15日に弥彦競輪場で行われた第22回寛仁親王牌の決勝。並びですが深谷-金子の師弟に飯嶋が競りかけ,川村に成田。残る木暮,岡田,浅井,井上はいずれも単騎。
迷わずに深谷がスタートを取って前受け。後ろは周回中から内と外が入れ替わりながらの競り。この後ろは岡田で,5番手が浅井,6番手に井上。川村-成田で木暮が最後尾で周回。残り2周になるホームから川村が上昇。深谷は素早く引いて打鐘前から一気に反撃。このとき外は金子で,一旦は離れそうでしたが飯嶋には踏み勝って番手を確保。川村が3番手を確保しましたが,深谷のスピードがよく,反撃できず成田が金子にスイッチ。直線は前3人での争いとなり,金子がタイヤ差で優勝。粘った深谷が2着で師弟のワンツー。中割りの成田もタイヤ差で3着と,上位は大接戦でした。
優勝した愛知の金子貴志選手は2010年の一宮記念以来のグレードレース優勝。ビッグは2004年の4月に佐世保でのふるさとダービーを優勝していてこれが2勝目。GⅠは初勝利。すんなりと弟子の番手を回ることはできませんでしたが,激しい競りにならず,踏み出し勝負となったのは,ダッシュが持ち味ですのでよかったと思います。おそらく深谷の駆け方もこれを想定してのものであったでしょう。それでもやや離れたのを追い上げてマークし,さらに直線で差し切ったのですから,称えてよい内容であったと思います。個人的には若い頃からかなり期待していた選手で,もう無理なのかなと思いかけていましたから,とても嬉しい優勝でした。
やはり第一部定理二六で言及されている物に関しては,直前のふたつの定理から解釈していくのが妥当であると思います。そして,第一部定理二六でいわれている物というのが,それらふたつの定理でいわれている物と完全に同じ意味ではないのであるとしても,少なくともそれらの定理に物の意味として含まれている事柄については,同じように含んでいると考えておくのが,妥当でありかつ誤謬に陥ることに対して安全な手法であろうと思います。
第一部定理二四でいわれている物は,神から産出されるものです。しかるに,第一部定理一六からして,神の本性の必然性からは,無限に多くの仕方で無限に多くのものが産出されると理解しなければなりません。つまり神から産出されるものとは,自然のうちに実在する,あるいは実在し得るもののうち,神とその属性以外のすべてのものを意味しなければなりません。第一部公理一の実在的意味から,自然のうちに実在する神以外のものは,神の属性が変状した様態です。つまり第一部定理二四で示されている物には,無限様態であろうと有限様態すなわち個物であろうと,すべての様態が含まれると僕は理解します。
同じことは,むしろ第一部定理二五でいわれている物というのがどういうものであるかを考えることによって,より明らかになるでしょう。というのは,この定理でいわれている物というのは,本性を有するすべてのものと理解しなければならないからです。第二部定義二から明白ですが,実在するどんなものにもそれに固有の本性というのはあるのであり,よって本性を有するものというのはすべてのものというのと同じことだからです。ただし,この定理でいわれている物には,神だけは含まれないといえます。もちろん神にも神に固有の本性というものはあるのであって,それを示しているのが第一部定義六です。しかし第一部定理二五がいっているのは,神が物の存在と本性の起成原因であるということですから,物と神は厳密に分けて考えるべきです。たとえ神が自己原因であるということと物の原因であるということが同一の意味であるのだとしても,神は物のうちには入らないとするのが妥当であると思います。
迷わずに深谷がスタートを取って前受け。後ろは周回中から内と外が入れ替わりながらの競り。この後ろは岡田で,5番手が浅井,6番手に井上。川村-成田で木暮が最後尾で周回。残り2周になるホームから川村が上昇。深谷は素早く引いて打鐘前から一気に反撃。このとき外は金子で,一旦は離れそうでしたが飯嶋には踏み勝って番手を確保。川村が3番手を確保しましたが,深谷のスピードがよく,反撃できず成田が金子にスイッチ。直線は前3人での争いとなり,金子がタイヤ差で優勝。粘った深谷が2着で師弟のワンツー。中割りの成田もタイヤ差で3着と,上位は大接戦でした。
優勝した愛知の金子貴志選手は2010年の一宮記念以来のグレードレース優勝。ビッグは2004年の4月に佐世保でのふるさとダービーを優勝していてこれが2勝目。GⅠは初勝利。すんなりと弟子の番手を回ることはできませんでしたが,激しい競りにならず,踏み出し勝負となったのは,ダッシュが持ち味ですのでよかったと思います。おそらく深谷の駆け方もこれを想定してのものであったでしょう。それでもやや離れたのを追い上げてマークし,さらに直線で差し切ったのですから,称えてよい内容であったと思います。個人的には若い頃からかなり期待していた選手で,もう無理なのかなと思いかけていましたから,とても嬉しい優勝でした。
やはり第一部定理二六で言及されている物に関しては,直前のふたつの定理から解釈していくのが妥当であると思います。そして,第一部定理二六でいわれている物というのが,それらふたつの定理でいわれている物と完全に同じ意味ではないのであるとしても,少なくともそれらの定理に物の意味として含まれている事柄については,同じように含んでいると考えておくのが,妥当でありかつ誤謬に陥ることに対して安全な手法であろうと思います。
第一部定理二四でいわれている物は,神から産出されるものです。しかるに,第一部定理一六からして,神の本性の必然性からは,無限に多くの仕方で無限に多くのものが産出されると理解しなければなりません。つまり神から産出されるものとは,自然のうちに実在する,あるいは実在し得るもののうち,神とその属性以外のすべてのものを意味しなければなりません。第一部公理一の実在的意味から,自然のうちに実在する神以外のものは,神の属性が変状した様態です。つまり第一部定理二四で示されている物には,無限様態であろうと有限様態すなわち個物であろうと,すべての様態が含まれると僕は理解します。
同じことは,むしろ第一部定理二五でいわれている物というのがどういうものであるかを考えることによって,より明らかになるでしょう。というのは,この定理でいわれている物というのは,本性を有するすべてのものと理解しなければならないからです。第二部定義二から明白ですが,実在するどんなものにもそれに固有の本性というのはあるのであり,よって本性を有するものというのはすべてのものというのと同じことだからです。ただし,この定理でいわれている物には,神だけは含まれないといえます。もちろん神にも神に固有の本性というものはあるのであって,それを示しているのが第一部定義六です。しかし第一部定理二五がいっているのは,神が物の存在と本性の起成原因であるということですから,物と神は厳密に分けて考えるべきです。たとえ神が自己原因であるということと物の原因であるということが同一の意味であるのだとしても,神は物のうちには入らないとするのが妥当であると思います。