人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

五井先生と私

2024-11-12 02:41:37 | 人生の教師
何度も書いているように、私は大学生時代、M教団という新教団に入っていたのです。
しかし、その教団の教条主義的な体質にどうしても馴染めず、その説かれる神や真理などについて心から共鳴することも無く、心が安まることも一度も無かったのです。
で、その教団の教え以外に、自由に神や真理について探求出来る道はあるのかどうか、と悶々とした状態になっていた時に五井先生と出会ったのでした。
何よりも、先生の教えから自由に探求が出来るような雰囲気を感じさせることが大きなことだったのです。私の精神的な道の探求はここから始まったと言っても過言ではありません。
そして先生の著書を通して、“ああ、実に神というものは、かつて教えられていたように恐ろしいものでなく、愛そのものだったのだ!“、と知って、涙がこみ上げてきたこともありました。このことは計り知れないほど、その後の私の精神的な歩みに大きなトレースを残したことであったのは言うまでもありません。
こういうことがあったためか、五井先生の信者の中に、“先生の教えは最高、完璧なので、一字一句たりとも付け足しも変更も必要でない!“、なんてこと言っている向きに接して、“そんなに神を、真理を自ら狭いものにしてバカじゃなかろうか!“、と感じてならなくなるのです。
彼らは、白光会でそれこそ教義として掲げられた、“人間と真実の生き方“という文章をタテに、そういうことを言うのでしょう?
まあ、概ね私もそれに同調出来るものはあります。だけど思考停止して、丸のみなんて出来る訳ないですよ。
又、先生がちょくちょく説いていることに疑問を感じないでも無く、生意気を省みず、私もここで自由に批判的なことも書いたりしているのです。
私はその場合、もうとっくに叶わなくなったけれど、直に五井先生と一対一で相対しているつもりで書いているのです。
まあ、こんなこと訊くと、先生怒られるかな、やり込められるかな、という感じはあるのですけれど...とにかく私は自由に先生と接したい、ぶつかりたいという気持ちは持っているのです。先生を神のように奉る気など無いのだから!
きっと先生は、“はいはい、何でも自由に質問していいですよ!“、と例の砕けた調子で応えられると思いますよ!
例えば、“私は世界平和の祈りには心から同調出来ない部分があります“、とか先生の教えの根幹に関わるようなことも訊いたりもするかもしれません。
その他、“守護霊という表現は私にはピッタリしない、過去世など普通にわかに信じられないものでしょう?“とか感じたままを今の私はぶつけるかもしれません。
きっと先生なら“同調出来ないなら、信じられないなら無理にやらなくても、信じなくてもいいのですよ!“と答えられるでしょう?
“で、どういう祈りがピッタリするの?、守護霊でないならどう呼んだらいいの?“
ー“み心のままに導き下さい“、みたいなニュアンスのもの、“わが主“みたいな...感じです。
“ほお~っ...いいじゃないの、それでいい!...あーたの自由におやんなさい!“と...これはあくまで私の都合勝手な想像に過ぎないですが、“きっとそう言う!“、そういう風に感じてならないのです。
私の中の五井先生ならきっとそう言う!
少なくとも、私の内なるものは、そのように霊的存在のような先生に感応しているようなのです。
それで、先生と出会い、どういうものが私を導いてくれたのかが分かるような気がします。
何かとても懐かしい、もしかしたらこれが過去世の縁というものの然らしめるものなのかもしれません。
無理に信じようとしなくても感じていたらいいのです!
“そう、それでいい!“
私の中の五井先生はきっとそう言っている!...



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消えてゆく姿は、無のハタラキ

2024-11-08 09:26:35 | 人生の教師
いつも言うように、人間は宗教的な道などで、手放しで思考や欲望から離れることは出来ないし、“人間は本来神と一つのもの“、なんて教えの通りに信じることも出来ないのでした。
そこで、五井先生などは、“消えてゆく姿“という教えを説いたのです。思いというものは、現れたら消えるのだから、ひたすら消えてゆくことを観じてゆけばよいのだ、と。
しかし、これだけが独立した教えになると、それも思い、為そうとする自分がやろうとする、一つの行という感じになり、私なんかは、やはりどうにも手に着かない、難しい修行のように思えてしまうのでした。
私以外にも同様に感じた人も、少なからずおられるんじゃないかと思われます。難しい行を無理してやる必要があるでしょうか?...
長年、修行している者でも、自分で為すという自力行みたいに思っているケースが見られたりするのです。そんなことを手放しで出来るんなら有っても無くても同じではないですか?
勿論、五井先生はそんなつもりでこれを教えた訳ではないでしょう。
だから、これは祈りとセットにして説かれた、ということを忘れてはならないのです。
思いというものは、神的なものにあって離れてゆくものだ、ということは難しいも何も、自分がやる何かのことじゃないんだから、自ずからそうなってしまうことで分かるのです。
この点、どうも先生の説き方が中途半端だったのではないか、という印象を受けるのは残念です。
いや本当は、先生の本をよく読めば分かるように、思いは祈りの中に入れたらいい、消えてゆく。ということは随所で延べられているのですよ。
“自分が思うんじゃない、やるんじゃない!、それは消えてゆく姿なんだ、神にお任せしたらいい!“、ということは言われていたのですが、あまり徹底されていなかった様で、どうも消えてゆく姿の教えだけが独り歩きしてしまい、生半可な理解のまま、現実に生かされない型にはまった言葉ばかりやり取りされる傾向になってしまったようです。
消えてゆく姿というのは、“消えてゆく、消えてゆく!“、と思おうとする必要なんか無いのです。
“私は長年の修行で、雑念がすっかり出なくなりました!“、なんて得意になって言っている、某画伯なんか、何が消えていったのか分からないじゃありませんか?(それで、カルトにはまり続けているんだから、何してんだか分からない!)
消えてゆく姿とは、祈りを通して、神の思いを無化させるハタラキに与ることに他ならないのです。
力点がかかることは、自分がどうなった、こうなったじゃないのです。神の無のハタラキがある、神だけがある、ということなのです。
五井先生が生きていた時代は、こういうことを説いていてもあまり伝わらなかったか、又宗教全般には、修行というものが付きものだったのかもしれません。
しかし私は、日に日に、いや増しに神的なものの顕現、そのハタラキの強まって来るのを覚えずに居られないのです!...

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祈りと消えてゆく姿は切り離せない

2024-09-07 09:09:19 | 人生の教師
心安らかに、本心に目覚めて生きるには、一にも二にも祈ったらいい!...
と、いうように、僭越ながら五井先生と同じようなことを私はいつも言っています。
ただ、特定の祈りのことは提示せず、又祈りの形というよりも、もっと広く意識を神的なものに向けるというようなことを言っているのです。
そして又、”消えてゆく姿で...”、というような自分があまり理解もしておらず、従事もしてこなかったことには、当然のことながら触れていません。
ただし、これは表現の違いだけで、同様のことに触れているのかもしれないのです。
まず、五井先生は、消えてゆく姿というその行法のようなものを必ず祈りとセットにして説いていたことを知らねばなりません。
これが祈りと切り離されたら、全くおかしなものに、その意図するものから逸脱してしまうことになるでしょう。
消えてゆくので無しに、”消して”ゆく、あるいは”消えてゆく、消えてゆく”、と思い、念じたりしていずれにしても、自力行のようなものになってしまうでしょう。
それで、例の反面教師の画伯なんかは、”消えてゆく姿は、難しい、本当に消えたのかどうか分からないし...”、何て言ってる...当たり前ではないか!
自分の力で自分の思いを消せる、消えるかどうかなんて、やる前から分からなかったらダメですよ!
思いが本当に消えたのかどうか分からない...ってんじゃ、心が休むどころか不安を抱えなきゃならないじゃありませんか?
だから、”五井先生の消えてゆく姿の教えでかえって苦しくなってしまった!”、という人も現れたりするんです。
もう、これは本当にナンセンスなことですよ!...手につかないような難しいことや、苦しくなるようなことを何でやり続けなきゃならないのか?
他ならぬ先生の教えだから?...だったら根本のところを蔑ろにするんじゃない、ってんです!
”自分が思い、やろうとするのは消えてゆく姿です”、”神の方が消してくれるのです”(五井先生)
神的なものに祈り、思いを向けてゆくところに、消えてゆく姿というものがあるのです。
祈り、向けることで、その神的なものの臨在が感じられてきます。そこに愛、平安がある!...それが又思いが消えてゆく状態になっているのです。(だから、特に消えてゆく姿の行法というものに触れる必要は無い、と私なんかは感じているのですが...この行法というものが、やろうとする気持ちを誘発するのかもしれません)
それは、祈りと切り離されたら生きてこないですよ。
本当に思いを超えたものに向けられ、つながれば心安らかになるのが当たり前なのです。
それが思いが超えられたということなのですから!
出来ないものを無理にやることなどサラサラ無いのです!
思おう、やろうとする心根が抜けないということは、もうホントにご苦労さんなことなのです。
だからだから...一にも二にも祈るしかないんだって、何十年も前から五井先生は言っているではありませんか?!...


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無相の命位様

2024-06-01 09:51:57 | 人生の教師
前々回で取り上げた久松真一先生は、自分でも”私には煩悩がありません”、とその”無相の自己”の境地にあるということを表明しているのでした。
これは、聞いている人間には、そういうことは分からないのが普通ですが、直弟子の阿部正雄先生は、久松先生と接心している時、ただの言葉だけでない、体現されているような真実というものを認めざるを得ないものを感じたと、八木誠一先生との対話の中で言っているのです。
このことについて、感覚的なことなので、同じものなのかどうかは分かりませんが、気づかされることがあります。
それは、大調和協会の会掌、”命位様”との関わりのことです。
命位様という人は、協会の人からは、そういう仰々しい名で呼ばれていますが、普段は言うまでもなく、一寸品のいいお婆さんという感じで、世間話(世間に疎いところはあるが)などもよくされ、当たり前の人間的な感情もある方なのです。
私には、共に”二つで一つ”の関係で、協会を支えて来た、会主、”命御様”の葬儀の時、棺に取りすがって、”焼いてしまうのは、イヤです!”と泣き崩れていた姿を忘れることが出来ません。女性だからということもあるかもしれませんが、とても人間らしいところを見させられたのでした。
ところが...私は、この方と何度も一対一で相対したことがあり(いつもそうなるとは限りませんが)多く、ある日常では感じることが出来ない、言い表し難い、強いて言えば、そう、神的な現臨、ハタラキに包まれてるような感じを持ったことがあるのです。
それは、決まって対話の中で、私がある言葉を発したことで、命位様のスイッチが入り、そこから体現されるものを通してそのように導かれてゆくのです。
どういう感じかと言うと、普通にある個人と相対している感じで無くなる...相対感が無くなるというか、正に”無相の命位様”に相まみえているという感じと言ったらいいでしょうか?
といって、これは先の久松先生の場合ではどうか分かりませんが、命位様が普通の人間を全く超えたものとして、無相ということを言っているのではありません。
正に相手が居ない、命位様が自分か自分が命位様か...ある面では、個人の命位様の何かによって私が感化されているように感じられるのではあるが、それ以上に感じられるのは、神的なハタラキかがそこに現前しているということなのです。命位様と私の二者をハタラキが貫いている!...
このように、相手に無相なものを感じるということは、そこに無相の関係性が生じているということが言えるでしょう。
これは、そうさせる人間の思い、力を超えたものが臨み、働くということでなくて何であろうか?
このことが蔑ろにされる時、”私が超えた、悟った”という自分が顔を出すのでしょう。
だから、ただ言葉で、”私は無相の自己、分別智も迷いもありません”と言うだけでは、どうも誤解されてしまうのではないかと思うのです。
しかしながら、改めてですが、命位様との幾たびかの交流を通じて、いつの間にか、かく書かされている自分が居るということを思うと、計り知れないものを感じずにおれません。
やっぱり、私には命位様は、人間であって人間でない、相手であって、こちらと一つの、無相の存在、無相の命位様と言う他ありません...。
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いつの間にか導かれたこと

2024-03-03 09:46:20 | 人生の教師
現在の白光会のあり方は別として、五井先生を信奉する人たちの間では、その教えに則った行法として、先生の残した統一指導のテープを聞くというやり方がずっと定着しているようです。
これは、先生の体の衰えから直接指導に立たれることが難しくなったことから、そのような形になったのでしょうが、私が先生に共鳴して、定期的に市川にあった道場に通っていた時からそうだったのです。
しかし私には、もしその行が悟り、本心開発を目指すものだとして、中々そのように導かれるようには感じてこなかったのでした。
導入として、入りやすくするというのなら分かりますが、それに終始してしまうというのはどうなのか??...中にはそれでそのように導かれた人も居るのかもしれませんが、私はほとんど聞いたことがありません。
その理由として、どうしても直接的アプローチでない点が大きいのです。
この直接的ということは、私が直にそれを行い、携わるという意味ではなく、この場合、テープの音声を聴かなければならないという、“行“が介在するということです。
これが形式化すると、ずっとテープに依存し続けなければならなくなってしまうでしょう。
あの見えない導きの契機というのは、いつどこに開かれるか分からないのです。テープの操作などしてる場合じゃないですよ!、即応性が求められるのです。
直接性というものがどういうものかお分かり頂けたでしょうか?
肝心の五井先生本人がその著書などで、口笛や柏手を直に聞くことはともかく、その指導テープを聞くことに触れていることなど、私は読んだ記憶が無いのです。
こんな理由で、私は五井先生の教えによって、悟ったかどうかは別として、あの安らぎに導かれたということは無い...訳ではありません!
それは、その著書などで、随所でポツンと数行、読み過ごしてしまいそうな言葉にあったのです。
例えば、“神といっても掴めないから祈ることが大切なのです“、“祈ることで神様の中に思いを入れてしまうことです“、そうすると“いつの間にか心が幸福、安らぎに満たされるのです“、というように、私は、いつの間にかそのように導かれてしまったという次第なのです。
本当にいつの間にか!...これはこちらの思いを超えているということでしょう。
もっとも、このことを認識したのは後付けのことで、要するに“そういうことだった!“ってことなのです。そのことを一寸思い浮かべただけで、神的なものに包まれるのが感じられて来るくらいですよ!
私は多分、教団の主導による行法には馴染まなかったのですが、先生のより即応性、直接性に開かれた教えには導かれたと言っても過言ではありません。
言い換えれば、白光会という宗教集団には馴染まなかったけれど、五井先生は、その外では私に直接生きていたということでしょう。

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