ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

将王 最終手「郷愁」

2016-01-19 21:34:23 | Weblog
「小倉先生、残り10分です」。記録係の戸前の声。小倉の耳にも届いているはずだが、その若々しい声に何の反応も示さず、視線を盤上から動かさない。

「寄りそうもない。ここまでなのか」。小倉にはヘボンが笑ったように見えた。土井の顔は見たくない。小倉は静かに目を伏せた。脳内でオクラホマミキサーが流れ出した。

小学校の校庭、初恋の女の子の姿が浮かぶ。それに続き、さして仲がいい訳でもなかったクラスメートとのたわいもない話、将棋道場に現れた小太りのおじさん。学生服姿で対局するプロになりたての自分。中多を破り、初めて将王のタイトルを手にした時の喜びの感情。そしてかつての恋人、高林梨奈の顔が浮かび、その後、「この対局の勝ち負けによって、あなたの価値が変わることはないですよ」と川野の声が聞こえ、オクラホマミキサーが止んだ。

「小倉先生、残り5分です」

小倉は胸の辺りが、しだいに熱くなってきたのを感じ取った。そして、それが上へと流れていく。

「あれ、どうしたんだろう?」。小倉の目から涙がこぼれ、頬を伝った。「涙って、温かいものなんだな。すっかり忘れていた」

小倉が最後の力を振り絞るように、重りをつけたような駒を指でようやく持ち上げ、升目に落とし込んだ。そこから手がパタパタと進んだのち、小倉の手が、そして少し揺れていた体がぴたりと止まった。

「どうも、負けました」。小倉は淡々とした口調で敗戦を認めた。ヘボンは相変わらず無表情で何も言わず、代わりに土井が少しかすれた声で「ありがとうございました」と頭を下げた。(完)

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これまで読んでいただいた皆さん、有難うございました。
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