人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

参りました!

2024-04-14 09:12:06 | 求道、探究
誰しも、ある啓発的な言葉に触れて、思わず“参りました!“、と感じたことがあるでしょう。
“こりゃあ、何にも返す言葉が無い、降参しました!“、と。
だけどそれは、ただこちらが受け身になっているだけではそうなりません。
これはですね、“参っている“から参ることになってしまうのですよ!
何を言っているのか分からない?
いや、だから日本語はスバラシイ!...参る事態になってしまうことは、実にそのことに参じている、参入している、ということなんだ!
ただ、“良いお話を聞きました、良かった、良かった“、と無批判に迎合なんかしてちゃダメなんです!
そういう人は本当には参ることなんか出来やしません!...最初からお手上げ、丸投げなんかしててどうするのか?
だからこれは、宗教信者のお追従なんかと違い、極めて、主体的な、意識的な関わりということが言えます。
その参ってしまう言葉を表した人も、同じように参らされたことがあるのでしょう。
こう考えると必ずしも(その人の別の言葉には参らないこともあるように)、人間に参るということを意味しないでしょう。
ここに、いわゆる真理というものは、一個人により考え出され、帰されるものでない、ということが分かるでしょう。
で、参ってしまうことは、言葉が出ない...つまり、思考が絶してしまうことだったりするのです。
言うまでもなく、ああだ、こうだと考えているうちは参りません。考えてたら秘儀参入など出来ないのですよ!
内心は参っているのに、参ることで自分が屈服してしまうように感じて、参ったしないような人はいつまでも参入出来ません。我心が中々参らないから!
人間に降参することは無くても、人間(自分の思い、力)を超えたものには誰しも降参してしまうでしょう。
だから、そういうものが言葉を通して伝わった時に、大抵の人は参ってしまうということでしょう。
ということは、勿論人間の言葉を介さずにダイレクトに、そのものの一撃を受けることもあり得るということです!
いや、そこにこそ、本当の人間の降参した姿をみることが出来るでしょう!
私など朝起きてたら、“参っていた“、ということがしょっちゅうあります。
で、今日は又バカ陽気で、どこに参ろうか?、何て考えてますが...
今の気持ちは...お参りしたい!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本心の三性

2024-04-12 09:00:48 | スピリチュアル
何が自分の本心なのかは、自分では分からないものです。
自分の本心?...それは、きっと本心というものは、自分のものではないからなのでしょう。
要するに、自分というものは、自分を超えたものによって在らしめられているということでしょう。
しかし、何が本心かは分からないけれど、迷っている時など、内心そうでないものに囚われていることは分かるものです。
そういう時は、頭では分かったつもりになっているけど、心からというか、身の方が頷いていないように感じるものです。
これを精神の内奥の意識から言えば、表層的思考はその関心ある方に動くが、その奥の方は動いていないということが分かるのです。
これは、心から、身が頷くという経験があれば、誰でも分かることでしょう?、そのことに照らせばいいのです。
だけど、表層的思考の方で、その知的な欲求を満たすことや、快楽を満たすこと、実利的なこと、又自分の意地を通すことなどに囚われていたら分からなくなります。
だから、人間は本心からでないものに囚われ、本心からズレ、ブレた生き方をしてしまうのです!(例えば、精神的な道を歩んでいて、カルトにハマることなど迷い以外の何ものてもないことくらい分からなきゃダメなんですよ!...内心では、あなたの神は泣いているぞ!)
いや、ホントにおツカレさんなことではないか?!
勿論、かく言う私だって、分かっちゃいるけど、やめられないことをし続けて、無駄な時間を費やすこともある、分かってるからかく書ける訳なんですよ!
そこで肝心なことは、その本心のおわす意識の中心に戻れるかどうか、ということにあるのは言うまでもありません。戻れるということは、そこに本来性があることを示しています。
心の奥、身の方はそこにどういうものがあるか、(これは感覚的なことを言っているのですが)知っています。本来あるものなのだから...
それは、愛、平安、リアリティ...私はこれを本心の三性とでも呼んでみたいです。
愛、平安というものは感性と、リアリティというものは、知性的なものと結び付くものですが、これが切り離されないで感じられるのです。
私は、寝て起きた時にこういう感じになっていることがとても多いのです。
誰しもそういうことない?...表層的思考がすべてであるように思い込んでいると、中々気が付かないものです。
考えてたって分かりゃしません。感じないと!、意識しないと!...思考を超えたものを!
あなたの神に聞かなければ!
それは、あなたの本心と一つのものでしょう?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなたの神の本願

2024-04-11 10:13:59 | ガイダンス
親鸞上人は、おそらくわが国の仏教宗祖の中でもっとも親しまれ、その歎異抄も仏教書の古典の中でもっと読まれているものと思われますが、その眼目であろう、“弥陀の本願“という教えは、果たしてどのくらい受け取られているでしょうか?
“法蔵菩薩が四十八願を成就した“、とかいうお話は、あくまで方便として説明的に説かれたものであり、いくらそれを観念的に信じていても、今、ここに生きている自分に受け取られていなければ何にもならないでしょう。
私はもう本願という言葉を思い浮かべるだけで、ひしひしと、“私でなく、あちらの方が私と一如となるべく働いて下さる“のを身に覚えて、喜びでたまらなくなりそうです。
しかし、私がこれに触れたのは、仏教の方面には疎かったためか、親鸞上人の教えではなく、小池辰雄先生の“キリストの本願“を通してのものだったのです。
いや、それにしても小池先生は(キリスト者だから当然なのでしょうが)、親鸞さんについてのまとまった論考のようなものは、私の知る限り残してないと思われますが、本当にこの日本の精神風土に息づいている、本願の消息を先生なりに体現されているなあ、と感じずにおれません。
それで、私などは逆に親鸞上人が伝えた本願というものがどういうものだったのかを学ばされるようなのです。
勿論、キリスト教には本願などという教えはありませんが、新約聖書のロマ書にある「御霊自ら言葉にあらわせるない切なるうめきをもって。私たちのために執り成して下さる」という使徒パウロの言葉に同質のものが伝わって来ます。
思い、為そうとする自分からは、神的なものにつながることは出来ない...それを超えて、つながろうと促してやまないものがある...
全託するという...これがあるから全託せざるを得なくなるということなのです。
もはや、そこでは神や仏は信じる対象ではありません。対象化していては本願というものは分からないでしょう。
これは、極めて実存的なことなのです。(この実存的という言葉も私は小池先生を通して初めて触れたのでしたが)...それはどこまでも私やあなたの問題であるはずでしょう。
本願というものは、弥陀のものでも、キリストのものであってもいい!...あなたの神の本願なのです。
この意味では、普遍的なものとも言えるでしょう。
要するに、すべての人のためのものが実は...“親鸞一人のため“(歎異抄)、という訳です。
ところで本願というのは、英語で何て言うのか?...アプリケーション?...(敢えて間違えそうだから英語で書かないが)“私が信じている神や仏の原初的な願い“?
何ともシステマチック、間延びしていて他人行儀だこと!
もう、本願の一言でその息吹きが伝わるではありませんか?
この国に生まれて幸福だなあ、とつくづく思います!...




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本人は仏教が好き

2024-04-09 09:12:18 | 仏教関連
私は、今でこそ頻繁に仏教書を読むことがあるのですが、この“仏教書“という言葉が普通に使われているほど、わが国では仏教が浸透している割には、私の精神的な道では、ちと馴染むのが遅かったと言わねばなりません。
仏教に開眼したのには、何と言っても霊性に通じた行学一致の仏教学者、玉城康四郎先生との出会いが大きかったのです。
それまで、どうも私には“葬式仏教“などと揶揄されるように形式化し、学問の在り方も観念的になってしまっているという先入観があって(他にも居られたでしょうが)、玉城先生のような仏教者(学者、僧侶などを総称してこう呼びます)は知らなかったという訳です。
ところで、その仏教書ですが、その何冊も出されている著名な著者というと、改めて思うに、もうほとんどが日本人であることに驚きを感じてしまいます。
私は、仏教発祥国のインド人のそういう人物は、浅学ながら一人も知りません。ラーダクリシュナン博士のように、インド教の学者が部分的に仏教に触れている例しか知らないのです。
僅かに名を聞くのは、思い付く限りでは、スリランカ人(インドに含めていいのかも知れないが)のテーラワーダ仏教関係のアルボムッレ.スマラサーラ、チベット仏教関係のダライラマ14世、ナムカイ.ノルブ(欧米では、わが国と異なり、禅仏教に次いで仏教として親しまれているのは、おそらくチベット仏教でしょう?)ぐらいしか知らないのです。
後のほとんどは、各宗派にまたがりキラ星の如く、学問、説話などに著名な日本人仏教者の名が拝されているのです。これは、仏教国と呼ばれる国でも例をみない現象と言えるでしょう。
いや、ホントに古来から日本人は仏教が好きなのだなあ、と感じざるを得ません。
それじゃ、日本は仏教国なのかと言えば...そうじゃないでしょう?
神道?...そうかもしれませんが、先の通り、“神道書?“も“神道者?“も仏教に比べれば問題になりません。
しかし、この仏教の興隆の根底には、形に表れない神道というより、そのかんながら、自然のまにまににゆだねるという精神が働いているように思います。
これは特に、日本仏教でも二大勢力?と思しき、禅宗、浄土真宗にそれが色濃く浸透していると思います。
とにかく、思いを超えたものの前では、かんながら言挙げせずに座り、手を合わせればいい...自然にそうならざるを得ない、という風に...
又、仏教各派の一つに偏ることなく、共存している有り様にも、その我々の精神に古来より息づいている“道“というものが感じられます。
これをもっと広げれば、世界宗教の各派を超える...ということになるのは言うまでもないでしょう。
それにしても、わが国の精神世界は仏教無しにはあり得ないですよ!...な~んてことは、玉城先生を知るまでは考えたこともありませんでしたが...
私はしかし、その先生のパースペクティブな(これが何とも日本的なものを感じてしまう)仏教通史、日本仏教のそれなどを読んで始めてそう感じたのでした。
そういうことを通して、私も当たり前に日本人の精神の中で生きているのだなあ、ということを身に覚えたのでした...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すべては祈りから

2024-04-07 09:24:19 | 祈りと瞑想
どうしたら神、霊性とつながるか、あるいは幸福、安らぎに与ることが出来るか?
千古の昔から宗教では、祈ることを説いて来たのです。(禅などの瞑想の道もあるではないか、とする向きもあるでしょうが、いつも言うように私には分けることが出来ません)
私は何も特別なことを示そうとは思っていません。神に祈ればいいのです。
そうするとどう祈ればいいのか、とか何の神に祈ればいいのか、と問われないとならないのですか?、そういう分別心が起こる...だから祈ればいいのです。
うちの宗派ではこう祈る、何々の神に...って、何の宗派だかの問題じゃありません。あなた自身の問題でしょう?
祈ることで分別心が起こる、ということほどナンセンスなことはありません。
この祈り、瞑想でなければ!と、他に向ける...それが余計なことだと言うのです!
あなたが心底そう思うのなら、そうしたらいいだけのことです。
そう思うということは、既にある手応えを感じているということなのでしょう?
でなければ、ただそう言っているだけ!...言挙げするんなら、祈ればいい!
心の底から祈ることにより、神は段々、その礼拝の対象では無くなり、自分と一つのもののように感じられて来ます。
これまで、宗教ではあまりに神と自己は、別々のものとして捉えられて来たのでした。
昔からの祈ることの上に、特に私が強調したいことは、自分自身の問題として祈る、ということです。
神とか、自分以外の何かを想像してしまうようで、抵抗を感じるのでしたら、自分自身、自己そのものに向き合ったらいいでしょう。これは瞑想的なことかもしれません。
私には長年それは困難な道なのでしたが、今はもう、あっという間に!...
神に祈るようなことでそうなる...だから祈りと瞑想は分けることが出来ないのです。
そう、神と自己は分けることが出来ない!
心の底から祈ることで、分別は起こらない!、分別が起こったなら祈ればいいのです!
そうでなければ、いつまで経っても、果てしなく、“ああでもない、こうでもない“、とどこにも落ち着くことなく、思考が巡らされるだけです。
神、要するに思いを超えたものにつながるには、当たり前のことながら思いを超えなければなりません。
出来ない?...だから祈ればいいのです。考えている私が出来ないのは当たり前のことです。
しかし、祈ることで神の方が臨んで来るのです。神の方が一つになろうとしているようにも...これなんだ!
自分の思い、力を超えた世界のことは、その超えたものにゆだねるしかありません。
すべては、その気があるかどうかというだけのことでしょう!
だから、すべては祈りから始まるのです!

いつも書いていることですが、改めて書いてみて、新たに始まるように感じてなりません!






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする