人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

平成の終わりにあって...

2019-04-30 11:51:18 | 独語
新元号が決まってからの一ヶ月間、何とも中途半端な気分のうちに日々が流れていった...
今は平成時代なのか、令和時代なのか?
仕事で、必要書類に今日の日付を書かされる...
えーっと平成31年でよかったんだっけ?...あ、しまったi 昭和って書いちゃったi 生年月日と間違えた...(笑)

改めて思う。平成時代は30年も続いたのだi
瞬く間に過ぎていったように感じるのだが...。
平成の幕開けとなった元年一月八日のことは、忘れることが出来ない。
私の全身の毛穴が開いたように、すべてが開かれてゆくようだった。
時はバブル時代のまっただ中...思ったことがすぐ実現するように感じていた。
世界は激動に突入していた...春は、中国の天安門事件。暮れにはドイツ、ベルリンの壁の崩壊、東欧共産主義国家の相次ぐ崩壊...
この世界から壁が取り払われようとしているのだi...人種、民族、宗教、階級...我々を分断していたこれらの障壁は急速にこぼたれ、世界は一つに和合へと向かうように...見えた。
この動きをこの平和な日本に居ながら筈見しつつ、その行く末を思い描いていた...スナック菓子などほおばりながら、スペクタルドラマでも観ているように...
しかし...平成3年初頭、突然中東に放たれたミサイルの雨によって、私の心的世界に一気に暗雲が立ち込めるようになった...湾岸戦争の勃発。
私の周囲の状況も、急速に思い描いたとおりには行かなくなってきた...
そして、崩壊したのはバブルだった...思い描いた世界に理想天国などあるわけがなかったi
これは当たり前、当たり前過ぎることだったのだi...これが現実というもの...
平成の時代は私のある部分では、二年で終わったようだった...
生活の厳しさというものも、それなりに日に日に実感されるようになった。
「今まで、味噌ラーメンにしてたところを、今度からただのラーメンにしようと思っているんです」
自分の口からこんな言葉が発せられるなど、僅か数年前までは、考えられないことだった..."ああ、ひもじくなっても、中年太りだけは進行して行くんだなあ..."
そして平成7年初頭、兵庫県尼崎でニュース、お話などでしか知らなかった巨大地震に遭遇した。そのようなもの"ケ"すらも思ったことの無い、その関西の地で。
頭のどんな空想でもチリ一つ動かないけれど、想定外の現実では、家の中も、頭の中もすべてひっくり返るのだi...
そして又十数年後、今度は東日本にも...
私自身が何かをした訳じゃないが、この平成の時代、何かが膨らんだり、破裂したり...とっくに終わってしまったようにも、あんなことも、こんなこともあったのに30年も続いたのか、と感じたり...何だったのかな?
この一ヶ月間のように、何だか分からないうちに過ぎていったようだ...
思いは過ぎてゆく...次の時代は少なくとも...過ぎてなお、そこに現存するものが顕になってくる...
なーんてことを思っただけのことになんかもうしまいi


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宗教から直覚の道へ

2019-04-28 11:47:35 | 宗教
このブログを書くようになってからの私は、あまり表に立たずに、影でこそこそと呟いたり、画策してるかと思うと、"出そうかな...いや、どうしようかな...あ、出ちゃった、もう、いいや..."と、隠れたものが表に現れる時節に任せているところもありで、この二つの有り様の前に、いつも心は揺れ動いているようなのです。
最近、五井先生を長く信奉している二人の方のブログで、ほとんど同時期に全く今日の宗教、スピを取り巻いている精神の在り方を正反対に映し出しているように感じる記事を読ませて頂きました。
一人は私が個人的に知ってる人で、五井先生の言葉を借りて"宗教の本来の在り方は、自己の本心を開くことにある"と言い、自らを信じることから離れて、他の言いなりになったり、他の精神を操ったり(マインド.コントロール)する道は本筋ではないと、もっともらしいことを言っているのです。
ところが...この御仁ときたら同じ口から他のオカルト、陰謀論に勝手にハマり、何ら自らの悟性に照らされることのない、"そう、聞いています... "式の受け売りの教説をただ、横から横へ流しているだけなのです。
それによると五井先生の教え以外はフリーメーソンに牛耳られており、それから抜け出す道は"世界平和の祈り"を祈り続けることなのだと言う...オウム真理教が自分たちを棚に挙げて、盛んに"我々は宗教ではありません。フリーメーソンの謀略に騙されてはなりませんi"と叫んでいたのを思い出すではありませんかi こんなカルト教をバカの一つ覚えの様に繰り返していることなど、書いてる私が恥ずかしくなってきます。
安易に他の教えに迎合し、精神を支配されるがままになっているのは、言うまでもなくこの当人なのです。何で小学生でも分かりそうなこんな道理が分からないのでしょうか?
この人からは、"自分自身に向き合う"という心の姿勢が全く感じられません。そこに感じられるのは、多くの組織宗教に取り巻いている集合的思念といったものです。
それにおもねり、それに向かって"皆さん、信じましょうi"とか何かを訴えているのです。それはどこまでも実態の無いヴァーチャルな世界に過ぎず、"本心を開く"ことには結び付きません。ありのままの自分を受け入れられないところに真我の目覚めはあり得ないのです。
他の五井先生の信奉者のために言いますが、すべての信奉者がこんなカルト脳に陥る訳じゃ勿論無いでしょう。
と言って、こうなる要素は全く無い訳でも無さそうです。これはどこまでも一人一人の意識の在り方次第と言うことが出来るでしょう。
もう一人の方は、少し前、白光会を退会した方で、心が重たく、ガンジガラメになった状態から離れようと、祈りなどの行をしてみたところ、鮮やかに克服することが出来たと報告されているのですが、数十年会に入っていた時は一度もそんなことは無かったとのことです。
この方はどうも、その会を取り巻く宗教的、集合的思念を自身が受け付けなくなっていたようで、そこから自由になり、より自分自身に向き合えるように意識が働いたことが、その要因のように感じておられるようです。
この二様の在り方を見るにつけ、現代は信じるだけでいい式の宗教の時代は完全に終焉し、神は何処に居るのか分からない、信じる集団の皆さんじゃなく、一人一人に直覚されるようにハタラキたまうことを改めて示されているようです。
こういう二道が分かれてしまうのは、厳しくも致し方ありません。今後益々その立て分けは激しくなるでしょう。
これは全く他人事でない、自分自身の問題であり、自己の内面を映す鏡のように感じている次第です。
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生ける現存

2019-04-25 12:02:44 | 現臨、ハタラキ
過去を振り返るな...
未来を案ずるな...
過去も未来もない、今しかないのです。現在に生きよi

って...その現在が退屈で退屈で、ヒマを持て余すばかりだったらどうするのでしょう。
何か、恐ろしい、忌まわしい現実に直面してて、そこから離れなきゃどうにかなりそうだったらどうするのでしょう。
過去、未来のことに意識が向けられていて、何だか気持ちがワクワク、生き生きとしてくるかもしれません。
いくら現在に思いを向けようとしても、その思いが生き生きとしていなければ、思いが死んだようになっていてはどうしようもないのではありませんか?
だから、思いを生き生きとしたものにしなければならないのですi
って...そうしなければならない思いに囚われたりして...(笑)

ここ最近、もう朝目覚めたら耳鳴りがきーん、きーんって状態で、ちょっと意識すると神鳴り?がじーん、じーんという感じになる状態が続いています。
過去、未来のことを思おうと、現在に集中するとか、何とかなど関係ありません。
ただ、その過ぎ去ったことも、来ない先のことも生き生きと、リアルなものに感じられます。
これは自分を、思いをどうとかするとかいうことじゃないのです。
自分の思いを現在に向けようとしたり、自分の思いで、自分の思いを生き生きとさせることじゃありません。
現実、現存在らしめるものが臨んでくる...意識が現臨にある、ということなのです。
過去、未来を生きたものにさせるのは、このものによる...このものが生ける現存なのです。
過去も未来もない、現在しかないという...しかし、過去、未来から切り離された現在など、そもそも"現在してない"のではないでしょうか?
生ける現存は、現臨と共にある。
この意味では過去も未来もなく、現在しかないと言えるかもしれません。
しかし、それは不自然に過去、未来から分断されたものであろうはずはないのです。
過去、現在、未来を貫いて生き通しているものです。
意識がこの現臨にない時、逆説的な言い方ですが、思念が生き生きとし始めます。しかし、そこに生きた現存はありません。
そして、過去や未来に囚われ、囚われてないフリして現在に囚われ始めます。
思念が現臨に取って代わり始めます。
現臨にあることとは、ひっきょう思念の囚われから離れるということに他なりません。
だから、そーゆー囚われから離れないといけませんi...じゃあなくて...
不自然なことや出来もしない、ややこしいことは置いといて ...一寸意識を外に向けてみたら...
小鳥がぴよ、ぴよ鳴いている...耳鳴り、神鳴りに呼応するように...

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伝説のボクサー

2019-04-24 12:12:19 | 雑記
先日、ラズロ.パップ(laszlo papp)という、伝説のボクサー(示談屋さんも知らないだろう?)の動画を観ることが出来ました。
このボクサー、アマの経歴がスゴ過ぎるi 何とロンドン、ヘルシンキ、メルボルンと五輪3大会で金メダルを獲っているのですi
こんな恐ろしいキャリアの持ち主など聞いたことありません。まあ、普通は一回獲ったらプロに行くでしょうけど...
57年にプロ入りしてからも無敗の27連勝、64年にやっと世界タイトル挑戦という話が持ち上がったが、突然引退してしまったのです。
理由は彼の母国が社会主義国ハンガリーだったからで、当局が世界戦までは認めなかったのです。現代のように東欧系のボクサーが自由に活躍出来る時代だったら...
映像に観るラズロ.パップは、一口に言えば、60年代のゴロフキンという感じです。
堅実という表現がピッタリで、さほどスピードも無く、フットワークも軽くなく、大振りのパンチもある...どっちかというとドンクサく見えるが、何故かパンチを食わない、逆にパンチが当たる...一発一発は相当強い、重そう...しかし、深追いはしない...見た目には分からない不思議な強さを持ったボクサーなのでした。
たら、ればの話になりますが、年齢的にあまり長くは無理でも、彼は間違いなく60年代のミドル級王座に君臨していたでしょう。
かつてはこのパップのような不運なボクサーがゴロゴロ居ました。
例えば、"黒い恐怖"マヌエル.アルメンテロス(キューバ)。58年に来日して、バンタム級世界ランカー石橋広次(テレビ東京系のボクシング解説が懐かしい)を何度もマットに沈めて戦慄KO勝ちし、その強さは古いボクシング識者の間で語り草になっているようですが、世界王座はおろか一度も王座に挑戦したことが無いのです。一度は動画を観てみたい伝説のボクサーです。
60年代フェザー級の名王者ビセンテ.サルディバル(メキシコ)の動画を幾つか観ていますが、彼の軍門に降った強豪たちの中で、世界王座経験者シュガー.ラモス(キューバ~メキシコ。その試合で失冠)、イスマエル.ラグナ(パナマ。ライト級で二度戴冠)らよりも増して私の目に強豪に映ったのは、ベビー.ルイス(キューバ~米国)という、サルディバルに初黒星を付けたボクサーでした。
その試合、サルディバルが勢い余ってキックをしてしまい"足をつけた"(失格負け)のですが、絶妙なカウンターでダウンを奪うなど、僅差ながら優位に進めていたようでした。
攻防のバランスがとてもいいボクサーに見えましたが、やはり一度も世界王座に挑戦することなく、ランキングから消えて行きました。
上記したこととは違う趣ですが、やはり最近とてもショッキングな動画を観ました。
これまで私にとっては、オールタイムの伝説のディフェンス.マスターである、ニコリノ.ローチェ(アルゼンチン。68年、藤猛からスーパーライト王座を奪取)が何とダウンを奪われたのですi
このボクサーの動画も幾つか観ていますが、ほとんどマトモにパンチを貰うシーンなど観たことがありません。
その相手のパンチをことごとくかわしまくる様は、"あれはコンピューター仕掛けじゃなかろうかi"と思うくらいなのですが、一瞬の隙をつかれカウンターを貰ってしまい、グラつき、追撃を食ってダウンi これは、効いたi...しかし、辛うじてゴングに救われたi
イントカブレ(触れることの出来ない男)の初防衛戦は、実に危機一髪なのでした。しかし...私の長年の伝説は破れたi(ヘンな言い方ですが)
この相手はベネズエラ初の世界王者(スーパーライト)、カルロス.エルナンデス。のっぽ、痩せ形の強打者。あのホセ.ナポレスもKO勝ちはしたが、ダウンを喫したという(この映像は無いのかi)...この男は私にとり新たな伝説になったようです。試合にムラがなければボクシング史に残る存在になっていたかも分かりません。
伝説は実際の映像に触れることで、失ったり、新たに生まれたりしますが、こうして今に居ながら過去の幻の映像を通して観れる姿こそ生きた伝説なのでしょう。

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霊に始まる

2019-04-21 11:38:41 | スピリチュアル
「神の驚くべき愛というものに、抱きしめられて生きはじめたら、何もいらんと思う。月給が安かろうが、生活が乏しかろうが、病気であろうが、不運であろうが、そんなことは全然考えない。人の目には気が狂っていると見えても結構ですね。こういう驚くべき生命というものがあります」(手島郁郎「ヨハネ書簡講義.上巻」/手島郁郎文庫刊)

私は特定の信仰、修行などに依拠してこなかった...
自分の思いから教えを信じ仰ぎ、自分の身、心を自分の力で修めることからは、何も開けてこないように感じていたのです。
"何も開けてこないのだ...人間的思いや力からは..."
私はただ、人が神的なものに触れて驚くべき変容へと導かれる消息を伝えるものに接し、無性に惹かれるものを感じていたのです。
"こういうことが現実にあるんだろうか? この全くどおってことない、ミジメな現実にも..."
ただ、そういう書き物を読んでいただけなのです。
最初は驚きと疑念やらで、頭がぐらぐらしていましたが、段々"こういうものに依らずば何も開かれないのではないか?"と感ずるようになって行ったのです。
そして、段々私の内部も開かれるようになって行きました。諸々の思念を超えたものに...霊なる、スピリチュアルなものに...
しかし、今から考えてみると...そういう書き物自体、数十年前のこと、そんじゃそこらでお目にかかれるものじゃありませんでした。
霊、スピリチュアルと言えば、心霊的なことばかりでした。
霊界や前世や死後の世界などのことを頭で思い描き、その観念を信じ込むことなど、思念を超えた霊の消息とは何の関係もありません。
霊的な感性が芽生え始めたら、そうした心霊的なものから離れて行くのが普通です。
それは思念に覆われた意識に、霊なる光が差し込むということでしょう。
つまりは思われた自分からでなく、思いを超えた霊なるものから始まるということです。
もう、大分前に書いたように感じるのですが、私は新元号が発表された前日、"安息日に世界中にすべての行いから離れて休息をする、という法令が出されたなら..."何てことを書いていたのでした。
勿論、どっからもそんな法令など出される訳ありません。
しかし、主語も何も無い、令がいきなり出てくる...霊に始まる。
それは全く思いがけない、思いも依らないことでしょう。思いを超えている...
考えるというのなら、よーく考えてみたらいいです。この何もかもが思いのガンジガラメ状態になった世界が、どうなったら開かれるというのでしょう。
"こーすればいい"という考えが新たな問題を引き起こすという、堂々巡り...
だが、ものが開かれるというのは、実に思いがけないことなのです。
新しい生命が次々にはじけ、生まれ出てくる時節ともなりました。

今朝、何時に無く、すっと目が覚めました。
すると、何だかもう、耳鳴りがきん、きん ...
耳鳴りってのは、神鳴りかと最近は感じています。じん、じん...
目覚めたら...令、霊。"そうしなくては"、でなく"そうなっている"...自然に...
霊に始まる...

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