スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

スピノザと日本&無限様態と個物

2013-07-05 18:40:58 | 哲学
 『スピノザ入門』の第一章から,面白いなと感じたエピソードをひとつ紹介します。
                         
 スピノザが生きていた時代,オランダは政治状況としてはそんなに安定はしていませんでした。いろいろな出来事が起こっているのですが,1672年にはフランス軍の侵攻というのがありました。
 フランスの侵攻の目的のひとつは,オランダをプロテスタントの同盟国から切り離すこと。このために,フランスは単に軍隊による攻撃だけでなく,宗教的プロパガンダというべき攻撃も仕掛けてきました。これによってオランダ人のキリスト教的評判を貶めようとしたのです。その作戦のひとつとして,フランス軍の統治者の側近であるカルヴィニストの中佐が,オランダ人の宗教という文書,文書といってもこれは誹謗を中心とするものですが,それを出版しています。
 この文書の中で中佐は,オランダがキリスト教教義について放任主義に陥っていると主張しています。そしてその根拠としてふたつの点を提示しています。
 ひとつは,当時のオランダが,キリスト教を敵視する国家と貿易を行っているということでした。この国家とはいうまでもなく日本のことです。このとき日本との通商は東インド会社が一手に握っていましたが,この会社は日本での布教を禁ずる命令を出していたのはもちろん,キリスト教信仰を示すような外見すら禁じていたとのことです。
 もうひとつが,不敬な無神論者を自由に泳がせているという点でした。この無神論者はスピノザです。スピノザに対して何の対抗手段を企てていないという,これはまさにプロパガンダであったと思いますが,そのことでオランダのプロテスタントの牧師の地位を貶めようと考えられたのです。
 カルヴィニスムは反動的な一面があり,宗教的危機には敏感であったようです。そしてその危機の根拠として,スピノザと日本を並列的に書いているというのが,僕には面白く感じられたのです。

 今は間接無限様態と個物の関係が問題となっています。しかし,間接無限様態であるということに固執せずに,単に無限様態と個物の関係をスピノザの哲学においてどのように把握するべきなのかという点に注目するのであれば,実はこのことは,かつて問題としたことがあるのです。
                         
 それは,スピノザの哲学における知性の思惟作用をどのように理解するべきであるのかということを考察したときのことです。僕はこの考察の過程で,福居純の『スピノザ「共通概念」試論』に触れ,そこで福居が,直接無限様態は個物であるという主張をしているということに着目しました。僕はそこで福居が主張している内容は,僕自身の考察と隔たってはいないといい,しかし一方で,直接無限様態は個物であるという主張は,その言明自体を注視する限り,懐疑的であらざるを得ないといいました。
 第二部自然学②補助定理七備考でいわれていること,あるいは朝倉説は,神の延長の属性の間接無限様態に関してであると理解するべきだと僕は思います。一方,福居が主張しているのは,神の思惟の属性の直接無限様態に関してです。ですからその点ではこのふたつの間には何も関係がないといえるのですが,無限様態を個物とみなす点において一致しているということは間違いありません。そしてその点こそが僕にとっては重要なのです。
 無限様態は第一部定理二三で明らかにされているように,第一部定理二一と第一部定理二二のどちらかの様式で発生します。一方個物res singularisは第一部定理二八の様式で発生します。各々の発生の様式が異なるのですから,直接無限様態であろうと間接無限様態であろうと,それを個物res singularisとみなすことは僕はできないと考えています。ただ,僕がここでいいたいのは,そのことではありません。
 朝倉友海が福居の主張を知っているのかそうでないのか,それは僕には定かではありません。ただ,朝倉説の根幹をなす本線は,間接無限様態はres particularisであるという点にあると僕は理解します。一方,福居の説の本線は,明らかに直接無限様態自体がひとつの個物,この場合にはres particularisであるかres singularisであるか不明ですが,この点にあるとしか僕には考えられません。
コメント
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