所謂ノンデュアリティの道もかなり検証もなされ、その矛盾点も明らかにされてきました。
しかし、いまだに"自己というものがあるから、苦難、問題が起こるんです。自己なんて元々無いんですから、苦しみも無いんですよ~"と説き続ける教師も居て、それを真に受けて"そうなんですよね、自分なんて無かったんですよね~"と、しっかり自分の思いで何とかその教えに合わせようとする信者も結構見受けられます。
"自分という個人は無い"という教えの周辺には、かえって"自分、自我"にまつわる思いが蔓延してくるように感じます。
それは、自分という思いから離れ、解放されることは、自分自身ではどうにもならないことなので、そうさせるものも、とっかかりも無く、ただ思いだけが勝手に馳せ廻るばかりになってしまうからでしょう。
その思いから解放され、ラクになる、幸福になると感じるのは、一体誰なんでしょう?
"個は無い、全体しか無い"この紋切り型の分離志向は、段々二元性を強めて行く一方になるようです。
それとも...その行き着く先は、個も全体も無く、苦難も不幸も、平安も幸福もない、永遠の虚無のうちにすべてが消えて行く道しか無いのでしょうか?
私見では、これは神的なものと共ならざる道、自分のみの思い、力から推し進められた(これは所謂自力の道と結び付くものですが、その在り方は一様ではありません)道の行き着くところという気がします。
もっともその道のある契機に、何らかの自己を超えた力が介入するものと思われますが、私にはそれを神の恩寵と同じようには語れないのを感じています。
それはすべてを無に引き込む虚無的な力ともいうべきものでしょうか、それも神的現臨に導く無化のハタラキとは異なるもの、あるいは現臨に導かれない、それと共に無い、虚無に向かうばかりの力かと思われます。
そういう道に赴こうという人の気が全く知れません。悟りみたいなものを求めているのでしょうか?
悟りというものは、その観方、感じ方はそれこそ人の数だけあるでしょうが、これまでそれは多く、平安、幸福、救済といったものと結びつけられて語られてきました。
私は否定しません。でなきゃ、一体誰が求めたりするでしょうか?
それとも、平安も幸福もない、それを感じる自分を無きものにしないと、本当の悟りに達することが出来ないのでしょうか?"バカを言えi"と言いたいi
愛、平安そのものである神的なもの、現臨に与るのは、自分の意志、力ではどうすることも出来ないのです。
現臨に与ろうとしない我意の心根に、あるいはブラックホールの如き、永遠の虚無のフタが開かれるのかも分かりません。
本当の悟りなんてのが、あるのかどうかなど分かりませんが、分かりきっているのは、私のような俗っ気たっぷりの人間は、それと程遠いということです。
悟って居る個人は無いとはいえ、見た目にそのように映る人といったら、例えばラマナ.マハルシのような人を思い浮かべられるでしょう。
彼は南インドのアルナーチャラの聖地に導かれて、死ぬまでそこからほとんど出たことがなかったそうです。
彼はおそらく普通人のように、市井の中で生活することは困難だったかもしれません。
ああいう人は自分も無く、いつも苦しみも無ければ幸福も無い境地だったのでしょうか? あの溢れんばかりの生気を物語るような目が...ですか?
ラマナの生涯とは、恩寵によって導かれ、真我に目覚め、常住それとともにあった、ということを伝えているのです。
それは、その実二元性を強めるばかりの今流ノンデュアリティとは違う、特定の教師、教義、修行を介さない直接的な、本来のノンデュアリティを伝えるものとも思われます。
すべてが虚無に帰す道を伝えていた訳ではありません。そうでなければ我々はその教え、伝来に接することなど出来ないはずです。
伝える誰が居て、それに接する誰が居るというのか?
悟りの道といい、救いの道といい、そこには確かに"自分という個人は無い、不幸と隣り合わせの幸福も無い"といったことにも触れてくるでしょう。
それはしかし、自分も幸福も、あらゆることは"思われたものでない"ということを伝え、我々の根底には相対に関わらない揺るがぬものが息づいていることを伝えているのでしょう。
でなければ、本当に何一つ、何も無いだけです。おそらく虚無的な思い以外は...。
しかし、いまだに"自己というものがあるから、苦難、問題が起こるんです。自己なんて元々無いんですから、苦しみも無いんですよ~"と説き続ける教師も居て、それを真に受けて"そうなんですよね、自分なんて無かったんですよね~"と、しっかり自分の思いで何とかその教えに合わせようとする信者も結構見受けられます。
"自分という個人は無い"という教えの周辺には、かえって"自分、自我"にまつわる思いが蔓延してくるように感じます。
それは、自分という思いから離れ、解放されることは、自分自身ではどうにもならないことなので、そうさせるものも、とっかかりも無く、ただ思いだけが勝手に馳せ廻るばかりになってしまうからでしょう。
その思いから解放され、ラクになる、幸福になると感じるのは、一体誰なんでしょう?
"個は無い、全体しか無い"この紋切り型の分離志向は、段々二元性を強めて行く一方になるようです。
それとも...その行き着く先は、個も全体も無く、苦難も不幸も、平安も幸福もない、永遠の虚無のうちにすべてが消えて行く道しか無いのでしょうか?
私見では、これは神的なものと共ならざる道、自分のみの思い、力から推し進められた(これは所謂自力の道と結び付くものですが、その在り方は一様ではありません)道の行き着くところという気がします。
もっともその道のある契機に、何らかの自己を超えた力が介入するものと思われますが、私にはそれを神の恩寵と同じようには語れないのを感じています。
それはすべてを無に引き込む虚無的な力ともいうべきものでしょうか、それも神的現臨に導く無化のハタラキとは異なるもの、あるいは現臨に導かれない、それと共に無い、虚無に向かうばかりの力かと思われます。
そういう道に赴こうという人の気が全く知れません。悟りみたいなものを求めているのでしょうか?
悟りというものは、その観方、感じ方はそれこそ人の数だけあるでしょうが、これまでそれは多く、平安、幸福、救済といったものと結びつけられて語られてきました。
私は否定しません。でなきゃ、一体誰が求めたりするでしょうか?
それとも、平安も幸福もない、それを感じる自分を無きものにしないと、本当の悟りに達することが出来ないのでしょうか?"バカを言えi"と言いたいi
愛、平安そのものである神的なもの、現臨に与るのは、自分の意志、力ではどうすることも出来ないのです。
現臨に与ろうとしない我意の心根に、あるいはブラックホールの如き、永遠の虚無のフタが開かれるのかも分かりません。
本当の悟りなんてのが、あるのかどうかなど分かりませんが、分かりきっているのは、私のような俗っ気たっぷりの人間は、それと程遠いということです。
悟って居る個人は無いとはいえ、見た目にそのように映る人といったら、例えばラマナ.マハルシのような人を思い浮かべられるでしょう。
彼は南インドのアルナーチャラの聖地に導かれて、死ぬまでそこからほとんど出たことがなかったそうです。
彼はおそらく普通人のように、市井の中で生活することは困難だったかもしれません。
ああいう人は自分も無く、いつも苦しみも無ければ幸福も無い境地だったのでしょうか? あの溢れんばかりの生気を物語るような目が...ですか?
ラマナの生涯とは、恩寵によって導かれ、真我に目覚め、常住それとともにあった、ということを伝えているのです。
それは、その実二元性を強めるばかりの今流ノンデュアリティとは違う、特定の教師、教義、修行を介さない直接的な、本来のノンデュアリティを伝えるものとも思われます。
すべてが虚無に帰す道を伝えていた訳ではありません。そうでなければ我々はその教え、伝来に接することなど出来ないはずです。
伝える誰が居て、それに接する誰が居るというのか?
悟りの道といい、救いの道といい、そこには確かに"自分という個人は無い、不幸と隣り合わせの幸福も無い"といったことにも触れてくるでしょう。
それはしかし、自分も幸福も、あらゆることは"思われたものでない"ということを伝え、我々の根底には相対に関わらない揺るがぬものが息づいていることを伝えているのでしょう。
でなければ、本当に何一つ、何も無いだけです。おそらく虚無的な思い以外は...。