ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

将王 19手目「価値」

2016-01-13 15:56:03 | 小説
川野がコンピュータソフト「ヘボン」に敗れて一ヶ月。表面上、将棋界に特に目立った変化は見当たらない。小倉は棋士仲間から、漠然と冷たい視線を浴びているような気分にもなったが、気にも留めなかった。しかし、夜になると心の奥底が騒がしくて、ここ一週間ろくに眠れず、軽い睡眠導入剤を使用していた。

自分の価値とは何だろう。それは強さだ。そこまではいとも簡単に答えは出る。しかし、もしヘボンに負けたとして何が残るのか?川野には美しさが残る。遠山には個性が残る。しかし自分には何が残るのか?何も残らないのではないか?もしかしたらかつての恋人、高林梨奈もそこに気づいていたのではないのか?

鏡の前に写る将王の顔は、いまにも中年に飛び込みそうな、少しくたびれた顔をしていた。梨奈と別れてからは恋愛や結婚願望も急激に薄れてしまった。将棋がなければ何も持たない独身の40手前の男。そんな事を考えていると、ますます目が冴えてしまい、さして強くもないアルコールに手をつける。睡眠薬とアルコールが良くない組み合わせとは分かっている。しかし、もはや自分にやるべき事は残されていないのではないか?そう思うと、二度と目覚めることがなくても、悪くないのではないかと小倉は思うのだ。
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将王18手目「安堵」

2016-01-12 23:06:20 | 小説
翌日の新聞には「コンピュータソフトが棋士を超えた」という記事が大きく掲載されていた。

対局者のコメント 

川野九段(将棋連盟会長) 終盤の入り口あたりまでは悪くないと思っていましたが、そこから決め手が見出せなかった。力負けです。残念ですが、コンピュータは棋士を超えたのかもしれません。この勝負をもって棋士対へボンの対局は一区切りとさせていただきます。

土井コンピュータソフト・ヘボン開発代表 勝たせていただきました。勝負を受けてくれた川野さんに大変感謝しています。小倉さんと勝負できなかったのは心残りですが、コンピュータソフトが棋士を超えたことは証明されたと思います。これからも将棋のレベル向上に協力は惜しみません。

小倉は土井というヘボンの隣で、代理として駒を動かしていた男のコメントを何度も読み返した。正直、安堵していた。勿論、悔しさはある。しかし、自分が川野ほど器の大きな人間でない事も知っていた。もしヘボンと対戦して負けた時のリスクを想像すると空恐ろしかった。黙ってやり過ごす以外に手が見当たらなかった。
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将王 17手目「敗北」

2016-01-11 21:32:36 | 小説
川野とヘボンが将棋盤をはさんで向き合っている。

「私が相手をしましょう。もしコンピュータに私が負ければ、もはや、そちらが棋士より強いと公言していただいて結構です」

川野は人工棋士研究チームにそう伝えた。

川野はしばらく瞑想した後、白く長い指で歩をはさみ角道をあけた。棋士たちには彼の覚悟が痛いほど伝わってきた。小倉の変わりに自らがいけにえになる覚悟が。

川野・ヘボン戦は川野やや優位のまま、終盤戦に突入した。川野がプロ棋士に終盤までリードして逆転されることはまずない。それほど、終盤の強さには定評があった。しかし、それは人間相手のことであり、コンピュータ相手にも当てはまるかは分からない。棋士、将棋ファンは固唾を呑んで見守るしかなかった。

次第に川野の端正な顔に変化が見られた。頬を膨らませてみたり、目を閉じたままクビを後ろに倒してみたり、あがいている様にも見えた。

「どうやらヘボンが逆転したようです」。若手棋士が今にも消え入りそうな声で言った。

ひとたびコンピュータソフトにリードを許すと、そこから抜き返すのは至難だ。次第に形成ははっきりしていく。将棋の宇宙が狭まれば狭まるほど、ヘボンの正確な差し手が際立つ。

川野がコップに口をつけた。しばらく将棋盤を見つめ「どうも負けました」と丁寧に頭を下げた。

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将王 16手目「対面」

2016-01-09 21:25:07 | 小説
小倉は会長室のドアをノックした。

「どうぞ」

聞き覚えのある声がした。川野は45歳の若さで将棋連盟の会長という重責を担っていた。棋士としてもトップクラスの力を維持し、現役バリバリなのだが、人格者として名高い川野に白羽の矢が立った。棋士を含めた周囲の「川野さんしかいない」という声に抗しきれなかったのだ。

「お話とは何でしょうか?」小倉が黒皮のソファに腰を落とした。テーブルを挟んで、対局するような目で川野の端正な顔を見た。

「小倉さんには申し訳ないが、ヘボンとの対局を引き受けて欲しい。勿論、無理にとは言いません」。いつもと変わらず、川野は穏やかな口調だ。

「嫌です。受け入れられません」。小倉の言葉からは強い意志が滲んでいた。

「実は開発サイドから、ぜひとも小倉さんと対戦したいと持ちかけられているんです」

「そうですか。うん、そうですね。どうしてもと言うなら、引き受けてもいいですよ」

「本当ですか?」。川野の声が少しだけ弾んだ。

「しかし、条件があります。今後1年の対局を休ませてください」。小倉は静かな口調で言った。

「それはできません。小倉さんは将棋界の顔です」

「ならば、やはり受けられません」

「分かりました。開発側には私から伝えておきます」。川野の口調には、冷静ながらも決意を固めたような芯の強さがあった。
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将王 15手目「決意」

2016-01-08 22:21:03 | 小説
10年ほど前から、コンピュータ将棋とプロ棋士との戦いは始まった。最初の頃は女流棋士でも勝てていたのだが、次第に歯が立たなくなり、プロの卵である育成クラブの精鋭、若手棋士、段位の高いベテラン棋士をも撃破していく。

そして、ここ3,4年は現役のタイトルホルダーを破るなど「コンピュータソフトはプロ棋士より強い」という説が、にわかに説得力を持ってきたのだ。そしてコンピュータソフトの中でも最強と名高いのがヘボンである。

勿論、小倉は指していない。「もし負けたらどうする」。これが小倉の偽らざる心中であり、プロ棋士の間でも、その思いは共有されていた。しかし、もはや世間の注目は小倉対ヘボンに集約されつつあった。小倉は背中に刃を突きつけられた思いだった。

「自分は絶対にコンピュータソフトとは指さない」。小倉の決意は年を追うごとに固まっていた。しかし、そうした態度にファンや関係者から不満の声が上がりだし、当初は「小倉はヘボンと指すべきではない」と考えていた棋士たちも徐々に「もはや指さざるを得ないのでは」との見方が強まっていた。
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将王 14手目「ヘボン」

2016-01-06 16:13:38 | 小説
しばらく日も経ち、小倉も冷静さを取り戻していた。自分の存在意義。それは強さ。将棋が誰よりも強いことだ。しかし、それを根底から脅かすものが数年前から世間を、将棋界を賑わしている。

コンピュータである。人工知能といってもいい。その名はヘボン。確かに若手の台頭も全く気にならないといったら嘘になるが、小倉はまだまだ負ける気がしなかった。しかしながらヘボン。彼に勝てるかは自信がなかった。いや、ここ2年ほどは勝てるイメージすら持てなくなっていた。
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将王 13手目「静寂」

2016-01-05 21:27:07 | 小説
第6局。すでに遠山が将王を8割方、手にしたような周囲の喧騒の中で、小倉は必死に平常心を取り戻そうとした。

「実際に3勝2敗で王手をかけているのは自分で、遠山は普通に指せれば負ける相手ではない」と言い聞かせる。それでも押し寄せてくる重圧に押しつぶされそうになる。

対局が始まっても、まだ小倉の内なる闘いは続いていた。一手一手に時間を費やし、かみ締めるように指していく。対する遠山は早めの着手が続き、戦況もまた第5局と同じく、遠山が攻め、小倉が受ける展開になった。

膠着状態がしばらく続いた。1日目が終わり、2日目の昼前になっても手数は進んでも、遠山に決定打はなく、小倉も反撃には至らなかった。

小倉は決意を固めていた。「その場、その場の最善手を指す」と。あえて視野を狭くし、盤面のみに集中した。その執念に気押されたのか、小倉の粘りに嫌気が差したのか、遠山が悪手を指した。その隙を見逃さず、小倉の反抗が始まった。

小倉が攻め出してからは早かった。午後4時12分、遠山投了。将棋界に静寂が戻った。勝った小倉にも笑顔がなかった。ストレートで勝つと決めていた相手に二度も負けた。それに自分が勝っても、周囲は喜ばない。それどころか、皆が一斉にうつ状態に陥ってしまったのではないかとさえ感じさせ、自分の存在意義をすぐには見出せなかった。
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将王 12手目「動揺」

2016-01-03 14:48:38 | 小説
小倉対遠山の将王戦七番勝負は戦前の予想通り、小倉の決意通りに進行していった。3局を終えて小倉の3連勝。これといった危うい場面もなく、将王防衛に王手をかけた。

しかし、第4局。小倉は中盤まで戦いを優位に進めながら、遠山の粘り腰に攻めあぐね、ついには逆転を許し、敗れた。遠山は1勝3敗という、王手をかけられた状況に変わりのない事を忘れたかのように上機嫌だった。小倉は落胆していた。防衛することは疑いの余地はない。この白髪の目立つ老棋士に対し、4連勝で決められなかった自分の不甲斐なさに腹を立てた。

マスコミ、将棋ファンはあたかも遠山が将王のタイトルを奪還したかのような騒ぎようだった。その状況を眺めながら、小倉は第5局は勝つのは当然として、遠山本人は勿論、夢を見ている者たちをを奈落の底に突き落とすような内容で、現実に引き戻す事にこだわった。

しかし、いざ第5局が始まると勢いに乗った遠山が猛攻を仕掛け、小倉は防戦一方となった。対局前からすでに平常心を失っていた小倉は、遠山の迫力にさらに動揺し、そして崩壊した。結果は小倉の完敗だった。

局後の感想戦。顔を紅潮させ、饒舌に話しながら会心の一局を振り返る遠山に、小倉は我慢できず「少し体調が悪いのでこれで失礼します」と小さな声を発し、その場を立ち去った。
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将王 11手目「悪役」

2016-01-02 16:13:35 | 小説
結婚まで考えた高林梨奈と別れて以降、小倉はこれまでにもまして、将棋に没頭するようになった。30代に入り、将王戦8連覇。20代の7期と合わせて15期となり、断トツの歴代1位である。

8連覇目の相手は意外だった。39歳の小倉もベテランの域に差し掛かったが、挑戦者は還暦を越えていた。遠山九段。わがままな男だった。しかし、その豪放磊落な棋士は世代を問わず、将棋ファンから愛されていた。

小倉にしてみれば少年時代から骨太の体格、分厚い手、顎鬚まで蓄えた遠山は強面の中年男だった。しかし、初めて指した時は畏怖の念すら抱いた小倉も、次第に遠山の自分本位の態度に腹立たしさを覚えていく。ある対局では「場所が狭い」と呟きながら、将棋版をその太い両腕で押して、自らの縄張りを広げたり、負ければすぐ立ち去り、勝てば上機嫌で何時までも感想戦に付き合わされるのである。

しかし、小倉は遠山を心底嫌ってはいなかった。対戦成績で大きく彼を引き離している優越感もある。また、遠山の将棋への情熱が、時を経ても衰えないことには一定の評価はしていた。

将王の記録に関しては歴代の大棋士たちを凌駕してきた小倉もひとつだけ破れなかったものがある。それが遠山の20歳での将王位獲得という最年少記録だ。彼こそ元祖天才なのである。しかし、その後は周囲の期待ほどの実績は重ねられず今日に至った。

もはや過去の人と位置づけされていた遠山の将王挑戦に棋界は久しぶりに盛り上がりを取り戻した。周囲が遠山の23年ぶりの将王返り咲きを期待すればするほど、小倉はヒール役を演じざるを得なかった。

「必ず4戦で終わらす」。小倉は固く決意していた。
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将王 10手目「謎」

2016-01-01 16:37:28 | 小説
ベテラン棋士の古典的な思考を変える為には、さしたる趣味も遊びもしない自分が、勝ち続けることしかないと小倉は思った。

決意通りに小倉は勝ち続けた。20代で将王7期という揺るがぬ実績を作り上げ、「将棋といえば小倉」とさして将棋に詳しくない人々にまで漠然と知られるまでに至った。

その間に小倉は何度か女性と恋愛関係も築いた。中でも20代の終わりから30歳をまたいだ3年ほど続いた、女流棋士の高林梨奈との交際では結婚も真剣に考えた。しかし、その直前、彼女は消えた。

よりによって同業者である棋士の元へ走ったのだ。名は岸谷というその男が、自分より魅力的ならば、まだ分からないでもない。しかし、年齢的には小倉と同世代ながら、まだ五段で、勝ったり負けたりの平凡な戦績。人気がある訳でも個性が強い訳でもない。副業に精を出すタイプでもなく、年収は小倉の十分の一にも満たないだろう。外見も凡庸な岸谷のどこに自分との交際を破壊するような魅力があったのか、小倉は梨奈に聞いてみたくもあり、またその答えを恐れてもいた。
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