人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

命が流れてゆく...

2024-04-21 08:56:32 | 独語
「必要なのは私の存在なのではなく、私の想いが受け継がれていくことだ。
私もまた、先人たちの想いを受け継いだ身だ。
ただ、それだけなのだ。
ただ、光の存在がそこにあるのだ。
その存在といるだけで、心地よい。
それが、本来の人のあるべき姿なのだ」(日木流奈)

私には、自分の思想も、信仰も、やり方も無い。
たとえ、あったとしても私が考えたものであるはずはない。
それは、どっかから風に運ばれて来た種が私の中に落ち、いつの間にか芽吹き、花が咲き、実がなったようなものだ。
この無量の生命にあって、私は私であるだけ...
何で、私が生み出した、私のものなどと言えようか?
ただ、生命がここを吹き抜けて、通っていっただけ。
ここから又、どこかへ光の種が運ばれていくのだろう...
どこにそれが落ち、芽吹くのかは知る由も無い。
ただ、通っていくだけ...
受けるものがあるから通るのだ。
通ることは開かれること。
それは、全く私を超えたこと!...

命が流れてゆく...
春の風が心地よい...





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自然な神の道

2024-04-20 03:35:17 | 求道、探究
前回、私は思い、為そうとする自分からはそれを超えたもの、神に至ることは出来ない、そこには不可逆の関係というものがある、と書いたのですが、それではそういう道は全く閉ざされているのか?、と言ったら、そんなことは無いでしょう。
現に、それがどういう内容を意味しているのかはともかく、“私は神と出会った!“、という人は居るみたいだし...
しかし、この問題は、そもそも“神とつながりたい!“、という切実な願い、欲求が無ければ出て来るはずは無いと言えるでしょう。
“お腹が空いた、もっと美味いものが食べたい!“、というところに食べもの、美味しいものに与るということが生まれるのです。
で、そういうものを求めるということは、そういうものに意識が向く、向けられるということなのではないでしょうか?”...これはごく自然なことであるはずです。
私はここで、何回、神に意識を向けるとか向けられる、ということを言ってきたことでしょう。最近では、この意識的な有り様というものは、そのように自動的、他動的と分けられない中動的なものだ、ということを言っています。
いや、だからこう...神に意識を向けるということは、自ずからパーッと思いがその超えた方に開かれることなんです!...(私だけか?)
私は多くここで、そのことを祈ることとの関連で言って来ました。祈ることは、言うまでもなく宗教的なことと関わることです。
では、宗教的な人間でないと神につながることは出来ないのか?...多分そんなことは無いでしょうが...(これは、逆に何故古来より人間は宗教と関わって来たか、ということについての答となるものではあるでしょう)
要するに、自分の思いを超えたもの、神を意識すればいいのです。
しかし、それは先のように、その気の無い人間にそういうことを向けても無理だし、無駄なことです。
意識する...ただ漠然と思ってたりすることじゃありません。
それがどうも掴めないようだったら、心から願う、望むと言ったらいいのか?
こういうことは、横から言挙げするだけ、ヤボなことですね?
そういう人は誰に言われなくたってやっているでしょ!...何を?って、だからやらされている、意識させられているはず!
神に至るには、まあ大体瞑想修行との関連で、色々とテクニックがあるのかもしれません。
それは、その内容にもよりますが、私はどうもそういうものに、“心から“という線のものは伝わって来ません。如何にも“考えました!“という感じがして!
だからか、私はそういうものに意識が向く、動くということはほとんどありませんでした。
ただ、とにかく“神は生きている、生ける神との出会い“といった言葉に接するだけで、理屈なしに心の高なりを覚えずに居られなかったのです。そういう心の中から促すようなものも感じていたのです。
心から神を求めるものには、神の方がほっとかないのでしょう!
そして又、そこに自分自身の本来性に帰るような、そうせしめるあるハタラキかけを感じるのです。
これは、けだし自然な秩序と言うべきものではありませんか?!




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不可分、不可同、不可逆

2024-04-18 09:47:19 | 哲学・思想
現代日本を代表する神学者、宗教哲学者に故滝沢克己先生という方がおられました。
私は、センテンスの長い文章というのが苦手でして、どうも取っつきにくさを感じてか、あまり先生の著書を読んでなく、詳しいことは分かりませんが、神と人間は「不可分、不可同、不可逆」の関係でなっている、というその思想の基調には実に頷けるものを感じています(長いな!)。
それらは、さらにつづめて、「インマヌエル(神と共にある)」の原事実の関係に結びつくのであると。なるほど!...(滝沢先生と言ったら、インマヌエルの先生なんだ!)
このインマヌエルの関係というのは、私的には神との現臨にある関係のように読めるのです。
いや、そうだ、そうだ、そのとおりではないか!...
不可分...ここ最近ずっと言っていることです。神と自己は切り離すことが出来ない!
しかし、それは“不可同“である。先と矛盾するみたいですが、人間は手放しで、“私は神と一つ、同じである“などと言える訳がありません。
そういう信仰命題みたいなものを信じるのは自由なのでしょうが、現実離れして、観念に浮いてしまうだけでしょう。
マイスター.エックハルトなどの神秘思想家が、“私は神と一つ“などと言い表せるのは、己を無化せしめる、神的なハタラキを受け、通っているからなのですよ。
神の前では人間は無とならざるを得ない。
現実離れとは、現臨離れ、インマヌエルの関係から外れていることを意味しているに他ならないでしょう。
そして、神の方からそのように我々にハタラキかけ、気付き、啓示と言われるようなものを表すこともあるが、思い、為そうとする我々が自らそれを超えて、神と共なる関係を開くことは出来ないのです。これは滝沢先生も説いている、神の道における根本的秩序と言えるでしょう。
神との「分かれない、同じでない、こちらからは超えられない」関係とは、もうとにかく、このように神的な現臨にある、インマヌエルの意識状態にあれば自明に分かることなのです。

滝沢先生と言えば、同じ神学者、宗教哲学者八木誠一先生との長い論争が有名なのですが、八木先生の“創造的空の世界“というのも、又神と人間の原態を言い表しているものでしょう。
その論争というのは、かいつまんで言うとどういうことなのか?...それを知ろうとネットを調べてたら、“ああメンドクサ!“...頭が痛くなりそうで!
神と人間の原事実、原態にあれば、そんなに熱く知性的な方に走らんでも、どうでもよくならないか、と思うのですが...

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神の実体を超えて

2024-04-17 09:15:18 | 
いつも神に意識を向けるとか、取っ掛かりとしてそう意志して、自然に向いてしまうというようなことを言っていますが、これは、一般に瞑想修行などで精神集中、統一としてやっていることがほとんど努力無しに簡単にそうなる、ということを表しているのです。
瞑想における精神集中には、あるシンボルの図とか何かの音などを対象として意識を向けるということがある訳ですが、私の場合ほとんど神に向けられるのです。
そうでない場合は、“自分自身に“、ということもありますが、神に意識を向けると自分自身も意識されるようになるし、同じことと言ってもいいのですが、私には神に向ける方が自然に入りやすいのです。
これは、ずっと意識を意志想念を使って集中することとは全く違い、前回も触れた“中動態“的な在り方を示しています。向けることは向けられることなんです。
そして、このように神と自己は分けることは出来ない!
大雑把に言えば、“神に“という場合は祈りに、“自己に“という場合は、瞑想に対応していると言えるでしょう。
で、この神のことですが、どうしても普通の人は、神は万物の創造者、支配者であり、人間は被造物なんだから、従うしかないもの、という先入観、固定観念に囚われてしまうようですが、私はこの場合、ほとんどそういう観念で描かれ、信じられているようなものとして言い表したことはありません。
何回もくどく言っても分からないのかもしれませんが、神は私の思考を超えたもの...だからそれが何であるかは分からないのです!...分っからないかなあ!
しかし、何で私の思考を超えたものだ、ということが分かるのかと言うと、こんな分かりきったことはない!...そうなってしまうという事実があるからなんですよ!
超えせしめるものがある!...それを仮に神と呼んでいるまでです。
宗教的なものに抵抗があるのか、神を信じたくないという人も多いことでしょう。中には信じたらかえって不幸になったという人も...
信じたくなければ信じなくていい!...この神に意識を向けるということは、そういう表層的思いの在り様とは別のことであるのは言うまでもありません。
自分の思いを自分で超えようと“思うのなら“、トコトン気の済むまで、頭がパンクするまでやってみたらいいでしょう。
自分の思いが超えられてしまうことがどんなに“神った“ことであるか!...思いのがんじがらめで苦しんだ人間なら分かることです!
このことから私は、神の実体は分からなくても、ひしひしと神は実在、現存しているなあ、と感じてなりません。この意味で神の実体論は超えなければならないのです。
そして、思いを超えたものに意識的につながることで、幸福に与ることはあっても、不幸になることなどあり得ないですよ!
自分自身で居られることが何でそうならないとならないのか?!(境遇が何であれ、自分自身を生きていない人間は不幸なんだ!)
でも、中々自分からは自分自身に目覚めることが出来ないのも事実でしょう。
だから...あなたの神を求めたらいいのです!...

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中動態

2024-04-15 09:38:14 | 意識、照明
「“歩いたのは自分です。それは歩かしめるような力が加わったからなんです“、という時に、それが聖霊経験です」(手島郁郎)

手島先生の「ロマ書講話下巻」(手島郁郎文庫)を読んでいたら、言語形態の一つで中動態というのが出て来ました。
能動態を表す自動詞でも他動詞でもない、そういうものがこのロマ書の原語のギリシア語にあるのだそうです。
私はこれまでどれだけ、例えば“意識を向ける、いや向けられる...“などとまどろっこしい言い方をしてきたことか!
このブログの基調部分は、ほとんど中動態で表されるようなことと言っても過言ではありません。(本当は微妙な、含みをもった表現を伝え得る日本語こそ、この言語形態が生きてくるように思えるのですが...)
よく考えてみたら、自分だけで、又自分以外のものだけで、人間の在り様は成り立たないことは自明に分かることではありませんか?
これは、人間存在というものからして、それを超えたもの無しには成り立たないことに照応しているということでしょう。
一つ言えることは、これまで我々の表層的意識は、能動的な方に傾き過ぎているということです。言い換えれば、その根底にある、我々をして在らしめる、為さしめる部分に意識が向けられてこなかったのです。
つまり、人間の在り様の根本は、意識の在り様そのままなのです。
考えるか、行動するしか無いというのは、根本的におかしいですよ!
幸福を得ようと考えて、何かの行動に駆り立てられる...それで幸福を得られるかどうかは分からないのに!...
意識的になっているだけで幸福に与ってしまったらどうするのか?...この上、何をセイって言うのか?
え?...ちょっと待てよ!、駆り立てられるのか?...何に?
神か?...いいや、“行動せよ!、為さねば成らぬ!“、と命令する別の神だろう?...
このように意識の在り様は、中動態で言い表すのに適しているはずなのですが...近代ヨーロッパの言語形態からは失われてしまったのでした。
だけど、現代の日本語には、中動態という言語形態は無いけれど、自力でも、他力でもないものを言い表せるものはあるでしょう。
今は...
“幸福です!...“


コメント (2)
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