人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

忘れられた洋楽ヒット

2019-10-30 12:10:35 | 映画・音楽など
私はかれこれ50年程前から洋楽の魅力に取り付かれ、今日に至っておりますが...今はどんな曲が流行っているのかはてんでに知りません。
そういうラジオ番組を聴かなくなったのも大きいのですが、流行そのものにも関心が無くなってしまったのです。
今は全く聞かれませんが、昔は町を歩いているだけでも、その時の洋楽ヒット曲が流れていたもので、自然と耳についてしまったものです。
"おお、これはちょいとイカすじゃないかi(死語i)、なんちゅう曲だろ?"、と知りたくなって、そういうラジオにかじりついたのでした。
実に曲調が分かりやすく、覚えやすいのが多いです。とにかく、一時(1、2ヶ月)その旋律に耳を占領されます。しかし、又新たな別のものに侵攻を許し、古きは忘れられてしまう、その繰り返し...全く70年春にヒットした、ボビー.シャーマンの「イージーカム、イージーゴー」そのままみたいですね。
シャーマンは一年ぐらいはヒットチャートを賑わしましたが、この年の前後、俗に言う"一発屋"が次々表れては消えて行きました。そしてその曲は忘れられて行きました。
最近、約50年ぶりにこれらの曲を立て続けに聴いてみたのです。

Oエジソン.ライトハウス「恋のほのお」
確か「イージーカム...」と同じ頃のヒット(これは、以下同様、日本でのという意味)当時はアーティストがどんな人か個人なのかバンドなのかも知ろうなんて思わなかったし、分からなかったですが、トニー.マコーレイという英国の有名な作曲家が立ち上げた覆面バンドらしいです。典型的なバブルガム・ミュージック(分かりやすく、明るく、ノリが良くて、弾けるような、又すぐ消えちゃうような音楽をこう呼んでいた)。

Oアース&ファイアー「シーズン」
71年春。"おい、このグループ名、肝心なものを忘れてないか? ウインド(風)。この命の息を忘れたら、霊は枯渇して...すぐ忘れられてしまうだろi"
あの黒人グループは、絶対これをパクって名を残したのに違いないi 「ヴィーナス」のショッキング.ブルーに続けと、二匹目のドジョウをねらったのが見え見えの、それをもっと下手くそにしたようなオランダのグループ。

Oビヨルンとベニー「木枯らしの少女」
72年春。梓みちよさんの「二人でお酒を」が大ヒットした74年、その間奏のメロディが何かとそっくりそのままだったことが分かったのですが、それが何の曲だったか?...たった二年で忘れてしまっていたi
スエーデンの男性デュオ。これに女性デュオを加えて、幼虫から蝶々になるように、あの「アバ」に変身したとは全く知りませんでした。

Oヴィグラスとオズボーン「秋はひとりぼっち」
72年秋。ヒット.シングルの曲想では、前期バブルガムと並んでよりスロー.テンポのソフト.コーラスが必須だったと思います。
こちらは英国の男性デュオ。片割れのヴィグラスは前記エジソン...のヴォーカルも勤めていたという...実に世渡りが上手いというか...

他にもまだまだシャボン玉かポップコーンみたいに次々と出てくるのですが、こうして取り上げて見ると欧州勢が多いですね。米国は一寸競争が激しいのか、名前が売れてないと厳しいようです。
久しぶりに聴いてみて、勿論懐かしいです。しかし、そう感じるのはほんの一瞬ですよi 何回も聴いていたら、私なんか最新のヒット曲と勘違いしてきます。
思い出というのも、バブルガムのように現れては、消えていっちゃうものなのでしょうか?

それにしても...普段は洋楽といったら、誰も知らないような中南米の音楽を聴いている私という人間がホントに分からなくなります。何だかコワくなってきた...。
コメント (2)
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あなた以外の誰もいない

2019-10-28 11:51:53 | 独語
N「個性は変わらないもの?」
ダン「もっとも深い個性は変わらない。それはこの世を戯れるためのもの。もし、本質的個性がなければ、この世はあり得ない」
N「それは個人個人の中でそれぞれに一番深い個性があるっていう?」
ダン「うん、みんなそれぞれかけがえのない個性を持っている。セルフイデアだ」
(「素直になる.雨宮第慈講話録4」SCL刊)

真我、ハイアーセルフ、内在のキリスト、神の分霊...呼び名はともかく、誰もが知っている...
知らないなんて訳がないだろう...
でなきゃ、あなたはこの世に存在していない...生まれて来れるはずがない...
胸に手をあててみて...
分かるだろう?...ん、ワカル?
誰もが知っていて、誰にも分からないi
そういうことはワンサカその筋の本に書いてある、物知り顔したお節介屋さんが、もっともらしいそういう教えを垂れている...
そうでなければ、究極の真理とやらが分かったという、顔の無いフリして、人一倍アクの強そうな御仁は、何かに成り済ましたように、"そういう中途の段階のものなど無くて、全体しか無いのです"などと宣う...
こういう人は、自分が何を言っているのかも、そう言っていることで誰が分かるかということも、誰が誰にものを言っているのかも...分からないi
そう言い放つことで、個性のない、必要としない、のっぺらぼうのような顔の人間ばかり増えるということも分からない...
分かった顔して人に何かを教えたがるヤツほど何も分からない...
一体、誰が分かるだろうかi 誰がそれを示してくれるのだろうかi
あなた以外の誰が...
あなたがあなたであり、私が私である、ということの他に究極の真実などあるだろうか?
しかし...
ここにすべての苦しみ、悲しみがある...あなたがあなたである故の...
知っているけれど、分からないという苦しみ、悲しみ...
個性のない、のっぺらぼう渡世には永久に分からない、無縁のものだろう...
彼らには、苦しみ、悲しみは必要でないらしい...涙も流れないらしい...
こんな悲惨なことがあるかi
このことすら分からないのだろうか?
いいや、すべてはあざといフリにすぎないのだろう...
そうだi、分かったフリした、"あなたはいないi"
"私は何も分かりませんi"と、何かにすがり、泣き叫びたい、"あなたはいるi"
誰にぶつけているのだろうか?
誰がその叫びを聞いているのだろうか?
誰が答えてくれるのだろうか?

究極の真実である、あなた以外の誰もいない...


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私が私であるために

2019-10-27 11:44:18 | スピリチュアル?
スピ界隈に、子宮系スピなるものがあるのは、数年前から聞いておりましたが、これが結構若い女性の間に浸透しているらしいことを知って驚いています。
こういうのは、私にはどうしても理解が及ばないものがあります。どうしたって男の私にゃ子宮など無いのですから...
"子宮の意志に従う"ってどういうことなんだろ? 男だったらポコチンの意志に従うってこと?
だったら、もう世の中"やりすぎ"状態になるでしょうね...相手もその気だったら同意の上でってことなので、掴まる心配も無い...こりゃあ、ありかも?...あ、ふん...
なーんてことも思ったりもしますが、こういうことを聞いて"ざわざわ"してこなきゃオカシイでしょ?
"ざわざわ"だか"むらむら"だか下半身だけが、何かに反応してるだけで、自分が全的に赴く訳じゃありません。
全心全霊的なものに赴ける訳が無いのです! "誰かが言っていること"が介入し、支配しているのだから...
これに限らずおかしな宗教、スピには必ずと言っていいほど、そこにある影響力の強い教師とそれに群がる信者、追従者とで成り立っている構図が見られるものです。
そして又そこには、エネルギーの、金銭の搾取があります。
そこで"あなたは好きに生きていい"、"いい子で居る必要はない"、ととても口当たりの良さそうな言葉が取り交わされます。
その言葉だけを取ったら、私も首肯出来る部分もあります。"あなたはあなた、私は私でいい"のですからね。
だけど、それと"責任は負わなくていい"とか"他人に迷惑をかけてもいい"ということとは別ですよi
私以外の誰も私のために生きちゃあくれないのです。それが"あなたはあなたを生きている"ってことでしょ?
私は独身だし、背負うものが特に無いので、こういうことが簡単に言えちゃうのでしょうけど...みんな自主独立して生きているものです。扶養とか経済的なことは別にしても...
しかし、そういう理知的でもっともらしいこと、本当に子宮が言っているのか? (ケッタイなこと言わんでも、ただ欲望の赴くままにってことでいいじゃないかi)
誰かが言っているんでしょうがi...この言葉の魔力がカルト世界において決定的な影響力、支配力を持つのですi
私が言っている"じんじん"、"見えざる導き"とは全く違いますよi...そういう言葉が聞こえてきたりなどしません。もし聞こえて来たのなら、徹底的に疑ってみるべきです。
もし、現臨に捉えられるようなことにでもなったら、疑うことはほとんど物理的に出来なくなります。
これは神的なものの絶対支配に自分が屈服することなのでしょうか? 違いますi 疑ったり、信じたり、従ったりする自分が無くなることです。そこに本当の自由、自己信頼がある...だから"私は私でいい"のです。ということは、そこである行動に駆り立てられることもあるでしょうが、容易く他人を巻き込み、負担をかけるようなことにはなりません。他人の自由の尊さも分かるでしょうから...
見えざる導きとは言葉による使役ではありません。そこに愛、平安が示されることによる無言の導きなのです。

私はこうしたスピ界隈に蔓延している、神なるもの、霊なるもの、愛、平安、自由...こうしたものを似て非なるものに歪め、別なるものに変質させ、蹂躙し、神ならざる自我の思凝神がそこに支配して居る図を見せられるにつけ、いつも居たたまれない思いにさせられます。
私自身はとてもエラそうなこと言える人間ではありませんが、それでも"私が私である"ためには書かずにおれないものがあるのですi
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人はみな神に帰る

2019-10-25 11:10:53 | 
「火打石においてそこに火のあるように、人の心においてはそこに神との交わりを慕わしく思う慕情がある。...神と人と接触するようになるか、あるいは神の霊によって触れられたりすると、ただちに彼の中にあるその願望は、火打石が鉄によって打たれたときのように、急に炎となるのである」(サンダー.シング「人はみな神に帰る」おとづれ社刊)

私がしばしば言っている、"意識を神的なものに向ければ、向いちゃったら"ぱっi"..."と現臨に触れられるようなことで、そうした即応性はどこから来るのかと言うと、すでに私が考えたり、イメージしたりする以前に、先天的に神的なものが我がうちにある、という感覚からだと思います。
特別神を信じようとしなくとも、そういうものは"ここ"にお在すのです。"既にあるもの"だから意識が向けられる訳です。
これから神サマをどっかから持ち出すようなことは実にバカげたことなのです。神は出しモノじゃあるまいし...
と言っても、考えたりすることで頭が一杯の人には、いきなり"ぱっ!"という訳にも行かないだろうから、"信じること"やイメージを借りる必要もあるでしょう。
しかし、それはあくまで仮のものであり、借りるものであるという認識も必要でしょう。
神的なものとは後天的に、人為的に作り出す観念的イメージのようなものでなく"原像"なのです。
古来から東西の神秘主義で言い伝えられているように、人間自体が神の似姿、原像としてあるのでしょう。
いつも言うように、何事においても意識の有り様ということが重要なことですが、求道、修行者には、今の自分の状態からだんだん修行を重ねて、進歩して行って神に近づいてゆく、ということに意識が傾き勝ちな人も見受けられます。
言葉の綾でそういう風に言う場合もあるでしょうが、それが思いのクセになると、"自分が"、"自分で"という線に傾き、だんだん神から遠く、主我性を強めて行ってしまうことにもなりかねなくなります。
原始は最も劣った段階であり、未来に進んで行くほど上の段階に行けるとされるのは、現代物質文明が作った神話にすぎないのです。
これは多くの人間が感づいているように、崩壊しつつあります。その行き着く先にある、崩壊が見えているから...
原始のことは、自分がどこから来たか、というようなことは考えたって分からないのです。
神に近づく、神に帰るということは、ある意味において進歩というより、後退でしょう。
少なくとも宗教においては、この原初的なものに帰るという理念の無いものは存在しないと言ってもいいでしょう。
何よりも主我的なものが前に出過ぎていれば、自己の帰り場、魂の安息地など見出だされないのではありませんか?
しかし、我々はもう何もかもが行き詰まり、二度と復元が困難な地点まで行き着いてしまった感もあります。
私なども、自意識が強く、いつも思考まみれになっていた人間だったのに...何で今もこういうことを書いているだけで、じんじんと来てしまうのでしょうか?
私がいつも実感されているのは、我々に神に帰る力は無くなってしまったとしても、向こうからあの御方がこちらに表れ出よう、という言葉にならない意思のようなものです。
"鶏が先か卵が先か"じゃないですが、これはやはり、私が意識を向けたら、どうとかが先にあるのではなくて、そうさせる御方がおられる、ということを感じにずにおれないものがあります。
これは、ちょいと"が"を引っ込めれば誰しもが感じられられるはずではないでしょうか? 神の原像でない、神の火花を有しない人間など居ないのだから...
人はみな神に帰る...。

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究極の真実

2019-10-23 11:56:29 | 詩的文章
たとえ宇宙法則とやらが分かったとしても
神の実在することが分かったとしても
前世や霊界があり、生命の永遠性が分かったとしても
究極の真理とやらが分かったとしても...
真理?
"真理は汝を自由にする"とかや?
しかし...
心は動いてくれない
明るくなること、肯定的であること、オープンであること...
そうであれば、幸福になれると分かっていても...
心は動いちゃくれないのだi
心は静まってくれない
今が肝心なのに、ここになきゃならないのに
分かっちゃいるのだが...
あちこち飛び回り続ける
心、今ここにあらず...
心は静まっちゃくれないのだi
この究極の真実を前にして、究極の真理が分かったとして何になろう...

ああ...天体の運行がどうであれ、"それでも地球は回る"としても、
心よi お前はどうともならないのか...

どんよりと灰色に覆っていた雲間から黄金色の夕日が差し込む...
重く湿った風も軽く心地よくなってきた...
どうしてもそっちに赴いてしまう...
あの開かれた方を目指して...帰ろうi

心というのは全くどうしようもないi
どうしてそうなるのだろう?
この究極の真実のことは...
分からない...
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