人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人生で身に覚えていること

2024-08-30 10:04:20 | 秘教、その他団体
いつも言っているように、私には宗教やスピ界隈ではよく聞かれる、”これに拠らなければ!”、という、そこでしか通用しないような教えや方法は身についていないのです。
そういうものには意識が向かないと言ってもいいのです。
そこで、今でもハッキリ覚えていることがあります。
それは、昭和55年春、何か意識が高揚して、抑え難い気持ちに駆られて、高砂の大調和協会に赴いた時のことです。
ある時、Kさんという、会の中心的存在、命位様の実子で、その後継者的存在の方と相対していて、Kさんは、”ここが世の宗教と違うところは...”と、如何にもその協会の特出しているところについて触れ、私はそこに、それまで協会で出されていた、いくつかの書き物を読んで受けた印象とあまりにも違うように感じたのでした。 
もっとも、他の人がそのように語られても、いや、どの団体でも普通に触れても、多分軽く聞き流せるであろう、その問題がKさんから出されたからなのか、その上から目線の接し方からなのか、とにかく私の気に障ってしまったのです。
その印象が強かったのか、以来、私は一度もKさんとは、打ち解けて話し合ったということがありません。何か押し付けられるものが感じられてならないというか、どうしても構えてしまい、自由に、リラックスして相対することが出来ないのです。
そういう気分も手伝ったのか、”ここは、世の数多の宗教とおんなじで、《ここが...》に毒されているではないか!...私が求めているところではないな!”と、さっさと引き上げようと決心したのでした。
後に私が意を決して、関西に居住を移してまで、協会に近づこうとした、その経緯は、最初はこんな風だったのです。つまり最初から風向き次第で、私の意に満たないものを感じて、そこから背を向けてしまう要素はあったということです。
ところが...それからすぐ私が帰ってしまうということを聞いて、命位様が会って下さるということになり...相対して、しばらくして、それまで先のことで私を覆っていた、モヤモヤした思いはみるみるうちに、晴れて...”ああ、会えて本当に良かった、思いを超えたハタラキに会ったのだ!、ここに私が求めているものがあったのだ!”、と感じ入ったのでした。
何て単細胞な!、と思われるかもしれませんが、これが思いから離れる、超える、そういうハタラキに会う、ということを端的に表しているのですよ!...一瞬でまるっきり世界が変わる!
そして、それから一年半くらい後、私も就職しなければならないことになり、どうせなら協会に近く通える関西で...ということに話しが具体的に進むようになりました。
命位様は、”そのことは慎重によ~く考えた方がいいですよ!”と言われていましたが、私は大体意は固まっていたのでした。
そして...ある人から”どうだ!、思い切ってこっちに来てみんか?”、と決定的な言葉を切り出されたのでした。それがあのKさんなのでした!
それから、それで良かったのかどうか...十年以上も私と協会との関わりは続いた訳ですが、その歩みは実に曲がりくねり、時に道を見失うようなものだったと言わねばなりません。
そういう引かれたり、引いたりの紆余曲折のことは、ほとんど覚えていません。
今でも身に覚えていることは、これは私には命位様を通して(それだけじゃないですが)のことが中心ということになりますが、思いを超えたハタラキに会う、それと共にある、ということに尽きるのです!
このことに限らず、人生で身に覚えていること、身についているものはこういうものばかりなのです。それに出会う、与ることは、例えどんな曲折があろうと、いいことに決まっているではありませんか!
それは、私が初めて命位様を発見した、あの時から、ということになるでしょう。
私と協会との関係は、あの時のことに集約されていたと言えるでしょう...。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「かごめの唄」私解

2024-08-28 08:53:59 | 現臨、ハタラキ
かごめ、かごめ、
かごの中のトリは、いついつ出やる
夜明けの晩に、ツルとカメがすべった
後ろの正面、だ~れ

諸々の思いに囚われた人間は、かごの中に閉じ込められ、自由を失っている
”いつになったらここから出られるのだろう...”
と、そこから抜け出したい、と望んでも、自ら囚われているのでどうにもならない
こっちはいくら望んでも...
ますますその光を閉ざす闇は深くなるばかり
もっと光を!...明るい方ばかりを追い求めても
そして、闇はすべてを覆った!
なんにも見えない!...いや!...
見えていなかった、見ようとしてなかったのではないか?
光だけの、明るいだけの世界からは見えない、開かれない!
闇があるから光がある、晩が極まれば夜は明ける!
少しでも先へ、前に進まんとする進化の道だけでは、進めない、開かれない!
引き下がる、退く、古へに回帰する道無しには!...
光と闇、新しいものと古いものが一つになる...”統理”...”道理”が開かれる!
こっちが出ようとしなくても、開かれる!
諸々の思いが離れてゆく...
そして、初めて見えた!
こっちが見ていない、後ろから見ていたもの!
後ろのものが現前している!
こちらが望んでいたものが、あちらから臨んだ!
かごの中の”トリコ”はもう居ない!
一体、誰が出て来たのだろうか?!...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相対的なものと絶対的なもの

2024-08-27 09:58:53 | 宗教
宗教やスピリチュアルの道には、数多の異なる教えや方法があります。
言うまでもなく、そういう精神的な道であっても人間がやっていることには変わりない訳で、違うのが当たり前なのです。それが良いも悪いもありません。そうなっているのだから!
これは、我々のそうした相対的現実というものを表しているのです。だから、違って当たり前であることを弁えなければならないでしょう。
しかし、そうした比較論の中には、自分が信奉している宗教、思想をことさら特別視、絶対視し、その他に比して如何にそれが優れたものであるか、について挙げつらっている向きもあるものです。
私にはこれがもう、違和感を覚えてならないのです。そこに感じられるものは、その信じる対象への固執、我執の念といったものでしかありません。
それがその方便的な教えなり方法といった、相対的な人間の有り様についてのものならまだマシなのですが、もっと直接な神、霊なるものに関してのものならば、もうムシズが走るほど反感を覚えずにおれません!
キリスト教の神とイスラム教の神とはどう違うのか?...神を説かない仏教とはどう違うのか?...んなもん、知るかってんですよ!
キリスト教というのは、ただ世間常識で、”聖書を、イエスを救世主と信じ...等々がキリスト教”と認知されているものに信じ従っているだけのもので、実質その信徒たちが直接、実存的に関わる神的存在については、その各々の内的現実に帰されるべきものでしょう?
そこで、ベラベラと厚かましくも、”へ理屈”を並べられる人間というのは、神、神的なハタラキのことなど何も分かっていないのです。
もし、そういうものに出くわしたならば、自分の思いは超えられ、如何なる先入観、固定観念も消え去り、真っ白、真っさらな心的状態にならされるはずなのです。
つまり、自分を超えたものについては、あれこれ挙げつらうことなど出来ないし、それは極めて不遜な精神的態度と言えるでしょう。
このように、我々が直接関わり、交わる神というものは、何教、何神と名付けることの出来ないものであり、それは絶対的なものと言うことが出来るでしょう。思いを超えているということはが絶対的なことなんです!
そういうものを対象化し、比較したりするのは、ナンセンスの極みと言う他無いでしょう。
然るに、相対的なものを絶対視する人間には、相対的なことと絶対的なことの区別がつかず、混同しているのです。
大体、かかる歪んだ精神は、強固な思念に支配されていて、それから自由になること(それは思いを超えたハタラキに依るしかないだろう...)が困難なようです。
そこに、相克的現実というものを見せられるばかりです。そこに神という言葉は如何に語られていても、神の臨在、その現実というものは何一つ感じられません。
逆説的ですが、我々一人一人が絶対的なものを内に頂くことが出来れば、真っさらな心で、我々の相対的現実を受け入れることが出来るでしょう。
人類の相克対立の歴史の要因は、相対的なものと絶対的なものとの混同ということに尽きるでしょう。
そして、真に普遍調和世界をもたらすものは、我々が信じる神でなく、我々の思いを超えて神が顕わになることなのではないでしょうか!...


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

顕われ、開かれ、なったもの

2024-08-25 09:45:53 | 
大調和協会で聖典とされる、通称「三千冊(その由来はこの数を冊したということから)~大調和世界開顕之聖業発祥」には、例えば...「今 人類の上に、その人類が、有史以来 未だ 嘗て、無きところの、否、古今未曾有の、”一大祥事”は、事...肇めいたしたのでございます」...
というように、どエライ、大変なことが始まったらしいことを告げる言葉が何度も出て来るのですが、その核となるであろう、大調和世界観なるもの、大聖業(おおみわざ)という大作用(おハタラキ)についての表現はあるものの、それは果たして如何なるものなのか、どういう経緯で出顕したのか、ということは、どこを紐解いても出て来ないのです。
これでは、まるで「ほら、あれがスカイツリーだ!、どエライものだ!、あそこへ行くんだ!」と言っているようなもので、どこをどう行ったらそこへ出られるのかは分からないのです。
しかしですね...考えてみれば、これは私がここでずっと言ってきたこととあまり変わらないようでもあります。
と、とにかくですね、顕われた、臨んだ、開かれたんであります!...突如、視界にスカイツリーが顕われたようなものか?
何が?...って、神的なものが!...それは何かって...だからそれは私の思いを超えたもなんだからワカラン!
それは、そんなに大変な、喜ばしきものなのか?...って、あったりめえではないか!
歓喜、カンキ、幸福、愛、平安、リアリティ...そういうものしか無い!
それは、断じて私が長年の信仰、修行などを通して獲得したり、到達したものなんかでは無い!...それだったら私が思い、為した結果ということになるではないか?、それは元々そうなっているものなんだ!
それは、だから全くそれらを超えたものだから、それが一体何なのか、何でそうなるかは分からなくて当然ではないか!
そして、そうして開かれた、与ったものは、受け入れるしかない!...私はそれに与る資格は無い、と言ったって、出て来ちゃった、顕われた、受けちゃったものは、仕方ないではありませんか!
神がここに顕われた!、臨んだ!...神...神ったこととはそういうことなのでしょう?
それは、あの本に書かれている”おおみわざ”と同じものなのか?...そうでしょう?、知らんけど...だから、それは何なのかは分からないんだってば!
何の宗教では、何の神が、仏が、ハタラキが...それとその大調和協会という名の知れない一団体に顕われた大聖業とどう違うのか?...何てこた、私にはまるで分かりゃしません!、分かったタメシが無い!、分かろうという気もさらさら無い!、現実にそんな気などどっからも起こってきやしません!
何でかと言うたら...私の思いを全く超えたものだからですよ!
その上で、あ~たら、こ~たらいうのは、ただの屁理屈のようにしか聞こえてきません!
そういうものは、現実にそういう方には意識が動かないんだから、うっちゃっとくしかありません。
私は絶対に、こちらの”さかしら”を立てて、そのものに手をかけるようなマネはしたくありません!
”そこを会に忖度して、会の在り方に従いなはれ”、と言われても、何が忖度だ、イヤだ、妥協なんかしない、ゴメン、サヨウナラ!...”
と、内輪の話はさて置き...
昔も今も変わらない、私自身の現実に示された、顕わになった、開かれた、思いを超えたものとはどういうものか?...と言ってもそれは言い表せないものなのであり、私の関わる、思想、主義、信仰、修行等々を全く超えたものだ、ということを言い表した次第です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神無くしては立ち行かない

2024-08-24 09:28:53 | 
毎度のことながら神が何かということは分かりません。
しかし、神という言葉は持ち出さずとも、特別な信仰を持たずとも自分を超えたあるもののことは、誰でも直感出来ると思うのです。
それ無しに、どうしてこの人間世界が立ち行くことが出来るでしょうか?
人間は一人では生きてはいけない、否その成り立ちからして、その個体だけで成っているものではない、ということも私の縁で言えば、大調和協会のその聖業(みわざ)などを通じて知らされ、そのことを私自身も直接的に知らされているのです。
だから、その自他一体なることに目覚め、人間存在に本来的に根付いている、その共同体的なものを指向し、その成就に務めなければならないのです。...って、そうではあるのだけど、私が本当にここで言いたいことは、その共同体的な在り方をどうこうしようと言うことではありません。
その思いを超えた、神的なもの無くしてどうこう出来るはずがないではありませんか?
その自他一体の調和世界の在り様は、神あってこそのもの、人間相互のつながりというものは、神とのつながりを欠いては成り立ちようが無いのです。
それを欠くならば、ベルジャーエフが説き明かしたように、コミュニオンという霊的な共同意識は、共産主義体制に見る、極端な集合主義へと変質してゆかざるを得なくなります。
神、聖霊、キリストを通してつながる霊的共同意識も外的な教会制度の内に蒸発してしまうに至るのです。
これは、ほんの一例なのでして、人間が人間だけで営む、すべてのことに当てはまることと言ってもいいでしょう。
思想、主義、そして神信仰というものからしてが!...私の思想、主義、信念、信仰.、方法..”この私の信じる教え、方法は他とはこれこれの点が違うのだ!”、とその特質性を主張してやまない...そこには、自らの他に比べての優位性を持ちたいという心根が伺える...いくら調和世界のことを外に説いていても、人間だけの人間は、どうしても相対観から自由にはなれないのではありませんか?
私、我々の、信じ、行っていることに取り込んだことは、すべてが私、我々の思いを超えたものから切り離され、その本来性から逸脱し、それを失うに至ると言ってもいいのではありませんか?!
ある時、”そんなこと言ったら君イ、世の中立ち行かなくなるではないか?”、と、先のようなことを話している中で、向けられたことがありました。
その時は、その言葉に押し切られ、妥協したような形になったのでしたが、いや、根本的に立ち行かなくなるのは、人間存在の根底からそうなってしまうのは、実に上記のことが問題となるのではないか!
神的なものと切り離されれば、すべてのことが行き詰まり、霊的な生命が枯渇するに至るのではないか!
だから、いつも神に意識を向ける必要がある、祈ることがそれにつながると言うのです。
もう、私はずっとここでそういうことを言い続けているのですよ!...これが私の信仰、祈りなのです!...って、そおではない!...私のとか我々のとか、私、我々が思っている、やっているということは余計なことなのです!
(私はね...)それが何かは分からないけれど、この私の現実に顕われた、出て来たものにどこまでも、心を、意識を開いて、その導きのままに、なされていくだけなのです。
取りて、為すのではない!、成って来るものにどこまでも開いてゆくのみ!...
もう、妥協などはすまい!、絶対信があるのだから!、それが私の信!...(でもないか?)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする