私は元々宗教的な人間であることを自覚しています。
物心付いた時から神を信じていました。
”え、ということは二世信者なのか?”...そおじゃないって~の!
もう、イヤになりますよ!、宗教に関心がある、関わっていると言ったらこういう風に宗教団体の信者のように見られてしまうのです。
宗教団体と関わったことがあるのも事実ですよ。ですが、そういうことよりも何よりも、私の人生は、”宗教そのもの”を抜きにしては語れないと言っていいのです。このことは、いつも”私は、私を超えたもの無しにはあり得ない”、と言っていることからも知られるでしょう?
人生におけるある啓発を受けた体験、精神的覚醒、これらは宗教的な関わりがあろうと無かろうと、宗教学的方面では、宗教的体験、回心と呼び慣われています。
このことを真摯に向き合う学者は、宗教学者全般ではありません。多くは、宗教哲学者と呼ばれる人たちです。
然るに、宗教団体のその集団性と結び付く、巷で理解される宗教なるものと、個己の実存的霊性を究明し、明らかにする宗教哲学とは、その意識の向かう先、在り方などにおいて、何と隔たりがあることでしょうか?
いつも私が愛読している宗教哲学の本というと、鈴木大拙、玉城康四郎、八木誠一、ベルジャーエフ、ブーバーなどの諸先生のものですが、よくよく考えてみれば、私はほとんど、著者自身の直接体験に裏付けされたものをベースに、思弁を重ね、究明してゆくという著述の在り方にしか接したことが無いのです。
つまり、宗教哲学と呼ばれるジャンルの書物は、そういうものしか読んだことが無いと言ってもいいのです。
この学者たちは勿論、哲学的なコ難しい概念、言葉を用いて表現しているのですよ。だけど言わんとすること、それを指し示しているものは、概念、言葉を超えたものなのです。その多くは、抽象的な観念に浮いたことをこねくり回してなどしていません。
中には、直接体験に裏付けられていない、そういう抽象論に終始している宗教哲学もあるかもしれませんが、私にはそういうものは、読むに値しないと思うから、読んだ記憶が無いのでしょう。勿論、宗教全般に関するものなら別ですよ。
そうして、”あ、これは言い得ているな”、とか”これは、一寸突っ込みが足りないな”、とか偉そうに批評家気取りでも無いですが、そう感じるままに親しんでいる訳です。
で、何で、”おっ!、これは直接体験から言ってんだ!”、ことが分かるかというと、何でやろう?...まあ、私もそりゃ、色々な体験もさせてもらっていますが、それが真実なのか、正しいのかどうかは知りません!...
中には、”あ、これは私ん時とおんなじではないか!”、と感じるものに出くわすこともあります。それで、”こういうエライ先生が言ってんだから、これは...”、なんて思ってても、本当かどうか分かりゃしません。いや、だからね、そういう風に権威になびくことが間違いなんだ!
ベルジャーエフはこう言う「私は論証などしない、私の思想は、結論から表される」
私が親しんで来た宗教哲学は、ほとんどがこういう調子なのです。
論証、証明され得ないのだから、真実か正しいのかは分からなくて当然なのです。
ただ、そこには宗教的体験に与ったものだけが知る、暗黙の了解のようなものがあるのでしょう。
それは、多分、多くの宗教の宗祖たちは、有していたであろうものから離れた、教えのドグマ、信仰、修行のマニュアルに堕した世界からは、到底理解することなど出来ないものでしょう。それらは、本来の宗教からは程遠いと言わねばなりません。
その命脈は、ホンモノの宗教哲学者たちによって守られ、究明されて来、そして明らかにされてゆくのでしょう!...
物心付いた時から神を信じていました。
”え、ということは二世信者なのか?”...そおじゃないって~の!
もう、イヤになりますよ!、宗教に関心がある、関わっていると言ったらこういう風に宗教団体の信者のように見られてしまうのです。
宗教団体と関わったことがあるのも事実ですよ。ですが、そういうことよりも何よりも、私の人生は、”宗教そのもの”を抜きにしては語れないと言っていいのです。このことは、いつも”私は、私を超えたもの無しにはあり得ない”、と言っていることからも知られるでしょう?
人生におけるある啓発を受けた体験、精神的覚醒、これらは宗教的な関わりがあろうと無かろうと、宗教学的方面では、宗教的体験、回心と呼び慣われています。
このことを真摯に向き合う学者は、宗教学者全般ではありません。多くは、宗教哲学者と呼ばれる人たちです。
然るに、宗教団体のその集団性と結び付く、巷で理解される宗教なるものと、個己の実存的霊性を究明し、明らかにする宗教哲学とは、その意識の向かう先、在り方などにおいて、何と隔たりがあることでしょうか?
いつも私が愛読している宗教哲学の本というと、鈴木大拙、玉城康四郎、八木誠一、ベルジャーエフ、ブーバーなどの諸先生のものですが、よくよく考えてみれば、私はほとんど、著者自身の直接体験に裏付けされたものをベースに、思弁を重ね、究明してゆくという著述の在り方にしか接したことが無いのです。
つまり、宗教哲学と呼ばれるジャンルの書物は、そういうものしか読んだことが無いと言ってもいいのです。
この学者たちは勿論、哲学的なコ難しい概念、言葉を用いて表現しているのですよ。だけど言わんとすること、それを指し示しているものは、概念、言葉を超えたものなのです。その多くは、抽象的な観念に浮いたことをこねくり回してなどしていません。
中には、直接体験に裏付けられていない、そういう抽象論に終始している宗教哲学もあるかもしれませんが、私にはそういうものは、読むに値しないと思うから、読んだ記憶が無いのでしょう。勿論、宗教全般に関するものなら別ですよ。
そうして、”あ、これは言い得ているな”、とか”これは、一寸突っ込みが足りないな”、とか偉そうに批評家気取りでも無いですが、そう感じるままに親しんでいる訳です。
で、何で、”おっ!、これは直接体験から言ってんだ!”、ことが分かるかというと、何でやろう?...まあ、私もそりゃ、色々な体験もさせてもらっていますが、それが真実なのか、正しいのかどうかは知りません!...
中には、”あ、これは私ん時とおんなじではないか!”、と感じるものに出くわすこともあります。それで、”こういうエライ先生が言ってんだから、これは...”、なんて思ってても、本当かどうか分かりゃしません。いや、だからね、そういう風に権威になびくことが間違いなんだ!
ベルジャーエフはこう言う「私は論証などしない、私の思想は、結論から表される」
私が親しんで来た宗教哲学は、ほとんどがこういう調子なのです。
論証、証明され得ないのだから、真実か正しいのかは分からなくて当然なのです。
ただ、そこには宗教的体験に与ったものだけが知る、暗黙の了解のようなものがあるのでしょう。
それは、多分、多くの宗教の宗祖たちは、有していたであろうものから離れた、教えのドグマ、信仰、修行のマニュアルに堕した世界からは、到底理解することなど出来ないものでしょう。それらは、本来の宗教からは程遠いと言わねばなりません。
その命脈は、ホンモノの宗教哲学者たちによって守られ、究明されて来、そして明らかにされてゆくのでしょう!...