人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

宗教哲学と体験

2024-10-12 10:11:57 | 哲学・思想
私は元々宗教的な人間であることを自覚しています。
物心付いた時から神を信じていました。
”え、ということは二世信者なのか?”...そおじゃないって~の!
もう、イヤになりますよ!、宗教に関心がある、関わっていると言ったらこういう風に宗教団体の信者のように見られてしまうのです。
宗教団体と関わったことがあるのも事実ですよ。ですが、そういうことよりも何よりも、私の人生は、”宗教そのもの”を抜きにしては語れないと言っていいのです。このことは、いつも”私は、私を超えたもの無しにはあり得ない”、と言っていることからも知られるでしょう?
人生におけるある啓発を受けた体験、精神的覚醒、これらは宗教的な関わりがあろうと無かろうと、宗教学的方面では、宗教的体験、回心と呼び慣われています。
このことを真摯に向き合う学者は、宗教学者全般ではありません。多くは、宗教哲学者と呼ばれる人たちです。
然るに、宗教団体のその集団性と結び付く、巷で理解される宗教なるものと、個己の実存的霊性を究明し、明らかにする宗教哲学とは、その意識の向かう先、在り方などにおいて、何と隔たりがあることでしょうか?
いつも私が愛読している宗教哲学の本というと、鈴木大拙、玉城康四郎、八木誠一、ベルジャーエフ、ブーバーなどの諸先生のものですが、よくよく考えてみれば、私はほとんど、著者自身の直接体験に裏付けされたものをベースに、思弁を重ね、究明してゆくという著述の在り方にしか接したことが無いのです。
つまり、宗教哲学と呼ばれるジャンルの書物は、そういうものしか読んだことが無いと言ってもいいのです。
この学者たちは勿論、哲学的なコ難しい概念、言葉を用いて表現しているのですよ。だけど言わんとすること、それを指し示しているものは、概念、言葉を超えたものなのです。その多くは、抽象的な観念に浮いたことをこねくり回してなどしていません。
中には、直接体験に裏付けられていない、そういう抽象論に終始している宗教哲学もあるかもしれませんが、私にはそういうものは、読むに値しないと思うから、読んだ記憶が無いのでしょう。勿論、宗教全般に関するものなら別ですよ。
そうして、”あ、これは言い得ているな”、とか”これは、一寸突っ込みが足りないな”、とか偉そうに批評家気取りでも無いですが、そう感じるままに親しんでいる訳です。
で、何で、”おっ!、これは直接体験から言ってんだ!”、ことが分かるかというと、何でやろう?...まあ、私もそりゃ、色々な体験もさせてもらっていますが、それが真実なのか、正しいのかどうかは知りません!...
中には、”あ、これは私ん時とおんなじではないか!”、と感じるものに出くわすこともあります。それで、”こういうエライ先生が言ってんだから、これは...”、なんて思ってても、本当かどうか分かりゃしません。いや、だからね、そういう風に権威になびくことが間違いなんだ!
ベルジャーエフはこう言う「私は論証などしない、私の思想は、結論から表される」
私が親しんで来た宗教哲学は、ほとんどがこういう調子なのです。
論証、証明され得ないのだから、真実か正しいのかは分からなくて当然なのです。
ただ、そこには宗教的体験に与ったものだけが知る、暗黙の了解のようなものがあるのでしょう。
それは、多分、多くの宗教の宗祖たちは、有していたであろうものから離れた、教えのドグマ、信仰、修行のマニュアルに堕した世界からは、到底理解することなど出来ないものでしょう。それらは、本来の宗教からは程遠いと言わねばなりません。
その命脈は、ホンモノの宗教哲学者たちによって守られ、究明されて来、そして明らかにされてゆくのでしょう!...

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人間の知られざる本来性

2024-09-19 09:28:51 | 哲学・思想
私が最近つくづく感じることは、人間の自己中心性、自我性のことがよく問題にされますが、それは元からどうしてもそうなってしまうように、組み込まれているのではないか、ということなのです。
キリスト教などでは、”人間は、みな元から罪人である”、とか言って、そういうことをよく強調しているのです。これは、性悪説とも関係することでしょう。
人間は、自分の立場があぶなくなると、本能的に保身することを意識するし、危急時には、我先に助かりたいと思うものです。少しでも自分の利益を考える。自分だけ幸福でありたいと望む...あなたはこういうことで、本当に幸福なことだと感じられますか?
まるで、人間には自我性があるというよりも、自我性こそが人間の本来からの性質のようではありませんか?
そうなのです。人間は、一コの自分だけで成っていると認識している限り、どうしてもこうした性向に赴いてしまう生き物なのです。
そして、その自我性から自身の生は、生命が枯渇し、行き詰まり自滅に至り、又自他の相対感に囚われ、果てしなく相克、対立を繰り広げ、やはり自他共に滅びてしまう運命を辿ることになるのでしょう。
しかし...よくよく考えてみて下さい。何故我々は、こうして生きながらえ、人間世界は存続していられるのか?...先の通りなら、人類はとっくに滅亡していてもおかしくないではありませんか?
この裏にあるものは...人間は知っているのではないか?...否、知らされているのではないか?...かくの如く、自我だけしかない人間は、自滅するよりないということを!、それは決して幸福になる道でないということを!
元から知らされているものがある!...これが、人間の知られざる本来性なのではないか?
自我性に囚われた、表層意識の奥には、自分は自分を超えたもの無しには成り立っていない、それ無しには生きることも、生まれ出て来ることも出来ないことが認識されているのではないか?
ここで、どちらが真の本来性かと言ったら、そりゃあね、根本的な方でしょ!...と、言いたいところなのですが、それは、あなたが感じたとおりのものなんでしょうよ!
アタシャね、自分がヤバくなったら、すぐ保身に走って、”私は何もやってません!”、とすぐに誤魔化すし、自分の幸福を追い求めてばかりいるので、エラそうなこた、とても言えないのですよ。
でも、知らされていますよ!...そして自然と自分(だけ?)が幸福に感じられる方に導くものがあるのを!...それは、全く私ではない!...私を超えたものから来るのです。そっちが舵を握っているようなので、エラそうな、悟ったようなことは言えないのです。
しかししかし、私はどうしてもこう言いたい!
私が本当に望んでいることは...あなたが本当に望んでいることと多分同じでしょう?
これはね、”何が本当なのか?”、と理屈を知ることでは無いのです!
私は、どうしてもこうしても(ドーパミンが出るのかどうか知らないが)、幸福に感じられる方に赴いてしまうまでなのですから!...

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言葉を超えた言葉

2024-07-03 10:01:31 | 哲学・思想
我々人間は、言うまでもなく言葉無しに生きては行けません。
テレパシーかなんかが開かれない限り...
って、霊能力者でない私が想像するに、テレパシーってのは、思いの中で言葉が交わされるものなのでしょうか?
普通に表される言葉を使う我々は、多分そうだと思います。原始、未開人のように言葉が発達していない人間なら分からないですが...彼らは言葉以前の言葉を伝え合っているのでしょう?、そう考えるしかありません。
言葉以前の...?、そりゃ一体何だ?...コトタマ?、ロゴス?...そういう言葉は無いの?、こんな肝心なものが!...伝えようとするもの無しに、一体何を伝えよう(は?)、否何が伝わるかってんです!
もし、そういうものが無かったら、すべてのコミュニケーションは、成り立たなくなると言ってもいいでしょう。感じてみたら分かる?...言葉に中身というか、命が無くなるでしょう?
やっぱり言葉は、コトタマというか、“たましい“が宿り、又宿らせることも出来るんだと思いますよ。
未開人などは元から、現代人の以心伝心的対話では、表される言語に加え、言葉に言い表せないものを響かせて伝えたりも出来るのでしょう?
我々は表された形だけの言語しか活用していなかったら、それは思考のみで生きている人間と同じで、この世界は、生命の無い機械のような社会になってしまうことでしょう?
そう考えると、我々の言語機能というものは、思っていたよりも、元々テレパシックな要素を持っているのかもしれません。
言葉はその制約を受けて、外からの先入観念を呼び込んだりもするものですが、言葉に言い表されない内的なものを呼び覚ますものでもあります。
例えば、神、キリスト、聖霊...これは私が感じているキリスト教で使われている名詞の代表的なものですが、あるキリスト者にとり、又私のようなキリスト者でない者にとっても、これはただの名詞では無くなるのです。キリストは固有名詞?...いや私にはもう、そうであって、そうじゃない!
名詞で無くなるとなると、動詞か?、神する?、キリスト、聖霊する?...こりゃオカシイ!
この一つ一つの言葉は、一言で説明出来ません!
これは、三位一体というか、この一つ一つの言葉が、ある一つのことを呼び込む、呼び覚ますことにもなるのです!
それは、現臨(神の現臨、キリストの、聖霊のそれ)にある意識状態のことです。一つ一つの言葉にそういう、そうなるという響きが含まれ、溶け込んでいるという感じです。
これらは、名詞でも、動詞でも、助動詞でも何でもいい!、そういうメンドサイ、言葉の制約などを超えて、そのようなことを言い表す、言うたら動的な代名詞(言葉が生きているんだ!)みたいなものです。
これは、そういう呼び覚まされるという原体験があるから、そうなるということ!
そういうことが特に私には印象に残っているので、キリスト教で呼び慣わされているものを借りて、“現臨“と、こう呼んでいるまでです。
これは、精神的な道にある人なら、各々に自分に合った“動的代名詞“といったものがあるはずです、
言葉はその表れたまんまがそうなのではなく、もっと内実を掘り下げ、形を超えたものを表して行く必要があるでしょう。そうでなければ、機械のように言葉に使われるだけでしょう。
言葉は、あたかも我々人間存在の動的代名詞のようでもあります。

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言葉と体験

2024-06-21 09:53:11 | 哲学・思想
私はここで、“言葉に言い表せない!“、という表現を何度使ってきたでしょうか?
例えば、“神的なものが臨む“、なんてことは、現実にそういうことになってみなきゃ分からないことなのです。
そうなったら言葉なんて要らないのです!...って、そうやって言葉で表したりして!...言葉無くして何で私はここでこんなことしているのか!
近年のノンデュアリティなど悟り系スピでは、直接経験ということを強調するためか、言葉による伝達というものを軽視しているようです。
そのくせ、“あなたという個人は居ないのです、全体しかないのです“などと巧みに誘導、洗脳?したりしています。
やっていることは、“イエスを信じないと救われない!“、という二元的な教えと変わらないではありませんか?
中には、それにひっかかって(?)、悟りの境地か、単なる意識障害か分からないですが、そんな感じになる人も居るかもしれません。
又中には、言葉の誘導無しに、直接的にそうなる人も居るかもしれません。
私は、普通の教会とは違いますが、ある福音集会で、集まる人が聖霊を受けて回心させられているような場面に何度か出会わされました。
そこには、意図的な暗示的、催眠的な言葉の操作こそ見られませんでしたが、聖書の話とか感話など何らかの言葉が表されることが重要な役割をしていたのは事実です。いやそれよりもそれを含めた、その場の集団的に高揚した雰囲気によることの方が大きかったでしょう。
その回心の模様ですが、言葉の誘導などの外的要因によるものなのか、内的、内発、自発的なものによるものかは、当たり前のことながら傍目にはよく分かりません。聖霊体験というものは受けてみないと分からない!“とその集会で言われる通りです。
そうなんです。私は?...そういう集会の佳境?にある時は一度もそういうことになったことはありませんでしたが、人も減り下火になった時にありました。
それは、全く言葉による誘導でないとは言い切れない(何度も集会に参加していて、刷り込まれている部分もある)ですが、内的、自発的なものによるという感じの方が大きかったのです。
ということは、先入的要素としてのキリスト教的な言葉による“洗礼“は受けていない、一度もクリスチャンになったことは無い、ということなのです。
というより、私は外的な言葉による洗礼は決して受けない、内発的なものによらなければ、という感じはずっとあったのです。それが先のように集団的熱狂にはひっかからなかった理由なのでしょう。
いや、それが本当の自分、言うところのキリストにある自己の覚醒であるならば、内奥から、あるいは恩寵もたらされるものしか無いのではないでしょうか?
アタシャ、キリスト教でなければとか、非二元の教えとか、後から外から付帯されるようなものは受けたくないのであります。
私が受けた感じでは、例えば重要な宗教的言葉、神と人間の関係についてですが、言葉は先入要素として誘導される場合もあるけれど(というより今日では全くそういう影響を受けないというのは不可能とも言えるのですが)、それ以前に我々に原態として内在し、あるいはそれを超えて、直接的に働きかけるものもあると言わねばなりません。 
しかし、それのみで意識の表層に顕わになることは難しいし、現実には言葉によって呼び覚まされることも多いのではないでしょうか?
しかし又、言葉は、その言葉以前の、言葉を超えたものから言葉が切り離されたら、観念に浮いたり、思念により固定化され、いずれも生きたものにはならなくなるでしょう。
言葉は生きたものによって生きる!
それを生かすも殺すもあなた、いやあなたの神次第でしょう?



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感じる、受け入れる現実

2024-06-09 09:32:20 | 哲学・思想
私は時に哲学的なコ難しいことを言うかもしれませんが、そういう理屈っぽいことを表すことを主眼にしているのではありません。
どんなに高尚そうな(?)哲学理論めいたもの(そんなメンドクサイもん無いですが)が説かれようと、そこには感じること、感性的なものと切り離されることは無いのです。
感性の前では理屈は道を譲らなければなりません。
”あなたはどうなのか?”、という哲学的な問いがあったとして、哲学的には多くの場合、”私はこう思う”、という線の答えがあるでしょう。
しかし、もっと根本的なことは、”私はこう感じる”、ということであるはずではないでしょうか?、それがより、あなたの在り方を規定しているはずなのです。
こういうのを、”例によって”、やたらと定義したがる向きは、感性論、感性主義とか言うのかもしれません。何とでも呼ぶがいい!
私はただ、観念に浮いた机上の空論のようなものでなく、極めて現実に即したことを言っているまでなのです!...この現実から離れた哲学など、そも”ヒマ人のヒマつぶし”以外の何になるだろうか?
要するに、あなたは現実にそう感じているのかどうか、ということなのです。
例えば、原始仏教においてブッダは、”一個で存在する自己など存在しない、真我という実体など無い”、と”無我論”を説いたとされていますが、実体は求められなくとも、”私というもの”は意識されている、そう感じたならどうなんでしょうか?
いいや、”ブッダの教えは無我論なんだ!”とあくまで固執するとしたら、きっとブッダの”無記”の教えは死んでしまうことでしょう。ブッダの原理主義ほどナンセンスなものは無い!
現実にそう感じたなら、受け入れるも何も受け入れるしかありません。
所謂ノンデュアリテイの教えについては、再三言って来ました。
”あなたは居ない、全体しか無い”...あなたは現実にそう感じられるでしょうか?(もし私は居ない”とあなたが感じたとしたら、そういうあなたは居るでしょう?)
ブッダの教えと同様、信条だの、主義だの自説だの、そう思いたい、信じたいことにおもねることは、現実に感じる、それを受け入れるという、根本的な在り方からズレてしまっていることに他ならないのです。
しかしながら、現実に感じる、受け入れるということには、受け入れ難いことがあるのも事実ですね。
苦しいこと、イヤなこと...でもそこにも、より根本的に感じているものがあるはずなのです。苦しみ、イヤなことに隠れているもの...感じてみて下さい。
安らぎ?、幸福?...これは、苦しいことを否定して、そういうものを思おうとすることじゃないですよ!...だから、それは感じる、受け入れる現実から外れているんですって!
あなたが本当に、リアルに感じ、受け入れるなら感じられるはずなのです!...って、”こうすれば”という説明がオチになってしまったではないか!
そうなのです!...感じる、受け入れる現実とはそういうことなのです!...
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