人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

今日も日が沈む...

2021-10-31 09:26:42 | 独語
こうしちゃいられないi
急げi、急いでチャリンコこいで、あそこの公園行かなきゃi
だって、夕日が沈んじゃうよi
ほっ、間に合ったi
ほーっ、と一息...缶コーヒーでも飲もうi
しっかし、何でBossの自販機が無いんだろ?...ま、いっか、心がポッカになれば...
子供が遊んでいる...
ママも遊んでいるのか、買い物に忙しいのか?
老人は休んでいる...
あ、猫は茂みの方に引っ込んじゃった...
夕日が沈むんだ...
いつもの光景...
と、思っているのはいつもの頭i
いつもと同じじゃないi
今の、この時、この場所、この夕暮れ...
明日は同じとは限らない
いや、今はそう感じているけど...
明日になれば、"同じじゃんi"、と感じてるかもしれない...
何でもいいが、今はどういう訳か、急がなきゃいけないような気がしたので、来てみたi
それだけi
明日、世界が終わるかもしれない...
地上天国になってるかもしれない...
何度目かの波が来るか、終息するかもしれない...
ただ、この光景は...
いつものようであるか、いつものようでないのだろう...
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朝のごろんごろん

2021-10-30 09:31:25 | 意識、照明
ここ最近、急に朝寒くなってきて、すぐに寝床から離れられません。
そのせいか、しばらくすると自ずと"あの感じ"になってしまいます。
それは現臨感覚には違いないのですが、もっと"意識的になる"という要素はありません。
ということは、本当に何もしない、自然にそうなることに近いと言ってもいいのです。
ただ、"受ける"、"ゆだねる"、ということがあるだけなのです。
何を?..."お照らし"をi...これは、あの"すべてを見通す光"に照らされているような感じのことに他なりません。
私はただ何もしないで、寝っ転がってるだけです。だけど、それだけで幸福感が抑えられない感じになってしまうのですi...んでバタバタと足を動かしたりしてます(笑)
猫を飼ってる人ならお分かりでしょうが、猫によっては朝、何かテンション高そうに、"にゃにをしてる、さっさと起きにゃさいi"、と言わんばかりに起こしに来るのが居るでしょう。
もう、"ごろごろ"、"すりすり"、"ふみふみ"..."ふがふが"鼻息も荒く、"えくすたしいi"、って感じで...
あれは、猫がそれを感じ取っていて、一緒にその"ごろんごろん"して、"えくすたしい"に誘おうとしてるんじゃないかと思えてなりません。
以前、猫と同居していた時を思い出しても、何で急にああなるのか不思議でしたが、その時は意識はしてなかったけど、確かにそういう感じになったりしたものです。
何で幸福感に包まれるのかは、どう説明していいのか分かりません。ただ現臨、"お照らし(照明)"にあって、幸福でない訳が無いとしか言い様がありません。いいや、すべての幸福の本質とはそういうもの、と言った方がいいのでしょう。
"すべてを見通す光に照らされる"、ということをイメージしてどう感じられますか?
自分の悪い、罪な、恥ずかしいところが写し出され、暴かれ、裁かれ、そこから反らしたい、逃れたいと感じる人も居るかもしれません。
そういう暴く、裁く神が居るのだと...だけど...そういう神の裁きというものが感じられなかったらどうなんでしょう?
どこまでも、"ゆるし"というものがあるばかりなのではないでしょうか?
神というのは、裁くものなのか、愛なのか?...寝ながら問うてみるのもいいでしょう。
神は無言で答えるでしょう。
私はただ照らされているだけである、在らしめられているだけである...
何を求められているでもなしに...
それで幸福でない訳が無いのですi
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スピリチュアル.ボディ

2021-10-28 10:08:30 | スピリチュアル?
今日はですね、"霊体"について書いてみようと思うのです。
エーテル体とかアストラル体とか言って、何がどう違うのかテンデに分かりませんが、総じて霊なるボディについてです...
って、前回も書いたようにアタシャ、そんなもん実感、体感したことなど無いのに、書けるかってんですi
霊界に移行したことも無いのに...私の目はまだ黒いi...有るのか無いのか分からんものを空想してるより、この肉体のこと考えてたらいいのi
しかし...この肉体というもの、本当にその物理的肉体のみによって捉えられるものなのでしょうか?
そう思われているだけなんじゃないでしょうか?...少なくとも私はそう思えないことをいつも実感、体感させられているのです。
例えば、"じんじんして来た、感じて来た"、というのが正にそうなのです。もっと一般的?なものでは、それとセットになっているような"耳鳴り"というのもそう...あれは耳から聞こえて来ないのが不思議なのです。(聞こえて来るのもあるけど、そっちは耳鼻科に行かなきゃヤバイやつかも?)
こういうものは、物理的肉体というものに限定されたところからは来ないように感じざるを得ません。
さりとて、そこから離れたもののようでもない...離れたら遊離する、現実遊離と言ってもいいような感じになります。
現実感覚と私はよく言ってますが、それはただの観念的な事態というものと区別するために言っているのです。
ではその現実感とは、肉体から来るのでしょうか?...いいや、そんなこと無いでしょう。
その他、私は単なる頭の記憶と区別するために"身に覚える"、というようなことを言ったりします。
身体と結びつけたような表現ですが、正確なものではなく、やはり思いの世界との違いを示しているのです。
こういう風な言わく言い難い感覚を、私はさらっと内的感覚とか言ったりするのですが...
こういう感覚というのは、肉体で無ければ一体どっから来るのでしょう?...霊体?
だから、アタシャそういう目に見えんものが、それ自体独立して存在するような体的なものは知らんのやってi(何故か大阪弁)
この話を分からなくさせているものは、肉体があって霊体(とされるもの)があるという、二元的な観方にあるのではないでしょうか?
私に現実感、私自身について言えば実存感をもたらしているものは、見えるものと見えないものが不可離の、霊肉一致体?(見えないものに体という言い方は適切なのだろうか?)のようなものではないでしょうか?
言い換えると、我々が肉体と思っているものは、思ったよりも霊妙なものだということでしょう。
肉体は霊なるハタラキの媒体と観ることも出来るでしょう。依代という。
そしてそのものが抜けると、物質的な土くれになってしまうようにも見えます。
でもそれ以上に例えば人間の表情などには、見えない霊なるものとのつながりを感じずにおれません。
肉体は思った以上にスピリチュアルなものなのですi(というようなのが今日のテーマなのでした)


コメント (4)
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現前するもの

2021-10-27 11:50:29 | 現臨、ハタラキ
"内なる自己、内なる神..."と、このように当たり前のように言ったりするのですが、その内なるものの実体というものは私には分からないのです。
よく魂というものを内なるものに重ねたりしますが、魂の実体というものも分からないのです。
私は、"肉体の奥には霊体というものがあって、死後肉体は無くなっても、霊界というところで存在し続ける..."、というような内なるものを実体あるかのように語る、心霊主義的な観方に長いこと固定観念のように信じ込まされていたことがありました。
勿論、そういう確証も無く、そういうものを体感したこともありません。
よく考えれば、そういうものは外から来る観念なのであって、我が内なるものという感じがしてこないのですi
内なるものという表現は、このようにより自己実存を感じさせるもの、というようなニュアンスで使われるようです。
どういう実体が有るのか、無いのか分からないけど、確かにそういう実感というものはありますね。
しかし、ここ数年前から、私の実存を感じさせるものは、外から来るという感じを覚えているのです。
もっともこの言い方は正確ではなく、外なるものとは前記したこととは全く意味が違い、それは観念を超えたところから来る...外というものは、自己を超えた、超越的なものというようなニュアンスのことで、私が現臨と呼んでいるものに他なりません。
その実は自己実存、自己の内面的なものとも切り離されておらず、むしろその自己実存がより鮮明に写し出される感じがしてくるのです。
それは、"私を在らしめるものは、現前している"、と言ったらピッタリするようです。
私はそのものが臨むことで、自ずと諸々の思いが離れてゆく、という経験を通してそのことを実感するようになったのです。
これは誤解しないで欲しいのですが、私自らが諸々の思いを消せるようになった、とか真我に目覚めるようになった、と言っている訳ではありません。マイナスの想念出しまくり、トチ狂って私が何だか分からなくなってしまうのは相変わらずなのです。
だけどねえ..."思いが消えたはずなのに、又マイナスの想念を出してしまった"、とか"悟ったはずなのに、低級自我みたいなことしちゃった"とか、何かになりたがる私(それが自我の思いの何たるかなのですi)というものは克服など出来ないけど、見える、自覚出来るようなのです。
これは自分の外から見えるということでしょう。それは、"現前するものにあって"開かれるものなのです。
現前するものは、思われた自己から意識をそちらに振り向けさせずにおれない...
これがどんどん深まってゆくばかりのようです。もう外も内も無く...
そのうち、"私はここに在る"と告げるのは、あの御方の方になるかもしれない...
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私はここに在る

2021-10-25 05:11:01 | 詩的文章
"私はここに在る"

そうして臨まれるあなたは誰?
私はあなた以外の誰にも私のすべてを開くことはなかった
誰にも...
あなたにあって...
"私はここに在る"
あなたは本当の私?
ずっと探してきたようだったが...
もう、分からなくてもいいi
分かった私があなたを分からなくする...
本当の私が分かったら悟れるとか...
もう、どっちだっていいi
ここよりもウンと高い世界、悟りの世界...
ここから離れたなら意味などないi
あなたは"ここに在る"
あなたなしに、一体どこに行こうというのか?
例え地獄に堕ちたとしても、そこは天国に化してゆくだろう...
例え私がここから居なくなったとしても...
私のすべてなるあなたは...

"私はここに在る"
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