人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神と人間と人格

2025-01-23 06:51:39 | 哲学・思想
神には人格があるのか?
人格神という、あるいは非人格的な何かがあるのか?...

こういうことについては、どうも皮相的な見解から語られることが多いように感じてなりません。
何故って、神のことは、知的概念で合理的に理解することが出来ないものであるのに、神が人格を有しているかどうかなど分かるはずがないからです。
いや、人格というものからしてからがそうなのではありませんか?(ここで言う人格とは、誰それの性格であるとか後天的に形成されるような性質についてのものでないことは言うまでもありません)
そういうものを実体論、存在論のように説明されても、知性がくすぐられて分かったつもりにさせられるだけで、目の当たりに触れる、関わるということがありません。
ただ人格について言えば、それは全くもって我々一人一人の個己に関わるものであるのは確かなことでしょう。(これは、一コの考える私のことだけのことを言っているのではありません)
それは、概念で理解出来るものでは無いが、それらしきあることを直接的に感得することはある、ということです。言葉で言い表せないそのあることを、メタファーとしてそのように表現されるものなのではないか?
ベルジャーエフが随所で語っているように、人格は実存と関わるものなのでしょう。
主として、西欧キリスト教で語られる人格神というものは、自己実存と切り離すことは出来ないものなのです。もっともそこにあの超越的な生命の消息が抜け落ちてしまえば、抽象的にそう信じるというだけの観念信仰になってしまうものですが...
私が神の手に捉えられると言っている、私の思い、力を超えて全心全霊が揺すぶられるような経験...それが“人格的な神と出会う“と言い表しているものなのではないか?
それは、所謂精神的覚醒、宗教的回心と呼ばれるもので、そういう超越的なあるハタラキ無しには起こり得るものではありません。
非二元論を説く、ヒンドゥー教や仏教などでは、それは多く形無き“法“、非人格的なエネルギーなどとして語られるようです。そこには、実存的な響きというものはあまり感じられません。だから人間の個我性も否定的に説かれたりするのでしょう。
しかし、そこでもアートマン(真我的なもの)のことは説かれているのです。
人格神を説くキリスト教的西洋、非人格的な何ものかを説くインド的東洋...私は、そこに互いのその慣用的表現に迎合してしまう傾向を感じてならないのです。
要するに我々は皆神のことも、自己のことも何も分からないということを物語っているのでしょう。
日本人である私には、どっちでもいいような問題なのかも分からないが...(東洋の宗教では実存ということはあまり言わないが)古今東西の如何なる宗教、精神的な道でも、自己ということを問題にしないものは無いのではないでしょうか?
自己は、考えられている自己だけでは決して解明されるものではありません。
それを超えたもの無しには!...神に人格があるかどうかは、分からないのだから問題になりません。
人格、実存の問題は、自己は、神的なものと切り離すことが出来ないというところに求められるものでしょう。神と真我は切り離すことが出来ない!...
それは、抽象概念でなく、具体的に解明されるべきものであるはずです。
神に人格があるのでも、個々の人間存在に人格があるのでもありません。
それは、我々が我々を超えたものに具体的に出会った時に、それが自己の内奥に差し込んだ時に明らかにされるものでしょう!...
頭では分からなくても、全身が震えるようにも!...





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実体信仰の甘い妄想

2024-11-26 09:24:25 | 哲学・思想
あの反面教師の画伯の言葉に接して、いよいよ倒錯した観念にトラワレた人間の末期症状を見る思いにさせられます。
何でも、覚醒の道を進むことにより、神の世界を超えた、実存の境地に到達して、その又奥には真我の境地があるのだそうです。中身の無い言葉を並べて、弄んでいるだけです。
実存という言葉に馴染みのある人がこれを読めば、笑止に堪えなくなることでしょう。
この御仁、そういうことを説いている”宇宙全○”の教師の教えを鵜呑みにしているのでしょうが、それがどういうシロモノかはすぐ分かるではないか!...他人におツイショウするしかノウの無いこの御仁、一度でも自分自身で実存、真我について考えたことがあるのだろうか?...そうでなければまるっきりそういうことには縁が無いということ...勿論、そこに覚醒の道など永久に開かれる訳が無いのです!
この御仁、半世紀近くも五井先生を信奉していて、祈りのことも、消えてゆく姿、全託のことも何一つ身につかず、理解していなかった、ということなのでしょうか?
もう、”完全覚醒を目指す”などと非現実的な空想、妄想に耽っている場合じゃない、一刻も早くその狂相の世界から抜け出すことですよ!...自分からは不可能なら祈らなければなりません。そう、神に!...守護霊、守護神、五井先生でもいいでしょう。
神を超えた実存?...何という思い上がりであろう!...私がいつもこうして、こっぴどい言葉を浴びせるのは、この御仁、どうしようもない無知である上に、度し難い増上慢に陥っているからですよ!

実存という言葉は、哲学に関心の無い人には馴染みが無いでしょうが、自覚あるなしに関わらず、実存にあって生きてない人など狂人でない限り一人も居ないはずです。
つまり”私はここに在る”、ということを意識出来ない人は居ないということです。
もっとも、”実存とは何ぞや?”と哲学的に意味を問い続けていてもそれが解明される訳ではありません。
ということは、それを対象化している限り、実存的な在り様にはならないということ、換言すれば、実存という実体としては捉えられないということなのです。そういう実体信仰から様々な空想、妄想が生まれるのです。
真我ということも同じ意味合いで理解されるものでしょう。
そういうことは、そのようにいくら考えを重ねても分からないものです。しかし、それは先見に囚われず、自分で主体的に考えるという心的態度から開かれると言ってもいいでしょう。
そうして、自分の思考の及ばない、限界点という壁にブチ辺り、そこに初めてそれを超えたものがある、ということに気付かされるのです。
そういうことが最初から分かっているような人は、より直接的、直観的に参入出来る訳ですが...
いずれにしても、実存、真我に目覚めることは、自分を超えたもの無しには開かれないということは分かるでしょう。そのものを私は仮に神、神的なものと呼んでいるのです。
実存、真我というものがそうであるように、本当は神も自分と切り離して対象化することは出来ないのですが、考えている人間自らは、そういう根源的な状態に帰ることは出来ないから祈りとかある種の瞑想というものがあるのでしょう。(真摯に求めている方なら説明は要りませんね?)

返す返すも、神を超えた何かの境地のことなど夢想している人間は、さっさと勝手に消えてゆく姿になって、宇宙のチリになってしまうがいい!...


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私の感応哲学

2024-11-23 09:47:59 | 哲学・思想
ここ数年、私は自分の本来性というものを意識するだけで、言い知れぬ安らぎを覚えるようになりました。
本来性とは、自然であり無理の無い在り方であり、”それに到達した”、とか”そんな境地になった”とかいう言い方は不適切、ということが分かるでしょう。
”かつての私は、不自然な生き方をしていたが、今はそのように変わるようになった”、という言い方もなんかヘンですねえ...
かつての不自然な私でも、そのブ厚い外装を脱げば本来の私で在り得たのです。
”本来の私に戻る、帰る”という言い方は出来るでしょう。そうなるには、何の努力も必要が無いはずなのです。
私はね、自分で言うのもおかしいですが、本来とても感性が豊かな人間なんですよ。
それがかつての私は、そのまんまに生きるのは、人に弱みを見せることのように思い、それを覆い隠して生きていたのです。今思うとチャンチャラおかしいことなんですが...
それで、人前ではなんか難しいことをいつも考えているような、知的な人間であるように装っていたのです。能面みたいな顔してね。いつも頬の辺りが不自然に引きつっているような感じがしたものです(笑)
論理的に考えることがエライような気がして、そう考えようとするのですが、オツムの構造が元来そのように出来ていないのだから無理なんですよ。
高校の時、授業でこれまで読んで印象に残っている本の読書感想文を書け、ということになったのですが、今じゃ考えられないことですが、それまでろくすっぽ一冊の本も読んだことない上に、気の利いた、難しいことを書かなきゃ、って意識が働いて、ついに白紙で提出したことを覚えています。感想文なんだから、感じたことを書きゃあいいのに!...今ならスラスラと言葉が湧き出るに任せていくらでも書けますよ!
マトモに読んだ本が無かったらマンガについて書きます。「鉄腕アトム」とか感激して読みました。ホントなんだからしょうがない!
”あの時の私はいつも迷っていた、頭の中がモヤモヤしていた、苦しかった!...
ものが本当に分かるとはどういうことなんだろう、それとも分からなくてもいいことがホントなのだろうか?
ああ、読んだり聞いたりするんじゃなくて、マンガの主人公のように直接、ものにブチ当たって生きてみたい!(ほお、結構、哲学してるじゃん!)...”
私は今、こう書いてみて、なんだか魂が震えて来てたまらない感じを覚えます。
思いを超えたものにアクセスしているようです。そこに震源地がある!、惹かれてやまないものがある!
思いを超えるということは、真向かいに自分自身に会うことなんだ!
こういうことは、多く宗教書よりもベルジャーエフとかの哲学書から学んだのです。
というよりも、それに”感応した”と言った方が近いでしょう。
そこに哲学的論理性など求められないのは、皮肉かもしれませんが!...
かつては上手く”着地”が出来なかったですが、なんか知的っぽいところもただの偽装では片付けられない私の本来性を成しているものではあるようです。
知性というものは、本来感性と一つのものなので、それと結び付かなければ着地出来ないものでしょう。
哲学的論理は元より破綻しているのですが、知的直観によって私の実存はところを得たと言ってもいいでしょう。
私の実存?...それは私には何かは分からない。私を超えたものに感応して分かるもの...いや分からなくてもいい!、感じていたらいい!...
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宗教哲学と体験

2024-10-12 10:11:57 | 哲学・思想
私は元々宗教的な人間であることを自覚しています。
物心付いた時から神を信じていました。
”え、ということは二世信者なのか?”...そおじゃないって~の!
もう、イヤになりますよ!、宗教に関心がある、関わっていると言ったらこういう風に宗教団体の信者のように見られてしまうのです。
宗教団体と関わったことがあるのも事実ですよ。ですが、そういうことよりも何よりも、私の人生は、”宗教そのもの”を抜きにしては語れないと言っていいのです。このことは、いつも”私は、私を超えたもの無しにはあり得ない”、と言っていることからも知られるでしょう?
人生におけるある啓発を受けた体験、精神的覚醒、これらは宗教的な関わりがあろうと無かろうと、宗教学的方面では、宗教的体験、回心と呼び慣われています。
このことを真摯に向き合う学者は、宗教学者全般ではありません。多くは、宗教哲学者と呼ばれる人たちです。
然るに、宗教団体のその集団性と結び付く、巷で理解される宗教なるものと、個己の実存的霊性を究明し、明らかにする宗教哲学とは、その意識の向かう先、在り方などにおいて、何と隔たりがあることでしょうか?
いつも私が愛読している宗教哲学の本というと、鈴木大拙、玉城康四郎、八木誠一、ベルジャーエフ、ブーバーなどの諸先生のものですが、よくよく考えてみれば、私はほとんど、著者自身の直接体験に裏付けされたものをベースに、思弁を重ね、究明してゆくという著述の在り方にしか接したことが無いのです。
つまり、宗教哲学と呼ばれるジャンルの書物は、そういうものしか読んだことが無いと言ってもいいのです。
この学者たちは勿論、哲学的なコ難しい概念、言葉を用いて表現しているのですよ。だけど言わんとすること、それを指し示しているものは、概念、言葉を超えたものなのです。その多くは、抽象的な観念に浮いたことをこねくり回してなどしていません。
中には、直接体験に裏付けられていない、そういう抽象論に終始している宗教哲学もあるかもしれませんが、私にはそういうものは、読むに値しないと思うから、読んだ記憶が無いのでしょう。勿論、宗教全般に関するものなら別ですよ。
そうして、”あ、これは言い得ているな”、とか”これは、一寸突っ込みが足りないな”、とか偉そうに批評家気取りでも無いですが、そう感じるままに親しんでいる訳です。
で、何で、”おっ!、これは直接体験から言ってんだ!”、ことが分かるかというと、何でやろう?...まあ、私もそりゃ、色々な体験もさせてもらっていますが、それが真実なのか、正しいのかどうかは知りません!...
中には、”あ、これは私ん時とおんなじではないか!”、と感じるものに出くわすこともあります。それで、”こういうエライ先生が言ってんだから、これは...”、なんて思ってても、本当かどうか分かりゃしません。いや、だからね、そういう風に権威になびくことが間違いなんだ!
ベルジャーエフはこう言う「私は論証などしない、私の思想は、結論から表される」
私が親しんで来た宗教哲学は、ほとんどがこういう調子なのです。
論証、証明され得ないのだから、真実か正しいのかは分からなくて当然なのです。
ただ、そこには宗教的体験に与ったものだけが知る、暗黙の了解のようなものがあるのでしょう。
それは、多分、多くの宗教の宗祖たちは、有していたであろうものから離れた、教えのドグマ、信仰、修行のマニュアルに堕した世界からは、到底理解することなど出来ないものでしょう。それらは、本来の宗教からは程遠いと言わねばなりません。
その命脈は、ホンモノの宗教哲学者たちによって守られ、究明されて来、そして明らかにされてゆくのでしょう!...

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人間の知られざる本来性

2024-09-19 09:28:51 | 哲学・思想
私が最近つくづく感じることは、人間の自己中心性、自我性のことがよく問題にされますが、それは元からどうしてもそうなってしまうように、組み込まれているのではないか、ということなのです。
キリスト教などでは、”人間は、みな元から罪人である”、とか言って、そういうことをよく強調しているのです。これは、性悪説とも関係することでしょう。
人間は、自分の立場があぶなくなると、本能的に保身することを意識するし、危急時には、我先に助かりたいと思うものです。少しでも自分の利益を考える。自分だけ幸福でありたいと望む...あなたはこういうことで、本当に幸福なことだと感じられますか?
まるで、人間には自我性があるというよりも、自我性こそが人間の本来からの性質のようではありませんか?
そうなのです。人間は、一コの自分だけで成っていると認識している限り、どうしてもこうした性向に赴いてしまう生き物なのです。
そして、その自我性から自身の生は、生命が枯渇し、行き詰まり自滅に至り、又自他の相対感に囚われ、果てしなく相克、対立を繰り広げ、やはり自他共に滅びてしまう運命を辿ることになるのでしょう。
しかし...よくよく考えてみて下さい。何故我々は、こうして生きながらえ、人間世界は存続していられるのか?...先の通りなら、人類はとっくに滅亡していてもおかしくないではありませんか?
この裏にあるものは...人間は知っているのではないか?...否、知らされているのではないか?...かくの如く、自我だけしかない人間は、自滅するよりないということを!、それは決して幸福になる道でないということを!
元から知らされているものがある!...これが、人間の知られざる本来性なのではないか?
自我性に囚われた、表層意識の奥には、自分は自分を超えたもの無しには成り立っていない、それ無しには生きることも、生まれ出て来ることも出来ないことが認識されているのではないか?
ここで、どちらが真の本来性かと言ったら、そりゃあね、根本的な方でしょ!...と、言いたいところなのですが、それは、あなたが感じたとおりのものなんでしょうよ!
アタシャね、自分がヤバくなったら、すぐ保身に走って、”私は何もやってません!”、とすぐに誤魔化すし、自分の幸福を追い求めてばかりいるので、エラそうなこた、とても言えないのですよ。
でも、知らされていますよ!...そして自然と自分(だけ?)が幸福に感じられる方に導くものがあるのを!...それは、全く私ではない!...私を超えたものから来るのです。そっちが舵を握っているようなので、エラそうな、悟ったようなことは言えないのです。
しかししかし、私はどうしてもこう言いたい!
私が本当に望んでいることは...あなたが本当に望んでいることと多分同じでしょう?
これはね、”何が本当なのか?”、と理屈を知ることでは無いのです!
私は、どうしてもこうしても(ドーパミンが出るのかどうか知らないが)、幸福に感じられる方に赴いてしまうまでなのですから!...

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