今空前の猫ブームと言われていますね。
私は物心ついた時には家に猫が居て、あの”ノド鳴らし”を子守唄代わりにしていたほどで、ずっとその後も猫には馴染みが有りました。
小学6年の頃、ある日学校から帰ったら、いつも猫が寝ている部屋にノラ犬が居たのに魂消た事が有りました。
多分、猫を慕って?入り込んだのでしょう。この犬は猫に対してあまり好戦的でなく、親愛を以て近づこうとするのですが、いつも心が通じず猫パンチを食らってばかりいました。
そして、このポチもいつの間にか家族の一人になってしまったのですが、兄との兄弟ゲンカの仲裁に入ったりなど、とにかく平和主義者だったのが思い出されます。
ところで、日本の歴史上もっとも名君だったのは果たして誰か?と問われれば…私なら、躊躇なく徳川五代将軍綱吉を挙げます。
ただ、昔親父から聞かされて、それを鵜呑みにして持ったイメージは””世紀のバカ殿”なのでしたが…
だが、知れば知るほど、そのイメージは覆される思いがします。
最近、ようやく再開発されたJR中野駅北口の区役所やサンプラザなどが立ち並ぶ広大な一角、ここは旧町名を囲(かこい)町と呼ばれていたのですが、江戸の昔は、巨大な囲で覆われた中野犬屋敷だったのです。
野犬の保護を目的として造られ、何と8万頭ものお犬様がここをバッコしていたのだとか…
(どういう因果かは知らないが、戦後は警察関係~つまり国家の”inu”たちの管理地となりました)
綱吉は、多分犬を偏愛していたのでしょうが、私はかの悪法と言われた「生類憐みの令」というのは、とにかく犬だけに適応させたものだと思い込んでいたのです。
だったら綱吉はただの犬バカでしょう。ところがこれが、獣類はもとより、鳥類、魚類、虫などにまで及んでいたというじゃありませんか!
彼は隠れジャイナ教徒(インド教の一派。徹底的な不殺生を説いた)だったのでしょうか?
(想像するに、この法令の裏で、ネズミの穀潰しの害たるや、忙しくて計り知れないものが有った、と思われるのですが、こういう時こそ”猫の手を借りる”事も有ったとか無かったとか…)
それだけじゃない。おそらくこの発令の重要な背景と思われるのですが、それは、”姥捨て”、”子捨て”、”切り捨て御免”などの無益な殺生、刃傷沙汰、死体遺棄…それまで横行していた戦国時代の名残ともいうべきこれらの悪習への戒めに向けられていたのです。
つまり、それは生きとし、生けるものの命への畏敬、その保護が基調となっていたのです。
日本はおろか世界の歴史においても、こんなことを発令した治世者などかつて居たでしょうか?
綱吉の評価されるべき事柄はまだあります。
それは、学問や芸術の奨励、精神文化の昂揚といったものです。
とりわけ、江戸時代は、武家を中心に儒教が盛んに広まりましたが、それは綱吉の推奨が大きかったようです。
勿論、それは従来の神道、仏教に加えて、という事でそれらは共存していたのです。
これらが”生類…”の大きな精神的基調となったであろうことは想像に難くありません。
それは又、当時我が物顔でのさばっていた武家社会への規制という意味合いもあったようです。
つまり綱吉は武力よりも豊かな精神の向上を目差していたのです。
彼の治世時は、元禄時代と重なり、その時代は江戸の泰平文化の代名詞のように言われています。
「生類憐みの令」こそは、その象徴だったのではないでしょうか?
現在、動物愛護の風潮が高まってきている反面、虐待という報道も目にします。
動物を死傷させたりした場合、被害を受けた動物は器物扱い。自動車事故で死傷させた場合も物損扱いです。
綱吉の精神から学ぶべき点が多々あるのではないでしょうか?
生類との共存。人類の未来はこの事にかかっていると言っても言い過ぎでは無い、と私は思っています。
私は物心ついた時には家に猫が居て、あの”ノド鳴らし”を子守唄代わりにしていたほどで、ずっとその後も猫には馴染みが有りました。
小学6年の頃、ある日学校から帰ったら、いつも猫が寝ている部屋にノラ犬が居たのに魂消た事が有りました。
多分、猫を慕って?入り込んだのでしょう。この犬は猫に対してあまり好戦的でなく、親愛を以て近づこうとするのですが、いつも心が通じず猫パンチを食らってばかりいました。
そして、このポチもいつの間にか家族の一人になってしまったのですが、兄との兄弟ゲンカの仲裁に入ったりなど、とにかく平和主義者だったのが思い出されます。
ところで、日本の歴史上もっとも名君だったのは果たして誰か?と問われれば…私なら、躊躇なく徳川五代将軍綱吉を挙げます。
ただ、昔親父から聞かされて、それを鵜呑みにして持ったイメージは””世紀のバカ殿”なのでしたが…
だが、知れば知るほど、そのイメージは覆される思いがします。
最近、ようやく再開発されたJR中野駅北口の区役所やサンプラザなどが立ち並ぶ広大な一角、ここは旧町名を囲(かこい)町と呼ばれていたのですが、江戸の昔は、巨大な囲で覆われた中野犬屋敷だったのです。
野犬の保護を目的として造られ、何と8万頭ものお犬様がここをバッコしていたのだとか…
(どういう因果かは知らないが、戦後は警察関係~つまり国家の”inu”たちの管理地となりました)
綱吉は、多分犬を偏愛していたのでしょうが、私はかの悪法と言われた「生類憐みの令」というのは、とにかく犬だけに適応させたものだと思い込んでいたのです。
だったら綱吉はただの犬バカでしょう。ところがこれが、獣類はもとより、鳥類、魚類、虫などにまで及んでいたというじゃありませんか!
彼は隠れジャイナ教徒(インド教の一派。徹底的な不殺生を説いた)だったのでしょうか?
(想像するに、この法令の裏で、ネズミの穀潰しの害たるや、忙しくて計り知れないものが有った、と思われるのですが、こういう時こそ”猫の手を借りる”事も有ったとか無かったとか…)
それだけじゃない。おそらくこの発令の重要な背景と思われるのですが、それは、”姥捨て”、”子捨て”、”切り捨て御免”などの無益な殺生、刃傷沙汰、死体遺棄…それまで横行していた戦国時代の名残ともいうべきこれらの悪習への戒めに向けられていたのです。
つまり、それは生きとし、生けるものの命への畏敬、その保護が基調となっていたのです。
日本はおろか世界の歴史においても、こんなことを発令した治世者などかつて居たでしょうか?
綱吉の評価されるべき事柄はまだあります。
それは、学問や芸術の奨励、精神文化の昂揚といったものです。
とりわけ、江戸時代は、武家を中心に儒教が盛んに広まりましたが、それは綱吉の推奨が大きかったようです。
勿論、それは従来の神道、仏教に加えて、という事でそれらは共存していたのです。
これらが”生類…”の大きな精神的基調となったであろうことは想像に難くありません。
それは又、当時我が物顔でのさばっていた武家社会への規制という意味合いもあったようです。
つまり綱吉は武力よりも豊かな精神の向上を目差していたのです。
彼の治世時は、元禄時代と重なり、その時代は江戸の泰平文化の代名詞のように言われています。
「生類憐みの令」こそは、その象徴だったのではないでしょうか?
現在、動物愛護の風潮が高まってきている反面、虐待という報道も目にします。
動物を死傷させたりした場合、被害を受けた動物は器物扱い。自動車事故で死傷させた場合も物損扱いです。
綱吉の精神から学ぶべき点が多々あるのではないでしょうか?
生類との共存。人類の未来はこの事にかかっていると言っても言い過ぎでは無い、と私は思っています。