誰しも、ある啓発的な言葉に触れて、思わず“参りました!“、と感じたことがあるでしょう。
“こりゃあ、何にも返す言葉が無い、降参しました!“、と。
だけどそれは、ただこちらが受け身になっているだけではそうなりません。
これはですね、“参っている“から参ることになってしまうのですよ!
何を言っているのか分からない?
いや、だから日本語はスバラシイ!...参る事態になってしまうことは、実にそのことに参じている、参入している、ということなんだ!
ただ、“良いお話を聞きました、良かった、良かった“、と無批判に迎合なんかしてちゃダメなんです!
そういう人は本当には参ることなんか出来やしません!...最初からお手上げ、丸投げなんかしててどうするのか?
だからこれは、宗教信者のお追従なんかと違い、極めて、主体的な、意識的な関わりということが言えます。
その参ってしまう言葉を表した人も、同じように参らされたことがあるのでしょう。
こう考えると必ずしも(その人の別の言葉には参らないこともあるように)、人間に参るということを意味しないでしょう。
ここに、いわゆる真理というものは、一個人により考え出され、帰されるものでない、ということが分かるでしょう。
で、参ってしまうことは、言葉が出ない...つまり、思考が絶してしまうことだったりするのです。
言うまでもなく、ああだ、こうだと考えているうちは参りません。考えてたら秘儀参入など出来ないのですよ!
内心は参っているのに、参ることで自分が屈服してしまうように感じて、参ったしないような人はいつまでも参入出来ません。我心が中々参らないから!
人間に降参することは無くても、人間(自分の思い、力)を超えたものには誰しも降参してしまうでしょう。
だから、そういうものが言葉を通して伝わった時に、大抵の人は参ってしまうということでしょう。
ということは、勿論人間の言葉を介さずにダイレクトに、そのものの一撃を受けることもあり得るということです!
いや、そこにこそ、本当の人間の降参した姿をみることが出来るでしょう!
私など朝起きてたら、“参っていた“、ということがしょっちゅうあります。
で、今日は又バカ陽気で、どこに参ろうか?、何て考えてますが...
今の気持ちは...お参りしたい!
“こりゃあ、何にも返す言葉が無い、降参しました!“、と。
だけどそれは、ただこちらが受け身になっているだけではそうなりません。
これはですね、“参っている“から参ることになってしまうのですよ!
何を言っているのか分からない?
いや、だから日本語はスバラシイ!...参る事態になってしまうことは、実にそのことに参じている、参入している、ということなんだ!
ただ、“良いお話を聞きました、良かった、良かった“、と無批判に迎合なんかしてちゃダメなんです!
そういう人は本当には参ることなんか出来やしません!...最初からお手上げ、丸投げなんかしててどうするのか?
だからこれは、宗教信者のお追従なんかと違い、極めて、主体的な、意識的な関わりということが言えます。
その参ってしまう言葉を表した人も、同じように参らされたことがあるのでしょう。
こう考えると必ずしも(その人の別の言葉には参らないこともあるように)、人間に参るということを意味しないでしょう。
ここに、いわゆる真理というものは、一個人により考え出され、帰されるものでない、ということが分かるでしょう。
で、参ってしまうことは、言葉が出ない...つまり、思考が絶してしまうことだったりするのです。
言うまでもなく、ああだ、こうだと考えているうちは参りません。考えてたら秘儀参入など出来ないのですよ!
内心は参っているのに、参ることで自分が屈服してしまうように感じて、参ったしないような人はいつまでも参入出来ません。我心が中々参らないから!
人間に降参することは無くても、人間(自分の思い、力)を超えたものには誰しも降参してしまうでしょう。
だから、そういうものが言葉を通して伝わった時に、大抵の人は参ってしまうということでしょう。
ということは、勿論人間の言葉を介さずにダイレクトに、そのものの一撃を受けることもあり得るということです!
いや、そこにこそ、本当の人間の降参した姿をみることが出来るでしょう!
私など朝起きてたら、“参っていた“、ということがしょっちゅうあります。
で、今日は又バカ陽気で、どこに参ろうか?、何て考えてますが...
今の気持ちは...お参りしたい!