『それから』の代助の次男の悲劇,それに関係する明治の民法の規定と得の要求について僕に大きな示唆を与えてくれたのは,石原千秋の『漱石の記号学』でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/5c/85a6fd90028e6792df83836eee420fec.jpg)
『反転する漱石』を紹介したおり,石原千秋の文芸評論は作家論と作品論の分類では作品論に該当するといいました。もちろんこの本も基本的には同じです。そもそも『それから』のうちに民法の規定との関連を読解するということ自体,作家論的な立場からでは無理であるように僕には思えます。ただし,そのときには漱石自身の出自についても触れられていまして,その部分では作家論的要素があるといえます。説明したようにあくまでも作家論と作品論は類型であり,実際の文芸評論は,どちらかが色濃く浮き出ていたとしても,一方だけであるということはほとんどないということの一例であるといえるでしょう。
『反転する漱石』はひとつの章にはひとつの小説という形で割り振られていましたが,こちらはそうではありません。序章と終章を除くと6章で構成されていて,それぞれ,次男坊,長男,主婦,自我,神経衰弱,セクシュアリティーが主題となり,それに関連する小説が幅広く評論の題材として扱われています。
民法の規定もそうなのですが,この本には漱石が小説を書いていた時代,あるいは漱石が書いた小説の登場人物が生きていた時代の背景について詳しく解説され,その観点から小説が読解されている部分が大半です。僕たちは小説というものを読む場合に,どうしても現代の常識に照らし合わせてそれを読んでしまうことを免れません。しかしそのために,テクストに表出している事柄を見失ってしまうというケースが往々にして発生しているといえると思います。当時の法律体系や文化あるいは風俗といったものがどのようなものであったかを知るというだけでもこの本は有益なのであって,そうしたことを知ることによって,漱石の小説に新たな発見をするヒントとなり得る評論であると思います。
このことは,第二部定理八系でいわれている,現実的に存在する場合のres singularisに注目するのであれば,やはり第四部公理からも帰結すると考えられます。なぜなら,現実的に存在するどんなres singularisにも,それを限定し得るほかのres singularisが現実的に存在するということは,逆にいえば現実的に存在するどんなres singularisも,ほかのres singularisを限定し得るということでなければならないからです。したがってこの観点からも,res singularisというのは,ほかのres singularisによって限定されつつ,それとは別のres singularisを限定しながら実在するものであるということが帰結するでしょう。
次に,すでに示したように,僕はres singularisとres particularisに同一の訳を与えて構わない,いい換えればこれらふたつの概念は重なり合うと考えています。したがってこれでいえば,res particularisもまた,ほかのres particularisによって限定されつつ,それとは別のres particularisを限定して実在するということになります。ただしここではこの点には僕は固執しません。今は朝倉説に従い,res particularisには,res singularisだけではなく,ほかの概念も含まれると考えてもいいです。この場合には,必ずしもres particularisは,限定といわれるような原因であるとは限らないということになりますが,それは,res singularisと共にres particularisを構成するほかのものによってそのようにいわれ得るということになるのであり,そのものが何であるのかということさえ明らかにできれば困らないからです。今は決定の原因が何であるのかを探求しているのではなく,限定の原因が何であるのかを探求しています。少なくともres singularisは限定の原因なのであって,決定の原因ではあり得ないということさえ明らかにできればそれで十分です。
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『反転する漱石』を紹介したおり,石原千秋の文芸評論は作家論と作品論の分類では作品論に該当するといいました。もちろんこの本も基本的には同じです。そもそも『それから』のうちに民法の規定との関連を読解するということ自体,作家論的な立場からでは無理であるように僕には思えます。ただし,そのときには漱石自身の出自についても触れられていまして,その部分では作家論的要素があるといえます。説明したようにあくまでも作家論と作品論は類型であり,実際の文芸評論は,どちらかが色濃く浮き出ていたとしても,一方だけであるということはほとんどないということの一例であるといえるでしょう。
『反転する漱石』はひとつの章にはひとつの小説という形で割り振られていましたが,こちらはそうではありません。序章と終章を除くと6章で構成されていて,それぞれ,次男坊,長男,主婦,自我,神経衰弱,セクシュアリティーが主題となり,それに関連する小説が幅広く評論の題材として扱われています。
民法の規定もそうなのですが,この本には漱石が小説を書いていた時代,あるいは漱石が書いた小説の登場人物が生きていた時代の背景について詳しく解説され,その観点から小説が読解されている部分が大半です。僕たちは小説というものを読む場合に,どうしても現代の常識に照らし合わせてそれを読んでしまうことを免れません。しかしそのために,テクストに表出している事柄を見失ってしまうというケースが往々にして発生しているといえると思います。当時の法律体系や文化あるいは風俗といったものがどのようなものであったかを知るというだけでもこの本は有益なのであって,そうしたことを知ることによって,漱石の小説に新たな発見をするヒントとなり得る評論であると思います。
このことは,第二部定理八系でいわれている,現実的に存在する場合のres singularisに注目するのであれば,やはり第四部公理からも帰結すると考えられます。なぜなら,現実的に存在するどんなres singularisにも,それを限定し得るほかのres singularisが現実的に存在するということは,逆にいえば現実的に存在するどんなres singularisも,ほかのres singularisを限定し得るということでなければならないからです。したがってこの観点からも,res singularisというのは,ほかのres singularisによって限定されつつ,それとは別のres singularisを限定しながら実在するものであるということが帰結するでしょう。
次に,すでに示したように,僕はres singularisとres particularisに同一の訳を与えて構わない,いい換えればこれらふたつの概念は重なり合うと考えています。したがってこれでいえば,res particularisもまた,ほかのres particularisによって限定されつつ,それとは別のres particularisを限定して実在するということになります。ただしここではこの点には僕は固執しません。今は朝倉説に従い,res particularisには,res singularisだけではなく,ほかの概念も含まれると考えてもいいです。この場合には,必ずしもres particularisは,限定といわれるような原因であるとは限らないということになりますが,それは,res singularisと共にres particularisを構成するほかのものによってそのようにいわれ得るということになるのであり,そのものが何であるのかということさえ明らかにできれば困らないからです。今は決定の原因が何であるのかを探求しているのではなく,限定の原因が何であるのかを探求しています。少なくともres singularisは限定の原因なのであって,決定の原因ではあり得ないということさえ明らかにできればそれで十分です。