人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

死ー答えの無い答え

2024-11-04 08:43:49 | スピリチュアル
死は誰にも訪れます。
誰も死を避けることは出来ません。
そして誰しもが死んだらどうなるか、ということに関心を持つのでしょう。
死んだらそれっきり何にも無くなるのでしょうか?
それとも、死後もずっと生命は存続し続けるのでしょうか?
人それぞれの個性、人格といったものも存続するのでしょうか?
死後の世界というものは在るのでしょうか?
天国は?、地獄は?...
諸説はいくつもあって何が本当かは分かりません。
所詮、それらは他人が言っていることなのです。
あなたは、それを鵜呑みにして本当に納得出来るでしょうか?、安心出来るでしょうか?
だから死の問題は、人それぞれが向き合わなければならない...いや、これほどそうあらねばならない問題は無いと言えるでしょう。
といって、私はそれは自分で考えなければならない、と言っているのではありません。
元より、考えて分かるものではないでしょう?
分からないから容易に他人の言葉におもねようとするのでしょう?
少なくとも、死んだ後のことは私には考えられない!
それは、私の思考を超えたものなのだから...
それは、思いを超えたものにゆだねなければならない!
そう...ゆだねられるものがある、と言っているのです!
これは、もう、何も考えられない、ということと同じことなのです。
私のすべての思いはそれに赴く...
そして、落ち着いている...
何も考えられない...
そして又、そこにたとえようのない安らぎが感じられる...
死んだらどうなるのか?
その言葉で納得出来る答えは得られません。
いや、答えは知る必要が無いのではないでしょうか?
只々、安らぎに包まれている...
それが答えの無い答えなのではあるまいか?...
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霊の種々相

2024-10-19 10:26:59 | スピリチュアル
霊なるもの、霊的なものといっても、一口で言い表せるものではありません。
通俗的には、霊的と言えば、見えないものが見えるという心霊現象などと結びつき、そういうものを感受出来る霊感を有した人間を霊的な人と言ったりします。
それは、本来、人の思いを超えたもので、言葉の概念では分からないもののはずなのです。
つまり私はいつも霊的なことを書いているのですよ。言葉で分かったようなことを言う、心霊的なことにはほとんど触れないのですが...
私的には、その何か霊的なものが臨在する感じ...それは、何よりも思いを超えたものに与っているということで、そういう自分の力を超えたハタラキがある...これほど霊なる事態を言い表すものは無いというくらいなのです。そこにはアリアリとした実在感があるのだが、その実体は分からない!
これには、ほとんどの場合、こちら側が意識的になっている、されていることと関係していると言ってもいいのです。
一方では、古来から神域、霊域とされている神社などを訪れると、霊気のようなものを肌で感じたり、時には(私も数度経験しているが、滅多に無いことです)先の神的な現臨を感受することもあるのです。
これは、こちらの意識状態とは関係無しに、その土地(そればかりとは限らないが)固有の霊なるハタラキによってもたらされるものでしょう。
それは、イスラム教では、”ジン”として、忌み嫌われ、概して聖書の宗教では、低次の霊としてあまり関わりたがらない、”自然霊”といったものなのでしょうか?
これについて、我々日本人は、彼ら砂漠の民と違い、自然、大地に恵まれ、共生することを重んじて来たので、あたかも邪神のように忌み嫌う道理など無いと言わねばなりません。(然るに、欧米のキリスト教などに迎合して、そんな不遜な信仰態度を取る、日本のデモ.クリスチャンなど、前の都知事じゃないけど、”キサマはどこの国の人間なんなんだ!”、と言いたくもなりますよ!)
元より自然霊というものも、霊なるハタラキの一つと言えるでしょう。
このように、我々の霊なるものの観方、感じ方には、いくつか異なるものがあるようです。
ウィキによれば、古来、ヘブライ語で霊のことを”ルーアッハ”と呼び、それは包括的には、気、生命、風、息などの意味があるとのことで、正に自然霊などはその表れと言えます。
これが、新約時代に入り、ギリシア語で同じような意味で、”プネウマ”と訳されるようになったのですが、これがやがて”聖霊”を意味するように転化していったとのことです。
聖霊とは、高次の聖なる霊であり、”精霊”とか自然霊などの低級霊とは区別されなければならない?、だから神道などは低級な宗教なのか?
いや、そうじゃないでしょう。霊とは本来、気、生命と結びつくように、それ自体、善悪、高低などの相対性は持たないものでしょう。それ自体は悪いものでも、低級なものでも無いのです。
ただし、それは本来性を失い、変質してしまうことにより、所謂低級霊、邪霊的なものになる可能性もある...つまり私は最初から聖霊とか邪霊だとかが存在していた訳ではないと思っているのです(ホントのところは分からないのですが)
霊なるものは、あくまでニュートラルなもので、それが我々の心的、意識状態に応じて種々相を表すのではないか、と。...
この原初的な霊性も、そりゃ、そう呼ばれているようにスピリチュアルなものに違いないでしょう。しかし、キリスト教的欧米などでは、狭義にその聖霊的なものに関してそう呼ばれているようです。
それは、日本人として私は...首肯出来ます!
それは、包括的、自他未分的な段階の霊性よりも、もっとこの自己の自覚と共に、実存に即し、我々の精神と切り離されない、霊的な在り方を示すものと言えるでしょう。精神とは英語でスピリットというが如くです。(だから、欧米の実存主義の派生は、近代的キリスト教の発展と無関係では無いのです)
その霊性の道も、肝心な霊なるもの、霊的ハタラキが観念化、形骸化して枯渇しては何にもなりません。それは神的なものから来る!...祈りを通してハタラキたもう!
広義のものでも狭義のものでも生命の事態に関わることには変わりありません。ただ神的な現臨に与ることは、より深く霊なるものと関わることであり、それは意識的になることで開かれることは言うまでもありません。





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自我、自己、真我

2024-09-28 09:37:49 | スピリチュアル
前回の続きのようですが、原始仏教では、自己なるものは、他者との関係性によってなるものとし、従って真我、アートマンというものも実体の無いものであり、”無我”ということを強調したのでした。
しかし、それがどういうものであれ、実体が有ろうと無かろうと、私、自己という感覚があるのは否定しようのないものではありませんか?
先の縁起論のようなものに接して、どれだけ肯けるのかどうかは分からないですが、それを聞いて受け入れるか拒絶したりしているのは誰か?、ってことにならないでしょうか?
少なくとも私は、気絶でもして全く意識が無くなってしまわない限り、”私そのもの”を意識していることを否定することは出来ません。その私が真我なのかどうかは別として...
通常、他者(ほとんどは他人、他己)を通して認識している自己は、そういう顔、性格を有している私という個人です。
その私は、もしかして悪い、バカな、ダメな自分かもしれず、あるいは正しく、人より優れた、いやもしかしたら悟って真我に到達した(?)自分なのかもしれません。
しかし、こういうものは言うまでもなく、他人と比較して作り上げた自分像に過ぎないのです。
一方、先の”私そのもの”の自己意識は、他人という鏡を通したものでない、何ら色づけられるものでない、元から在る自分と言うことが出来るでしょう。
これについて、神学者の八木誠一先生は、確か前者は”自我”、後者は”自己”と使い分けておられました。
それで、この真我というものの言い回しなのですが、ます、その自我によって作られた、自分がなりたがっている(本当の自分になりたがっている?な自分!)自分とは、虚構の自分、つまり偽我ということになるでしょう。
これに対し、私そのものの自己は、ダメだろうと、正しかろうと、(こう言っちゃおう!)偽りだろうと本当だろうと、自分の判断を超えた、ありのままの自分という他ありません。(ありのまんまなのだから、受け入れるしかなく、それを疑うことは出来ないのです)
こういう意味合いにおいて、それは本当の自分、真我と言ってもいいでしょう。
それは、今の本当でない自分が到達したりする自分では無いのです。
といって、考えている自分、自我である自分からは、そうなれない、というかそのように在らしめられることは出来ないでしょう。
その自分を超えたものからの光に照らされなければ...というか”超えたものがある”、と認識されることがそう在らしめられることなのです。
だから、真我というものは、神的なもの、その光無しには顕わにならないものなのです。
この意味で、(自我でない)自己も鏡を通して認識されるのでしょうが、その鏡は見えないものであるのは言うまでもなく、神的な見えない他者は、見える他者のような二元的な有り様を超えているのです。(ラマナ.マハルシが説いていた真我も神と切り離されない、このようなニュアンスのものに違いないでしょう)
上よりの光に照らされるまんまが本当の自分!
神無しには、真我の実現は無い!

いやあ、この夏の光の照射は実に強烈だった!...
今は、その光がいよいよ我が内を照らし、浸透されてゆく秋!...


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はからいを超えて

2024-07-26 09:48:25 | スピリチュアル
「自然というのは、自はおのずからということで、行者のはからいでなくて、そうならせるということばである。然というのは、そうならせるということばで、行者の方のはからいでなくて、如来の方の誓いであるがゆえにそういうのである」(親鸞「古写書簡」)

何度か書いていることですが、私に恒常的に神的な現臨感覚が定着したのは、26年程前からです。
一寸、意識的になるだけでそうなる...火種というか、そういう下地を持った意識状態になったということです。
こうなるまでには、それまでの長年の修行の積み重ねがあった訳でして!...って、そんなこたあない!
修行らしいことなどしてこなかったのは勿論ですが、むしろ、そういう状態、又その先に見据えられていた悟りといった境地を得よう、目指そうという気持ちを断念させられた、はからいを手放されたことに拠ると言ってもいいのです。
手放されたのです。頭の中にいつも思い巡らされていたもの、固執されていたものがスコーンと落ちたような感じになりました。
これは、そういう思いに囚われた自分からは手放すことなど出来ないのですよ。
これはですね、思わず手放してしまうようなものが現前しているのが感じられたからそうならざるを得ないということなのです。
つまり神的なものが現臨したのです!...得ようとしても得られないものが、諦める、放てきすることで得られるというのだからこんな逆説的なことはありません。
“お前が今、握りしめているものを手放せ!“...そういう声なき声の促しをハッキリ感じました。
神、如来、主なる御方の方が迫って来る!、私をその元につなげようと!
私に何やら安心が芽生えて来て、そのものにゆだねようと意識が動いたのです。
実は同じようなことは、それに遡ること15年前にもあったことなのです。
“そうだったのだ!“...私の内奥のどこかに刻印されていたものがアリアリとよみがえったのです。
神のみ手に捉えれなければ、そういうことには絶対になり得ないのだ!
神のハタラキに拠り頼むしかない!...もう、そうなると不退転である!
言うまでもなく、自分の力によってそうなるのではない!…神が臨まれるからそうなるまでということなのです!
こうした私の経験で最も言いたいことは、得よう、求めようという思い、はからいを手放せ!...ということではなく...(こういう物言いが何と多いことだろう!)
“神の臨在を求めよ!“、ということに尽きよう!
神や仏の存在が信じられないのなら信じなくてもいいでしょう。
それは、いたずらに観念ごとで頭の中をいっばいにしてしまうことにもなりかねませんしね!...
つまり、自分で出来もしないことを自分でやろうとしたり、信じられないものを信じようとしたりしなくてもいいのです。それがはからいというものでしょう。
ただ、自分に真向かいに現前しているものは、信じなくても受け入れるしか無いでしょう!...


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人生の苦難の意味

2024-07-25 09:31:06 | スピリチュアル
精神的な目覚めなど、人生で重要な契機に会う前には、大きな苦難を経なければならないとよく言われたりします。
私は、以前それを否定しているとも取れることを書いたことがあるのですが、それは、ある人がその直前に、例えばよく言われる、クンダリーニの上昇に伴う際に味わう、心身に直接関わるようなトタンの苦しみに合わなければならない、などと決めつけた物言いで書いていたことに対してのものだったのです。
私も始めて、そういうことに与った時は、全く一時的なものでしたが、発熱、頭痛(これは、クンダリーニと関係しているかどうかは不明)に見舞われたこともありましたが、以降全く健常態であった時にも与っているので、そのように書いたまでです。
私は、誰もがそんなオソロシイ思いをしなければならない、などと気持ちを萎縮させてしまうようなことは書くつもりなどありませんよ!
しかし、これがもっと大きなスパンの、人生苦というか、人生の歩みに伴う諸々の苦難についてならば、それはあると思うのが自然なことでしょう。というか、それを感じてない人って居るかってんですよ!
ああいうことに与る人というのは、より深い、内省的な苦悩を感じるものだと思います。
そうでなければ、意識が内奥に、あるいは思いを超えたものに向かうことは無いでしょう。
そういうものは、神がそうさせていると言われたりするようです。そうかもしれません。
本当のところは神に聞かないと分かりませんが、私はそれが神の定めた、元々の意志のようには感じられないのです。
神の本当の意志は、我々に苦しみを与えようとしているのではなく、我々を神に向かわせよう、つなげようとすることにあるように思えてならないのです。
そのために、あれやこれやと諸々の思いに囚われた我々の心が挫かれてしまうような、苦難を伴う事態に導こうとするのでは無いでしょうか?
又、神の意志とは関係なく、そうしてカルマが解消されるということもあるのかもしれません。ま、考えても分からないことは、追ってもしょうがないですが...
それでも、私ならどうしても神、私を超えたもの、真我でもいい、そういう方に思いが向かってしまいます。だって苦しいのでしょう?
向かわざるを得なくなるのは、自然なことではありませんか?
そうすると、いつの間にか心が安らぐ...愛に包まれる、リアリティに目覚める...
神、真我に目覚める前には苦難が待ち受けている?...それは何かの法則、絶対条件のようなものなのでしょうか?
だけど、何と多くそこには、このもっとも肝心なことが抜け落ちて語られていることだろう!
これがあるから、如何なる苦しみも受け入れられ、乗り越えることが出来るのではないか!
それが無ければ...私もフツーに人の子...ツラい苦しいことはイヤ、逃げたいです。
それでも、あの愛、平安、リアリティは他の何ものにも代えられない!
それは、最愛なるものとの邂逅でなくて何であろう!...人生の苦しみはこのためにあった!
神の愛は、何かと引き換えにではなく、最初から与えようとされてあるのを覚えずにいられません!...





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