ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

将王 20手目「電話」

2016-01-13 17:59:00 | 小説
明くる朝、といっても午前11時を過ぎていた。自室ベッドの上の小倉は、朦朧とした状態で携帯電話を手にした。

「ヘボンと対戦させてもらえませんか?」

受話器の向こうで川野の驚きと戸惑いが感じられた。いま、この朦朧とした時を逃せば、またヘボンに負ける恐怖が自分を支配してしまう。だから先手を打ったのだ。

「いいんですか?」。川野は小倉を気遣うように言った。
「はい。まだ間に合うのであればですが」
「ソフトの開発側は喜ぶと思いますよ。小倉さんと対戦するのが念願だった訳ですから」
「ええ、まあ」
「小倉さん」
「はい」
「この対局の勝ち負けによって、あなたの価値が変わることはないですよ」。川野は小倉の気持ちを見透かしたように言った。
「そうですかねえ」
「ええ、全く変わりません」

本当はその理由を聞きたかった。しかし、あえて小倉はそれを尋ねることなく、電話を切った。
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将王 19手目「価値」

2016-01-13 15:56:03 | 小説
川野がコンピュータソフト「ヘボン」に敗れて一ヶ月。表面上、将棋界に特に目立った変化は見当たらない。小倉は棋士仲間から、漠然と冷たい視線を浴びているような気分にもなったが、気にも留めなかった。しかし、夜になると心の奥底が騒がしくて、ここ一週間ろくに眠れず、軽い睡眠導入剤を使用していた。

自分の価値とは何だろう。それは強さだ。そこまではいとも簡単に答えは出る。しかし、もしヘボンに負けたとして何が残るのか?川野には美しさが残る。遠山には個性が残る。しかし自分には何が残るのか?何も残らないのではないか?もしかしたらかつての恋人、高林梨奈もそこに気づいていたのではないのか?

鏡の前に写る将王の顔は、いまにも中年に飛び込みそうな、少しくたびれた顔をしていた。梨奈と別れてからは恋愛や結婚願望も急激に薄れてしまった。将棋がなければ何も持たない独身の40手前の男。そんな事を考えていると、ますます目が冴えてしまい、さして強くもないアルコールに手をつける。睡眠薬とアルコールが良くない組み合わせとは分かっている。しかし、もはや自分にやるべき事は残されていないのではないか?そう思うと、二度と目覚めることがなくても、悪くないのではないかと小倉は思うのだ。
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