人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私の中の五井先生

2025-02-14 06:32:48 | 人生の教師
前回の補足のようなことですが、ある一つの宗教に属したり、特にある一人の教師を師と奉り続けながらも、本心開発の道を深めてゆく生き方というものも勿論あり得ることでしょう。
というより、本来のその道における師弟関係というものはそうあるべきものでしょう?
例え、表面的には師への絶対服従のような態度を見せることはあっても、それは師と自己との一枚になっているような、自分の本心の表れであったりもするのです。
ラマナ.マハルシが言うように、神と師と真我(本心)とは一つのものなのでしょう。(言うまでもなく、その師は見えない導師である場合もある訳ですが...)
私の場合、宗教団体の信者生活をやめて、本格的な求道が始まった一年くらいは、五井先生との関わりで、そういう道を辿ったとしてもおかしくない感じはあったのです。
もっとも、現実的には先の本来の師弟の道のことは自覚されてはおらず、その前の信者生活でトラウマのように受けたことがあまりにも大きく、そのようには導かれなかった訳です。
五井先生を個人的に師と仰ぐことはあったとしても、その教団に入信するということは詩友という形でない限り絶対に無理だったでしょう。
そして私は、現実に形の上では五井先生との、まだその時にはあった、信従してゆく感情も失せ、先生から離れて行ったのでした。
しかし...五井先生を知って、共鳴するものを感じて以来、私の内奥に仄かに灯された、あの安らぎ、そう、何かに導かれている、守られているような感じというものは今も身に覚えており、ますます自覚的になり、それは私の実存感覚と切り離されないようにも一つのように感じるようになったではありませんか?
それは、その説明としてある守護霊、守護神という実体を思い描くような理解を超えており、それに囚われることは無いものなのです。そういう説明は方便のようにしか感じて来ません。
そういう教えを信じることより、現実に愛、平安、リアリティに導かれ、自己実存を深め、顕わにしてゆくことが本筋なのではないか?
いや、そればかりか不遜なことを言うようですが、「世界平和の祈り」だって方便なのではないか?...いつも神、本心(真我)に思いを向け、一つになる心的状態になるための!
いや、方便というのなら教団を組織し、沢山の信者を作るようなことも!
本当は、宗教宗派を超えて、神、教えの名称を超えて、あらゆる人に大調和精神をもたらすことが主眼だったのではないか?
神、真我しか実在しない!...後は皆“消えてゆく姿“、方便なのではないか?
又、五井先生の本筋、本心開発の道から外れて、頭で知ってもそれを覆い隠すだけで、何の役にも立たない、五井先生をカタる、その実カルト信仰でしかないような教えに走って、脱線するなんてことは愚の骨頂以外の何ものでも無いではないか、そういう信者たちは上辺の業想念に振り回されているだけで、本心はどこにある、どこへやったと言うのか?...“自分の本心に聞いてみろ!“
私と同じ頃、五井先生に共鳴したであろう人間がそんな迷妄に陥っていることに我慢がならないのです!...何がそう言わせるのか?
何か中からそう書かせずにおれない、込み上げて来るものを感じてならないのです。
これは、私の中の五井先生みたいなものなのでしょうか?
それは、もう人間としての五井先生という存在ではありません。
先のように私と五井先生との関係は紆余曲折があり、一筋のものという訳では無かったのですが...
いや、ラマナでも命位様でも、私の中にその人間存在を超えて息づいている感じのものはあるのですよ。
だけど、求道に目覚めてからずっと続いているというのは、見えない導師と一つになった五井先生なのでしょうか?...

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五井先生と私

2024-11-12 02:41:37 | 人生の教師
何度も書いているように、私は大学生時代、M教団という新教団に入っていたのです。
しかし、その教団の教条主義的な体質にどうしても馴染めず、その説かれる神や真理などについて心から共鳴することも無く、心が安まることも一度も無かったのです。
で、その教団の教え以外に、自由に神や真理について探求出来る道はあるのかどうか、と悶々とした状態になっていた時に五井先生と出会ったのでした。
何よりも、先生の教えから自由に探求が出来るような雰囲気を感じさせることが大きなことだったのです。私の精神的な道の探求はここから始まったと言っても過言ではありません。
そして先生の著書を通して、“ああ、実に神というものは、かつて教えられていたように恐ろしいものでなく、愛そのものだったのだ!“、と知って、涙がこみ上げてきたこともありました。このことは計り知れないほど、その後の私の精神的な歩みに大きなトレースを残したことであったのは言うまでもありません。
こういうことがあったためか、五井先生の信者の中に、“先生の教えは最高、完璧なので、一字一句たりとも付け足しも変更も必要でない!“、なんてこと言っている向きに接して、“そんなに神を、真理を自ら狭いものにしてバカじゃなかろうか!“、と感じてならなくなるのです。
彼らは、白光会でそれこそ教義として掲げられた、“人間と真実の生き方“という文章をタテに、そういうことを言うのでしょう?
まあ、概ね私もそれに同調出来るものはあります。だけど思考停止して、丸のみなんて出来る訳ないですよ。
又、先生がちょくちょく説いていることに疑問を感じないでも無く、生意気を省みず、私もここで自由に批判的なことも書いたりしているのです。
私はその場合、もうとっくに叶わなくなったけれど、直に五井先生と一対一で相対しているつもりで書いているのです。
まあ、こんなこと訊くと、先生怒られるかな、やり込められるかな、という感じはあるのですけれど...とにかく私は自由に先生と接したい、ぶつかりたいという気持ちは持っているのです。先生を神のように奉る気など無いのだから!
きっと先生は、“はいはい、何でも自由に質問していいですよ!“、と例の砕けた調子で応えられると思いますよ!
例えば、“私は世界平和の祈りには心から同調出来ない部分があります“、とか先生の教えの根幹に関わるようなことも訊いたりもするかもしれません。
その他、“守護霊という表現は私にはピッタリしない、過去世など普通にわかに信じられないものでしょう?“とか感じたままを今の私はぶつけるかもしれません。
きっと先生なら“同調出来ないなら、信じられないなら無理にやらなくても、信じなくてもいいのですよ!“と答えられるでしょう?
“で、どういう祈りがピッタリするの?、守護霊でないならどう呼んだらいいの?“
ー“み心のままに導き下さい“、みたいなニュアンスのもの、“わが主“みたいな...感じです。
“ほお~っ...いいじゃないの、それでいい!...あーたの自由におやんなさい!“と...これはあくまで私の都合勝手な想像に過ぎないですが、“きっとそう言う!“、そういう風に感じてならないのです。
私の中の五井先生ならきっとそう言う!
少なくとも、私の内なるものは、そのように霊的存在のような先生に感応しているようなのです。
それで、先生と出会い、どういうものが私を導いてくれたのかが分かるような気がします。
何かとても懐かしい、もしかしたらこれが過去世の縁というものの然らしめるものなのかもしれません。
無理に信じようとしなくても感じていたらいいのです!
“そう、それでいい!“
私の中の五井先生はきっとそう言っている!...



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消えてゆく姿は、無のハタラキ

2024-11-08 09:26:35 | 人生の教師
いつも言うように、人間は宗教的な道などで、手放しで思考や欲望から離れることは出来ないし、“人間は本来神と一つのもの“、なんて教えの通りに信じることも出来ないのでした。
そこで、五井先生などは、“消えてゆく姿“という教えを説いたのです。思いというものは、現れたら消えるのだから、ひたすら消えてゆくことを観じてゆけばよいのだ、と。
しかし、これだけが独立した教えになると、それも思い、為そうとする自分がやろうとする、一つの行という感じになり、私なんかは、やはりどうにも手に着かない、難しい修行のように思えてしまうのでした。
私以外にも同様に感じた人も、少なからずおられるんじゃないかと思われます。難しい行を無理してやる必要があるでしょうか?...
長年、修行している者でも、自分で為すという自力行みたいに思っているケースが見られたりするのです。そんなことを手放しで出来るんなら有っても無くても同じではないですか?
勿論、五井先生はそんなつもりでこれを教えた訳ではないでしょう。
だから、これは祈りとセットにして説かれた、ということを忘れてはならないのです。
思いというものは、神的なものにあって離れてゆくものだ、ということは難しいも何も、自分がやる何かのことじゃないんだから、自ずからそうなってしまうことで分かるのです。
この点、どうも先生の説き方が中途半端だったのではないか、という印象を受けるのは残念です。
いや本当は、先生の本をよく読めば分かるように、思いは祈りの中に入れたらいい、消えてゆく。ということは随所で延べられているのですよ。
“自分が思うんじゃない、やるんじゃない!、それは消えてゆく姿なんだ、神にお任せしたらいい!“、ということは言われていたのですが、あまり徹底されていなかった様で、どうも消えてゆく姿の教えだけが独り歩きしてしまい、生半可な理解のまま、現実に生かされない型にはまった言葉ばかりやり取りされる傾向になってしまったようです。
消えてゆく姿というのは、“消えてゆく、消えてゆく!“、と思おうとする必要なんか無いのです。
“私は長年の修行で、雑念がすっかり出なくなりました!“、なんて得意になって言っている、某画伯なんか、何が消えていったのか分からないじゃありませんか?(それで、カルトにはまり続けているんだから、何してんだか分からない!)
消えてゆく姿とは、祈りを通して、神の思いを無化させるハタラキに与ることに他ならないのです。
力点がかかることは、自分がどうなった、こうなったじゃないのです。神の無のハタラキがある、神だけがある、ということなのです。
五井先生が生きていた時代は、こういうことを説いていてもあまり伝わらなかったか、又宗教全般には、修行というものが付きものだったのかもしれません。
しかし私は、日に日に、いや増しに神的なものの顕現、そのハタラキの強まって来るのを覚えずに居られないのです!...

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祈りと消えてゆく姿は切り離せない

2024-09-07 09:09:19 | 人生の教師
心安らかに、本心に目覚めて生きるには、一にも二にも祈ったらいい!...
と、いうように、僭越ながら五井先生と同じようなことを私はいつも言っています。
ただ、特定の祈りのことは提示せず、又祈りの形というよりも、もっと広く意識を神的なものに向けるというようなことを言っているのです。
そして又、”消えてゆく姿で...”、というような自分があまり理解もしておらず、従事もしてこなかったことには、当然のことながら触れていません。
ただし、これは表現の違いだけで、同様のことに触れているのかもしれないのです。
まず、五井先生は、消えてゆく姿というその行法のようなものを必ず祈りとセットにして説いていたことを知らねばなりません。
これが祈りと切り離されたら、全くおかしなものに、その意図するものから逸脱してしまうことになるでしょう。
消えてゆくので無しに、”消して”ゆく、あるいは”消えてゆく、消えてゆく”、と思い、念じたりしていずれにしても、自力行のようなものになってしまうでしょう。
それで、例の反面教師の画伯なんかは、”消えてゆく姿は、難しい、本当に消えたのかどうか分からないし...”、何て言ってる...当たり前ではないか!
自分の力で自分の思いを消せる、消えるかどうかなんて、やる前から分からなかったらダメですよ!
思いが本当に消えたのかどうか分からない...ってんじゃ、心が休むどころか不安を抱えなきゃならないじゃありませんか?
だから、”五井先生の消えてゆく姿の教えでかえって苦しくなってしまった!”、という人も現れたりするんです。
もう、これは本当にナンセンスなことですよ!...手につかないような難しいことや、苦しくなるようなことを何でやり続けなきゃならないのか?
他ならぬ先生の教えだから?...だったら根本のところを蔑ろにするんじゃない、ってんです!
”自分が思い、やろうとするのは消えてゆく姿です”、”神の方が消してくれるのです”(五井先生)
神的なものに祈り、思いを向けてゆくところに、消えてゆく姿というものがあるのです。
祈り、向けることで、その神的なものの臨在が感じられてきます。そこに愛、平安がある!...それが又思いが消えてゆく状態になっているのです。(だから、特に消えてゆく姿の行法というものに触れる必要は無い、と私なんかは感じているのですが...この行法というものが、やろうとする気持ちを誘発するのかもしれません)
それは、祈りと切り離されたら生きてこないですよ。
本当に思いを超えたものに向けられ、つながれば心安らかになるのが当たり前なのです。
それが思いが超えられたということなのですから!
出来ないものを無理にやることなどサラサラ無いのです!
思おう、やろうとする心根が抜けないということは、もうホントにご苦労さんなことなのです。
だからだから...一にも二にも祈るしかないんだって、何十年も前から五井先生は言っているではありませんか?!...


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無相の命位様

2024-06-01 09:51:57 | 人生の教師
前々回で取り上げた久松真一先生は、自分でも”私には煩悩がありません”、とその”無相の自己”の境地にあるということを表明しているのでした。
これは、聞いている人間には、そういうことは分からないのが普通ですが、直弟子の阿部正雄先生は、久松先生と接心している時、ただの言葉だけでない、体現されているような真実というものを認めざるを得ないものを感じたと、八木誠一先生との対話の中で言っているのです。
このことについて、感覚的なことなので、同じものなのかどうかは分かりませんが、気づかされることがあります。
それは、大調和協会の会掌、”命位様”との関わりのことです。
命位様という人は、協会の人からは、そういう仰々しい名で呼ばれていますが、普段は言うまでもなく、一寸品のいいお婆さんという感じで、世間話(世間に疎いところはあるが)などもよくされ、当たり前の人間的な感情もある方なのです。
私には、共に”二つで一つ”の関係で、協会を支えて来た、会主、”命御様”の葬儀の時、棺に取りすがって、”焼いてしまうのは、イヤです!”と泣き崩れていた姿を忘れることが出来ません。女性だからということもあるかもしれませんが、とても人間らしいところを見させられたのでした。
ところが...私は、この方と何度も一対一で相対したことがあり(いつもそうなるとは限りませんが)多く、ある日常では感じることが出来ない、言い表し難い、強いて言えば、そう、神的な現臨、ハタラキに包まれてるような感じを持ったことがあるのです。
それは、決まって対話の中で、私がある言葉を発したことで、命位様のスイッチが入り、そこから体現されるものを通してそのように導かれてゆくのです。
どういう感じかと言うと、普通にある個人と相対している感じで無くなる...相対感が無くなるというか、正に”無相の命位様”に相まみえているという感じと言ったらいいでしょうか?
といって、これは先の久松先生の場合ではどうか分かりませんが、命位様が普通の人間を全く超えたものとして、無相ということを言っているのではありません。
正に相手が居ない、命位様が自分か自分が命位様か...ある面では、個人の命位様の何かによって私が感化されているように感じられるのではあるが、それ以上に感じられるのは、神的なハタラキかがそこに現前しているということなのです。命位様と私の二者をハタラキが貫いている!...
このように、相手に無相なものを感じるということは、そこに無相の関係性が生じているということが言えるでしょう。
これは、そうさせる人間の思い、力を超えたものが臨み、働くということでなくて何であろうか?
このことが蔑ろにされる時、”私が超えた、悟った”という自分が顔を出すのでしょう。
だから、ただ言葉で、”私は無相の自己、分別智も迷いもありません”と言うだけでは、どうも誤解されてしまうのではないかと思うのです。
しかしながら、改めてですが、命位様との幾たびかの交流を通じて、いつの間にか、かく書かされている自分が居るということを思うと、計り知れないものを感じずにおれません。
やっぱり、私には命位様は、人間であって人間でない、相手であって、こちらと一つの、無相の存在、無相の命位様と言う他ありません...。
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