私は、これまで様々な方たち、書物等の縁を通じて、学ばされ育まれてきました。
ここでは、私の人生に重きをなしていたと思われるものについて述べています。
しかし、通常思われているもののように、そこから私が得たのは、何かの信仰であったり、思想、生き方、あるいは学びの方法といったものだったのでしょうか?
いや、ひょっとしたら何も得るものが無かったのかも知れません。
意識するしないに関わらず、何かが身に付いたのかどうかは知りませんが、この事だけはハッキリ言えます。
私は、言葉に言い表すことの出来ない、ある種の"感応"とも言うべきものに預かっていたのです。
私はそこからなにがしかの信仰や思想、生き方等を自分の理解に応じて言葉にして、外に伝えることも出来るかも知れません。
だけど、その直接身に、心に感覚され、浸透するものはどうしたって伝えることが出来ません!
しかしですねえ...この事が抜け落ちてしまったら、信仰、思想、生き方があったとしても、一体何になるだろうか、と思わざるを得ないのです。
これがもっとも肝心なことなのに...ですi
これは恋に落ちた心境を伝えることにも似ていますが、言葉を越えた愛、命の交換としか言いようのないものです。
そうです!これが愛、命なのですi
あの直接経験、エンライトメントといのは、これがウンと凝縮され、アリアリと示されるものなのです。
然るに、何と多くの人はこの愛、命から離れて"理"というものに走ってしまうことでしょうか?
"こーです、あーです"と、言葉で理解し、伝えることも大切には違いないでしょうが、愛、命を欠いては所詮はただの能書きに終わるだけですi
それも、この理に走るマインドの本性に引きずられて、高次元とか前世とか迷妄にはまりこんで、ますます"ここ"から遠退いて行ってしまうムキもあります。それはどこまで行っても思いの迷路でしかありません。
"愛にある"ということは、他の何者でもない、自己にそのものー言葉を越えたものーが現存していることに他ならないでしょう。
深遠そうなノンデュアリティの教えでも、"私はいない...起きることが起きるだけ"などということが、頭だけでわかっても、"だから何だ、それがどうした"ということになるだけです。
言葉を越えたものを欠いては、すべては虚しい...どれだけそこに意味、意義を見つけようとしても堂々巡りになるだけでしょう。
ここに私が、総じて今日のスピ界隈は、"頭でっかち"という印象を持ってしまう所以があります。
そもそも、この命から離れて"スピリチュアリティ"などありえようかi
なんてことない人間が、ある時言葉を越えた愛、命に触れてそれに目覚め、それと共に生かされていく...理屈や意味付けを越えて...これ程スピリチュアルなことがあるでしょうか?
私はこれまでにも、これからも筆が、否、指が滑って、要らんような信仰、思想、生き方なんてものを伝えてしまった、してしまうこともあるかもしれません。
でも、それはどこまでも第二義以下のものに落ちてしまったものに過ぎないのです。
第一義のことは、あなたから見て他人である私が、あなたの聖所に、あなたの神の領域に立ち入ることなぞ出来ようはずもなく、あなたとあなたの神にゆだねられているのです。逆説的ですが、本当に伝えたいことは、こういうことなのです。
それでも、"ジワーッ"とか"ジンジン"とか書いていて、言葉を越えたものが伝わる場合もあるかもしれません。
これは"伝えよう"とかおこがましいことを考えなくてもいいってことなのでした...。
ここでは、私の人生に重きをなしていたと思われるものについて述べています。
しかし、通常思われているもののように、そこから私が得たのは、何かの信仰であったり、思想、生き方、あるいは学びの方法といったものだったのでしょうか?
いや、ひょっとしたら何も得るものが無かったのかも知れません。
意識するしないに関わらず、何かが身に付いたのかどうかは知りませんが、この事だけはハッキリ言えます。
私は、言葉に言い表すことの出来ない、ある種の"感応"とも言うべきものに預かっていたのです。
私はそこからなにがしかの信仰や思想、生き方等を自分の理解に応じて言葉にして、外に伝えることも出来るかも知れません。
だけど、その直接身に、心に感覚され、浸透するものはどうしたって伝えることが出来ません!
しかしですねえ...この事が抜け落ちてしまったら、信仰、思想、生き方があったとしても、一体何になるだろうか、と思わざるを得ないのです。
これがもっとも肝心なことなのに...ですi
これは恋に落ちた心境を伝えることにも似ていますが、言葉を越えた愛、命の交換としか言いようのないものです。
そうです!これが愛、命なのですi
あの直接経験、エンライトメントといのは、これがウンと凝縮され、アリアリと示されるものなのです。
然るに、何と多くの人はこの愛、命から離れて"理"というものに走ってしまうことでしょうか?
"こーです、あーです"と、言葉で理解し、伝えることも大切には違いないでしょうが、愛、命を欠いては所詮はただの能書きに終わるだけですi
それも、この理に走るマインドの本性に引きずられて、高次元とか前世とか迷妄にはまりこんで、ますます"ここ"から遠退いて行ってしまうムキもあります。それはどこまで行っても思いの迷路でしかありません。
"愛にある"ということは、他の何者でもない、自己にそのものー言葉を越えたものーが現存していることに他ならないでしょう。
深遠そうなノンデュアリティの教えでも、"私はいない...起きることが起きるだけ"などということが、頭だけでわかっても、"だから何だ、それがどうした"ということになるだけです。
言葉を越えたものを欠いては、すべては虚しい...どれだけそこに意味、意義を見つけようとしても堂々巡りになるだけでしょう。
ここに私が、総じて今日のスピ界隈は、"頭でっかち"という印象を持ってしまう所以があります。
そもそも、この命から離れて"スピリチュアリティ"などありえようかi
なんてことない人間が、ある時言葉を越えた愛、命に触れてそれに目覚め、それと共に生かされていく...理屈や意味付けを越えて...これ程スピリチュアルなことがあるでしょうか?
私はこれまでにも、これからも筆が、否、指が滑って、要らんような信仰、思想、生き方なんてものを伝えてしまった、してしまうこともあるかもしれません。
でも、それはどこまでも第二義以下のものに落ちてしまったものに過ぎないのです。
第一義のことは、あなたから見て他人である私が、あなたの聖所に、あなたの神の領域に立ち入ることなぞ出来ようはずもなく、あなたとあなたの神にゆだねられているのです。逆説的ですが、本当に伝えたいことは、こういうことなのです。
それでも、"ジワーッ"とか"ジンジン"とか書いていて、言葉を越えたものが伝わる場合もあるかもしれません。
これは"伝えよう"とかおこがましいことを考えなくてもいいってことなのでした...。