは、知的概念で合理的に理解することが出来ないものであるのに、神が人格を有しているかどうかなど分かるはずがないからです。
いや、人格というものからしてからがそうなのではありませんか?(ここで言う人格とは、誰それの性格であるとか後天的に形成されるような性質についてのものでないことは言うまでもありません)
そういうものを実体論、存在論のように説明されても、知性がくすぐられて分かったつもりにさせられるだけで、目の当たりに触れる、関わるということがありません。
ただ人格について言えば、それは全くもって我々一人一人の個己に関わるものであるのは確かなことでしょう。(これは、一コの考える私のことだけのことを言っているのではありません)
それは、概念で理解出来るものでは無いが、それらしきあることを直接的に感得することはある、ということです。言葉で言い表せないそのあることを、メタファーとしてそのように表現されるものなのではないか?
ベルジャーエフが随所で語っているように、人格は実存と関わるものなのでしょう。
主として、西欧キリスト教で語られる人格神というものは、自己実存と切り離すことは出来ないものなのです。もっともそこにあの超越的な生命の消息が抜け落ちてしまえば、抽象的にそう信じるというだけの観念信仰になってしまうものですが...
私が神の手に捉えられると言っている、私の思い、力を超えて全心全霊が揺すぶられるような経験...それが“人格的な神と出会う“と言い表しているものなのではないか?
それは、所謂精神的覚醒、宗教的回心と呼ばれるもので、そういう超越的なあるハタラキ無しには起こり得るものではありません。
非二元論を説く、ヒンドゥー教や仏教などでは、それは多く形無き“法“、非人格的なエネルギーなどとして語られるようです。そこには、実存的な響きというものはあまり感じられません。だから人間の個我性も否定的に説かれたりするのでしょう。
しかし、そこでもアートマン(真我的なもの)のことは説かれているのです。
人格神を説くキリスト教的西洋、非人格的な何ものかを説くインド的東洋...私は、そこに互いのその慣用的表現に迎合してしまう傾向を感じてならないのです。
要するに我々は皆神のことも、自己のことも何も分からないということを物語っているのでしょう。
日本人である私には、どっちでもいいような問題なのかも分からないが...(東洋の宗教では実存ということはあまり言わないが)古今東西の如何なる宗教、精神的な道でも、自己ということを問題にしないものは無いのではないでしょうか?
自己は、考えられている自己だけでは決して解明されるものではありません。
それを超えたもの無しには!...神に人格があるかどうかは、分からないのだから問題になりません。
人格、実存の問題は、自己は、神的なものと切り離すことが出来ないというところに求められるものでしょう。神と真我は切り離すことが出来ない!...
それは、抽象概念でなく、具体的に解明されるべきものであるはずです。
神に人格があるのでも、個々の人間存在に人格があるのでもありません。
それは、我々が我々を超えたものに具体的に出会った時に、それが自己の内奥に差し込んだ時に明らかにされるものでしょう!...
頭では分からなくても、全身が震えるようにも!...
人格神という、あるいは非人格的な何かがあるのか?...
こういうことについては、どうも皮相的な見解から語られることが多いように感じてなりません。
何故って、神のことは、知的概念で合理的に理解することが出来ないものであるのに、神が人格を有しているかどうかなど分かるはずがないからです。
いや、人格というものからしてからがそうなのではありませんか?(ここで言う人格とは、誰それの性格であるとか後天的に形成されるような性質についてのものでないことは言うまでもありません)
そういうものを実体論、存在論のように説明されても、知性がくすぐられて分かったつもりにさせられるだけで、目の当たりに触れる、関わるということがありません。
ただ人格について言えば、それは全くもって我々一人一人の個己に関わるものであるのは確かなことでしょう。(これは、一コの考える私のことだけのことを言っているのではありません)
それは、概念で理解出来るものでは無いが、それらしきあることを直接的に感得することはある、ということです。言葉で言い表せないそのあることを、メタファーとしてそのように表現されるものなのではないか?
ベルジャーエフが随所で語っているように、人格は実存と関わるものなのでしょう。
主として、西欧キリスト教で語られる人格神というものは、自己実存と切り離すことは出来ないものなのです。もっともそこにあの超越的な生命の消息が抜け落ちてしまえば、抽象的にそう信じるというだけの観念信仰になってしまうものですが...
私が神の手に捉えられると言っている、私の思い、力を超えて全心全霊が揺すぶられるような経験...それが“人格的な神と出会う“と言い表しているものなのではないか?
それは、所謂精神的覚醒、宗教的回心と呼ばれるもので、そういう超越的なあるハタラキ無しには起こり得るものではありません。
非二元論を説く、ヒンドゥー教や仏教などでは、それは多く形無き“法“、非人格的なエネルギーなどとして語られるようです。そこには、実存的な響きというものはあまり感じられません。だから人間の個我性も否定的に説かれたりするのでしょう。
しかし、そこでもアートマン(真我的なもの)のことは説かれているのです。
人格神を説くキリスト教的西洋、非人格的な何ものかを説くインド的東洋...私は、そこに互いのその慣用的表現に迎合してしまう傾向を感じてならないのです。
要するに我々は皆神のことも、自己のことも何も分からないということを物語っているのでしょう。
日本人である私には、どっちでもいいような問題なのかも分からないが...(東洋の宗教では実存ということはあまり言わないが)古今東西の如何なる宗教、精神的な道でも、自己ということを問題にしないものは無いのではないでしょうか?
自己は、考えられている自己だけでは決して解明されるものではありません。
それを超えたもの無しには!...神に人格があるかどうかは、分からないのだから問題になりません。
人格、実存の問題は、自己は、神的なものと切り離すことが出来ないというところに求められるものでしょう。神と真我は切り離すことが出来ない!...
それは、抽象概念でなく、具体的に解明されるべきものであるはずです。
神に人格があるのでも、個々の人間存在に人格があるのでもありません。
それは、我々が我々を超えたものに具体的に出会った時に、それが自己の内奥に差し込んだ時に明らかにされるものでしょう!...
頭では分からなくても、全身が震えるようにも!...