スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

三四郎の想起&論理的飛躍

2013-07-27 19:14:51 | 歌・小説
 小説を読んでいると,どうにも理解に苦しむ文章が出てくることがあります。『三四郎』にもそういう一文がありました。
                         
 学生生活を始めた三四郎には何人かの友人ができます。そのうちのひとり,野々宮の地下の研究室を出た後,池の端にしゃがみ込んで物想いにふけるという場面が二にあるのですが,このとき三四郎は汽車で乗り合わせた女のことを思い出して急に赤くなります。僕にとってはこれが唐突にしか思えず,なぜ三四郎がこのときにそれを想起したのか,さっぱり分かりませんでした。
                         
 蓮実重彦の『夏目漱石論』では,この場面に以下のような解説がされています。三四郎は名古屋で女と同泊しました。女は三四郎の入浴中に風呂に入ってこようとし,慌てた三四郎はすぐに風呂を飛び出します。これは三四郎が童貞であることを示すエピソードのひとつです。
 蓮実によれば,この風呂と,佇んでいた池とが,三四郎の精神の中で結び付いたのです。スピノザ哲学風のいい方をするなら,池の表象像imagoから風呂の表象像への移行transitioが三四郎の精神mensの中に生じたために,三四郎は急に赤面したのです。
 この解説の妥当性についてはここでは問いません。ただ,この赤面の直後に,左手の丘の上にふたりの女が現れます。ひとりは看護婦で,もうひとりは『三四郎』の女主人公といえる美禰子です。理由はどうあれ三四郎が赤面したのは事実ですから,美禰子は名古屋の女の再来として,三四郎の前に現れたと読解するのは妥当だろうと思います。

 第一部定理二六が,物を作用に決定するdeterminare原因causaに関して論述しているということは,とくに説明するまでもなく明らかだといえると思います。しかるにスピノザは,これを物の存在existentiaを決定する原因,それに加えて物の本性naturaを決定する原因について訴えることで論証Demonstratioを終らせています。僕が一種の論理的飛躍がここにはあるということの具体的な意味は,このことなのです。
 ただし,いかにそこに論理的な飛躍があるのだとしても,だからスピノザがここで示している事柄は成立していないと僕が考えているわけではありません。むしろ消去法による結論は,ここでスピノザが明らかにしている事柄に関しては,それが正しいということを示しているのです。よって,そこには確かに論理的飛躍というのがあるようには思えるのですが,実際には,むしろその飛躍を成立させ得るような別の論理が介在しているのだとみるのが妥当であるように思います。かつて検討した第二部定理四〇に含まれていると考えられる4つの意味のうち,第三の意味から明らかなように,もしも得られる結論が正しいとするならば,その結論を帰結させている前提というのも正しいと考えなければならないからです。
 では,存在の決定の原因,あるいは本性の決定の原因と,作用の決定の原因とを結び付けるような原理というのはどこに存在するのでしょうか。この問いはなかなか困難なものなのであって,僕には現時点ではある仮設のような考え方しか明示することができません。ただ,第一部定理二六でスピノザが示している結論が正しいということは明らかにできでいますので,たとえ仮説にすぎないのだとしても,いい換えればその説の中に何か不十分な点が残っていたとしても,現在の考察に与える影響というのはそうも多くない筈ですから,この仮説というのを提示しておくことにします。
 これまでの考察と関連させて説明します。僕は第一部公理三をテーマとして設定した際,結論として,この公理Axiomaというのは,そこに示されている内容に関しては問題なく正しいのであるけれども,それ自体で知られるような公理としては不成立であると結論しました。これがこのことと関連しているように思えます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする