人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈りと消えてゆく姿は切り離せない

2024-09-07 09:09:19 | 人生の教師
心安らかに、本心に目覚めて生きるには、一にも二にも祈ったらいい!...
と、いうように、僭越ながら五井先生と同じようなことを私はいつも言っています。
ただ、特定の祈りのことは提示せず、又祈りの形というよりも、もっと広く意識を神的なものに向けるというようなことを言っているのです。
そして又、”消えてゆく姿で...”、というような自分があまり理解もしておらず、従事もしてこなかったことには、当然のことながら触れていません。
ただし、これは表現の違いだけで、同様のことに触れているのかもしれないのです。
まず、五井先生は、消えてゆく姿というその行法のようなものを必ず祈りとセットにして説いていたことを知らねばなりません。
これが祈りと切り離されたら、全くおかしなものに、その意図するものから逸脱してしまうことになるでしょう。
消えてゆくので無しに、”消して”ゆく、あるいは”消えてゆく、消えてゆく”、と思い、念じたりしていずれにしても、自力行のようなものになってしまうでしょう。
それで、例の反面教師の画伯なんかは、”消えてゆく姿は、難しい、本当に消えたのかどうか分からないし...”、何て言ってる...当たり前ではないか!
自分の力で自分の思いを消せる、消えるかどうかなんて、やる前から分からなかったらダメですよ!
思いが本当に消えたのかどうか分からない...ってんじゃ、心が休むどころか不安を抱えなきゃならないじゃありませんか?
だから、”五井先生の消えてゆく姿の教えでかえって苦しくなってしまった!”、という人も現れたりするんです。
もう、これは本当にナンセンスなことですよ!...手につかないような難しいことや、苦しくなるようなことを何でやり続けなきゃならないのか?
他ならぬ先生の教えだから?...だったら根本のところを蔑ろにするんじゃない、ってんです!
”自分が思い、やろうとするのは消えてゆく姿です”、”神の方が消してくれるのです”(五井先生)
神的なものに祈り、思いを向けてゆくところに、消えてゆく姿というものがあるのです。
祈り、向けることで、その神的なものの臨在が感じられてきます。そこに愛、平安がある!...それが又思いが消えてゆく状態になっているのです。(だから、特に消えてゆく姿の行法というものに触れる必要は無い、と私なんかは感じているのですが...この行法というものが、やろうとする気持ちを誘発するのかもしれません)
それは、祈りと切り離されたら生きてこないですよ。
本当に思いを超えたものに向けられ、つながれば心安らかになるのが当たり前なのです。
それが思いが超えられたということなのですから!
出来ないものを無理にやることなどサラサラ無いのです!
思おう、やろうとする心根が抜けないということは、もうホントにご苦労さんなことなのです。
だからだから...一にも二にも祈るしかないんだって、何十年も前から五井先生は言っているではありませんか?!...


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無相の命位様

2024-06-01 09:51:57 | 人生の教師
前々回で取り上げた久松真一先生は、自分でも”私には煩悩がありません”、とその”無相の自己”の境地にあるということを表明しているのでした。
これは、聞いている人間には、そういうことは分からないのが普通ですが、直弟子の阿部正雄先生は、久松先生と接心している時、ただの言葉だけでない、体現されているような真実というものを認めざるを得ないものを感じたと、八木誠一先生との対話の中で言っているのです。
このことについて、感覚的なことなので、同じものなのかどうかは分かりませんが、気づかされることがあります。
それは、大調和協会の会掌、”命位様”との関わりのことです。
命位様という人は、協会の人からは、そういう仰々しい名で呼ばれていますが、普段は言うまでもなく、一寸品のいいお婆さんという感じで、世間話(世間に疎いところはあるが)などもよくされ、当たり前の人間的な感情もある方なのです。
私には、共に”二つで一つ”の関係で、協会を支えて来た、会主、”命御様”の葬儀の時、棺に取りすがって、”焼いてしまうのは、イヤです!”と泣き崩れていた姿を忘れることが出来ません。女性だからということもあるかもしれませんが、とても人間らしいところを見させられたのでした。
ところが...私は、この方と何度も一対一で相対したことがあり(いつもそうなるとは限りませんが)多く、ある日常では感じることが出来ない、言い表し難い、強いて言えば、そう、神的な現臨、ハタラキに包まれてるような感じを持ったことがあるのです。
それは、決まって対話の中で、私がある言葉を発したことで、命位様のスイッチが入り、そこから体現されるものを通してそのように導かれてゆくのです。
どういう感じかと言うと、普通にある個人と相対している感じで無くなる...相対感が無くなるというか、正に”無相の命位様”に相まみえているという感じと言ったらいいでしょうか?
といって、これは先の久松先生の場合ではどうか分かりませんが、命位様が普通の人間を全く超えたものとして、無相ということを言っているのではありません。
正に相手が居ない、命位様が自分か自分が命位様か...ある面では、個人の命位様の何かによって私が感化されているように感じられるのではあるが、それ以上に感じられるのは、神的なハタラキかがそこに現前しているということなのです。命位様と私の二者をハタラキが貫いている!...
このように、相手に無相なものを感じるということは、そこに無相の関係性が生じているということが言えるでしょう。
これは、そうさせる人間の思い、力を超えたものが臨み、働くということでなくて何であろうか?
このことが蔑ろにされる時、”私が超えた、悟った”という自分が顔を出すのでしょう。
だから、ただ言葉で、”私は無相の自己、分別智も迷いもありません”と言うだけでは、どうも誤解されてしまうのではないかと思うのです。
しかしながら、改めてですが、命位様との幾たびかの交流を通じて、いつの間にか、かく書かされている自分が居るということを思うと、計り知れないものを感じずにおれません。
やっぱり、私には命位様は、人間であって人間でない、相手であって、こちらと一つの、無相の存在、無相の命位様と言う他ありません...。
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いつの間にか導かれたこと

2024-03-03 09:46:20 | 人生の教師
現在の白光会のあり方は別として、五井先生を信奉する人たちの間では、その教えに則った行法として、先生の残した統一指導のテープを聞くというやり方がずっと定着しているようです。
これは、先生の体の衰えから直接指導に立たれることが難しくなったことから、そのような形になったのでしょうが、私が先生に共鳴して、定期的に市川にあった道場に通っていた時からそうだったのです。
しかし私には、もしその行が悟り、本心開発を目指すものだとして、中々そのように導かれるようには感じてこなかったのでした。
導入として、入りやすくするというのなら分かりますが、それに終始してしまうというのはどうなのか??...中にはそれでそのように導かれた人も居るのかもしれませんが、私はほとんど聞いたことがありません。
その理由として、どうしても直接的アプローチでない点が大きいのです。
この直接的ということは、私が直にそれを行い、携わるという意味ではなく、この場合、テープの音声を聴かなければならないという、“行“が介在するということです。
これが形式化すると、ずっとテープに依存し続けなければならなくなってしまうでしょう。
あの見えない導きの契機というのは、いつどこに開かれるか分からないのです。テープの操作などしてる場合じゃないですよ!、即応性が求められるのです。
直接性というものがどういうものかお分かり頂けたでしょうか?
肝心の五井先生本人がその著書などで、口笛や柏手を直に聞くことはともかく、その指導テープを聞くことに触れていることなど、私は読んだ記憶が無いのです。
こんな理由で、私は五井先生の教えによって、悟ったかどうかは別として、あの安らぎに導かれたということは無い...訳ではありません!
それは、その著書などで、随所でポツンと数行、読み過ごしてしまいそうな言葉にあったのです。
例えば、“神といっても掴めないから祈ることが大切なのです“、“祈ることで神様の中に思いを入れてしまうことです“、そうすると“いつの間にか心が幸福、安らぎに満たされるのです“、というように、私は、いつの間にかそのように導かれてしまったという次第なのです。
本当にいつの間にか!...これはこちらの思いを超えているということでしょう。
もっとも、このことを認識したのは後付けのことで、要するに“そういうことだった!“ってことなのです。そのことを一寸思い浮かべただけで、神的なものに包まれるのが感じられて来るくらいですよ!
私は多分、教団の主導による行法には馴染まなかったのですが、先生のより即応性、直接性に開かれた教えには導かれたと言っても過言ではありません。
言い換えれば、白光会という宗教集団には馴染まなかったけれど、五井先生は、その外では私に直接生きていたということでしょう。

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あの日から始まった

2023-11-09 09:31:56 | 人生の教師
昭和52年の今頃の季節のことです。
私はある本を読んで思わず涙が溢れてきたのでした。
その年ぐらいから読書に目覚めて、以来実に多くの本を読んで来ましたが、そういうことは数回しかありません。移り気が激しい私でも、そのことは今でも忘れることは無いのです。
それは五井先生の「愛すること」(白光出版)という本でした。
とにかく、それを通して神は愛なのであることを知り、何よりも神を信じつつも恐れたりして、自分とかけ離れたもののように接するのでなく、親しみ、近しきものとして感じられるようになったことが実に、ホント~に大きいことなのです。
だから、このことが無ければ今の私は無いと言っても過言ではないのです。
それは、五井先生がどういう人であったとしても変わらないでしょう。
“先生は大きな教団の教祖であり、絶対視されていて、偶像のように祭り上げられている...”
そんなことは、初めてお目にかかった、その年の先生のお誕生祝賀会の時に既に感じていましたよ!
だけど、よくよく考えてみれば、先生の教えは“守護霊、守護神教”とも言われるように、我々を形ある導師でなく、“見えない導師“につなげることが主眼となっていたはずなのです。
そして私はそのように導かれたと言ってもいいのです。
これは一時は考えもしましたが、会員になることなく、あまり教団の醸し出す、あの集団的思念の影響を受けてこなかったことが大きかったようです。
いや、こう書いてきて感じることは、私は最初から(守護霊、守護神という表現はともかく)見えない導師の導きを受けていたのではないか、ということです。
それは、物心付いた時からとも言えるのですが、よりそのことがハッキリ意識づけられたのは、五井先生との縁を通してだったということでしょう。
どの教えに接しても、本質的なこととそうでないものとを見極めることが大切です。
しかし、自分で見極めることが難しいんですよね?
だから祈ることが大事なんです。迷い、本質的でないことは神の中に入れちゃえばいい!
又、“人間は本来神の子なんだ、迷いなんか無いんだ!“、なんて理想論みたいな教理を現実にそう思えないのに、無理に念じたりして思おう、信じようとする必要もありません。
祈る...意識が自然に神に向いてしまう、こっちで合わそうとするのでなく、自然に合わされてゆくだけ...そうすると、いつの間にか会い難きものに、会わされる!...かもしれない。...
と、こういう風に、私はいつの間にか、五井先生の教えの根っこにあるようなことに合わされて行ってしまったようなのです。
それは、みなあの日から始まったのかと思うと!...(ううう!)
私のような五井先生の無教会派の皆さんだけでなく、このように導かれた方は私だけではないはず!
非本質的な教団本位の在り方や、真偽の分からない陰謀論やオカルトに脱線する在り方などはもう消えてゆく姿の様を見せているだけです。
見える導師から見えない導師を通して神、真我につながる、という五井先生が残された本筋の道こそは、本当の意味で宗教宗派を超えて、息づいているのを感じずにおれません。
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人間と怪物

2023-11-08 09:31:06 | 人生の教師
先日、 「ある日の五井先生」(清水勇著)という本を読んで、一寸イヤーな気分にさせられました。
ある日、人の過去世が分かるという、会の有力?な講師が「五井先生にも業がある、消えてゆく姿(過失や欠点)がある」と言っていたのが先生の耳に入り、その講師を叱責したというのです。それを又連帯責任があるのか、別の二人の有力な講師が謝っているのです(本人は謝らなかったとのこと)
誰にも業や消えてゆく姿の一つや二つはあるでしょう?、それもこれは常人の与りしれない過去世のことらしいのですよ。こういうことは、おそらく大きな教団の(神に等しき)教祖と講師との関係でなければ、さして問題にならないでしょう。
このことを知って、私は五井先生の“人間的な限界“を感じてならないのです。
いや、もしかして先生は本当に何の欠点も無い、完全なる超人なのかもしれないですよ!
この意味は、五井先生も世の常なる宗教の教祖たちと変わらない、(あまりにも人間的な)尊大な態度を見せることもあるのだ、ということなのです。先生はある講話の中で、そのふんぞり返った態度を見ると虫酸が走る、とか言っていたにも関わらず...
先生に業や消えてゆく姿があることがそんなにコケンに関わることなのでしょうか?
私には、宗教教団に纏わる思いのほとんどが消えてゆく姿に思えてなりません!
そこへ行くと、数多のその神に等しき教祖さんを輩出させた、新興宗教の大本、大本教の怪物と呼ばれた、出口王仁三郎聖師ときたら...接客に際し、素っ裸で現れることもあったとか。本心かポーズなのか分からないが、開けっぴろげの精神の表明なのでしょう。
又若気の至りのことだったとはいえ、過去の派手な女性遍歴のこととか、侠客との関係のこととかも隠さず公表していたのです。
聖師の飾らない、人との距離を感じさせない人柄は「出口王仁三郎と青年座談会」という本などで伺い知ることが出来ます。
これが怪物、日本の宗教史上きってのカリスマと言われた人物の裏の顔であり、いや本当の顔だったかも知れないのです。
この何とも人間臭い有り様が、何と人間離れしているように映ることか!...あの超然とした態度の生き神サマたちには誰もマネなど出来ないでしょう!(こう逆説的なこと書いてきて、ハテ人間とは?、人間らしい人間とは何か、テンデに分からなくなってきました!)
私はここで、“出口聖師と五井先生はどちらが人間として上か?“、な~んてことを言いたいんじゃありません。
その教え的な方でいくと、色々なハッタリとかカモフラージュなどが入り混じってるようで、ストレートに伝わってこない、聖師のものよりも、五井先生の方が分かりやすくス~っと入ってくるところがあります。
そして本来の五井先生は、あんな尊大なところは見せない人であろうことも何となく伝わります。
教団組織というものが人間を変えてしまうのか?、だからそんなものは消えて行ってしまえばいいのです!
いや、なんだかんだ言っても人間がやっていることなんだから!...
人間にはみんな限界があるってことなんでしょう!...あなたも私も人間、大先生も生き神サマも人間...だけどその人間には何かそれをぶっこえた、得たいの知れないものが隠れているらしい?
これが時たま顔を覗かすものだから、人間らしい人間のままで、怪物らしく見えるらしい...
いや、人間は何ともオモシロく、オソロシイものだ!...

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