人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

真の悔い改め

2025-03-07 02:24:39 | スピリチュアル
“私は、神代の昔色いこと、エロいことに走って、政事をほったらかしにして、神の世界の秩序を乱した悪神、アマワカヒコの末裔である。
一コの私が悪事を悔い改めて、改心しようとしたところで連綿と悪の血筋を引いている身の上のこと、すぐに又その血流に任せてしまい、ちょっとやそっとで改まることは出来ない始末なのである“

な~んて神代のことなど覚えちゃいませんが、そういう風なこともどっかで身に覚えている感じはあるのです。
何かをやらかしてしまう...反省はしますよ、一応は。だけど、いくら悪いことを改めようと思ってもそんな具合になるなんてことは、イヤというほど味わっているのです。自分で変えよう、変わろうと思ったってね...
いや、そんなことよりやらかしてしまった時は、反省心などどこへやら、それが発覚しないように隠ぺいしたり、見つかっちまったらそれから逃げる、誤魔化すことに駆り立てられてしまうのです。
要するに、ほっこん(本根)からの反省、改心など出来ないのです。だからワルい、愚かなことを何回も繰り返してしまうのです。
バレなきゃあいい、バレたら逃げりゃあいい!...この世の法事の仕組みというものがそれに合わせて作られているのではないか?...道理でいつまでも悪事は無くならず、蔓延り続けるのです。
この悪の世とはそういうものなのではないか?...(しかしねえ...本当にワルいヤツがこんなこと書きますかねえ?)
そうなんです。いくら悪いことを反省しても、悔い改めようとしても、神代、過去世の因縁があるためかそうならないのです。自分からは。
だからもう、祈るしかないですよ。祈り心はあるのか、祈ることは出来る。いやそれしか無いのかもしれない...
そうすると、いつの間にかそういう呪われた心的状態に光が差し込むようになるのです。
それは、悪いことを自分で改め、変えようということではありません。そういう状態よりももっと高次の、自ずと高められるものが示され、そこから離れられ、開かれるようになるようなことです。
有り体に言えば、あの悪しき快楽、我が身の保全本能に支配されているような心的状態から、全く質の異なる幸福...そう、愛、安らぎの感じられる方に意識が向け変えられる、転じられてしまうのです。
福音書には、「汝ら、悔い改めて福音に、神の国に転ぜよ」とあります。ここでの、悔い改めと言われるものの本質的なものはそういうものでしょう。
(聖書の説教じゃないですけど)福音とは善き音信のことです。何が善きことなのか?...悪と相対するような善なのでしょうか?...それではいつまで経っても我々の心は善と悪の間を行ったり来たりするだけでしょう?
それは、相対に絶して我々を幸福な方に高めるから、絶対的に善きことなのではないでしょうか?
それは、思い、為そうとする我々だけからは絶対に来ません。思いを超えた、神的なものからもたらされるのは言うまでもありません。
だからだから、我々が失ったものが如何に大きいものか!、ということなのです。そう、失ってしまったのです!...
しかし、失ってしまったということは、本来は持っていたということなのですよ。回復されるということはあるのです。
これからそれを我々が開発したり獲得するものじゃないのです。失ったものというのは、その幸福なもの、善なるものというよりも、我々の神とのつながりのことでしょう。
我々からその回復を求めようにも、過去連綿からつながる悪因縁がそうさせてはくれないでしょう。
しかし、神の方が我々とつながるべく、顕わになって来るのを私は身に覚えずにおれません。
善きことは、祈り望めば、きっとあちらから臨んで来るでしょう!...


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神、真我しか実在しないとは?

2025-03-02 06:41:43 | スピリチュアル
私が最近、しばしば言っている、“神(真我)しか実在しない!“という言葉は、何だか極論みたいに思われるかもしれません。
実在するかどうか分からないのに、何故そんなことが言えるのか?
この疑問は、実在するという言葉が“そういう実体がある“、というイメージと結びつくところから来るのでしょう。
神はそういう実体があるかどうかは分かりません。実体を思い描いての言葉だったら多分極論になるでしょう?
でも、どうしても“実在する“ということを言いたくなるのは、そこに“リアリティ“が感じられるからなのです。リアリティということもそう言い表すしかないものなのですが...
要するに、否定したり、疑うことが出来ないようなことです。
ですから、神以外にも大事な、大切な、最愛のもの、人でもペットでも実在しているではないか?、という疑問は、それは先の実体論から来るのです。
最愛の人とかは、勿論実体として存在するように感じるものです。でもそれは、言うまでもなく永遠のものではありません。実体は存在していても、最愛のものでは無くなるということもあります。
しかし、それが無くなってしまってもなお、最愛のものとして感じられることもあるかもしれません。詩人ダンテの最愛の女性、ベアトリーチェのように...
この場合、ダンテにとってベアトリーチェは、その肉体という実体性を超えたものに化してしまっているということなのでしょう。ずっと最愛のものであり得たのでしょう。
最愛なるものこそ実体を超えたものなのです。神とは(より“すべてのもの“というニュアンスが感じられるものですが)そういうものではないでしょうか?...少なくとも私にはそうなのです。
先のダンテにとってのベアトリーチェは、その最愛なるものと切り離されないようにも、それを媒体しているというか、映し出しているのでしょう。そうなることで実体を超えてしまう。
これは、ペットとか動物にも応じられるものです。私なんかは猫ちゃんなどにも神的なものが映し出されているのを感じてしまいます。古代エジプトの“アモン.ラー“みたいなものです。
いや、そうなるとそればかりか、あらゆるものが神的なものを映し出しているように感じることもあるのです。
私が初めて神の手に捉えられて、“人生の裏側“へ踏み入れてしまった時、正にそのことを強く感じさせられたのでした。
あらゆるものが、神的なものと切り離されていないではないか!、と。...
“神しか実在しない“、とはこういう意味合いのことを言っているのです。神と切り離されたものは、五井先生的には、“消えてゆく姿“ということなのでしょう。
又、そのようなことは、そう感じている私自身が居なければ、リアルに実在として感じられないことになるでしょう。
純粋に、リアルにそのことを感じている私は、肉体という実体を超えているはずなのです。
この私、私が実存している、というそのことこそが神と切り離されないものではないか?
いや、神と切り離されないあらゆるものも、私と切り離されないもののように感じられて来るではないか?
この意味で、“神、真我しか実在しない“ということにもなるのでしょう!...

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幸福であることは自然な状態

2025-02-02 06:41:41 | スピリチュアル
ラマナ.マハルシは、常々「幸福は、本来意識が真我にあることによる自然な状態である」、と説いておりました。
“これは、本当にそうだなあ!“、と感じざるを得ません。
自分自身であることは、幸福なことなのです。だから自分自身を生きていないことは、不幸なんだ。不幸になるような事態があろうとなかろうと、幸福が感じられないということは!...
それは、自分以外の何かになることじゃない!、今の自分が偽りの自分だから、真我の境地に到達しなければならない、ということじゃないのです。
自分自身の本来性に帰る、目覚めること...本来的なことは、自然にそのように導かれるということなのです。
多くの宗教やスピの修行者などは、真我というものをそのように、その自分が目指す先にあるものとして思い描いているようです。
そうでなく、その自分自身であることを受け入れることから開かれるもの。逆説的ですが、そこに真とか偽りというものは無いということでしょう。
しかし、何が真我か、ということに囚われ勝ちになる、考えている私からは、中々そういう状態に開かれないということも事実でしょう。
そこに、思いを超えたものに意識を向け、ゆだねるということがあるのです。
だから真我とは、何がそういうものなのか、と考えて得られたりするものではなく、思いを超えたものにより照らされ、映し出された、ありのままの自分ということなのでしょう。
実に、真我とその超越者、神的なものは切り離されないもの、一つのものである、ということもラマナはよく説いておりました。
だから神を意識していて、幸福でない訳が無いのです。
いつも言うようにそれは、そこに愛、平安、リアリティが感じられるということに他なりません。
祈り、瞑想していて楽しいですか、幸福ですか?
そうでない、苦行みたいなことを一生懸命やっている人は居ませんか?
「信仰して、祈っていて楽しくないんならそんなもの止めた方がいいです!」(小池辰雄)
私は、こういう風に導かれて来たのです。
勿論、いつもいつも幸福だった訳じゃないですよ!...悩み、苦しいことも沢山ありました。
だけど、それは本当に神、真我に意識が向けられていなかった、ということなのです。
“う~ん、向けるというより、自然に向いちゃうんだけどなあ!“
これは、自分で何をする、何を思うというより、そのように導くものがあるのです。
それは、神、真我と一つのものです。故に「神、真我、導師は同義である」とこれ又、ラマナが常々説いていたことです。
“何でこうなってしまうのか?“、と我ながら思うのですが、自然にそうなってしまうんだからしょうがない!
一つには、“そういうことをここでいつも書いているから“、ということは言えるでしょう。
いやあ...どうしても書かされているように感じてならないのですが...

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神、真我は絶対的

2025-01-13 06:29:06 | スピリチュアル
いつも“思いを超えている“とか、この超えているということは、“元からある“(内在していると言ってもいいでしょうが)というニュアンスがあります。
私が居る以前からあるもの、その私はそれ無しには存在出来ないもの...それはもう絶対的なものと言ってもいいでしょう。
私は常々それは、神、真我をおいては無いと感じてなりません。
神、真我といっても、神は実在するか、どの宗教で語られる神か、とか真我とは何か、そういう実体はあるのか、とそのように対象化して、我々が考えているようなものでないことは言うまでもありません。
あくまでも、世の中が何を言っているか、信じているか、ということでなく、自分自身に、実存に即したものということなのです。
その自己からして先のとおり、“私は何故ここに存在しているのか“、と考えている以前からあるものです。
それは又、その私の思いを超えたものである、神的なものと一つのもの...それが神、真我は絶対的という由縁なのです。
それは、何か別のものに置き換えることが出来ない、別のものの属性に還元出来ないもの...何ものにも依存すること無く、それ自体でなっている、あり続けるものに他なりません。
“いや、自己は命が尽きたら消えてしまうではないか?“、と思う向きもあるかもしれませんが、それはそう思われた、信じられた自己のことではありませんか?
又意識というものも、それと密接に関わるものではありますが、私はいつも意識が向くとか向けられるとか言っているように、その元から向けられるものかある、ということを示唆しているものです。
この意味で、それは意識を超えたものと言うことが出来るでしょう。
絶対的ということは、相対化出来ない、分割出来ないということです。
ある神信仰は絶対的、あるイデオロギーは絶対的とみなしているものは、その実は相対的な思念に囚われた状態のことを言っているのです。
いかなる宗教、哲学、スピの道、精神的な道においても神、真我を求めない、問題にしないものなどあるでしょうか?
この意味で、これほど普遍的なものは無いと言ってもいいでしょう。
普遍的なものは、あれとかこれに分割することが出来ない...それは個己の在り方と同じなのです。どの宗教とか思想とかに分割出来ないものが、一人一人の我々を超えて、内在しているのです。
自己は普遍的なものと切り離れることが無い...一人一人の神、真我への目覚めが普遍的なものの目覚めでない、とどうして言えるでしょうか?
そして、その絶対的なものが自己実存に切り込んで来たのなら、それと一つになることを求めずにおれなくなるでしょう。
超越的なものと自己、真我は元から一つのものなのだから!...
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わが主を頂くこと

2025-01-10 05:39:58 | スピリチュアル
当たり前のことですが、こういう生きにくいご時世に生きている上では、時に怒りとか憎しみ、何かショックなことがあってずっとそのことが頭から離れないとか、負の感情が起きて、それに巻き込まれるとか、引きずられることもあるのです。
そういうことが無いのなら、我々に思考や感情などは元々無かったはず!...それは有る、出てきちゃうんだからしょうがないのです。
何?、修行が足らない、未熟だと?...分かりきったこと!...元より修行などしとらんし!...
修行に余念の無い人なんかは、現実にそういうことが起きているのに、“いや、そういうことじゃダメなんだ、そんな自分など認めらんない、無かったことにして、進んだ自分であることを装おうとかするんでしょ?
それが、ダメなんじゃないですか?...ありのままの自分を受け入れようとしない、自分を誤魔化す生き方をしているんじゃないですか?...
といっても、それもだから思考や感情に巻き込まれ、引きずられているということなんでしょう?
私には、何かと闘い続け、そういう自分を出すまいとして抑え続けなければならない思いから解放されるだけ、らく~に生きられると思われるのですが...
起きてしまったら、出ちゃったらしょうがないのです。まあ、だけどそういうダメな自分がすべてじゃありません。
そういう思い、感情を超えたもの共々が自分なのです。
それで、ちょっと思いの向きをその超えた方に変えてみる。そっちに開いた心待ちで。祈ると言ってもいいでしょう。
勿論、中々そういう心待ちになれない時もありますよ。
まあ、私なんかは自然とそういう方に向けられてしまったりします。
これは何かの修行の賜物か?...知らん!
ちょっと向きを変えようと思い立っただけで、負の思いでいっぱいの心に風穴が開いたようになり、曇り空が晴れるようになって来るのです。
それで、そういう負の思い、感情でいっぱいの自分が自分のすべてでない、ということが分かるのです。
これは、自分を変えようとしたり、自分を高めようとすることではありません。
思いを超えた自分、私の“主なるもの“にゆだねること、わが主に臨んで頂くことに他なりません。(だから修行という感覚が無いのでしょう?)
それで、大抵思いの絡まりは切れてしまうのですが、切れなかったら切れなかったでそれもしょうがないことなのです。
だって、この私が切る訳じゃないのですから!
イヤもう、これがらく~なことなのです。わが主を頂くということは!
なんか段々この一コの私は、主に取られて行くような気もするが...
そうなったらそれも仕方無い!
どこまでも、わが主にゆだぬるしか無いのだから!...








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