人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

別の何かが進行している...

2022-01-30 10:11:06 | 雑感
分かっているのは朝が多いっていうこと...
夜とか、くたびれている時はあんまり来ないのかな?
何がって?...例のあれですよi..."じんじん"と迫って来るあれ...
この現臨感覚は、あの時を境に一段とより強く、私に直に感じられるようになったのは確かなことです。
世の中では、コロナなんてのは全く取り沙汰されてなかった、2019年の晩秋、人が何と言おうが、私にとってのコロナ禍は既に始まっていたのですi
おそらく生まれて初めて味わった肺炎の苦しみ..."コイツあ、今までの風邪たあ訳が違うぞi"
これがコロナの到来を告げる何ものでもなかったのですi
"コロナなんてもの実体なんか無いんですよ~"、だとi、バカなこと言うもんじゃないi...そりゃ私だって、実体知りませんよi...だけど、そんなのは、数週間、病床でうめくような日々を送らねばならなかった現実など何も知らない人間の戯言にすぎませんi
"フツーなら2、3日もすれば治るものが、いつ終わるのかが見えない、何故だ、何故なんだi"..."え、二年もかかっているのか?i"...この禍は、姿も見えないが、先行きの見えない恐怖との戦いでもあるのです。
しかし...この恐るべき肺炎にまで進行するか、否かということで、大きく認識は変わらざるを得ないでしょう。
オミクロン株では、肺炎にまで進行することは少ない、ということは、コロナ=新型肺炎という図式に囚われる必要は無いってことでしょ?
しかし、しかし...明日にでも、それが又どのように変異するかは分からない...我々は、絶えず変異して行く土壌の上に立たされているのは変わらない、と言えるでしょう。
コロナに限ったことじゃない...我々は、分からないものだらけの現実に生きているのです。
頭の中の分かったつもりの錯覚、幻覚だけで立ち行くことなど出来ないのですi
もっと現実に覚めなければならないi...それで本当に安心、安全なのか?、いやそんなに恐れる、神経質になる必要があるのか?
私はただ為すすべもなく、病に伏すという現実を受け入れるしかありませんでした。
この現実感覚が、私の中で別の何かを進行させたのですi
その実体は何かは分かりません。それは私が病床でうめいていた間、一時終息したようにも思えたのでしたが...
ある日、大分良くなって、いつになく、気持ちよく起きれるようになって、ぶり返したのです。より強力に、より近くに...
そして、現在もなお進行中...多分終わりは無いだろう...
すべて、我々の思惑通り...あれはこうなって、ああなることになってる...そんな思い描いたような現実では、こ、こんな恐るべき...いや有り難きものに与ることなど無かったでしょう。
禍といっても、悪いことばかりが進行するとは限りません。その裏側ではもっと大きな、大事なものが進行しているかも分からないのですi
それにしても、この先私は、いや世界人類(病床でうめいている時は、自他の区別のつかない、ヘンな肉塊だけがそこに在るという感じなのでした)はどうなってしまうのだろう...。
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どこに居ようと神の道

2022-01-28 11:57:30 | 求道、探究
悟りとか神と一体化するには、その前の段階で霊界や幽界を通らなければならない、と言っている人が居ます。
もっと細分化されたものでは、エーテル界、アストラル界、コーザル界...などの段階を経なければならないとか...これらは呼び方が違うだけなのか、元々異なった世界なのか、てんでに分かりません。大体、そういう種々の異界があるってこと自体分からないのです。
"あなたが人生の裏側と呼んでいるのは、そのどの世界に当てはまるのですか?"、って...知るかってんですよi
私が分からないだけで、こういう段階的な道というのは、実際に歩まれた人たちには意味があるのでしょうから、私は無闇に否定はしませんが(否定的な人は居ますよ)、誰しもが通らなければならない、とするのであれば否定的にならざるを得ません。
最近の悟り系スピでよく聞かれる、突然分かっちゃった人たちからは、そういうプロセスのことはほとんど聞かれません。要はそういう質があるとか、因縁があるかどうかの違いでしょう。
ただ、私が一つ、このOO界のうちで、意識が向かい、留まりそうなのは、"霊界"というものでしょうか?...霊なる世界i...他のどの異界の呼び名よりも包括的な響きがあります。といって、そこで霊人とか霊的な風景が目に見えるように映し出されるという訳じゃありません。
幽霊もどきとか幽界のなんちゃらとかは、もっとお呼びではありません。
霊なる世界に移行するということで、私がリアルにイメージ出来、感じ、言い表したいことは、"思いが超えられる"、ということですi
従って、そこで目に見えるように、思い描かれたように何かが映し出される、ということはないのです。
言い換えると、見ている私と見られている対象とが分離されない、ということです。
この意味で人生の裏側とは、この包括的な思いを超えた、霊なる世界、と言ってもいいかもしれません。だけど、それは下から何段目の世界か?、って言われても...
又、種々の異界に通じたある人なんかは、それはOO界だと規定するかもしれません。何界だっていいじゃありませんかi
大事なことは、そういうものに囚われない、ということじゃないですか?
霊なる道というのは、諸々の思いから自由になる道なのですi
だから、つまるところ、諸々の異界の諸相がある、というよりも思いを超えるか、どうかというところに大きな断層がある、と言ってもいいのではないでしょうか?
そして、その断層が超えられたなら、見えない、神的な導きのままに歩まされるばかりになるでしょう。
いや、そもそもそういう導きなしに、精神的道など歩めるものではないでしょう。
あなたが仮にエーテル界に居たとして、"だから私はアストラル界を目指している"、というのはおかしくないですか?
何界に居ようと、神の導きのまま、神的なものと一如となることに意識が向けられていなければおかしいi
どの階層だろうと、最下層とされる現界(そうかどうかは知らないが)だろうと、神の光が差し込まない、神に意識が向けられない世界というのはあろうはずがないのです。あったり前の話、ここに居らずして、どこに居るのか?(私が上で言ってるような霊界と現界とは全く隣り合わせなのです)
どこに居ようと神の道は神の道...
しかし、真っ直ぐに神の方に向けられないで、OO界とか何段階だとか宇宙のシステムだとかに囚われ続けている人も居るでしょう。
これは因縁とかカルマの問題なのでしょうか?
いいや、それは本当に神そのものに向かうことを望んでいないだけでしょう...。
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情動の源

2022-01-26 10:14:19 | 求道、探究
私は生まれつき感受性が強いと自覚しています。人のことは分かりませんが、こういう性質はフツー大人になると弱まるものなんですか?
もう、老境に差し掛かっているんですけど、これまで弱まったことなどあるかなあ、と思いますし、老いてますます盛んになってきている感すらします。
いつも感情にすぐ引きずられ、囚われてしまうのです。これは、自分の意志で何かに囚われる、ハマる(それも盛んなことですが)ということじゃなくて、否応なしにそうなってしまうことであるのは言うまでもありません。
嬉しいこと、楽しいことというのは、すぐ忘れてしまいますが、特に悲しい、可哀想な事象に接すると、ずっとそのことが頭から離れなくなってしまうのです。
こういう性質というのは、精神的道を歩む上においては、致命的な欠陥なのかもしれません。ことに修行に勤しむ上には向かないと言える...そう、だからしてこなかったのですってi...
こんなことで、よく"思いを超える"だの、"思いから離れる"なんてこと言ってられると思いますよ。
しかし、ご存知でしょうが、自分から"超える、離れる"とか"超え、離れなければいけないi"、なんてこと一度も言ったことありません。
ここでは、"自ずからそうなる"、ということが基調になっているのです。
"いつまでも囚われてちゃいけないi"、と人は言うかも知れませんが、そうしたくてしてる訳じゃない、ってこと分かんないのでしょうか?
そういう自ずから備えられている、持ち前のこの性質を無闇に否定したりすると、私の本来性が分からなくなり、苦しみを作り出すだけでしょう。
そうしたくてしてる訳じゃないのですが、心根の方では、その性質を変えようとしない、それをどっかで"良し"としているところがあるようです。
"そのままでいいi"...これが持ち前というものではないでしょうか?
そして、否応なしに情動的なものに引きずられるということは、ある意味こっちの思惑を超えてそうなる、ってことではありませんか?
そう、だから自然に超えられてしまうのでしょう。ゆだねるっきゃないことから、そのように導かれてしまうのですi
その契機には、しばしば何か自分の情動を超えた、もっと深い情動的なものに触れるような感じを覚えます。
それは元より、思われた感情、情動というものではありません。言葉に表せないものですが、その根っこにあるようなものです。
情動的なものに囚われていたはずが、いつの間にか、大きな、とてつもない情動みたいなものに捉えられる、包まれてしまう...もう、ダメ...泣けてきそうi...
無限の哀れみというか...そうですね、愛というものはこういうものから感じられるのです。そこには"情"というものから通常、想起される囚われ、もつれるようなものは何もありません。
情的な囚われは、自ずと"超情"的なものに化されてゆく...これは、私の持ち前の性質に依るからこそと言えるのです。
神に感情があるのかどうかは分かりませんが、思考というものがそうであるように、人間的に相対化されない、その根源的なものはあるように感じざるを得ません。
というより、人間に本来的に備えられているもの、人間の持ち前としてあるものは、すべて神的なものにその淵源があるのでしょう。
だから、それらは本来何一つ否定さるべきものは無いのでしょう...。
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分からなくても安心なこと

2022-01-25 09:58:38 | 雑感
ある程度予想していたこととはいえ、ここんとこの新型ウイルス感染拡大は、かつてない勢いとなっています。
あの水際対策ってのは何だったのでしょうか?...もはや為す術はないのかi...
もう、人類はコロナに征服されてしまったのでしょうか?
し、しかしです...最近これ聞いて、アタシャもう拍子抜けしてしまいましたi
何とこの感染力の高い新株ですけど、中々肺炎になるまでには至らないって言うじゃありませんかi?...重症化しないとは聞いていたけど...
コロナ=新型肺炎ではなかったの?...私は何でプロトコロナ(?)にかからねばならなかったの?
こんなもの何を恐れる必要があるでしょうか?...感染者が居たからといって、その人はヘンな目で見られたり、何らかの隔離処置を取られたりするのでしょうが、そんなに神経を使うこたあないでしょう。
それとも、それがいつ牙を向いて重症化させるかもしれず、狂暴な新型が又現れたりするんでしょうか?
まあ、我々老境に差し掛かってたり、既往症を持っている人は、変わらず油断してはならないし、"おい、お若いのi、移すんじゃねーぞi"ってこと...変わらず二年くらい前からフツーにしていたことを守るってことなんでしょう...(志村けんのコントでやってた、おかしなマスク生活今じゃフツーになってんだi)。
一体、何が恐ろしくて、何が安心出来ることなのか?、てんでに分からなくなりそうです。
誰も答えてくれそうにないし、それが本当に確かなことなのかどうかも分かんないし、二年経っても我々は、分かんないヘンな雲に覆われた中で生きて行かねばならないようです。
せめて一人一人が、感染症に伴う、身に迫るような恐ろしさ、苦しさとはどういうものなのか? 具体的に感じ取れるようになることが必要なのではないでしょうか?...そうでないと、いたずらにマスコミその他の情報に振り回されてしまうだけでしょう?
分からないことをあれこれ想像してても、分かったつもりでますます分からない雲に覆われて行くだけなのです。
その実何も分からないのに、分かったことにしてしまうのは、本当に黒雲に覆われた事態に置かれるだけでしょう。
だから分かっていることを身に覚え、身につけたらいい...いやホントに分かることというのは、そういうものなのではないか?
分かっていることは、これからだんだん日が長くなり、そのお照らしも強くなって来るということです。
暗くて、何も照らされないことは、何が起こっているのか分からないし不安なことなのです。
日に照らされたとしても、それが本当に真実かどうかは分からないことだってあるでしょう。
だけど、"お日さんが照らしている、明るくなって来た"、それだけで安心感がもたらされるのではないでしょうか?
分からなくても安心...何もいつも言っている、"神的な日照"のことを持ち出さなくても、私の経験でもフツーに分かります。日光浴は健康にいい...みんな分かることでしょ? 子供にも分からなくたって分かることですi
私はそこから見えない光に浴することに導かれたことは何度もあります。それはもう絶対的な安心に与ることであるのは言うまでもありません。





コメント (2)
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神の望み、我が望み

2022-01-23 09:11:59 | 
いつものように、ふと神に意識を向けてみる...
向けよう、向けよう...いいや、そうじゃないi
向いちゃったi...向けさせられてしまったi...
何でいつも、ふと向けてみようとか思うんだろう...
思わされているんだi...

はっきりと感じる...私が思おうとするのに先だって神の方がそうしむけているのをi
悟りだとか覚醒だとかのことには、もう意識が向かなくなってしまったi
瞬く間に、神の誘惑に遮られてしまう...
"神よi、私の道の邪魔をしないでおくれi"
何だってi...私の道と思っているのは、よこさの道、迷い道であって、神の道しか無いのではないかi?
精神的目覚めには、今生で得られないような至福があるのは知っている...だが、それはすべて神から来ているのではなかったかi?
神から離れた悟りなどというものはi...
はっきり知らされたi...一時の目覚め体験というものが、何故消え去ってしまうのか...
そのよって来るものから切り離されてしまっては...
自ら目覚めようとしても、中々そうならないことも知っている...現に意識が向かないではないか?
一体、私は何を望もうとしているのだろうか?
しかし、私が思おう、望もうとするのに先立ち、私を呼ぶ声がする...
惹かれてやまないものがある...
私が神を求める先に、神が私を求めている...
悟りのことはどっちでもいいi
しかし、神の誘惑は抗し難いi
神が私と一つにならんと望んでいる...
それは、我が望みと一つのもの...
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